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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第十二章 夏の香りあわせ

 八月に入ると、暑さの種類が変わった。

 じわじわと空気が重くなって、朝から日差しが強い。花寮の仕事場は風が通る造りだったが、それでも昼過ぎになると石床から熱が上がってきて、立っているだけで疲れた。花も同じで、気温が高い日は傷みが早くなる。朝のうちに水替えを済ませて、昼には花の状態をもう一度確かめる。夏の花仕事は、春より手数が多かった。

 花殿でも、変化が出てきた。

 蘭妃の体調が、香りに左右されやすくなった。

 春の頃は少し香りの強い花でも大丈夫だったが、夏になってから、香りが濃い花を部屋に置くと頭が重くなると蘭妃が言った。芍薬はもう難しくなっていたし、白蘭も一本だけにしないといけない。代わりに、香りの淡い花や葉ものを工夫して取り入れないと、花殿の部屋が花のない場所になってしまう。

 小鈴は、それを何とかしたかった。

 花があることで蘭妃の呼吸が整うことを、小鈴は知っていた。香りがなくなればよいわけではなく、体に合う香りが要る。強すぎず、でも確かにある。夏の蘭妃に合う、そういう花の組み合わせを探すことが、今の小鈴の一番の考えごとだった。


 まず、沈女官長に尋ねた。

 花寮への帰り道に声をかけると、沈女官長は少しだけ足を止めて、小鈴の話を聞いた。蘭妃の体質と、今の香りの問題と、何か代わりになる花や葉ものがないかということを、できるだけ正確に伝えた。

 沈女官長は少し考えてから答えた。

「ミントと薄荷は涼しげな香りが出ます。ただ香りが鋭いので、少量にすること。葉ものなら青竹や笹の葉が夏らしく、香りも穏やかです。花で言えば、桔梗は香りが淡くて夏の色がある。あとは蓮の花。水に浮かべると香りが柔らかく広がります」

「蓮は花寮にありますか」

「取り寄せることができます。ただし蓮は水の管理が少し難しい。水が温むと香りが変わるので、涼しい時間に水を替えること」

「分かりました。やってみます」

「それから、香りをあわせることと、温度を下げることは別の話です。部屋の温度が下がれば、花の香りの広がり方も変わる。氷や冷水をうまく使いなさい」

 氷。小鈴は少し考えた。後宮では夏に氷が用いられると聞いたことがあったが、花殿にも届くのだろうか。

「花殿にも氷は届きますか」

「届きます。量は多くありませんが、申請すれば」

「申請は、誰にすれば」

「私にしなさい」

 それだけだった。沈女官長はまた歩き始めた。小鈴は「ありがとうございます」と言って、その背中を見送った。


 翌日から、少しずつ試し始めた。

 最初は桔梗だった。薄紫の花が、夏の白い光の中で涼しく見えた。香りは確かに淡くて、白蘭の半分もない。蘭妃の部屋に一本だけ置いて、一時間ほどしてから「いかがですか」と尋ねた。

「大丈夫です。むしろ、色が涼しい」

 色が涼しい、という言い方が蘭妃らしかった。香りだけでなく、色でも体が感じるものがあるのだろう。小鈴は花暦に使う言葉の帳面に、桔梗、色が涼しい、と書き留めた。

 次に、笹の葉を試した。

 花寮の裏手に、使われていない笹の株があったので、葉をいくつか切って持ってきた。花入れに差すには少し扱いにくかったが、薄い花入れの口から葉先だけ出す形にすると、案外きれいだった。香りはほとんどない。でも見た目に涼しさが出る。

 蘭妃が笹の葉を見て、少し目を細めた。

「七夕に飾るものですね」

「あ、そういえば」

「子どもの頃、短冊に願いを書きました。今でも、笹を見るとそれを思い出す」

 蘭妃がそういう話をするのは珍しかった。子どもの頃のこと、宮に入る前のこと、蘭妃はほとんど話さなかった。小鈴は「どんな願いを書いたのですか?」と聞きかけて、やめた。踏み込みすぎかもしれないと思ったからだ。

 でも蘭妃の方から言った。

「願い事は、はっきりと覚えていません。きれいになりたい、だったかもしれないし、花が上手に育てられますように、だったかもしれない。どちらにしても、子どもらしい願いだったと思います」

