表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/25

第十章 雨の日の繕いもの

 六月の半ば、雨が続いた。

 一日だけではなく、三日、四日と、朝から晩まで降り続ける雨だった。後宮の石畳が濡れて光り、庭の木々が重たく頭を垂れた。花寮では外仕事ができなくなって、室内の作業だけが続いた。花の仕分けや記録の整理、道具の手入れ、花籠の補修。小鈴は言われた仕事を黙々とこなしながら、窓の外の雨を時々見ていた。

 雨の日の花殿はどんな具合だろう、と思った。

 湿気が多いと花の傷みが早くなる。水替えをこまめにしないと、花入れの中で水が濁る。縁側に置いてある白蘭の鉢は、雨が吹き込まないだろうか。昨日、雨になると分かっていたら、鉢の向きを変えておいたのに。

 三日目の朝、沈女官長が小鈴を呼んだ。

「花殿へ行きなさい。雨が続くと湿気で花が傷みやすい。いつもより早めに水替えを」

「はい」

「それから、雨の日は外仕事ができないから、室内で時間が余る。花殿で邪魔にならない仕事を持っていきなさい」

 小鈴は少し首をかしげた。邪魔にならない仕事。

「花布の補修があります。古くなったものが花寮に何枚かあって、繕えば使えるものが」

「持っていきなさい」

 それだけだった。沈女官長の言葉はいつも短いが、今日の短さはいつもより温かい含みがあった気がした。行ってきなさい、というだけでなく、長居してきなさい、という意味があるような気がした。


 小鈴は花布の束と、針と糸と、それから今日用の花の手入れ道具一式を抱えて、雨の中を花殿へ向かった。

 石畳が濡れていて、足元を気にしながら歩いた。雨はしとしとと降り続けていて、音はあるけれど激しくはない。後宮の屋根から雨だれが落ちて、細い水の筋が石の縫い目を伝って流れていく。

 花殿のくぐり戸をくぐると、庭がしんと濡れていた。

 杏華が縁側で何かをしていた。雨なので庭仕事はできず、縁側に腰を下ろして、手元で細かい作業をしている。近づいてみると、帳の細紐を直していた。破れかけた帳の端を、丁寧に補修している。

「おはようございます」

「おはようございます。雨なのに来たのですか」

「水替えが要ると思いましたので。それから、これも持ってきました」

 小鈴が花布の束を見せると、杏華は一瞬だけ目を細めた。呆れたのか、認めたのか、よく分からない顔だった。

「……中に入りなさい。縁側では濡れる」


 蘭妃の部屋は、雨の日に来ると別の顔をしていた。

 外の光が柔らかくなって、部屋の中がいつもより暗い。でも暗いのではなく、落ち着いている、という感じだった。灯りを一つ点けて、その光の中で蘭妃が椅子に座って冊子を読んでいた。花暦ではなく、薄い冊子で、詩集のようだった。

 小鈴が挨拶をすると、蘭妃は顔を上げて頷いた。

「雨の中、ご苦労様」

「水替えに来ました。それから、手仕事も持ってきたので、邪魔でなければ少しここで作業させていただけますか」

「構いません。好きな場所に座りなさい」

 小鈴は縁側に近い隅に腰を落ち着けた。花布を膝に広げて、傷んでいる箇所を確かめる。布の端がほつれているもの、小さな穴のあるもの、縫い目がほどけているもの。繕える順番に並べていった。

 針を通し始めると、部屋の中に静かな時間が流れた。

 蘭妃は詩集を読んでいる。小鈴は花布を繕っている。雨の音が、外から等間隔で聞こえてくる。

 しばらくして、杏華が帳の補修道具を持って部屋に入ってきた。蘭妃の部屋の端に場所を取って、杏華も手仕事を続けた。三人が同じ部屋にいて、それぞれ別のことをしていた。


 昼近くに、曜様が来た。

 雨の日でも来るのだと小鈴は思ったが、考えてみれば曜様が来ない理由もなかった。雨で外へ出られなければ、余計に花殿へ来たくなるかもしれない。

 部屋に入ってきた曜様は、三人がそれぞれ手を動かしているのを見て、一瞬だけ立ち止まった。

「小鈴、何をしているの」

「繕いもの。花布の補修です」

「わたくしも何かする」

「では、これを持っていて下さい」

 杏華が帳の一端を曜様に渡した。帳を広げた状態で持っていてもらうと、補修の作業がしやすい。曜様は少し驚いた顔をしてから、言われたとおりに帳の端を両手で持った。

「こう?」

「はい。引っ張りすぎず、たるませすぎず」

「分かった」

 曜様は真剣な顔で帳を持っていた。幼い力仕事だが、曜様は案外きちんとこなした。杏華が補修の針を動かしながら、「そこをもう少し上に」と指示すると、曜様は黙って従った。杏華の指示には、いつも素直だった。

