表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/25

第十四章 夏の庭、夜の風

 八月の終わりに、蘭妃が熱を出した。

 大事ではなかった。夏の疲れが出たのだろうと杏華が言い、二日ほど安静にしていれば治まるだろうということだった。小鈴が花殿へ来ると、杏華が「今日は蘭妃様のお部屋には入らないように」と言った。いつもと違って、咎める感じではなく、ただ事実として伝える言い方だった。

「水替えだけして、すぐ帰って下さい」

「はい」

「熱は今朝より下がっています。心配しなくてよいです」

 小鈴が顔に出ていたのかもしれない。杏華はそういうことをよく見ていた。

 小鈴は言われたとおり、水替えだけして帰った。

 花殿を出てからも、少しの間、塀の前に立っていた。蘭妃が部屋で横になっている。熱がある。傍にいたい、というのは自分の都合で、蘭妃には休息が要る。それは分かっていた。でも足がすぐには動かなかった。


 二日後、蘭妃の熱は引いた。

 小鈴が花殿へ来ると、蘭妃は縁側に座っていた。顔色はまだ少し薄かったが、目に力があった。

「ご心配をおかけしました」

「いいえ。体の具合はいかがですか」

「大丈夫です。少し休んだら、かえって頭が軽くなりました」

 杏華が横から「まだ無理はなりません」と言って、蘭妃は「分かっています」と返した。そのやり取りが、いつもの花殿だった。

 小鈴はそれを見て、ようやく体の力が抜けた。

「夜になったら、庭の熱を逃したい。水を撒けますか」

 蘭妃がそう言うと、杏華が「お体が」と言いかけた。

「縁側で見ているだけです」

 蘭妃が静かに返す。杏華は少し考えてから、「小鈴に手伝ってもらえるなら」と言った。

 小鈴に異存はなかった。

 ただ、夜まで花殿にいることになる。一度花寮へ戻って沈女官長に伝え、また来ることにした。

 沈女官長は話を聞いて、「分かりました」とだけ言った。

 それ以上は何も言わなかったが、夕食の前に「今夜は遅くなっても戸は開けておきます」と告げた。

 それが許しなのだと分かった。


 日が落ちてから、花殿へ戻った。

 誰かに見つかれば、言い訳の難しい時刻だった。

 夜の花殿は、昼間とは別の顔をしていた。 

 灯りが中から漏れて、障子が橙色に染まっていた。庭の木々が暗い中でも葉の形を持っていて、風が来るたびに気配だけで揺れていた。月が出ていて、石畳が薄く光っていた。

 杏華が水桶を二つ用意していた。小鈴が一つ持って、もう一つを杏華が持った。

「わたしも手伝います」

「ありがとうございます」

「お礼はいりません。わたしの仕事です」

 蘭妃は縁側に腰を下ろして、薄い羽織をまとっていた。熱が引いたばかりだったから、夜風には少し備えがいる。杏華が気を利かせたのだろう。

 小鈴と杏華が庭へ降りた。

 水桶から柄杓で水を掬って、石畳に撒いた。ざあっと音がして、石の表面が濡れた。昼間の熱が石に溜まっていて、水が当たると湯気のような白いものがかすかに上がった。

「まだ熱がありますね、石に」

「一日かけて溜まりますから。夜中に水を撒くと、朝には少し涼しくなります」

「毎年こうしているのですか」

「蘭妃様が望まれるときは」

 二人で手分けして、庭を一周した。石畳の端から端まで、梅の古木の根元にも、藤棚の下にも。水が石から熱を奪って、夜の空気が少しずつ変わった。湿った土の匂いがした。花の香りとは違う、もっと地に近い匂いだった。

 縁側の蘭妃が、その匂いを受け取るように、静かに息を吸っていた。


 水撒きが終わると、杏華は水桶を片付けに行った。

 小鈴は縁側の端に腰を下ろした。蘭妃の少し横、適切な距離を置いて。夜の庭が、水に濡れて静かだった。月の光が石畳の水たまりを照らして、小さな光が散らばっていた。

 蘭妃が言った。

「好きな時間です、こういうのが」

「夜の庭ですか」

「水を撒いた後の。昼間の熱が抜けて、夜の涼しさになる。その境目の時間が」

 境目の時間。小鈴も今その中にいると思った。夏と秋の境目でもあって、昼と夜の境目でもあって、熱と涼しさの境目でもある。どれが境目という話ではなく、全部が少しずつ変わっていく時間に、今いる。

「水を撒くのは、毎年されているのですか」

「以前は、もっとよくしていました。花殿へ来た頃は、夜になるとよく庭に出ていた。昼間は人が来ることがあったから、夜の方が落ち着いた」

「一人でいらっしゃったのですか」

「杏華がいましたが、庭に出るのは一人のことが多かった。杏華は夜は部屋にいなさいと言うので、こっそり出ていた」

 こっそり、という言葉が、蘭妃の口から出たのが少し意外だった。蘭妃がこっそり何かをするところを、想像したことがなかった。

「杏華さんに怒られましたか」

「毎回。でも止まらなかった。夜の庭の方が、香りが違うから」

「昼と香りが違うのですか」

「花は、昼間は香りを飛ばします。蜂や蝶を呼ぶために。でも夜は、香りを抑える。抑えているから、近づかないと分からない。遠くから漂ってくるのではなく、花の前に立って初めて分かる香りになる」

