霧谷町
霧谷駅のホームに降り立った瞬間、湿った空気が私の肌にまとわりついた。五年ぶりの熊本、霧谷町。いや、正確には二年ぶりだ。母の訃報を受けたのは三日前。姉のひよりからの短い電話が、私をこの町に呼び戻した。
「はおり、帰ってきなさい。遺品整理を手伝って」
ひよりの声は、いつも通り感情を欠いていた。まるで、私がまだあの家の支配下にあるかのように。
私はカバンを肩にかけ、錆びた駅舎を抜ける。駅前の道は、子供の頃と変わらない。雑草がはみ出し、ひび割れたアスファルトが続く。遠くの山々を覆う霧が、町全体を飲み込むように広がっている。二年ぶりに帰ったこの町の空気は、どこか異様だった。重たく、息苦しい。まるで、時間がここで止まっているかのように。
看護師として東京で働く私は、こんな場所から遠く離れたはずだった。熊本市内の看護学校を卒業後、逃げるように上京した。あの町の重苦しい記憶から、母の冷たい視線から、そして、耳元で響く囁き声から。
「あなたは強い子だから」
母の言葉は、私を縛る鎖だった。強い子なら、泣かない。強い子なら、耐えられる。私はそうやって、感情を押し殺してきた。でも、本当は弱かった。誰よりも、弱かった。
歩きながら、ふと足が止まる。子供の頃の記憶が、突然、頭の中で閃光のように蘇る。あの夏の夜、母の部屋の前で聞いた囁き声。サラサラと、枯れ葉が擦れるような音。
「弱い子…」
私は布団を頭までかぶって震え、朝を待った。あの声は、どこから来たのだろうか。母の声だったのか、それとも私の心が作り出した幻だったのか。今でも分からない。でも、その記憶が胸を締め付け、息が苦しくなる。私は弱い。こんなことで動揺するなんて、なんて弱いんだ。
「はおり?」
声にハッとして顔を上げる。駅前のバス停に、ひよりが立っていた。姉は黒いコートを羽織り、長い髪を無造作に結んでいる。二十五歳を過ぎても、彼女の顔は昔と変わらない。冷たく、どこか遠い目。子供の頃、ひよりは私の唯一の味方だった。でも、いつからか、彼女の視線は母と同じように冷たくなった。
「遅かったじゃない」
ひよりの声には、感情がほとんどない。
「早く行くよ。家で待ってる仕事が山ほどあるんだから」
私は小さく頷き、彼女の後ろをついていく。実家までは歩いて三十分。霧が濃くなる中、町の風景が少しずつ見えてくる。古びた商店街、シャッターが下りたままの店、道端に放置された自転車。子供の頃、友達と走り回ったこの町が、今はまるで別の世界のようだ。住人の姿はほとんどなく、時折、遠くで犬の遠吠えが聞こえるだけ。異様な静けさが、胸の奥の不安を掻き立てる。
「なんかこの町、変わったね」
と、沈黙を破るように呟く。
ひよりは振り返らず、肩越しに答える。
「変わってないよ。はおりが忘れてただけだよ」
その言葉に、なぜか背筋が冷える。忘れてただけ。確かに、私はこの町を、記憶を、封印しようとしてきた。母の言葉、囁き声、夜の恐怖。でも、忘れられるはずがない。あの夏、父が突然いなくなったこと。母が私を無視するように閉じこもったこと。そして、ひよりが私に背を向けたこと。すべてが、私の心に突き刺さったままだった。
実家に近づくにつれ、霧がさらに濃くなる。道の両側に立つ古い家々の窓は、カーテンで閉ざされている。まるで、誰かが私を監視しているような感覚。いや、ただの気のせいだ。私は看護師だ。現実的な人間だ。こんな子供じみた恐怖に囚われるなんて、情けない。
「はおり、しっかりして」
ひよりの声が、突然鋭くなる。
「またそんな顔してるよ。弱い子みたいな顔」
心臓が跳ねる。ひよりの言葉は、母の声を重ねる。「あなたは強い子だから」
私は唇を噛み、目を伏せる。弱い子。弱い子。私は弱い子じゃない。私は強い子だ。なのに、なぜか涙が滲みそうになる。こんなことで動揺するなんて、なんて弱いんだ。
