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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第九章 珠麗妃の花宴

 六月の初め、後宮に花宴の知らせが回った。

 珠麗妃様の主催で、離宮の東庭にて。参加は各宮の妃と、許可を得た女官まで。花寮からは当日の花飾りの準備と、宴の間の花の管理を担当するよう、沈女官長から伝えられた。

 花寮が騒がしくなった。

 珠麗妃様の宴は、後宮でも格の高い催しだった。どの花をどこに飾るか、色の組み合わせはどうするか、香りが強すぎないか。沈女官長の指示のもと、宮女たちが花を選び、花籠を組み、飾り方を相談していた。小鈴も呼ばれて、花籠の組み方を手伝った。いつもより大きな籠に、いつもより格のよい花を、いつもより丁寧に。

 当日の朝は、夜明けから仕事が始まった。

 東庭へ花飾りを運び込んで、所定の場所へ設置する。卓の中央に大きな花入れ、廊下の柱には花輪、庭の要所に鉢植え。小鈴は他の宮女に交じって、指示された場所へ次々と花を運んだ。

 東庭は、花殿とは全然違う場所だった。


 広かった。

 石畳の広場を囲むように回廊が走って、その向こうに手入れの行き届いた庭がある。木も石も池も、全部が計算されて置かれている感じがした。美しいと思う。でも、息を整えてから見ないと疲れる美しさだった。

 そのとき、少し離れたところで、女たちの声が重なった。

「花殿にも、まだ花を回しているのね」

 小さな声だったが、つづく「形だけでしょう」という囁きは、なぜかはっきり聞こえた。

 小鈴は聞こえないふりをして、手の中の花籠へ目を落とした。

 白蘭ではない。今日は珠麗妃のための花だ。選ばれた花だけがここにある。そう分かる並びだった。

 花の置き場所ひとつで、後宮の中の遠さが見える気がした。


 やがて、奥の廊から珠麗妃が姿を見せた。

 人の輪が、音もなくそちらへ向いた。

 小鈴は初めて近くで見た。華やかだった。衣の色が、庭の花に負けない鮮やかさで、それでいて派手すぎない。歩き方が、音を立てない。笑い方が、声に出ないくらい柔らかい。こういう人を美しいと言うのだろうと、小鈴は思った。

 珠麗妃様は花飾りを一つ一つ確かめるように見ながら、侍女と何かを話していた。小鈴は邪魔にならないよう、少し離れた場所で花籠を整えていた。

「あら」

 声がした。

 小鈴が顔を上げると、珠麗妃様がこちらを見ていた。

「花寮の子ね。あなたが籠を組んだの?」

「……いえ、今日は皆で手分けして」

「でも、この白蘭の入れ方は、他の籠と少し違う。花の向きが、見る人の方へちゃんと向いている」

 小鈴は少し驚いた。確かに、小鈴が組んだ籠だった。花の正面が見る人の側を向くように、角度を少し調整してある。他の宮女はそこまでしていなかった。

「気づかれましたか」

「気づくわよ。花はどこを向いているかで、全然違って見えるもの」

 珠麗妃様はそれだけ言って、次の花飾りへ歩いていった。

 小鈴はしばらく、その後ろ姿を見ていた。


 宴が始まると、花寮の担当者は端の方で待機することになった。

 花が傷んだ時の交換や、倒れた花器の対処のために、すぐ動ける場所にいなければならない。小鈴は回廊の柱のそばに立って、宴の様子を遠目に見ていた。

 妃たちが集まっている。華やかな衣の色が、庭の中で散らばって、まるでそれ自体が花のようだった。笑い声が聞こえてくる。茶と菓子が運ばれてくる。珠麗妃様が中心にいて、周りの人を自然に引きつけていた。

 誰かに話しかけて、その人を笑わせて、また別の人へ。流れるように動いている。それが計算なのか本心なのか、遠目には分からなかった。でも、その場にいる人たちは皆、珠麗妃様の方を向いていた。

 小鈴は庭の花を見た。

 よく咲いていた。今朝の仕事できれいに整えたものが、日の光を受けてよく映えている。でも宴が進んでいくうち、小鈴の目はだんだん花より人の方に向いていった。

 あの中で、みんな何を思いながら笑っているのだろう。

 笑うのが本当に楽しいのか、笑わなければならないから笑っているのか。後宮という場所では、その二つはきっとよく混ざり合う。そして混ざり合ったまま、どちらか分からなくなっていくのかもしれない。

