第十六章 月下美人の夜
九月の終わり、杏華が小鈴に伝えた。
「今週中に、咲くかもしれません」
月下美人のことだった。
花殿の庭の、縁側から一番遠い場所に、大きな鉢がある。肉厚の葉が扇のように広がって、茎が太く、存在感のある株だった。小鈴は来た当初から気になっていたが、葉ばかりで花の気配がなかったので、何の植物か長いこと分からなかった。
六月に杏華に聞いたとき、「月下美人です、一年に一度だけ咲きます」と言われて、それから小鈴はその鉢をよく見るようになっていた。
今週中に、咲くかもしれない。
「どうやって分かるのですか」
「つぼみが出ます。葉の縁から、細い突起のようなものが出てきたら、もうすぐ咲く合図です」
小鈴は鉢を確かめに行った。杏華の言った通り、葉の縁の一つから、細い緑色の突起が出ていた。先が少しだけ白くなりかけている。花になろうとしている部分が、そこにあった。
「いつ咲くのですか、具体的には」
「夜です。しかも一晩だけ。日が変わる前後に咲いて、夜明け前にはもう閉じ始めます」
「一晩だけ」
「一年に一度、一晩だけ。それが月下美人です」
杏華の言い方は事務的だったが、小鈴にはその花の生き方が、どこか蘭妃に似ている気がした。滅多に外に出ない。見えないところで、静かに、自分の時間を持っている。そしてある夜だけ、誰も知らないように咲く。
「蘭妃様は、ご存じですか」
「毎年、一緒に待っています」
その日の夕方、蘭妃に話すと、蘭妃はすでに知っていた。
「杏華から聞きました。今夜か、明日の夜か」
「待ちますか」
「待ちます。あなたも一緒にいますか」
小鈴はすぐに頷いた。
「いたいです」
「では今夜、様子を見ましょう。もしつぼみが動いていなければ、明日の夜にまた」
今夜は咲かないかもしれない。それでも待つということが、小鈴には自然に思えた。一晩だけしか咲かない花を、見逃したくなかった。何年も咲くのを待ってきた蘭妃と、同じ夜に見たかった。
花寮への帰り道、今日は早足だった。沈女官長に今夜のことを話して、また夜に来る許可をもらわなければならない。先日の水撒きのときと同じように。
沈女官長は「分かりました」と言った。今回も、それだけだった。
日が落ちてから、花殿へ戻った。
くぐり戸をくぐると、庭に灯りが一つ置いてあった。月下美人の鉢のそばに、小さな行灯が下がっていて、その光の中でつぼみがゆっくり動いているのが分かった。
昼に見たときより、明らかに大きくなっていた。先の白い部分が膨らんで、花びらになろうとしているものが、外側にひとつひとつ形を作り始めていた。
縁側に蘭妃がいた。薄い夜着の上に羽織を重ねて、鉢の方を見ていた。
「来ましたね」
「つぼみが動いていました」
「今夜咲きます。もう少しかかりますが、咲きます」
蘭妃の声に、確信があった。何度も見てきた人の声だった。
小鈴は縁側に腰を下ろした。蘭妃の少し横に、いつもの間隔で。
二人で、月下美人を待ち始めた。
曜様が来たのは、その少しあとだった。
くぐり戸から顔を出して、
「……来てもよかった?」
と尋ねる。
蘭妃が「どうぞ。一緒に待ちましょう」と言うと、曜様は縁側へ上がってきて、小鈴の隣に座った。
月下美人の鉢を見て、
「まだ咲いてない」
と言った。
「もう少しです」
「どのくらい?」
「分かりません。でも今夜中には」
「じゃあ待つ」
曜様はそれだけ言って、鉢を見続けた。騒がなかった。月下美人を前にすると、曜様も静かになるらしかった。
杏華が温かい飲み物を持ってきた。花茶ではなく、ただの湯だった。夜は冷えるから、体を温めるためだけの湯。曜様に渡して、蘭妃に渡して、小鈴にも渡した。それから自分も縁側の端に座った。
四人で、月下美人を待った。
時間がゆっくり流れた。
後宮の夜は静かで、遠くで宿直の宮女が動く気配が時々するくらいだった。虫の声は九月になってから種類が変わって、少し高い声の虫が増えていた。庭の行灯が、風が来るたびに揺れた。
曜様がいつの間にか、小鈴の肩に少し寄りかかっていた。眠っているわけではなく、目は開いていたが、重心が傾いていた。小鈴はそのままにしておいた。
「蘭妃様は、毎年見てきたのですか」
「ええ。花殿に来た最初の年から。杏華が教えてくれました。一年に一度だけ咲くから、見た方がいいと」
「最初の年は、どんな気持ちで見ましたか?」
蘭妃は少しの間、答えなかった。
月下美人の鉢を見ながら、その頃のことを思い出しているようだった。
「……きれいだと思いました。でも、その年は、きれいだということより、一晩しか咲かないということの方が、頭に残りました」
「一晩しか咲かないことが」
「一年かけて力を蓄えて、一晩だけ咲いて、それで終わる。無駄が多い花だと思いました、その頃は」
「今は違いますか」