実家の門が見えてくる。古い木造の家は、まるで時間が止まったように朽ちかけている。門の前に立つと、ひよりが鍵を取り出す。その瞬間、背後でかすかな音がした。サラサラ。枯れ葉が擦れるような、でもどこか人間の声に似た音。どこかで聞いたことのあるあの声。振り返るが、誰もいない。ただ、霧が道を覆い、遠くの木々が揺れているだけ。
「どうしたの?」
ひよりが怪訝そうに私を見る。
「なんでも…ない」
私は首を振るが、心臓はまだ速く鳴っている。あの声は、錯覚だ。疲れているだけだ。なのに、胸の奥でざわめく不安が消えない。
家の中に入ると、埃っぽい空気が鼻をつく。母の遺品が、居間に雑然と積まれている。ひよりは無言で奥の部屋に消え、私は一人、居間に取り残される。窓の外では、霧がさらに濃くなっている。どこか遠くで、犬の遠吠えが聞こえる。そして、またあの音。サラサラ。サラサラ。今度は、はっきりと聞こえた。
「弱い子…」
声は、家のどこかから響いてくる。私は息を殺し、耳を澄ます。間違いない。誰かが、私を呼んでいる。
翌日、私は町の中心にある小さな喫茶店「霧の里」に足を運んだ。ひよりが
「遺品整理は明日からでいい」
と言い、朝から家にいるのが息苦しかったからだ。喫茶店の看板は色褪せ、窓ガラスには細かなひびが入っている。店に入ると、カウンターの奥から聞き覚えのある声がした。
「はおり? 下津家はおりだろ?」
振り返ると、そこには幼馴染のこうきが立っていた。こうき――山本こうき。保育園が休みの日彼は朝早くから私の家の扉を叩いた。まだ半分寝ぼけていた私が食べている朝ごはんをよく横取りされた。あんまり朝は食欲が湧かず食べれない私にはありがたかったが。よく一緒に秘密基地を作って遊んだ彼は、今も変わらない笑顔を浮かべている。イタズラ好きでよく先生や保護者から怒られていた彼の姿が懐かしい。どんなに悪いことをして大人に怒られても私が困っている時に手を差し伸べてくれた彼は、私にとって神様のように優しく見えた。今は、背が高くなり、肩幅も広くなったが、目元の優しさはあの頃のままだった。
「こうき! 久しぶり!」
私は思わず笑顔になる。東京での孤独な生活の中で、こんな温かい再会を想像していなかった。
「いや、まさかここで再会するとは。びっくりしたよ。はおり、お母さんのことは、残念だったな。いつ帰ってきたんだ?」
こうきはカウンターから出てきて、私の隣の席に腰を下ろす。彼は今、この喫茶店で働いているらしい。昔から器用で、なんでもそつなくこなすこうきらしい選択だ。
しばらく他愛もない話をした後、こうきの表情が曇った。
「なあ、はおり。この町、最近ちょっと変なんだ」
彼は声を潜め、まるで誰かに聞かれるのを恐れるように辺りを見回す。
「変って?」
私はコーヒーカップを握る手に力を入れる。こうきは一瞬躊躇してから、話し始めた。
「この小さな町で、最近、若い女性の失踪事件が続いてるんだ。一人目は去年の夏、二人目は三ヶ月前。で、つい先週、また一人…。みんな、夜にいなくなってる。警察は『家出だろう』って言うけど、なんかおかしいんだよ。町の雰囲気が…なんていうか、暗い」
心臓が締め付けられる。失踪事件。霧谷町のような小さな町で、そんなことが起こるなんて。子供の頃の記憶が、またフラッシュバックする。父が消えたあの夜、町を覆っていた重い霧。母の冷たい目。そして、あの囁き声。
「弱い子…」
「はおり、大丈夫か?」
こうきの声にはっとする。
「うん、ただ…ちょっと疲れてるだけ」
私は無理に笑う。こうきの話が、母の死と重なって、頭が混乱していた。こんな小さな町で、失踪事件なんて。きっと、偶然だ。
その晩、実家の自分の部屋で布団に横になると、静けさが耳に痛い。窓の外では、霧が町を覆い尽くしている。目を閉じると、母の顔が浮かぶ。冷たく、感情のない目。
「あなたは強い子だから」
その言葉が、頭の中で反響する。
サラサラ。
目を見開く。暗闇の中で、かすかな音が響く。枯れ葉が擦れるような、でもどこか人間の声に似た音。
「弱い子…」
はっきりと、耳元で囁く声。私は布団を握りしめ、息を殺す。母の死への動揺だ。きっと、幻聴だ。私は看護師だ。こんな非現実的なことに怯えるなんて、ありえない。自分を納得させるように、心の中で繰り返す。幻聴だ。幻聴だ。
