第十四章 夏の庭、夜の風
八月の終わりに、蘭妃が熱を出した。
大事ではなかった。夏の疲れが出たのだろうと杏華が言い、二日ほど安静にしていれば治まるだろうということだった。小鈴が花殿へ来ると、杏華が「今日は蘭妃様のお部屋には入らないように」と言った。いつもと違って、咎める感じではなく、ただ事実として伝える言い方だった。
「水替えだけして、すぐ帰って下さい」
「はい」
「熱は今朝より下がっています。心配しなくてよいです」
小鈴が顔に出ていたのかもしれない。杏華はそういうことをよく見ていた。
小鈴は言われたとおり、水替えだけして帰った。
花殿を出てからも、少しの間、塀の前に立っていた。蘭妃が部屋で横になっている。熱がある。傍にいたい、というのは自分の都合で、蘭妃には休息が要る。それは分かっていた。でも足がすぐには動かなかった。
二日後、蘭妃の熱は引いた。
小鈴が花殿へ来ると、蘭妃は縁側に座っていた。顔色はまだ少し薄かったが、目に力があった。
「ご心配をおかけしました」
「いいえ。体の具合はいかがですか」
「大丈夫です。少し休んだら、かえって頭が軽くなりました」
杏華が横から「まだ無理はなりません」と言って、蘭妃は「分かっています」と返した。そのやり取りが、いつもの花殿だった。
小鈴はそれを見て、ようやく体の力が抜けた。
「夜になったら、庭の熱を逃したい。水を撒けますか」
蘭妃がそう言うと、杏華が「お体が」と言いかけた。
「縁側で見ているだけです」
蘭妃が静かに返す。杏華は少し考えてから、「小鈴に手伝ってもらえるなら」と言った。
小鈴に異存はなかった。
ただ、夜まで花殿にいることになる。一度花寮へ戻って沈女官長に伝え、また来ることにした。
沈女官長は話を聞いて、「分かりました」とだけ言った。
それ以上は何も言わなかったが、夕食の前に「今夜は遅くなっても戸は開けておきます」と告げた。
それが許しなのだと分かった。
日が落ちてから、花殿へ戻った。
誰かに見つかれば、言い訳の難しい時刻だった。
夜の花殿は、昼間とは別の顔をしていた。
灯りが中から漏れて、障子が橙色に染まっていた。庭の木々が暗い中でも葉の形を持っていて、風が来るたびに気配だけで揺れていた。月が出ていて、石畳が薄く光っていた。
杏華が水桶を二つ用意していた。小鈴が一つ持って、もう一つを杏華が持った。
「わたしも手伝います」
「ありがとうございます」
「お礼はいりません。わたしの仕事です」
蘭妃は縁側に腰を下ろして、薄い羽織をまとっていた。熱が引いたばかりだったから、夜風には少し備えがいる。杏華が気を利かせたのだろう。
小鈴と杏華が庭へ降りた。
水桶から柄杓で水を掬って、石畳に撒いた。ざあっと音がして、石の表面が濡れた。昼間の熱が石に溜まっていて、水が当たると湯気のような白いものがかすかに上がった。
「まだ熱がありますね、石に」
「一日かけて溜まりますから。夜中に水を撒くと、朝には少し涼しくなります」
「毎年こうしているのですか」
「蘭妃様が望まれるときは」
二人で手分けして、庭を一周した。石畳の端から端まで、梅の古木の根元にも、藤棚の下にも。水が石から熱を奪って、夜の空気が少しずつ変わった。湿った土の匂いがした。花の香りとは違う、もっと地に近い匂いだった。
縁側の蘭妃が、その匂いを受け取るように、静かに息を吸っていた。
水撒きが終わると、杏華は水桶を片付けに行った。
小鈴は縁側の端に腰を下ろした。蘭妃の少し横、適切な距離を置いて。夜の庭が、水に濡れて静かだった。月の光が石畳の水たまりを照らして、小さな光が散らばっていた。
蘭妃が言った。
「好きな時間です、こういうのが」
「夜の庭ですか」
「水を撒いた後の。昼間の熱が抜けて、夜の涼しさになる。その境目の時間が」
境目の時間。小鈴も今その中にいると思った。夏と秋の境目でもあって、昼と夜の境目でもあって、熱と涼しさの境目でもある。どれが境目という話ではなく、全部が少しずつ変わっていく時間に、今いる。
「水を撒くのは、毎年されているのですか」
「以前は、もっとよくしていました。花殿へ来た頃は、夜になるとよく庭に出ていた。昼間は人が来ることがあったから、夜の方が落ち着いた」
「一人でいらっしゃったのですか」
「杏華がいましたが、庭に出るのは一人のことが多かった。杏華は夜は部屋にいなさいと言うので、こっそり出ていた」
こっそり、という言葉が、蘭妃の口から出たのが少し意外だった。蘭妃がこっそり何かをするところを、想像したことがなかった。
「杏華さんに怒られましたか」
「毎回。でも止まらなかった。夜の庭の方が、香りが違うから」
「昼と香りが違うのですか」
「花は、昼間は香りを飛ばします。蜂や蝶を呼ぶために。でも夜は、香りを抑える。抑えているから、近づかないと分からない。遠くから漂ってくるのではなく、花の前に立って初めて分かる香りになる」
小鈴は庭の白蘭の鉢を見た。昼間はあたりまえのように香っているのに、今はほとんど匂いがしない。でも近づけば、あるのかもしれない。
「試してみてよいですか」
「どうぞ」
