第八章 藤棚の下で
五月の終わり、花殿の藤棚が盛りを過ぎた。
紫の花寮が満開だったのは十日ほど前のことで、今はもう花の重さが緩んで、端から茶色くなり始めていた。それでも棚の下に立つと、残った花の香りがまだ漂っていて、風が来るたびに散った花びらが雨のように落ちてくる。
小鈴はその藤棚を、毎朝少しずつ気にしていた。
花が終わりかけると、枝の始末が要る。咲き終えた花寮を落とし、伸びすぎた蔓を切り、棚の骨組みに絡んだ枝を整える。放っておくと来年の花つきが悪くなる。小鈴は花農家の育ちだから、それを体で知っていた。
ただ、花殿の庭の手入れは杏華の仕事だった。小鈴が勝手に始めることではない。
迷いながら四、五日が過ぎた朝、杏華が縁側で脚立を広げているのを見た。藤棚の下に道具を並べて、一人で始めようとしていた。
小鈴は花籠を縁側に置いて、駆け寄った。
「手伝わせて下さい」
杏華は脚立の足元を確認しながら、横目で小鈴を見た。
「花の仕事があるでしょう」
「今日の水替えは済ませてきました。少し時間があります」
「……脚立を押さえることはできますか」
「できます」
杏華は短く頷いて、道具の一つを小鈴へ渡した。咲き終えた花寮を切るための小さな鋏だった。脚立に登った杏華が上から切り、小鈴が下で落ちたものを拾う、という段取りが自然に決まった。
藤の手入れは、思ったより時間がかかった。
伸びた蔓が棚の骨組みに何重にも絡んでいて、どこからどう整えるか判断しながら進まなければならない。杏華は手際よかったが、それでも棚全体を終えるには半日はかかりそうだった。
小鈴が落ちた花寮を籠に集めていると、縁側の障子が開く音がした。
蘭妃が出てきた。
珍しかった。蘭妃が庭に出てくることは、めったになかった。少なくとも小鈴が来るようになってからは、縁側に腰を下ろすことはあっても、庭まで降りることはなかった。
「手入れをしているのですか」
「はい。蘭妃様はお部屋に」
杏華が脚立の上から答えた。
「少しだけ、外の空気を」
蘭妃は縁側に立ったまま、藤棚を見上げた。残った花びらが、風に揺れて一枚、また一枚と落ちている。それを見ている蘭妃の横顔は、いつもより少し柔らかかった。
「藤は、散り際が好きです」
誰に言うでもなく、そう言った。
「咲いているときは重すぎる。でも散り始めると、軽くなる」
小鈴は籠を持ったまま、少し迷ってから話しかけた。
「落ちた花びらはどうしますか。乾かせば香りが残ります」
「取っておいて下さい」
「はい」
蘭妃は縁側に腰を下ろした。庭に下りてくるつもりはないが、外にいたいらしかった。膝の上に花暦の冊子を持ってきていて、ときどき何かを書き留めながら、藤棚の方を見ていた。
しばらくして、曜様が来た。
くぐり戸から入ってきて、藤棚に人が集まっているのを見て、一瞬だけ足を止めた。それから「何をしているの」と言いながら近づいてきた。
「藤の手入れです」
小鈴が答えると、曜様は落ちた花びらを一つ拾い上げた。
「これ、もらっていい?」
「乾かして香りを取るつもりでしたが、曜様はどうされますか」
「押し花にしたい。本に挟んでおくの」
「それもいいですね」
曜様はその場にしゃがみこんで、落ちた花びらを一つずつ選び始めた。きれいなものだけを選んでいる。傷んでいるものは除けて、形のよいものだけを手のひらに集めていく。その選び方が、思ったより丁寧だった。
杏華が脚立の上から声をかけた。
「曜様、そこは蔓が落ちてきますから、少し離れて下さい」
「分かった」
曜様は素直に場所を移した。
杏華の言葉には、不思議と素直だった。蘭妃に対するのとは少し違う素直さで、どちらかというと年上の姉についていくときのような感じがあった。
脚立が少し揺れた。
小鈴がすぐに両手で脚立を押さえると、杏華が「ありがとうございます」と言った。杏華がそういう言葉を言うのも、珍しかった。脚立の上という状況が、少しだけ杏華の言葉を素直にしているかもしれなかった。
昼を少し過ぎた頃、杏華が脚立から下りた。
上の方の太い蔓は後日にして、今日は花寮の始末だけ終える、ということになった。籠の中に、切り落とした藤の花寮がたくさん積まれていた。まだ紫の色が残っているものもある。
蘭妃が縁側から声をかけた。
「少し休みなさい。茶を出します」
杏華は「お気遣いなく」と言いかけて、蘭妃がすでに立ち上がって部屋へ戻りかけているのを見て、黙った。蘭妃が自分で茶の支度をしようとしている。それを止めるために杏華は慌てて縁側へ上がった。
小鈴と曜様は庭に残って、道具を片付けていた。
「蘭妃、久しぶりに外に出てたね」
「そうですね。いつもは部屋にいますから」
「最近、少し顔色がいいと思う」
曜様は独り言のようにそう言って、道具籠の蓋を閉めた。その言葉に、自分が見てきたことへの安堵が混ざっていた。幼いようで、曜様はずっと蘭妃を見ていた。