でも、声は止まない。サラサラ。サラサラ。
「弱い子…」
それは、部屋のどこかから、あるいは私の心の奥底から、響いてくる。
母の遺品整理を始めるため、居間の段ボール箱を開ける。埃っぽい匂いの中、古い写真や衣類に混じって、一冊の革表紙の日記が出てきた。母のものだ。表紙は擦り切れ、ページの端は黄ばんでいる。パラパラとめくると、母の几帳面な文字が並ぶ。興味本位で読み始めるが、そこに綴られていたのは、私の知らない家族の秘密だった。
父の失踪。母は日記に、父が
「谷霧稲荷神社に行ったきり帰らなかった」
と書いていた。あの夏、父が突然いなくなった夜のことを、私は今でも覚えている。母はただ
「出て行った」
とだけ言っていたのに。日記には、母の精神的不安も記されていた。
「声が聞こえる」
「霧が私を監視している」
そんな言葉が、乱れた筆跡で繰り返される。母は、こんな思いを抱えていたのか。私はページを閉じ、胸のざわめきを抑える。知らなかった。こんな母の姿を、まったく知らなかった。
谷霧稲荷神社。日記に何度も出てくるその名前が、なぜか頭にこびりつく。子供の頃、友達と保護者たちに
「子どもだけで行っちゃダメ」
と禁止された場所。町の外れ、霧の深い森の中に佇む古い神社だ。母の言葉、父の失踪、そしてあの囁き声。すべてが、繋がっている気がした。いてもたってもいられず、私はコートを羽織り、家を出る。神社へ行ってみよう。答えが、そこにあるかもしれない。
霧谷町の外れに続く道は、舗装も途切れ、雑草が足元を覆う。霧がさらに濃くなり、木々の間から冷たい風が吹き抜ける。谷霧稲荷神社の鳥居が見えてきたとき、背筋に冷たいものが走った。赤い鳥居は苔に覆われ、傾いている。石段の先、木々に囲まれた社殿は、まるで時間が止まったように朽ちている。空気が重い。まるで、誰かが息を潜めて私を見ているようだ。
一歩踏み出すと、地面が湿った音を立てる。社殿に近づくにつれ、胸の鼓動が速くなる。ふと、視界の端で何かが動いた。黒い影。人の形だが、どこか歪んでいる。木々の間に一瞬だけ見えたそれは、すぐに霧に溶ける。私は立ちすくむ。心臓が喉元で鳴っている。ただの錯覚だ。木の影か、鳥か。でも、恐怖心が芽生える。抑えきれず、振り返って駆け出したくなる衝動を、必死で抑える。
「弱い子…」
囁き声が、風に混じって聞こえた気がした。私は息を殺し、耳を澄ます。でも、静寂だけが広がる。幻聴だ。母の死の動揺と、日記の衝撃が、私をこんな気分にさせているんだ。そう自分に言い聞かせるが、足元が震える。神社を後にする頃、霧はさらに濃くなり、私の背後を覆うようだった。
喫茶店でのこうきとの会話は、失踪事件の話題でさらに重くなった。
「なあ、はおり、実は…」
と、こうきが声をさらに潜める。
「失踪した女の人たち、はおりと関係あるかもしれないんだ」
私は息を呑む。
「関係って、どういうこと?」
と聞くと、こうきは少し躊躇しながら続けた。
「一人目はさ、はおりと同じ中学の後輩、佐藤真由。覚えてるだろ? いつも図書室にいた子。二人目は同級生の田中彩、クラスでは目立たなかったけど、はおりと一緒に文化祭の準備したことあったよな。三人目は…先輩の林美穂。はおりが中一のとき、三年生で生徒会やってた子だよ。はおりと親しかっただろ?」
心臓が締め付けられる。真由、彩、美穂。名前を聞くだけで、顔が浮かぶ。確かに、はおりは彼女たちとは繋がりがあった。かすかな記憶が、頭の中で絡み合う。あの頃の私は、いつも笑顔で「強い子」を演じていた。でも、彼女たちと過ごした時間は、私の弱さを隠すための仮面だったかもしれない。
「なんで…私と?」
言葉が喉に詰まる。こうきは肩をすくめ、
「分からない。でも、なんか変だろ。この小さな町で、立て続けにこんなことが起こるなんて」
彼の目には、恐怖と困惑が混じっていた。
