表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/25

第十五章 小さな噂、大きな庭

 九月に入ると、後宮の空気が少し変わった。

 暑さが引いて、朝の風に秋の匂いが混じるようになった。花寮では夏の花が終わり、秋の花の準備が始まった。桔梗はまだ続いていたが、萩が届き始めて、菊の株が花寮の隅に並んだ。色が変わる。夏の薄紫や白から、秋の金色や深い紫へ。季節が衣を替えるように、花の色が変わっていく。

 花殿でも、夏支度が片付けられた。

 蓮の水鉢は花が終わったので花寮へ返した。笹の葉は乾かして、曜様が押し葉の標本にした。夏の間使っていた薄い花入れは棚の上に戻して、代わりに少し重さのある秋向きの器を出した。花殿の中が、少しずつ秋の顔になっていった。

その頃には、花殿をめぐる小さな噂が、後宮のあちこちへ静かに根をのばしていた。

 最初にそれを強く感じたのは、花寮で仕事をしているときだった。

 年上の宮女が、小鈴の隣で花の仕分けをしながら、別の宮女と話していた。声をひそめているわけではなかったが、小鈴に向けて言っているわけでもなかった。

「このごろ、花殿の話をよく聞くわね」

「曜様がよく行かれるからでしょう」

「それだけじゃないらしいよ。具合を悪くしていた方が、少し元気になったとか」

「花を見に?」

「さあ。でも、あそこへ行くと息がしやすい、なんて話もあるみたい」

 小鈴は手を動かしたまま、何も言わなかった。

 花の茎を揃え、余分な葉を落とし、籠へ収める。いつもと同じ作業のはずなのに、耳だけが勝手にそちらへ向いてしまう。

「ずいぶん話が大きくなってるのね」

「大きいっていうより、勝手に広がってるのよ。花殿なんて、前は誰も口にしなかったのに」

「そうね。最近は、あそこにどんな花が入るのか気にしてる人までいるもの」

小鈴はそこで、ようやく少しだけ顔を上げた。

 花殿の名を、こんなふうに他の宮女たちの口から聞く日が来るとは思っていなかった。前は、忘れられた宮として遠巻きにされるばかりだったのに、今は違う。誰かが見ている。誰かが気にしている。

 それが悪いこととは限らない。けれど、後宮で人の目が向くというのは、たいていそれだけでは済まないことを、小鈴も少しずつ知り始めていた。

 籠の中で、萩の細い枝がかすかに揺れた。

 小鈴はそれを押さえながら、胸の奥に小さなざわめきが生まれるのを感じていた。


 その日、花殿で杏華に尋ねた。

「噂がどんどん広がっているのは知っていますか?」

「知っています」

「どうなると思いますか?」

 杏華はしばらく黙っていた。棚の花入れを磨きながら、考えているようだった。

「噂が立つことは、仕方のないことです。問題は、その噂がどういう形で広がるかです」

「悪い形で広がる可能性がありますか?」

「あります。蘭妃様が力を蓄えているとか、何か企てがあるとか、そう見る人もいるでしょう。後宮では、誰かが動けば理由を探られます」

「でも蘭妃様は、何も企てていない」

「分かっています。でも分かっていない人には、説明できません」

 小鈴は少し考えてから言った。

「蘭妃様は、噂のことを知っていますか?」

「知っています。蘭妃様は何もおっしゃっていませんが、知らないはずがない」

 

 蘭妃に直接尋ねたのは、その翌日だった。

 水替えを終えて、縁側に腰を下ろしてから、小鈴は正直に言った。

「噂が広まっていることを聞きました。花殿に人が集まるようになったという話が、花寮でも回っていました。蘭妃様のご迷惑になるようでしたら、わたしが来る回数を減らした方がいいなら、そうします」

