プロローグ
電車の窓に映る私の顔は、どこか他人みたいだった。揺れる車体の振動に合わせて、ガラスの中の私はゆらゆらと揺れ、まるで水面に浮かぶ亡魂のよう。東京から熊本までの長い道のりで、私は何度もその顔を見つめた。疲れた目、薄く結んだ唇、額に張り付く前髪。二十四歳の私は、こんな顔でいいのだろうか。看護師として、人の命を預かる私が、こんな頼りない目でいいのだろうか。
下津家はおり。名前を呼ばれても、いつも一瞬、自分が誰だか分からなくなる。子供の頃、母はよく言った。「はおり、あなたは強い子だから」
と。その言葉は呪いのように私を縛った。強い子なら、泣かない。強い子なら、耐えられる。どんなに怖くても、どんなに辛くても。だから私は、いつも笑顔でいた。どんな時も、笑顔で。
でも、本当は弱かった。誰よりも、弱かった。
熊本に帰るのは、二年ぶりだ。看護学校を卒業してすぐ上京したのは、自由を掴みたかったから。いや、逃げたかったからだ。あの町、霧谷町の重苦しい空気から。母の冷たい視線から。夜ごとに聞こえた、どこからともなく響く囁き声から。あの声は、いつも私を責めた。
「弱い子…」
と。子供の頃、布団をかぶって震えながら、ただ朝が来るのを待った。あの恐怖から逃れるために、私は東京を選んだ。新しい自分になれると信じて。
なのに、なぜ今、私はこの電車に乗っているのか。母の訃報を聞いたとき、電話の向こうで姉のひよりの声は冷たかった。
「はおり、帰ってきなさい。遺品整理を手伝って」
それだけだった。姉らしい、感情のない声。まるで、私がまだあの家の支配下にあるかのように。
霧谷町に近づくにつれ、車窓の景色は変わっていく。都会のビル群は消え、田んぼと山々が広がる。空は灰色に淀み、遠くに霧が立ち込めている。胸の奥で何かがざわめく。嫌な予感。いや、ただの気のせいだ。私は看護師だ。現実的な人間だ。過去の恐怖なんて、ただの子供の想像にすぎない。
電車が霧谷駅に着く。ホームに降り立つと、空気がひんやりと肌にまとわりつく。駅舎は古びて、錆びた看板がカタカタと風に揺れている。誰もいない。迎えに来ると言っていた美咲の姿もない。携帯を手に取るが、電波は途切れがちだ。ため息をつき、駅前の細い道を歩き始める。実家までは、歩いて三十分。子供の頃、よく通った道だ。
そのとき、背後でかすかな音がした。サラサラ。枯れ葉が擦れるような、でもどこか人間の声に似た音。私は振り返る。誰もいない。道の両側には、雑草が生い茂る空き地が広がるだけ。なのに、視線を感じる。誰かに見られているような、冷たい視線。
「はおり…」
心臓が跳ねる。声だ。低く、かすれた、女の声。ゆっくりと振り返るが、そこには誰もいない。ただ、遠くの木々の間に、霧が濃くなっている。錯覚だ。きっと、疲れているだけだ。私は早足で歩き出す。カバンのストラップを握りしめ、心の中で唱える。強い子。強い子。私は強い子だから。
でも、足音が聞こえる。私のものじゃない。誰かが、すぐ後ろで歩いているような。立ち止まると、音も止まる。息を殺して耳を澄ます。サラサラ。サラサラ。今度は、はっきりと聞こえた。
「弱い子…」
声は私の耳元で囁く。背筋が凍りつく。走り出したい衝動を抑え、ゆっくりと振り返る。
そこには、誰もいない。霧だけが、静かに道を覆っていく。