その夜、実家に戻り、母の遺品を整理していると、突然電気が消えた。真っ暗な部屋で、心臓が跳ねる。窓の外の霧が、月明かりをぼんやりと滲ませている。懐中電灯を探そうと立ち上がった瞬間、目の前の古い姿見に何か映った。私の影じゃない。細長く、ゆらゆらと揺れる、人の形をした何か。息を殺して見つめるが、すぐに消える。錯覚だ。きっと、疲れているだけだ。でも、数分後、別の部屋の鏡にまた同じ影が映る。今度ははっきり、顔のない黒い人影が、私の後ろに立っているように見えた。
電気が復旧し、部屋が明るくなると、影は消えていた。でも、胸のざわめきは収まらない。その後も、夜中に突然電気が落ちたり、鏡に一瞬だけ映る別の影が現れたりした。毎回、心臓が縮こまる。サラサラという囁き声も、耳に残る。
「弱い子…」
私は布団をかぶり、震える手を握りしめる。これは私の弱さのせいだ。こんな非現実的なことに怯えるなんて、なんて弱いんだ。母の死、失踪事件、父の失踪。すべてが私の心を乱す。自分が弱いから、こんなことが起こるんだ。自己嫌悪が、胸の奥で渦を巻く。看護師として冷静でいるはずの私が、こんなことで動揺するなんて、情けない。
こうきの話に動揺した私は、もっとこの町のことを知る必要があると感じた。翌日、こうきに連れられて、町の小さな図書館を訪れた。そこには、地元の図書館司書、森山春子さんがいた。春子さんは五十代半ば、眼鏡の奥の鋭い目が印象的な女性だ。子供の頃、図書室で本を借りるたびに優しく話しかけてくれた彼女の笑顔を覚えている。だが、今日の春子さんはどこか緊張した様子で、私たちを迎えた。
「はおりちゃん、久しぶりね。こんな時に帰ってくるなんて…」
春子さんの声には、どこか同情のような響きがあった。私は失踪事件のことを切り出し、町の歴史について知りたいと伝えた。春子さんは一瞬ためらい、棚の奥から古い郷土史の本や新聞の切り抜きを持ってきてくれた。
こうきと一緒に資料を読み進めると、霧谷町の古い伝説に行き当たった。
「弱者を喰らう神」。谷霧稲荷神社にまつわる話で、心の弱い者や孤独な者を神が選び、霧の夜に連れ去るという。かつて、村で不思議な失踪が続いた時期があり、すべて神の祟りとされた。春子さんが低い声で言う。
「最近の失踪事件…あの伝説と関係あるんじゃないかって、町の一部の人たちは囁いてるわ」
私は背筋が冷えるのを感じた。真由、彩、美穂。彼女たちも「弱者」だったのか? そして、私も…?
こうきが
「そんな迷信、信じる奴なんていないだろ」
と笑い飛ばすが、春子さんの目は真剣だった。
「この町の霧は、ただの霧じゃない。昔から、そういう言い伝えがあるのよ」
彼女の言葉が、胸の奥に重く響く。失踪事件と伝説。父の失踪。母の日記に書かれた「霧が私を監視している」という言葉。すべてが、谷霧稲荷神社を中心に絡み合っている気がした。
その夜、実家の部屋で眠りにつこうとしたが、悪夢に悩まされた。幼少期の記憶。母の冷たい目が、私を見下ろしている。
「あなたは強い子だから」
その言葉が、頭の中で反響する。暗闇の中で、母の目が大きくなり、私を飲み込むように迫ってくる。逃げようとしても、体が動かない。サラサラという囁き声が、耳元で響く。
「弱い子…」
目を開けると、汗でシーツが湿っていた。胸を押さえ、息を整える。母の死、失踪事件、伝説。あの神社の影。すべてが、私の弱さを嘲笑っているようだった。
その夜、悪夢から目覚めた私は、喉の渇きに耐えかねて台所に向かった。時計は深夜二時を指している。暗い廊下を進むと、玄関のドアがわずかに開いているのに気づいた。ひよりの靴がない。姉が深夜に出かけたのだ。好奇心と不安が混じり、窓から外を覗くと、霧の中にひよりの姿が一瞬見えた。彼女は携帯電話を耳に当て、誰かと低い声で話している。言葉は聞き取れないが、その様子はどこか秘密めいている。私は息を殺し、じっと見つめた。ひよりが何かを知っていて、隠している。そんな疑いが、胸の奥で膨らむ。母の死、父の失踪、失踪事件。姉は、すべてを知っているのではないか?