 蘭妃は少しの間、小鈴を見ていた。

「迷惑ではありません」

「でも」

「小鈴」

 蘭妃が穏やかな声で言った。

「噂を恐れてここへ来なくなることの方が、わたくしには堪えます。それはあなたの心配りではなく、むしろ反対のことです」

「……反対、ですか」

「あなたが来なくなれば、花殿はまた静かになります。静かというより、前の静けさに戻る。それを望んでいないから、あなたに来てほしいのです」

 前の静けさ。最初に来た日の、あの息のつまるような静けさのことだと、小鈴は思った。

「分かりました。来ます」

「それでいいです」

 蘭妃は花暦を膝に置いて、窓の外を見た。

「噂は、わたくしには慣れたものです。花殿に来た頃から、様々な噂がありました。今の噂は、少なくとも悪意のある形ではないでしょう。人が集まる場所になった、それだけのことです」

「そうですね」

「ただ、目立つことには、気をつけた方がよいかもしれない。こちらから何かを仕掛けているように見られると、面倒が増えます。今まで通り、静かにしていれば、噂は自然に落ち着くと思います」

 今まで通り、静かに。それが蘭妃の答えだった。


 それから数日後、沈女官長が花殿を訪ねてきた。

 小鈴が庭で水鉢の掃除をしていると、くぐり戸からすっと入ってきた。杏華が驚いた顔で出迎えたが、沈女官長は「少し庭を見させてもらいます」と言って、庭の中をゆっくり歩き始めた。

 小鈴は作業を続けながら、沈女官長の様子を見ていた。

 沈女官長は花殿の庭を、丁寧に見ていった。梅の古木、藤棚、縁側のそばの花鉢、石畳の状態、排水の具合。見るだけで何も言わなかったが、一つ一つ確かめるように目を向けていた。

 一通り見て回ってから、小鈴のところへ来た。

「庭が変わりましたね」

「少しずつ、手を入れていただいています。わたしは花の水替えくらいで、庭仕事は杏華さんが」

「あなたが花の置き場所を変えてから、庭の使い方が変わった、ということです」

 沈女官長はそう言って、縁側の方へ目を向けた。今日は曜様が来ていて、蘭妃と縁側に並んで座っていた。それを見て、沈女官長は何も言わなかったが、少しだけ目が細くなった。

「花苗を少し分けましょうか」

 小鈴は驚いて沈女官長を見た。

「花寮から、ですか」

「秋の花苗が余っています。萩と、小菊と、水仙の球根が少し。植えられる場所があれば、持ってきてもよい」

「……ありがとうございます」

「礼はいりません。花苗は植えてこそ使えるものです。余らせておくより、育てる場所があるなら、そちらへ回す方がよい」

 沈女官長らしい言い方だった。理由は実務的で、感情的なことは一切言わない。でも花苗を持ってくるということは、花殿の庭が育っていくことを、後押しするということだった。

「杏華さんに相談してから、お返事してもよいですか」

「構いません」

 沈女官長は帰りがけに、縁側の蘭妃に短く挨拶をした。蘭妃も立ち上がって、丁寧に返した。二人の間に、長い付き合いの間合いがあった。


 杏華に花苗の話をすると、杏華は少し考えてから言った。

「植えられる場所は、藤棚の東側にあります。今は何も植わっていないので」

「では、お願いしてみますか」

「……蘭妃様に聞いてからにします」

 蘭妃に話すと、蘭妃は少しの間黙っていた。

「沈女官長が、ですか」

「はい。花苗が余っているので、と」

「余っているから、ということではないでしょうね」

 小鈴は少し驚いた。蘭妃も分かっていた。沈女官長が余り物を理由にしているが、本当の意味は別のところにある。

「……そうかもしれないです」

「沈女官長は、花殿がこうなることを、最初から少し望んでいたのかもしれません」

「どういうことですか」

「わたくしがここに来てから、沈女官長はずっと花を送ってくれていました。花寮の事情があることは分かっていましたが、それだけではなかったと思います。あの方は、わたくしがここで腐っていくのを、好んでいなかった」