小鈴は縁側から降りて、白蘭の鉢の前に立った。
しゃがんで、花に顔を近づけた。
あった。
昼間の白蘭とは違う香りだった。昼間は高く広がる感じだったが、今は低く、濃く、ほんの少し甘みが増している。近くにいないと届かない香りだった。内側にある何かが、夜だけ外へ出てくるような感じがした。
「……違います、確かに」
「でしょう」
蘭妃の声に、少しだけ得意げなものが混じった。いつもの蘭妃にはない音で、小鈴は立ち上がりながら思わず笑った。
「蘭妃様、今少し、自慢そうな声をされましたね」
蘭妃が小鈴を見て、それから視線を庭へ戻した。
「そうですか」
「はい」
「……夜の花の香りは、わたくしが花殿で見つけたものの中で、いちばん好きなものです。だから少し、自慢したくなるかもしれない」
花殿で見つけたもの。その言い方が、小鈴の胸に柔らかく落ちた。花殿へ来た最初の頃、一人で夜の庭に出て、夜の花の香りを見つけた。それが今も蘭妃の中にあって、こうして話してくれた。
杏華が水桶を片付け終えて、縁側に戻ってきた。
二人が話しているのを見て、少し足を止めた。邪魔をしてはいけないと思ったのかもしれない。でも蘭妃が「杏華も座りなさい」と言ったので、杏華は縁側の端に腰を下ろした。
三人で、夜の庭を見た。
月が少し動いていた。石畳の水たまりの光が、月の動きに合わせて少し形を変えた。遠くで虫の声がしていた。後宮の夜は静かで、虫の声が思ったより大きく聞こえた。
しばらく、誰も話さなかった。
話さなくてよかった。夜の庭には、言葉より沈黙の方が似合う時間があった。三人がそれを分かっているように、同じ静けさの中にいた。
蘭妃が言った。
「ここへ来ると、息ができます」
独り言のような声だった。誰かに向けて言ったのではなく、庭に向けて言ったような。
小鈴は返事をするかどうか、少し迷った。
でも、正直に言った。
「わたしもです」
蘭妃が小鈴を見た。
小鈴は続けた。
「花殿へ来ると、後宮の中でここだけ違う空気がある気がして。最初に来た日から、そう思っていました。ただそのときはうまく言えなくて」
「今は言えますか」
「……花殿の空気は、息がしやすいです。蘭妃様がいて、杏華さんがいて、曜様が来て、花がある。それが全部合わさって、ここだけの空気になっている気がします」
蘭妃はしばらく何も言わなかった。
それから、穏やかな声で言った。
「あなたが来てから、この庭の空気が変わりました」
「わたしが、ですか」
「花が長持ちするようになって、水差しが新しくなって、花びらの茶が生まれて、花の置き場所が変わって。それだけではなく、誰かがここへ来たがるようになった。曜様も、沈女官長も。あなたが花殿の空気を変えました」
「そんな大きなことでは」
「そうかもしれません。でも、そう感じています」
杏華が横で、何も言わずにいた。でも否定しなかった。杏華が否定しないということは、同じように感じているということだと、小鈴は思った。
夜が更けてきた。
虫の声が増えて、月が高くなった。石畳の水が少し乾いて、水たまりの光が小さくなっていた。
杏華が「蘭妃様、そろそろお部屋へ」と言った。熱が引いたばかりだから、夜の長居は体に障る。蘭妃も「そうですね」と素直に答えた。今日の蘭妃は、珍しく杏華の言葉に逆らわなかった。
小鈴も立ち上がった。
「わたしも帰ります」
「今日はありがとう。水撒きを手伝ってもらって」
「いいえ。来られてよかったです」
蘭妃が立ち上がった。部屋へ戻る前に、もう一度だけ庭を見た。濡れた石畳と、月の光と、暗い中で気配だけ揺れる木々。
「来年の夏も、夜に水を撒きましょう」
小鈴は頷いた。
「はい。また一緒に」
花寮への道を、小鈴は一人で歩いた。
夜の後宮は、昼とは全然違った。静かで、広くて、灯りの届かない場所は深く暗い。でも今夜は怖くなかった。夜の空気が、花殿で分かった気がしていた。
夜は昼より少し正直になる。
昼間は広がっていく香りが、夜は花の近くにだけある。昼間は言えないことが、夜の方が少し口にできる。蘭妃が「ここへ来ると息ができます」と言ったのは、夜だったから言えたのかもしれない。自分が「わたしも、です」と返せたのも、夜だったからかもしれない。
月の光が石畳を照らしていた。
小鈴は足元の光を見ながら歩いた。
夜の白蘭の香りを、まだ覚えていた。昼間とは違う、低くて濃い、近くに行かないと分からない香り。遠くに届かない代わりに、近くにいる人にだけ届く。
そういう気持ちが、自分の中にある気がした。
花殿の、蘭妃のそばにいるときだけ届く何かが、確かにある。それが何かを、言葉にするのはまだ難しかった。でも今夜の庭の時間が、その言葉に少し近づいた気がした。
花寮の灯りが見えてきた。
小鈴は少しだけ足を止めて、来た方向を振り返った。
花殿の方角は暗くて、何も見えなかった。でもそこに、濡れた石畳と、月の光と、夜の香りを持った白蘭があることを、小鈴は知っていた。
そして蘭妃が、今頃部屋に戻って、灯りの下で花暦を開いているかもしれないことも。
今夜のことを、書き留めているかもしれないことも。