翌日、ひよりの行動が頭から離れず、私は再び谷霧稲荷神社に向かった。霧が立ち込める森の中、鳥居をくぐると、昨日の恐怖が蘇る。社殿の裏に回ると、地面に奇妙な痕跡を見つけた。円形に並べられた石の周りに、赤黒い液体が点々と落ちている。血のようだが、どこか不自然に粘ついている。近くの木には、異常な彫刻が刻まれていた。人の顔とも獣ともつかない、歪んだ形。目のような窪みが、私をじっと見つめているようで、背筋が凍る。儀式の痕跡だ。これは、ただのいたずらじゃない。伝説の「弱者を喰らう神」と関係があるのか? 超自然的な恐怖が、胸を締め付ける。私は急いでその場を離れたが、木々の間からサラサラという音が追いかけてくる。
「弱い子…」
振り返っても、誰もいない。ただ、霧が私の周りを包み込むように濃くなっていた。
町を歩くたびに、背中に冷たい視線を感じるようになった。誰かが、どこかから、私を監視している。「何か」が、霧の向こうで私の動きを追っているような感覚だ。谷霧稲荷神社から戻った後、その感覚はさらに強まった。町の住人ともすれ違うが、彼らの目は私を避けるように逸らされる。商店街の店主、道端で立ち話をする老人、誰もが私の存在を無視するかのようだ。子供の頃は温かかったこの町が、今は私を拒絶している。孤立感が胸を締め付け、息苦しくなる。私はここにいてはいけない人間なのだろうか。
数日後、こうきと連絡を取ろうとしたが、電話は繋がらない。喫茶店「霧の里」に足を運ぶと、カウンターには知らない若い男が立っていた。
「こうき? 昨日から来てないよ。急にあいつが休むなんて珍しいよな」
男の言葉に、胸が締め付けられる。こうきが失踪した。真由、彩、美穂と同じように、夜の霧に消えたのだ。私のせいだ。こうきに失踪事件の話をさせ、巻き込んでしまった。こんなことが起こるのは、私が弱いからだ。自己嫌悪が心を蝕むが、同時に、怒りのようなものが芽生える。この町の秘密、失踪の真相を突き止めなければ。こうきを、取り戻さなければ。私は震える手で拳を握り、真相を追う決意を固めた。
その夜、母の遺品の日記を読み返すうち、過去のトラウマが鮮明に蘇った。母の感情的虐待。彼女の冷たい目は、いつも私を責めた。
「あなたは強い子だから。そんなことで泣くんじゃない」
私が小さな失敗をするたび、母は無言で背を向け、部屋に閉じこもった。父の失踪の真相も、日記から少しずつ明らかになる。あの夏、父は谷霧稲荷神社で何かを見つけ、母に
「この町を離れよう」
と訴えた。だが、母は拒否し、父はその夜、霧の中に消えた。母は私に言った。
「お父さんは弱かったから、いなくなったのよ」
その言葉が、私の心に「弱さ」を刻み込んだ。すべての恐怖、すべての囁き声は、私の弱さが引き寄せたものだ。そう思うたび、胸の奥で何かが軋む。
こうきの失踪に耐えきれず、私は再び谷霧稲荷神社へと足を運んだ。失踪事件の被害者――真由、彩、美穂、そして今、こうき。彼女たちの行方を追う手がかりは、この神社にあるはずだ。霧が濃く立ち込める森を抜け、朽ちかけた社殿の裏にたどり着く。地面に目をやると、昨日見た赤黒い液体の痕跡が、社殿の奥へと続く。息を呑みながら、苔むした石の扉を見つけた。力を込めて押すと、軋む音とともに地下への階段が現れる。
懐中電灯の光を頼りに降りていくと、冷たく湿った空気が肌を刺す。地下には、広い空間が広がっていた。壁には不気味な彫刻が連なり、中心に石の祭壇がある。儀式場だ。祭壇の周りには、散乱した髪の毛や破れた布切れ――真由のヘアピン、彩のブレスレット、美穂のハンカチ、そして、こうきのものと思われる鍵。失踪者たちがここにいた痕跡だ。心臓が締め付けられる。さらに、祭壇の脇に古い帳簿のようなものを見つける。開くと、母の日記と同じ筆跡で「神への供物」という言葉が繰り返されていた。ページには、名前が並ぶ。真由、彩、美穂…そして、父の名前も。震える手でページをめくると、最後のページに「次は、はおり」と書かれていた。