 腐っていく、という言葉を蘭妃が自分に使ったことに、小鈴は胸が痛くなった。でも蘭妃は淡々と言っていた。過去のことを、静かに整理している声だった。

「花苗、植えましょう。せっかくいただけるなら」


 翌日、沈女官長から萩と小菊と水仙の球根が届いた。

 杏華が藤棚の東側の土を掘り起こして、小鈴が花苗の根を確かめた。萩は根がしっかりしていて、すぐに植えられる状態だった。小菊は少し根が細かったので、植える前に水につけて、元気を取り戻させた。水仙の球根は、土の中に埋める深さを間違えると咲かないので、慎重に深さを測りながら植えた。

 曜様が手伝いたいと言って、土を掘る作業を少し手伝った。手が土で汚れても気にせずに掘っていて、杏華が「曜様、お召し物が」と言ったが、曜様は「後で洗えばいい」と返した。花殿での曜様は、こういうところが割り切っていた。

 植え終わると、三人で水をやった。

 土が水を吸って、色が変わった。乾いていた土が、濃い色になった。そこに、小さな苗が並んでいた。

「咲くの?」

曜様が尋ねた。

「秋に咲きます。萩は早ければ来月にも。水仙は冬を越して、来年の春に」

「来年の春か」

曜様はそう言って、植えたばかりの球根の上の土を、そっと手のひらで平らにした。「見てみたい」

「曜様はまだここへ来るでしょうから、見られます」

「来るよ。ここが好きだから」

 杏華が何も言わずに、植え終えた土に最後の水をかけた。


 その日の夕方、縁側で蘭妃が庭を見ていた。

 新しく植えた苗が、夕光の中に並んでいる。まだ小さくて、目立たないが、確かにそこにある。

「今日植えたものです」

「見ていました」

「萩が咲いたら、花暦に書いて下さい」

「書きます。小鈴が植えた萩、と書きます」

「曜様も手伝いましたから、曜様も入れて下さい」

「では、小鈴と曜様が植えた萩、と」

「杏華さんが土を掘りましたから、杏華さんも」

「では、三人が植えた萩、と」

 蘭妃が少し笑った。

「みんなで植えた萩、の方がいいかもしれません」

「そうですね。その方がいい」

 みんなで植えた萩。それが秋に咲いて、花暦に残る。来年の春には水仙が咲いて、それも残る。花殿の庭が、少しずつ、誰かの手の跡を持っていく。

 噂は相変わらずあった。花殿に人が集まる、という話は後宮の中に薄く広がっていた。でも今日、沈女官長が花苗を送ってきたことで、小鈴には一つのことが分かった気がした。

 見ている人は、ちゃんと見ている。

 花殿で何が起きているか、何が育っているか。言葉にはしなくても、分かっている人は分かっている。

 花殿はこれからも、静かにここにある。

 噂が何を言おうと、庭に植えた萩が来月には咲く。水仙が来年の春に咲く。それが全部、花暦に残っていく。


「小鈴」

 帰り際、くぐり戸を出ようとしたとき、誰かに後ろから呼ばれた。

 振り返ると、杏華が腕を組んで立っていた。

「噂については、余計なことを言わないようにして下さい。花寮でも、他の場所でも。聞かれたら、花の仕事をしているだけだと言えば十分です」

「はい」

「花殿のことは、花殿の中のことです。外へ説明する必要はない」

「分かりました」

 杏華はそれだけ言って、庭へ戻っていった。

 小鈴はくぐり戸を出てから、もう一度だけ振り返った。

 閉まったくぐり戸の向こうで、杏華が庭を片付けている気配がした。蘭妃が縁側にいる気配がした。植えたばかりの萩と小菊が、夕暮れの庭に並んでいる。

 花殿は、外の噂とは関係なく、ここにある。

 庭が、少しずつ、大きくなっていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