第十一章 花暦をつける
七月の初め、蘭妃が花暦の冊子を小鈴に見せた。
きっかけは、小さなことだった。
その日の午後、小鈴がいつものように水替えを終えて、縁側の端に腰を下ろしていると、蘭妃が膝の上の冊子を少し持ち上げて、「見ますか」と言った。
小鈴は「はい」と答えて、蘭妃の椅子のそばへ移った。
冊子は、外から見るより中の方が細かかった。
一ページに一日分。日付と、その日の天気。それから、その日に花殿で咲いていた花の名前、香りの具合、水の替え時。次のページには、そのときの風の向き、気温の感じ、午前と午後で空気がどう変わったか。さらに次には、その日花殿に来た人のこと。曜様が来た日は「曜様、藤の花びらを集める」と書いてあって、小鈴が初めて花びらの茶を持ってきた日には「桜の花びら、湯気に春の匂い」と書いてあった。
小鈴は冊子をめくりながら、少しずつ読んだ。
花の記録だと思っていた。でも違った。花を通して、時間の記録だった。誰が来て、何があって、空気がどんな色をしていたか。花はその記録の骨格で、その周りに日々の細部が書き留められていた。
「いつから、つけているのですか」
「花殿へ来た最初の年から」
「五年分、ありますか」
「はい。棚の奥に、前の冊子が何冊かあります」
小鈴は今手にしている冊子を、少し大事に持ち直した。五年分の時間がここにある。蘭妃が花殿で過ごしてきた五年間の、季節の記録が。
「なぜ、書き始めたのですか」
蘭妃は少しの間、答えなかった。
窓の外の夏の庭を見て、それから冊子へ目を戻して、言った。
「季節は過ぎるから、せめて名だけでも残したいのです」
名だけでも残したい。
その言葉が、小鈴の胸の中に静かに落ちた。過ぎていく時間に名前をつけて、書き留めておく。忘れてしまう前に、形にしておく。花が散っても、記録の中ではその日の花が咲き続ける。
「……きれいだと思います」
「何が」
「記録の仕方が。花だけじゃなくて、その日の空気まで書いてある。読むと、その日がまた来る気がします」
蘭妃は小鈴を見た。
「そうあればよいと思ってつけています。自分が読み返したとき、その季節がまた感じられるように」
「読み返すのですか」
「ときどき。去年の今頃は何の花だったか、とか。一昨年の雨の日はどんな香りだったか、とか」
小鈴は冊子を蘭妃に返しながら、もう一度だけ表紙を見た。薄い青灰色の表紙に、小さな字で「花暦」とだけ書いてある。蘭妃の字だった。細くて、でも芯のある字だった。
「わたしも、手伝えますか」
言ってしまってから、少し早まったかと思った。花暦は蘭妃の個人的なものだ。手伝いたいというのは、踏み込みすぎかもしれない。
でも蘭妃は断らなかった。
「何を手伝いますか」
「花の状態を伝えることならできます。今日の花がどんな具合か、香りがどのくらいか、水揚げはよかったか。わたしが気づいたことを、蘭妃様に伝えれば、書くかどうかは蘭妃様が決めてくださって」
蘭妃はしばらく考えた。
「あなたはもう、手伝っています」
「え?」
「あなたが花の様子を教えてくれると、それを書き留めています。気づいていませんでしたか」
小鈴は思い返した。確かに、水替えのたびに花の状態を蘭妃に伝えていた。今日の白蘭は水揚げがよい、芍薬の香りが今日は少し強い、梅の細枝にそろそろ芽が出てきた。そのたびに蘭妃が冊子に何かを書いていたのを、今更ながら思い出した。
「……知らなかったです」
「あなたの言葉が入っているものもあります。花農家の娘らしい言い方で、わたくしには思いつかない表現が」
小鈴は少し恥ずかしくなった。自分の言葉が花暦に残っているとは思っていなかった。
「どんなことを書いたのですか」
「先月の雨の日、あなたが白蘭を見て言いましたね。雨の日の白蘭は香りが低く構えている、と」
言った気がした。水替えのときに、なんとなく口に出した言葉だった。
「香りが低く構えている、という言い方が好きでした。そのまま書きました」
小鈴は何も言えなかった。
自分の言葉が蘭妃の花暦に残っている。蘭妃がそれを好いてくれた。それだけのことなのに、胸のどこかが、ぎゅっと締まるような感じがした。
それから、花暦への関わり方が少し変わった。
水替えのときに気づいたことを伝えるのは前と同じだったが、今度は意識して言葉を選ぶようになった。花の状態を正確に伝えるだけでなく、その日の花がどんな感じに見えるかを、できるだけ自分の言葉で言ってみることにした。
難しかった。
花農家の娘として育った言葉は、後宮の言葉より素朴で、きれいとはいえなかった。でも蘭妃は「そのままでよいです。後宮の言葉で整えたものより、あなたの言葉の方が、花に近いことがある」と言った。
ある朝、庭の白蘭が夜中の雨で少し傾いていた。添え木をしてから部屋に入って、
「今朝の白蘭は雨に傾いていました。でも根はしっかりしていたので、支えれば大丈夫だと思います。なんか、転んだけど起き上がれる子みたいでした」