 小鈴は庭の白蘭の鉢を見た。昼間はあたりまえのように香っているのに、今はほとんど匂いがしない。でも近づけば、あるのかもしれない。

「試してみてよいですか」

「どうぞ」

 小鈴は縁側から降りて、白蘭の鉢の前に立った。

 しゃがんで、花に顔を近づけた。

 あった。

 昼間の白蘭とは違う香りだった。昼間は高く広がる感じだったが、今は低く、濃く、ほんの少し甘みが増している。近くにいないと届かない香りだった。内側にある何かが、夜だけ外へ出てくるような感じがした。

「……違います、確かに」

「でしょう」

 蘭妃の声に、少しだけ得意げなものが混じった。いつもの蘭妃にはない音で、小鈴は立ち上がりながら思わず笑った。

「蘭妃様、今少し、自慢そうな声をされましたね」

 蘭妃が小鈴を見て、それから視線を庭へ戻した。

「そうですか」

「はい」

「……夜の花の香りは、わたくしが花殿で見つけたものの中で、いちばん好きなものです。だから少し、自慢したくなるかもしれない」

 花殿で見つけたもの。その言い方が、小鈴の胸に柔らかく落ちた。花殿へ来た最初の頃、一人で夜の庭に出て、夜の花の香りを見つけた。それが今も蘭妃の中にあって、こうして話してくれた。


 杏華が水桶を片付け終えて、縁側に戻ってきた。

 二人が話しているのを見て、少し足を止めた。邪魔をしてはいけないと思ったのかもしれない。でも蘭妃が「杏華も座りなさい」と言ったので、杏華は縁側の端に腰を下ろした。

 三人で、夜の庭を見た。

 月が少し動いていた。石畳の水たまりの光が、月の動きに合わせて少し形を変えた。遠くで虫の声がしていた。後宮の夜は静かで、虫の声が思ったより大きく聞こえた。

 しばらく、誰も話さなかった。

 話さなくてよかった。夜の庭には、言葉より沈黙の方が似合う時間があった。三人がそれを分かっているように、同じ静けさの中にいた。

 蘭妃が言った。

「ここへ来ると、息ができます」

 独り言のような声だった。誰かに向けて言ったのではなく、庭に向けて言ったような。

 小鈴は返事をするかどうか、少し迷った。

 でも、正直に言った。

「わたしもです」

 蘭妃が小鈴を見た。

 小鈴は続けた。

「花殿へ来ると、後宮の中でここだけ違う空気がある気がして。最初に来た日から、そう思っていました。ただそのときはうまく言えなくて」

「今は言えますか」

「……花殿の空気は、息がしやすいです。蘭妃様がいて、杏華さんがいて、曜様が来て、花がある。それが全部合わさって、ここだけの空気になっている気がします」

 蘭妃はしばらく何も言わなかった。

 それから、穏やかな声で言った。

「あなたが来てから、この庭の空気が変わりました」

「わたしが、ですか」

「花が長持ちするようになって、水差しが新しくなって、花びらの茶が生まれて、花の置き場所が変わって。それだけではなく、誰かがここへ来たがるようになった。曜様も、沈女官長も。あなたが花殿の空気を変えました」

「そんな大きなことでは」

「そうかもしれません。でも、そう感じています」

 杏華が横で、何も言わずにいた。でも否定しなかった。杏華が否定しないということは、同じように感じているということだと、小鈴は思った。


 夜が更けてきた。

 虫の声が増えて、月が高くなった。石畳の水が少し乾いて、水たまりの光が小さくなっていた。

 杏華が「蘭妃様、そろそろお部屋へ」と言った。熱が引いたばかりだから、夜の長居は体に障る。蘭妃も「そうですね」と素直に答えた。今日の蘭妃は、珍しく杏華の言葉に逆らわなかった。

 小鈴も立ち上がった。

「わたしも帰ります」

「今日はありがとう。水撒きを手伝ってもらって」

「いいえ。来られてよかったです」

 蘭妃が立ち上がった。部屋へ戻る前に、もう一度だけ庭を見た。濡れた石畳と、月の光と、暗い中で気配だけ揺れる木々。

「来年の夏も、夜に水を撒きましょう」

 小鈴は頷いた。

「はい。また一緒に」


 花寮への道を、小鈴は一人で歩いた。

 夜の後宮は、昼とは全然違った。静かで、広くて、灯りの届かない場所は深く暗い。でも今夜は怖くなかった。夜の空気が、花殿で分かった気がしていた。

 夜は昼より少し正直になる。

 昼間は広がっていく香りが、夜は花の近くにだけある。昼間は言えないことが、夜の方が少し口にできる。蘭妃が「ここへ来ると息ができます」と言ったのは、夜だったから言えたのかもしれない。自分が「わたしも、です」と返せたのも、夜だったからかもしれない。

 月の光が石畳を照らしていた。

 小鈴は足元の光を見ながら歩いた。

 夜の白蘭の香りを、まだ覚えていた。昼間とは違う、低くて濃い、近くに行かないと分からない香り。遠くに届かない代わりに、近くにいる人にだけ届く。

 そういう気持ちが、自分の中にある気がした。

 花殿の、蘭妃のそばにいるときだけ届く何かが、確かにある。それが何かを、言葉にするのはまだ難しかった。でも今夜の庭の時間が、その言葉に少し近づいた気がした。

 花寮の灯りが見えてきた。

 小鈴は少しだけ足を止めて、来た方向を振り返った。

 花殿の方角は暗くて、何も見えなかった。でもそこに、濡れた石畳と、月の光と、夜の香りを持った白蘭があることを、小鈴は知っていた。

 そして蘭妃が、今頃部屋に戻って、灯りの下で花暦を開いているかもしれないことも。

 今夜のことを、書き留めているかもしれないことも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