背後で足音が響いた。振り返ると、ひよりが立っていた。彼女の目は冷たく、まるで別人のようだ。
「はおり、ここで何してるの?」
その声に、怒りと恐怖が混じる。
「ひより、これ…あなたが関わってるの?」
私は帳簿を突きつける。ひよりの表情が一瞬歪み、すぐに無感情に戻る。
「知らない方がよかったのに」
彼女の言葉に、確信が走る。ひよりは、この儀式に関与している。母の死、父の失踪、失踪事件――すべてに、姉が絡んでいるのだ。
「どうして? なぜこんなことを?」
私の声は震え、涙が滲む。ひよりは一歩近づき、低い声で言う。
「この町を守るためよ。弱者を神に捧げることで、霧谷は保たれてきた」
彼女の言葉は、母の冷たい目を思い起こさせる。姉妹の対立は、地下の暗闇でピークを迎えた。私は後ずさり、祭壇に背をぶつける。ひよりが近づくたび、霧が彼女の周りを不気味に揺れる。
「はおり、あなたも弱い子だから…」
その言葉に、胸の奥で何かが壊れる音がした。
ひよりとの対立の衝撃が冷めやらぬ中、私は「弱者を喰らう神」の正体を突き止める決意を固めた。この町の霧、失踪事件、儀式場の不気味な痕跡――すべてが、その神と呼ばれる存在に繋がっている。実在する超自然的な何かなのか、それとも町の住人たちが作り上げた集団心理の産物なのか。真相を知らなければ、こうきや他の被害者を救えない。私は母の日記と図書館の資料を手に、谷霧稲荷神社の記録をさらに調べ始めた。古い文献には、霧谷町が過去に「神への供物」を捧げることで繁栄を保ってきたと書かれていた。だが、供物の詳細は曖昧で、ただ「弱者」と記されているだけ。私の名が帳簿にあったことが、頭から離れない。
春子さんに相談するため図書館に戻ると、彼女の態度は昨日より冷たかった。
「はおりちゃん、深入りしない方がいいよ」
と警告する彼女の目は、どこか怯えているようだった。町を歩くたび、住人たちの視線が刺さる。商店街の店員は会話を避け、近所の老人が私の姿を見ると急いで家に引っ込む。町全体が私を敵視している。まるで、私がこの町の秘密を暴こうとしていることを知っているかのようだ。孤立感が胸を締め付け、監視される感覚がさらに強まる。霧の向こうで、誰かがいや何かが見ている。
そんな中、こうきの行方に一筋の光が見えた。図書館の古い新聞記事に、失踪者が一時的に町外れの廃屋で目撃されたという噂が載っていた。こうきが生きている可能性がある。私は廃屋に向かうことを決意し、懐中電灯と母の日記を握りしめて家を出た。だが、町の住人たちの敵意は増すばかりだ。道すがら、知らない男が私の前に立ちはだかり、
「余計なことをするな」
と低い声で囁く。別の角では、子供たちが石を投げてくる。追い詰められる感覚に息が苦しくなるが、こうきを救うため、私は足を止めない。廃屋に近づくにつれ、霧が濃くなり、耳元で囁き声が響く。
「弱い子…」
それは、私の決意を嘲笑うようだった。
母の訃報で急遽帰省してから、一週間が経っていた。霧谷町の重苦しい空気、ひよりの怪しい行動、こうきの失踪、そして谷霧稲荷神社の不気味な儀式場。あらゆる出来事が私の心を締め付け、夜ごと悪夢にうなされる。それでも、私は看護師だ。東京の病院では患者が待っている。これ以上休むわけにはいかない。一度東京に戻り、頭を冷やして状況を整理しよう。私はカバンに荷物を詰めながら、心に決めた。霧谷町の謎は、こうきを救うためにも、必ず解き明かす。でも、今は一度、距離を置く必要がある。霧の町を後にするバスに乗り込む直前、背後でサラサラと囁き声が響いた。
「弱い子…」
振り返るが、誰もいない。ただ、霧が私の足元を這うように広がっていた。