 四人が、同じ部屋にいた。

 雨の音が続いていた。


 昼を少し過ぎた頃、蘭妃が詩集を閉じて、曜様に話しかけた。

「曜様は昔話はお好きですか」

 曜様が「好き」と即答した。子どもらしい速さだった。

「では、少し聞きますか」

「聞く」

 蘭妃は少し考えてから、静かに話し始めた。

 花と水の国の話だった。水が豊かな国に、一本だけ花の咲かない木があって、その木の守り人の話。話の筋は単純だったが、蘭妃の語り方は詩を読むときと同じ静けさがあって、言葉が一つ一つ丁寧に置かれていく感じがした。

 小鈴は繕いものをしながら、耳を傾けていた。

 杏華も手を動かしながら聞いていた。針を刺して糸を引く動きが、いつもより少しゆっくりになっていた。

 曜様は帳を持ったまま、目を輝かせて聞いていた。話の中で何か動きがあるたびに、少し前のめりになった。

 話が終わると、曜様が言った。

「続きは?」

「続きはありません。そこで終わりです」

「なんで。木は最後に咲くの?」

「それはあなたが決めてよいと思います」

「……咲かせたい」

「そうですか」

「でも、守り人がいるんだから、咲かなくてもいいかな。守り人がいるあいだは、咲かなくても大丈夫だから」

 蘭妃が静かに微笑んだ。曜様の言葉に、何かが触れたような顔をしていた。

 小鈴は針を止めて、その顔を見ていた。

 蘭妃が笑うとき、目が少しだけ細くなる。口元より先に、目の形が変わる。その順番を、小鈴はいつの間にか知っていた。


 午後も、雨は続いた。

 曜様はいつの間にか眠ってしまって、縁側の端で丸くなっていた。起こすのも悪いと思って、杏華が薄い毛布を持ってきてそっとかけた。毛布をかける手つきが、いつもの杏華とは少し違った。柔らかかった。

 小鈴は花布の補修をほぼ終えていたが、まだ部屋にいた。急いで帰る気にならなかった。

 蘭妃が、また詩集を開いていた。今度は読むだけでなく、ときどき花暦の冊子に何かを書き留めていた。詩の一節を書き写しているのかもしれなかった。

 杏華は帳の補修を終えて、今度は小さな花入れを磨いていた。特に汚れているわけではないが、手が空くと磨きたくなる性質なのかもしれなかった。

 小鈴は膝の上の繕い終えた花布をたたんで、部屋の中を見渡した。

 灯りの下に、それぞれの時間があった。

 蘭妃の書く音、杏華の磨く音、曜様の穏やかな寝息、雨の音。それだけが部屋の中にあった。会話は少なくても、同じ場所に四人がいた。同じ雨の音を聞いていた。

 事件は何も起きなかった。誰かが怒ることもなく、困ったことも起きなかった。ただ、時間が流れた。

 それがこんなに好きだと、小鈴は思わなかった。

 いや、知らなかった、と言う方が正しい。誰かと同じ場所で、それぞれ手を動かして、何も言わなくてもよい時間がある。そういう時間を、小鈴は花農家にいた頃にも知っていた気がした。母が台所で作業していて、小鈴が畑から戻ってきて、同じ家の中で別々のことをしている、そういう夕方の時間。

 花殿の雨の午後は、それに似ていた。


 夕方、雨が少し弱まった頃に、曜様が目を覚ました。

 目を開けて、天井を見て、それから体を起こして、毛布が自分にかかっていることに気づいた。誰がかけたか確かめるように、杏華を見た。杏華は目を合わせなかった。

「……ありがとう」

「起きたなら帰りなさい」

「今帰る」

 曜様は毛布を丁寧にたたんで、縁側の端に置いた。それから蘭妃に「また来ます」と言って、小鈴に「またね」と言って、杏華には何も言わずに、でも帰り際に一度だけ杏華の方を振り向いてから、くぐり戸を出ていった。

 曜様がいなくなると、部屋がまた静かになった。

 違う静かさだった。さっきまでの四人の静かさより、一人少ない静かさで、でもそれも悪くなかった。

 蘭妃が言った。

「今日はゆっくりしていけますか」

 小鈴は少し驚いて、蘭妃を見た。蘭妃がそういうことを言うのは初めてだった。

「……はい。もう少し、いてもよいですか」

「よいですよ」

 蘭妃は詩集を閉じて、窓の外の雨を見た。

「雨の日の花殿は、少し違う顔をします。嫌いではないのですが、長くなると少し重くなる。誰かがいると、軽くなります」

 小鈴は返事をしなかった。

 する必要がないと思った。するより、そこにいる方がよかった。

 杏華が新しい灯りを点けた。部屋が少し明るくなった。雨の音は続いていた。蘭妃が詩集をまた開いて、小鈴は繕い終えた花布の束を膝に抱えたまま、その音を聞いていた。

 今日、事件は何も起きなかった。

 それでも、今日は大事な一日だったと、小鈴はなんとなく思っていた。何が大事だったかをうまく説明する言葉は持っていなかったが、この雨の午後のことを、ずっと覚えていると思った。

 灯りの下で、雨の音の中で、それぞれが手を動かして、同じ場所にいた。

 それでよかった。それ以上は、何もいらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