 小鈴には、その感覚がよく分からなかった。花農家の娘には、後宮の笑い方はまだ難しい。


 昼過ぎ、花器の一つが風で傾いたので、小鈴が直しに庭へ入った。

 花器を直していると、すぐそこに珠麗妃様がいた。少し離れた場所で、侍女と小声で話していた。宴の中心から少し外れた場所で、ほんの少しだけ表情が違った。

 笑っていなかった。

 笑っていないだけで、険しいわけでもなかった。ただ、どこか遠くを見ているような目をしていた。その目の向いた先を小鈴が追うと、庭の外れの方角だった。

 花殿のある方角だった。

 気のせいかもしれなかった。庭の外れを見ていただけで、花殿を意識していたわけではないかもしれない。でも小鈴には、そう見えた。

 珠麗妃様が侍女に何か言って、また宴の中心へ戻っていった。戻った瞬間に、笑顔が戻った。切り替えは一瞬だった。

 小鈴は花器を直し終えて、元の場所へ戻った。

 後宮では、咲いているあいだしか見てもらえない花もある。

 珠麗妃様が先ほど言っていた言葉が、頭の中に残っていた。誰かに言ったのではなく、小鈴の組んだ籠を見ながら、ほとんど独り言のように言った言葉だった。その言い方が、どこか遠いところから来た声のように聞こえた。


 宴が終わったのは夕方近かった。

 妃たちが引き上げ、東庭が静かになった。花寮の宮女たちは花飾りの撤収を始めた。使い終えた花籠を集めて、傷んだ花を除けて、花器を洗う。賑やかだった場所が片付いていくにつれ、庭はただの広い石畳に戻っていく。

 小鈴は花籠を抱えながら、東庭を見回した。

 きれいだった。宴が終わっても、庭はきれいだった。でも、誰もいなくなると、さっきまでの賑やかさが嘘のように思えた。花は変わらず咲いているのに、人がいなくなると、何か大事なものが抜けた感じがした。

 花殿とは逆だ、と小鈴は思った。

 花殿は、人が少ない。華やかではない。宴とは比べようもない静けさがある。でも人が去っても、何かが残る感じがする。蘭妃がそこにいるから、杏華がそこを整えているから、曜様が遊びに来るから。場所が人を映していて、人が場所を育てている。

 大きくて整った東庭と、小さくて少し古びた花殿。

 どちらが優れているということではなかった。ただ、自分の心が向く場所はどちらかと聞かれたら、小鈴には迷わず答えられた。

 華やかさの中にいると、きれいだと思う。でも、帰りたいとは思わない。

 花殿へ戻ると、ほっとする。あの縁側と、白蘭の鉢と、蘭妃の静かな横顔が、今日の仕事の終わりに思い浮かんでいた。


 撤収が終わって、沈女官長に報告を済ませると、小鈴は花寮への帰り道を少し遠回りした。

 花殿の方向へ向かって、塀の外から中を見た。くぐり戸は閉まっていた。今日は宴があって、小鈴は花殿へ行けなかった。昨日のうちに水替えは済ませてきたが、一日経てば水は少し傷む。

 明日、早めに来よう、と思った。

 塀の向こうに、白蘭の古木の梢が見えた。夕暮れの光の中で、白い花びらが少し橙色に染まっている。宴のきらびやかさとは全然違う、静かな白さだった。

 そのとき、塀の内側から声がした。

 蘭妃の声だった。誰かと話しているのではなく、独り言のように、低く、静かに。何を言っているのかは聞こえなかった。でも、声があった。

 小鈴は塀の前に少しのあいだ立っていた。

 花殿の中に、人がいる。声がある。それだけで、胸の中の何かが落ち着いた。

 今日の宴の賑やかさも、東庭の華やかさも、悪いものではなかった。きれいだったし、珠麗妃様の花の見方は確かで、学ぶことがあった。でも、自分がいたい場所は、あそこではなかった。

 小鈴は踵を返して、花寮への道を歩き始めた。

 今日は色々なものを見た。珠麗妃様の笑顔と、その笑顔の外の目。宴の花と、宴が終わった後の庭。後宮という場所の広さと、その中の花殿の小ささ。

 華やかな場所が悪いのではない。ただ、自分には花殿の静かな空気の方が、ずっと、心に合う。

 そのことが今日、はっきりと分かった。

 それと同時に、花殿がこれほど特別な場所になったのは、蘭妃がそこにいるからだということも、分かっていた。場所ではなく、人だ。あの静けさの中心に、蘭妃がいるから、小鈴は帰りたいと思う。

 そこまで考えて、小鈴はなぜか少し恥ずかしくなって、足を速めた。

 花寮の灯りが見えてきた。明日の朝、一番早く花殿へ行こうと思いながら、小鈴は仕事場の戸をくぐった。

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