第十章 雨の日の繕いもの
六月の半ば、雨が続いた。
一日だけではなく、三日、四日と、朝から晩まで降り続ける雨だった。後宮の石畳が濡れて光り、庭の木々が重たく頭を垂れた。花寮では外仕事ができなくなって、室内の作業だけが続いた。花の仕分けや記録の整理、道具の手入れ、花籠の補修。小鈴は言われた仕事を黙々とこなしながら、窓の外の雨を時々見ていた。
雨の日の花殿はどんな具合だろう、と思った。
湿気が多いと花の傷みが早くなる。水替えをこまめにしないと、花入れの中で水が濁る。縁側に置いてある白蘭の鉢は、雨が吹き込まないだろうか。昨日、雨になると分かっていたら、鉢の向きを変えておいたのに。
三日目の朝、沈女官長が小鈴を呼んだ。
「花殿へ行きなさい。雨が続くと湿気で花が傷みやすい。いつもより早めに水替えを」
「はい」
「それから、雨の日は外仕事ができないから、室内で時間が余る。花殿で邪魔にならない仕事を持っていきなさい」
小鈴は少し首をかしげた。邪魔にならない仕事。
「花布の補修があります。古くなったものが花寮に何枚かあって、繕えば使えるものが」
「持っていきなさい」
それだけだった。沈女官長の言葉はいつも短いが、今日の短さはいつもより温かい含みがあった気がした。行ってきなさい、というだけでなく、長居してきなさい、という意味があるような気がした。
小鈴は花布の束と、針と糸と、それから今日用の花の手入れ道具一式を抱えて、雨の中を花殿へ向かった。
石畳が濡れていて、足元を気にしながら歩いた。雨はしとしとと降り続けていて、音はあるけれど激しくはない。後宮の屋根から雨だれが落ちて、細い水の筋が石の縫い目を伝って流れていく。
花殿のくぐり戸をくぐると、庭がしんと濡れていた。
杏華が縁側で何かをしていた。雨なので庭仕事はできず、縁側に腰を下ろして、手元で細かい作業をしている。近づいてみると、帳の細紐を直していた。破れかけた帳の端を、丁寧に補修している。
「おはようございます」
「おはようございます。雨なのに来たのですか」
「水替えが要ると思いましたので。それから、これも持ってきました」
小鈴が花布の束を見せると、杏華は一瞬だけ目を細めた。呆れたのか、認めたのか、よく分からない顔だった。
「……中に入りなさい。縁側では濡れる」
蘭妃の部屋は、雨の日に来ると別の顔をしていた。
外の光が柔らかくなって、部屋の中がいつもより暗い。でも暗いのではなく、落ち着いている、という感じだった。灯りを一つ点けて、その光の中で蘭妃が椅子に座って冊子を読んでいた。花暦ではなく、薄い冊子で、詩集のようだった。
小鈴が挨拶をすると、蘭妃は顔を上げて頷いた。
「雨の中、ご苦労様」
「水替えに来ました。それから、手仕事も持ってきたので、邪魔でなければ少しここで作業させていただけますか」
「構いません。好きな場所に座りなさい」
小鈴は縁側に近い隅に腰を落ち着けた。花布を膝に広げて、傷んでいる箇所を確かめる。布の端がほつれているもの、小さな穴のあるもの、縫い目がほどけているもの。繕える順番に並べていった。
針を通し始めると、部屋の中に静かな時間が流れた。
蘭妃は詩集を読んでいる。小鈴は花布を繕っている。雨の音が、外から等間隔で聞こえてくる。
しばらくして、杏華が帳の補修道具を持って部屋に入ってきた。蘭妃の部屋の端に場所を取って、杏華も手仕事を続けた。三人が同じ部屋にいて、それぞれ別のことをしていた。
昼近くに、曜様が来た。
雨の日でも来るのだと小鈴は思ったが、考えてみれば曜様が来ない理由もなかった。雨で外へ出られなければ、余計に花殿へ来たくなるかもしれない。
部屋に入ってきた曜様は、三人がそれぞれ手を動かしているのを見て、一瞬だけ立ち止まった。
「小鈴、何をしているの」
「繕いもの。花布の補修です」
「わたくしも何かする」
「では、これを持っていて下さい」
杏華が帳の一端を曜様に渡した。帳を広げた状態で持っていてもらうと、補修の作業がしやすい。曜様は少し驚いた顔をしてから、言われたとおりに帳の端を両手で持った。
「こう?」
「はい。引っ張りすぎず、たるませすぎず」
「分かった」
曜様は真剣な顔で帳を持っていた。幼い力仕事だが、曜様は案外きちんとこなした。杏華が補修の針を動かしながら、「そこをもう少し上に」と指示すると、曜様は黙って従った。杏華の指示には、いつも素直だった。
四人が、同じ部屋にいた。
雨の音が続いていた。
昼を少し過ぎた頃、蘭妃が詩集を閉じて、曜様に話しかけた。
「曜様は昔話はお好きですか」
曜様が「好き」と即答した。子どもらしい速さだった。
