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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第十三章 名を呼ぶ午後

 八月の後半、暑さが少し和らぐ日があった。

 朝からどこか空気が違っていた。光が昨日より柔らかくて、風に少しだけ秋の匂いが混じっている。まだ夏だったが、季節の端が少しだけめくれた感じがした。花寮の宮女たちも「今日は涼しいね」と言いながら仕事をしていて、いつもより表情が穏やかだった。

 小鈴は花の仕分けをしながら、今日花殿へ何を持っていくかを考えていた。

 蓮はまだ続いている。桔梗も、今日届いた分に状態のよいものがあった。それから、昨日沈女官長が「そろそろ出る頃だ」と言っていた撫子が、今朝の仕入れに入っていた。薄紫と白と、淡い紅の撫子。香りは控えめで、見た目は可憐だった。

 撫子を見ていると、故郷を思い出した。

 畑の端に、いつも撫子が咲いていた。誰かが植えたわけではなく、いつの間にか生えてきて、毎年夏の終わりに咲く。雑草と花の境目のような場所で、でも花は本物だった。母が「撫子は強い花だよ、どこへ行っても咲く」と言っていた。

 都の外れの畑の撫子と、後宮の花寮に届いた撫子は、形は同じでも、来た場所が全然違う。でも見ていると、なぜか同じ花だと分かる。花にはそういうところがあった。どこで育っても、撫子は撫子だった。

 小鈴は撫子を二本、桔梗を一本、蓮の鉢の水替え用の冷水を準備して、花殿へ向かった。


 花殿に着くと、杏華が庭にいなかった。

 珍しかった。いつもは小鈴がくぐり戸をくぐると、庭のどこかに杏華がいるのだが、今日は庭が無人だった。縁側も静かで、蘭妃の部屋の障子が少しだけ開いているのが見えた。

 小鈴はいつものように縁側へ上がって、花の道具を置いてから、部屋の外から声をかけた。

「蘭妃様、小鈴です。お邪魔してよいですか」

「どうぞ」

 部屋に入ると、蘭妃が一人でいた。杏華の姿がない。蘭妃は窓際の椅子に座っていて、膝の上に何も持っていなかった。花暦も、詩集も、手に持たずにただ外を見ていた。

「杏華は?」

「今日は少し所用で。昼前には戻ります」

 蘭妃が一人でいる時間は、珍しくはないのだろうが、小鈴が花殿へ来てから、杏華が席を外しているところを見たことはなかった。部屋の中が、いつもより少しだけ広く見えた。

 小鈴は蓮の水鉢から始めた。水温を確かめて、昨日より温んでいたので冷水を少し加えた。蓮の花びらが揺れた。桔梗を昨日の花入れから取り出して、切り口を整えて、差し直す。撫子は細い花入れに二本、白と薄紫を交互に入れた。

「撫子、持ってきました」

「あら」

 蘭妃が振り向いた。撫子を見て、少し目が動いた。

「懐かしい花ですね」

「蘭妃様もお好きですか」

「嫌いな花ではありません。ただ、後宮ではあまり見ない花だから。野の花というイメージがあって」

「そうですね。野の花です。わたしの家の畑の端にも、毎年咲いていました」

「花農家でも、撫子は育てるのですか」

「育てるというより、自然に生えてきて。強い花なので、誰も手入れしなくても毎年咲いて。母が好きで、抜かずにいたんだと思います」

 蘭妃は撫子の花入れをしばらく見ていた。

「小さくて、強い花ですね」

「はい。はなやかではないですが、そばにあると、なんか、ほっとします」

「それは、あなたに似ています」

 小鈴は手を止めた。

 蘭妃が小鈴を見ていた。何かを言いすぎたとも、言い足りなかったとも思っていない顔で、ただ、思ったことを言った、という顔だった。

「……わたしが、撫子に似ているのですか」

「はなやかではないけれど、そばにあるとほっとする、という点が」

 小鈴は少しの間、返事ができなかった。褒められているのかどうか考えていたが、たぶん褒められていた。蘭妃の言い方には余分がないので、余分に受け取る必要もない。ただ、蘭妃がそう思っているということだった。

「……ありがとうございます」

「花に例えるのは失礼でしたか」

「いいえ。花に例えていただけるのは、嬉しいです。それも撫子なら」


 水替えを終えて、小鈴は縁側の端に腰を下ろした。

 今日は杏華がいないので、帰りやすいタイミングが分からなかった。いつもは杏華の様子を見ながら、仕事が一区切りついたところで帰っていた。でも今日は蘭妃が一人で、部屋の中に特にすることもなく座っている。

 帰っていいかもしれない。

 でも、帰りにくかった。

 蘭妃が一人でいる部屋に、誰もいなくなることが、なんとなく気になった。ただ座っているだけでも、誰かがいる方がいいのではないか、という気がした。それが小鈴の勝手な思い込みかどうかは分からなかったが。

「もう少し、いてもよいですか」

 聞いてしまってから、また早まったかと思った。

 でも蘭妃は「どうぞ」とすぐに言った。

「暇なら、話し相手になって下さい。今日は杏華がいないので、少し静かすぎる」

 少し静かすぎる、という言い方が、蘭妃にしては珍しかった。静かすぎる、ということは、静かなのが嫌だということだ。蘭妃が静かさを嫌うとは思っていなかった。でも考えてみれば、一人でいる静かさと、誰かといる静かさは、別のものだった。

「何を話しましょうか」

「何でも。あなたの話を聞いていると、花寮のことや、花農家の頃のことを、少し知ることができるから好きです」

「わたしの話は、後宮らしくないかもしれないですが」

「それがよいのです」

 蘭妃がそう言うので、小鈴は少し考えてから、今日の朝に思っていた撫子のことを話した。故郷の畑の端に生えていた撫子のこと、母が好きで抜かなかったこと、野の花と後宮の花は来た場所が違っても同じ花だということ。