「そうだといいのですが、わたしも、そう思います」
縁側に四人が並んで、茶を飲んだ。
杏華が用意した茶に、小鈴が先週乾かしておいた桜の花びらを少し加えた。藤の花びらも試してみたかったが、藤は今日切ったばかりで乾かしていない。それは次の機会にすることにした。
藤棚の下の石畳に、切り落とした蔓の端が残っていて、そこからまだわずかに藤の香りが漂っていた。
蘭妃が茶器を持ったまま、藤棚を見て言った。
「以前は、もっと荒れていました」
誰かに語りかけているというより、思い出しているような言い方だった。
「わたくしがここへ来た頃は、藤棚の骨組みが半分朽ちかけていて、蔓も伸び放題で。それでも花だけは毎年咲きました」
「丈夫な花ですから、藤は放っておいても咲きます。でも、整えると、もっとよく咲く」
「そうですね」
蘭妃は少し間を置いて、続けた。
「杏華が骨組みを直してくれました。二年前に」
杏華は何も言わなかった。茶器を両手で持って、縁側の板を見ていた。耳は聞こえているはずだったが、返事をしなかった。
「大工に頼む費用も、許可を取る手間も、全部自分で動いてくれました。わたくしが頼んだわけでもないのに」
「……蘭妃様が、藤をよく見ていらっしゃったので」
杏華がようやく言った。声は普段より少し低かった。
「それだけです」
蘭妃は杏華を見て、それからまた藤棚へ目を戻した。
「終わった花にも、役目がありますね。落ちた花びらは香りになる。切った蔓は来年の枝のために道を作る。散ることと、終わることは、違う」
小鈴は蘭妃のその言葉を聞きながら、籠の中の藤の花寮を見た。もう枝から離れているのに、まだ紫が残っている。
「乾かして、香に使えますか」
曜様が尋ねた。
「少し工夫すれば。そのままより、他の花と合わせた方が香りが丸くなります」
「やってみる」
「お手伝いします」
曜様が少し目を輝かせた。曜様は手を動かすことが好きらしかった。梅の押し花も、花びらを集めることも、こういう少し手間のかかる作業に、案外嬉々として取り組む。
後片付けが終わった頃、日が傾き始めていた。
杏華が残りの道具を物置に仕舞いに行って、曜様は蘭妃の部屋でさっき集めた藤の花びらを本に挟む作業をしていた。小鈴は縁側の脇に立って、藤棚を見ていた。
今日、手を入れた棚は、昨日より少しすっきりしていた。咲き終えた花寮が落ちて、代わりに空が見えている。棚の向こうに、夕方の薄い青がある。
蘭妃が縁側に出てきて、小鈴の隣に立った。
二人で、藤棚を見た。
「すっきりしました」
蘭妃が言った。
「来年は、もっとよく咲くと思います」
「そうですね。毎年咲くたびに、少しずつよくなってきました。杏華のおかげで」
小鈴は頷いた。それから少し迷って、尋ねた。
「蘭妃様は、ここへ来てどのくらいになりますか?」
少しの間があった。
「五年、少し前です」
「五年」
「最初の一年は、庭を見る余裕がありませんでした。今よりずっと、ここは静かで、暗かった」
静かで、暗かった。その言葉は、今の花殿を見ていると想像しにくかった。でも確かに、小鈴が来た二ヶ月ほど前と今でも、もう少しずつ変わっている。五年前がどれほどだったか、考えると少し胸が痛かった。
「今は、明るくなりましたか」
蘭妃はすぐには答えなかった。
藤棚の先、空が少し赤くなり始めているところを見ていた。
「……なりましたね」
短く、でもはっきりと言った。
小鈴は返事をしなかった。する必要がなかった。
夕風が来て、藤棚の残った葉が揺れた。まだ少し香りが残っていて、それが風に乗って縁側まで来た。蘭妃が静かに、深く息を吸った。あの、花の香りを受け取るときの、静かな吸い方だった。
帰り道、小鈴は今日のことを順番に思い返した。
杏華が脚立に登って、花寮を切っていたこと。曜様がしゃがみこんで、花びらを一枚ずつ選んでいたこと。蘭妃が縁側に座って、花暦に何かを書き留めていたこと。四人で茶を飲んで、藤の香りがまだ庭に残っていたこと。
誰も、特別なことをしたわけではない。藤の手入れをして、茶を飲んで、話をした。それだけだった。
でも今日の花殿は、これまでで一番、ひとつの場所に見えた。
四人がいて、それぞれが手を動かして、同じ藤棚の下にいた。蘭妃の昔話が少し出て、杏華の六年分の仕事が少し見えて、曜様の花びらを選ぶ手が見えた。
小鈴はそこにいた。花農家の娘として、花の扱いを知っている者として、脚立を押さえて、花寮を拾って、お茶に花びらを足した。それが今日の自分の役目だった。
花殿が、初めて「ひとつの小さな家」のように見えた日だったと、小鈴は思った。
来年の春、藤はきっともっとよく咲く。
それを四人で見るのだろうと、当たり前のように思った。そう思えることが、少し前までは当たり前ではなかったことを、小鈴はちゃんと知っていた。