「どちらも叶いましたね」

 小鈴が思ったことをそのまま言うと、蘭妃が少しだけ驚いたような顔をした。それからまた、目が先に笑う、あの笑い方をした。

「あなたはそういうことを、まっすぐ言いますね」

「……すみません、失礼でしたか」

「いいえ」


 蓮の花が届いたのは、八月の半ばだった。

 沈女官長が手配してくれたもので、大きな水鉢に入れて花殿へ運んだ。水鉢ごと運ぶのは重くて、小鈴一人では無理だったので、花寮の宮女に一人手伝ってもらった。

 縁側のそばに水鉢を置いた。

 蓮の葉が水の上に広がって、その中心から白い花が一輪、すっきりと立っていた。香りが、かすかに漂った。甘いのではなく、水の匂いに似た、清潔な香りだった。

 蘭妃が縁側に出てきて、蓮を見た。

 しばらく、黙って見ていた。

「……久しぶりに見ました」

「蓮、お好きですか」

「以前は、よく見ていました。今の宮に来てからは、縁がなかったけれど」

 水鉢の蓮は、夏の光を受けて、花びらの白が少し輝いていた。香りが、さっきより少しだけ広がってきた。涼しい風が来たせいかもしれない。

「香りは、大丈夫ですか」

「大丈夫です。むしろ、これはよい」

 蘭妃が水鉢の縁にそっと手を触れた。水が揺れて、蓮の葉が小さく揺れた。

「水が動くと、香りが少し変わります」

「そうですか」

「水が静かなときは香りも静かで、揺れると少し広がる。花の香りというより、水の香りがする」

 小鈴は蓮の香りを、もう一度確かめた。確かに、花より水の匂いに近い気がした。川の近くにいるような、水辺の空気のような。

「涼しいですね」

「そうです。花殿に、涼しさが来ました」


 曜様がその日の午後に来て、蓮を見た瞬間に声を上げた。

「蓮だ」

「はい。今日届きました」

「触っていい?」

「葉には触れますが、花は傷むので」

 曜様は大きな蓮の葉を一枚、そっと触った。それから葉の上に残っていた水の玉を見つけて、「ここに水がある」と言った。

「蓮の葉は水をはじく性質があるので、雨が降っても水が葉の上に玉になって残るんです」

「なんで?」

「葉の表面が細かい毛で覆われているからです。その毛の間に空気が入っていて、水をはじく」

「へえ」

曜様は水の玉を指先でそっと転がした。玉が葉の上をころりと動く。

「きれい」

 杏華が縁側から「曜様、花に近づきすぎてはなりません」と注意して、曜様は少し離れた。でも目は蓮の花から離れなかった。

 小鈴は水鉢の水温を確かめた。沈女官長に言われた通り、水が温んでいないか気をつけないといけない。今はまだ大丈夫だったが、夕方にまた確かめよう。

 水が温むと香りが変わる。花が傷みやすくなる。涼しさを保つためには、水を管理しないといけない。蓮を置くことは、手間が増えることでもあった。でも、その価値は十分あると思った。


 夕方、氷が少し届いた。

 沈女官長が申請してくれたものが、小さな木箱に入って花殿へ届いた。量は少なかったが、水鉢の水を少し冷やすには十分だった。

 小鈴が氷を水鉢に入れていると、曜様が寄ってきた。

「それ、入れていいの?」

「蓮の水を冷やすためです。水が温まると花が傷むので」

「氷で花を守るんだ」

「そうです」

 曜様は氷が水鉢に溶けていく様子をしばらく見ていた。氷が水の中でゆっくり小さくなって、水が少しだけ白く濁って、それから透き通っていく。

「冷たくなった」

曜様が水面に手を触れて言った。

「触りすぎると水が温まります」

「ごめん」

曜様が手を引いた。それから小鈴を見て、「あなたは花のために色々考えるね」と言った。

「蘭妃様のために、ですけど」

「同じでしょう」

 同じ、という言い方を曜様はさらりとした。でも小鈴には、その一言がどこか深いところに届いた。花のためと蘭妃のためが、同じこと。確かに今の小鈴にはそうだった。蘭妃の呼吸が楽になるように花を選ぶことと、花が長く美しくいられるように水を管理することは、小鈴の中では同じ行為だった。

 杏華が縁側から言った。

「曜様、もうすぐ夕刻です。今日はお帰りの時間では」

「分かった」

 曜様は蓮の水鉢をもう一度見てから、帰り支度をした。帰り際に「また明日」と言って、くぐり戸を出ていった。


 曜様が帰ると、花殿がまた静かになった。

 蘭妃は部屋の中で花暦をつけていた。杏華は縁側を片付けていた。小鈴は蓮の水鉢の様子を最後に確かめてから、帰り支度をした。

 縁側を出ようとすると、蘭妃が部屋の中から声をかけた。

「小鈴」

「はい」

「今日の香りあわせ、よかったです」

 小鈴は縁側で立ち止まった。

「ありがとうございます」

「桔梗と笹と蓮。一つ一つは淡くても、三つ合わさると、夏の空気になりました。計算していましたか」

「……半分は計算で、半分は試しながらです」

「正直ですね」

「計算だけでは、どうしても分からないところがあって。実際に置いてみて、蘭妃様のご様子を見ながら調整しないと」

「それがよいのだと思います」

 蘭妃が冊子から顔を上げて、縁側に立っている小鈴を見た。

「花の扱いは、決まった答えがないものですね。同じ花でも、日によって、置き場所によって、一緒にある花によって、全部違う顔を見せる」

「はい。だから、難しくて、おもしろいです」

「あなたらしい言い方ですね」

 蘭妃が小さく笑った。目が先に細くなる、あの笑い方だった。

「来年の夏も、こうして花をあわせてもらえますか」

 来年の夏も、という言葉が、小鈴の胸の中で静かに広がった。来年もここにいる、ということを、蘭妃が当たり前のように言った。小鈴が来年もここへ来ることを、当然のこととして言った。

「はい」

 小鈴はすぐに答えた。

「来年も、また一緒に考えます」

 蘭妃は頷いて、また花暦に目を落とした。今日の蓮のことを書いているのかもしれない。水が動くと香りが少し変わること、涼しさが来たこと、曜様が水の玉を転がしていたこと。

 小鈴はくぐり戸を出て、花殿を後にした。

 夏の夕方の空気はまだ少し熱かったが、花殿の中で感じた涼しさが体に残っていた。蓮の香りが、どこかまだかすかにある気がした。

 来年の夏も、と蘭妃が言った。

 その言葉を、小鈴は帰り道ずっと持っていた。花殿への道の石畳を、いつもより少しゆっくり歩いた。急いで帰ることが、なんとなく惜しかった。

 夏は、まだ続く。

 桔梗の色と、笹の葉の緑と、蓮の白い花と、水の匂い。それが今年の夏の花殿で、来年もまた、少し違う形で同じ季節が来る。そのたびに、また一緒に考える。

 そういう時間がつながっていくことを、小鈴は今日初めて、ちゃんと想像した。

 想像すると、胸の中があたたかかった。


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