「では、少し聞きますか」
「聞く」
蘭妃は少し考えてから、静かに話し始めた。
花と水の国の話だった。水が豊かな国に、一本だけ花の咲かない木があって、その木の守り人の話。話の筋は単純だったが、蘭妃の語り方は詩を読むときと同じ静けさがあって、言葉が一つ一つ丁寧に置かれていく感じがした。
小鈴は繕いものをしながら、耳を傾けていた。
杏華も手を動かしながら聞いていた。針を刺して糸を引く動きが、いつもより少しゆっくりになっていた。
曜様は帳を持ったまま、目を輝かせて聞いていた。話の中で何か動きがあるたびに、少し前のめりになった。
話が終わると、曜様が言った。
「続きは?」
「続きはありません。そこで終わりです」
「なんで。木は最後に咲くの?」
「それはあなたが決めてよいと思います」
「……咲かせたい」
「そうですか」
「でも、守り人がいるんだから、咲かなくてもいいかな。守り人がいるあいだは、咲かなくても大丈夫だから」
蘭妃が静かに微笑んだ。曜様の言葉に、何かが触れたような顔をしていた。
小鈴は針を止めて、その顔を見ていた。
蘭妃が笑うとき、目が少しだけ細くなる。口元より先に、目の形が変わる。その順番を、小鈴はいつの間にか知っていた。
午後も、雨は続いた。
曜様はいつの間にか眠ってしまって、縁側の端で丸くなっていた。起こすのも悪いと思って、杏華が薄い毛布を持ってきてそっとかけた。毛布をかける手つきが、いつもの杏華とは少し違った。柔らかかった。
小鈴は花布の補修をほぼ終えていたが、まだ部屋にいた。急いで帰る気にならなかった。
蘭妃が、また詩集を開いていた。今度は読むだけでなく、ときどき花暦の冊子に何かを書き留めていた。詩の一節を書き写しているのかもしれなかった。
杏華は帳の補修を終えて、今度は小さな花入れを磨いていた。特に汚れているわけではないが、手が空くと磨きたくなる性質なのかもしれなかった。
小鈴は膝の上の繕い終えた花布をたたんで、部屋の中を見渡した。
灯りの下に、それぞれの時間があった。
蘭妃の書く音、杏華の磨く音、曜様の穏やかな寝息、雨の音。それだけが部屋の中にあった。会話は少なくても、同じ場所に四人がいた。同じ雨の音を聞いていた。
事件は何も起きなかった。誰かが怒ることもなく、困ったことも起きなかった。ただ、時間が流れた。
それがこんなに好きだと、小鈴は思わなかった。
いや、知らなかった、と言う方が正しい。誰かと同じ場所で、それぞれ手を動かして、何も言わなくてもよい時間がある。そういう時間を、小鈴は花農家にいた頃にも知っていた気がした。母が台所で作業していて、小鈴が畑から戻ってきて、同じ家の中で別々のことをしている、そういう夕方の時間。
花殿の雨の午後は、それに似ていた。
夕方、雨が少し弱まった頃に、曜様が目を覚ました。
目を開けて、天井を見て、それから体を起こして、毛布が自分にかかっていることに気づいた。誰がかけたか確かめるように、杏華を見た。杏華は目を合わせなかった。
「……ありがとう」
「起きたなら帰りなさい」
「今帰る」
曜様は毛布を丁寧にたたんで、縁側の端に置いた。それから蘭妃に「また来ます」と言って、小鈴に「またね」と言って、杏華には何も言わずに、でも帰り際に一度だけ杏華の方を振り向いてから、くぐり戸を出ていった。
曜様がいなくなると、部屋がまた静かになった。
違う静かさだった。さっきまでの四人の静かさより、一人少ない静かさで、でもそれも悪くなかった。
蘭妃が言った。
「今日はゆっくりしていけますか」
小鈴は少し驚いて、蘭妃を見た。蘭妃がそういうことを言うのは初めてだった。
「……はい。もう少し、いてもよいですか」
「よいですよ」
蘭妃は詩集を閉じて、窓の外の雨を見た。
「雨の日の花殿は、少し違う顔をします。嫌いではないのですが、長くなると少し重くなる。誰かがいると、軽くなります」
小鈴は返事をしなかった。
する必要がないと思った。するより、そこにいる方がよかった。
杏華が新しい灯りを点けた。部屋が少し明るくなった。雨の音は続いていた。蘭妃が詩集をまた開いて、小鈴は繕い終えた花布の束を膝に抱えたまま、その音を聞いていた。
今日、事件は何も起きなかった。
それでも、今日は大事な一日だったと、小鈴はなんとなく思っていた。何が大事だったかをうまく説明する言葉は持っていなかったが、この雨の午後のことを、ずっと覚えていると思った。
灯りの下で、雨の音の中で、それぞれが手を動かして、同じ場所にいた。
それでよかった。それ以上は、何もいらなかった。