と伝えると、蘭妃がかすかに笑って、冊子に何かを書いた。
「転んだけど起き上がれる子、ですか」
「……変でしたか」
「いいえ。そのまま残します」
小鈴はそれ以降、少し大胆になった。正しい言い方よりも、自分が感じたままの言い方をするようにした。蘭妃が受け取ってくれるなら、花農家の言葉でもよかった。
七月の半ば、杏華がその場に居合わせた日があった。
小鈴が今日の芍薬について話していると、杏華が部屋の端で聞いていて、不意に言った。
「今日の芍薬は昨日より花びらが一枚多く開いています」
蘭妃と小鈴が杏華の方を見ると、杏華は少し居心地悪そうに視線を外した。
「……気になったので」
「書きます。杏華も、気づいたことがあれば教えて下さい」
「そういうわけには」
「なぜ」
「花暦は蘭妃様のものですから」
「でも、花殿のことは皆で見ています。皆で見たことを残す方が、花暦として豊かになる」
杏華はしばらく黙っていた。それから「……分かりました」と言って、また手元の仕事に戻った。でも、その日から杏華も時々、気づいたことを短く言うようになった。花の向きが変わっていること、香りの強さが昨日と違うこと、縁側の鉢に虫が来ていたこと。短く、事実だけ言って、それ以上は言わない。でも確かに言った。
花暦が、少しずつ、複数の目で書かれるものになっていった。
七月の末、曜様が花暦を見たいと言った。
蘭妃が冊子を渡すと、曜様は最初からゆっくりめくった。途中で「小鈴のことが書いてある」と言って、小鈴の方を振り返った。
「花寮の娘、初めて来た日。白蘭の花びらを一枚、傷んでいると言って外した、って書いてある」
小鈴は驚いた。あの最初の日のことが、花暦に残っていた。
「蘭妃様、あの日のことを書いていたのですか」
「書きました」
「でも、あの日は門のところで花籠を渡しただけで、中には入れなかったのに」
「杏華から聞きました」
小鈴は杏華を見た。杏華は目を合わせなかった。でも耳が少し赤かった。
「……花びらを外した、という話を、蘭妃様にしました。珍しいと思いましたので」
「珍しかったのですか」
「花寮から来る宮女が、届け先の花を一枚ずつ確かめて傷みを取るようなことは、それまでなかったです」
小鈴はしばらく、自分が花暦に残っている日のことを思い返した。あの日の白蘭の花びら。傷んでいるのを見て、かばうように撫でたこと。痛かったよね、と言ってしまったこと。
「花暦に、なんと書いてありますか」
曜様が冊子を見ながら読み上げた。
「花寮の新しい娘、白蘭の傷んだ花びらを一枚、そっと外した。届ける前に。花を大切にする手だと思った、って」
部屋が静かになった。
小鈴は何も言えなかった。
花を大切にする手だと思った。蘭妃がそう書いていた。あの日、まだ一度も会っていないのに、杏華から聞いた話だけで、そう書いていた。
「……ありがとうございます」
やっと言えたのはそれだけだった。声が少し掠れた。
蘭妃は何も言わなかった。ただ、窓の外を見ていた。その横顔が、いつもよりやわらかかった。
八月に入る少し前、小鈴は沈女官長に頼んで、小さな帳面を一冊もらった。
花寮の備品の記録用ではなく、自分用の帳面だった。蘭妃の花暦を手伝うようになってから、自分でも何か書き留めたい気持ちになっていた。蘭妃の花暦ほど丁寧なものではなくていい。ただ、今日の花のことと、今日の花殿のことを、自分の言葉で残しておきたかった。
最初のページに、今日の日付を記した。
それから少し考えて、書いた。
今日の白蘭は、昨日より少し背が伸びた気がする。花入れの中でも、上を向こうとしている。水がよく合っているのかもしれない。
書いてから読み直した。蘭妃の花暦に比べると、ずっと素朴だった。言葉も短いし、きれいでもない。でも、自分の言葉だった。
次の行に、また書いた。
今日、蘭妃様が花暦にわたしのことを書いてくれていたと分かった。花を大切にする手、と書いてあった。うれしかった。うれしいというより、何か大事なものをもらった気がした。名前をつけられると、それがずっとそこにある気がする。蘭妃様の花暦が教えてくれた。
書き終えて、帳面を閉じた。
窓の外では、夏の夜が始まりかけていた。遠くで虫の声がしていた。花殿の方角には、今頃灯りがついているだろうか。蘭妃が今日の分を花暦に書き留めているだろうか。
小鈴は帳面を枕の下に仕舞った。
明日も花殿へ行く。水替えをして、花の状態を確かめて、気づいたことを蘭妃に伝える。それが今の小鈴の仕事で、その仕事が、今は仕事以上のものになっていた。
季節は過ぎるから、せめて名だけでも残したい。
蘭妃の言葉を、もう一度だけ心の中で繰り返した。
残したい、と思うものが、小鈴にも増えていた。今日のことも、昨日のことも、花殿で過ごしたすべての時間も。名前をつけて、書き留めて、春になってもまた開けるように。
それがどういう気持ちなのか、小鈴にはまだうまく分からなかった。
でも、大事なことだと思った。それだけは、はっきりと分かった。