 蘭妃は聞きながら、時々窓の外を見た。聞いていないのではなく、目を閉じて想像しているような感じだった。

「畑の端の撫子、見てみたかった」

「来年の夏、もし花寮に撫子が入ったら、また持ってきます」

「楽しみにしています」

 来年の約束が、また一つ増えた。


 昼に近づいた頃、曜様が来た。

 今日は来ないかと思っていたが、くぐり戸から顔を覗かせて、「杏華がいない」と言った。

「今日は所用があるそうです」と小鈴が伝えると、曜様は「そう」と言って、気にした様子もなく中に入ってきた。

 部屋に入って蘭妃に挨拶をして、縁側の端に腰を下ろした。小鈴と並ぶ形になった。蘭妃の部屋は障子を開けたまま、縁側から外の庭が見える。

 三人でしばらく、庭を見ていた。

 夏の光の中で、蓮の葉が揺れていた。桔梗の紫が、光の中で少し褪せて見えた。撫子の薄紫は、逆に光を受けて鮮やかになっていた。

「蘭妃、今日は機嫌がいいね」

 曜様にそう言われ、小鈴は少し驚いて曜様を見た。そんなに直接的に言うのか、と思ったが、蘭妃は嫌な顔をしなかった。

「そうですか」

「うん。なんか、顔が柔らかい」

「今日は小鈴が話し相手でいてくれましたから」

 曜様が小鈴を見た。「そうなんだ」と言って、また庭を見た。それだけだったが、曜様の表情に、何かが分かった、という顔があった。十二歳なのに、曜様はときどきそういう顔をした。

 小鈴は、蘭妃が今日は機嫌がいいと曜様に言われて、その理由が自分だと蘭妃が言ったことを、もう一度静かに心の中で確かめた。話し相手でいてくれたから。それだけで、機嫌がよくなる。自分がいることが、そういう意味を持つ。

 恥ずかしいとも思ったし、嬉しいとも思った。その二つが同時にあって、どちらが大きいかは分からなかった。


 昼過ぎに杏華が戻ってきた。

 くぐり戸から入ってきて、庭を見渡して、縁側に三人がいるのを確認した。何か言いたそうな顔をしたが、言わなかった。代わりに「茶を用意します」と言って、部屋の中へ入っていった。

 しばらくして茶が出た。四人分だった。杏華は自分の分も用意してきた。それが当たり前になっていることを、小鈴は少し嬉しく思った。

 縁側で茶を飲んでいると、外から風が来た。蓮の葉が揺れて、撫子が少し揺れた。桔梗は茎が固いので揺れなかった。

 そのとき、蘭妃が言った。

「小鈴」

「はい」

 名前で呼ばれることは、もう珍しくなかった。杏華も最近は「小鈴」と呼んでいた。慣れた呼ばれ方だった。

 でも今日の「小鈴」は、少し違った。

 音が、違った。

 呼び方の形は同じだったが、その声に、何か柔らかいものが余分に混じっていた。余分というより、今まで抑えていたものが少し外に出た、という感じだった。

 小鈴は蘭妃を見た。

 蘭妃は庭を見ていた。撫子の方を。

「撫子、よい花ですね」

「はい」

「来年も、持ってきて下さい」

「はい、持ってきます」

 それだけだった。

 会話の内容は、昼前にも似たようなことを言っていた。来年も、という約束は、さっきもした。でも、この「小鈴」の呼び方は、昼前のものとは何かが違った。

 小鈴には、その違いをうまく言葉にする力がなかった。

 ただ、呼ばれた瞬間に、胸の中の何かがゆっくりと動いた。水面に石を落としたときの波紋のように、中心から外へ広がっていくような動きが、確かにあった。

 曜様が、横でお茶を飲みながら、ちらりと小鈴を見た。何かに気づいた顔をしていたが、何も言わなかった。今日の曜様は珍しく、余計なことを言わなかった。

 杏華も黙っていた。

 四人で、庭を見ていた。撫子が風に揺れていた。


 帰り道、小鈴は今日のことを思い返していた。

 今日は特別なことが何もなかった。花を持っていって、水を替えて、蘭妃と話して、曜様と並んで庭を見て、茶を飲んだ。それだけだった。

 でも、あの「小鈴」の呼び方が、まだ耳に残っていた。

 何が違ったのか、考えながら歩いた。声の高さが違うわけではなかった。速さが違うわけでもなかった。ただ、音の中に、何か温かいものがあった。名前を呼ぶとき、その名前を大事に持っている人の声がした。

 小鈴、という二文字を、蘭妃が大事に持っていてくれている。

 そういう気がした。

 確かめる方法はなかったし、確かめる必要もないかもしれなかった。ただ、そう感じた。感じたことが、正しいかどうかより、感じたこと自体が大事だと思った。

 花殿の塀が見えなくなる曲がり角まで来て、小鈴は少しだけ振り返った。

 塀の向こうに白蘭の梢、そのさらに向こうに青い空。夏の終わりの空は、高くなりかけていた。

 今日の午後のことを、帳面に書こうと思った。

 撫子の話と、蘭妃が機嫌よかったという曜様の言葉と、四人で庭を見ていた時間と、それから、あの呼び方のことを。うまく書けるかどうか分からなかったが、書いてみようと思った。名前をつけて残しておかないと、この感じがどこかへ行ってしまいそうだった。

 花殿への道を、また明日も歩く。

 来年の夏も、撫子を持っていく。

 それだけのことが、今日はとても大きなことに感じられた。

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