「今は、一晩だけだから美しいのだと思います。毎晩咲いていたら、月下美人は月下美人ではなくなる」
小鈴はその言葉を、しばらく持っていた。
一晩だけだから美しい。限られているから、価値がある。蘭妃は花の話として言っているが、それは自分自身の話でもあるかもしれないと、小鈴は思った。後宮に来て、寵愛を失って、花殿に引きこもった五年間。外からは無駄に見えたかもしれないその時間も、蘭妃の中では何かを蓄えていた時間だったかもしれない。
月下美人と同じように。
子の刻を少し過ぎた頃、つぼみが大きく動き始めた。
「そろそろです」
杏華の声が、いつもより少し低かった。
曜様が体を起こした。眠りかけていたわけではないが、その声で意識が定まった顔になった。
行灯の光の中で、月下美人のつぼみの先が、少しずつ開き始めた。
花びらになろうとしているものが、一枚ずつ、外側へ向かって広がっていく。白い。真白だった。昼間に見る白蘭の白とは違う白で、夜の光の中でしか見られない白だった。月の光と行灯の光が混ざって、その花びらの上に降りていた。
四人が、声を出さなかった。
出せなかったのではなく、出す必要がなかった。言葉を加えると、何かが損なわれる気がした。
完全に開くまで、少し時間がかかった。
開くにつれて、香りが出てきた。
月下美人の香りは、白蘭とも、桔梗とも、撫子とも違った。甘くて、でも重くなく、夜の空気に溶けるような香りだった。遠くへ行くのではなく、そこに留まる香りだった。庭の行灯の光の中に、香りも光も、静かに留まっていた。
蘭妃が、ゆっくり息を吸った。
あの、花の香りを受け取るときの、静かな吸い方だった。でも今夜の吸い方は、いつもより少し深かった。胸の奥まで届けるように。
完全に開いた月下美人は、大きかった。
花びらが幾重にも重なって、中心から光が出ているように見えた。白い花が、夜の庭の中心に、一輪だけ咲いていた。
どのくらいの時間、四人で見ていたのか、小鈴には分からなかった。
時間の感覚が、少し変わっていた。長くも短くもなく、ただ、今がそこにある感じだった。
蘭妃が、穏やかな声で言った。
「こうして待つ夜が、また来るとは思いませんでした」
声が低かった。独り言のように言ったが、誰にでも届く声だった。
「どういう意味ですか」
小鈴が聞くと、蘭妃は少し間を置いてから答えた。
「去年の月下美人を見たとき、来年も見るだろうと思いながら、でも、誰かと一緒に見ることはないと思っていました。杏華とは見てきましたが、それ以外の人と、こうして待つ夜が来るとは」
「今年は、こんなに大勢で」
「ええ」
蘭妃が曜様を見て、小鈴を見たのち、杏華を見た。
「来年も、こうして待てますか」
「待ちます」
小鈴が答え、
「待つ」
曜様が答えた。
杏華は何も言わなかった。でも、月下美人から目を離さないまま、小さく頷いた。
それから少しして、曜様が眠った。
縁側の端で、丸くなるように体を折って、静かに目を閉じた。起こすのは忍びなかった。杏華が立ち上がって、部屋の中から毛布を持ってきて、そっとかけた。毛布をかける手が、今夜はいつにも増して丁寧だった。
月下美人は、まだ咲いていた。
行灯の油が少し減って、光が前より柔らかくなった。その中で、白い花が静かに時間を過ごしていた。
蘭妃が言った。
「花暦に書けないことがあります」
「書けないことが、ですか」
「書こうとすると、言葉にならないことがある。今夜のような夜は、特に」
「書かなくてもいいのではないですか」
「そう思いますか」
「全部を言葉にしなくても、覚えていれば。言葉にならないものは、言葉にならないまま持っていればいい気がします」
蘭妃は小鈴を見た。
「あなたはそういうことを言いますね、時々」
「変でしたか」
「いいえ。でも、花農家の娘が言う言葉とは思えない」
「花農家の娘だから言えるのかもしれません。難しい言葉を知らないので、思ったことがそのまま出ます」
蘭妃が少し笑った。
月の光と行灯の光の中で、蘭妃の横顔が柔らかかった。いつもより表情が近くにある気がした。夜だからかもしれない。一晩だけ咲く花を待った夜だからかもしれない。
「小鈴」
「はい」
「あなたがいてくれてよかった」
穏やかな声だった。特別な言い方ではなかった。でも、特別な夜に言われた言葉だった。
小鈴は返事をしようとして、声が出なかった。
少しの間、月下美人を見てから、言った。
「わたしも、ここにいられてよかったです」
それだけだった。
それ以上の言葉は要らなかった。
夜明け前、月下美人が閉じ始めた。
杏華が「そろそろ」と言った。開くより閉じる方が早くて、花びらが少しずつ内側へ戻っていった。白い花が小さくなって、つぼみに近い形に戻っていった。完全には閉じないが、もう今夜の月下美人は終わった。
曜様をそっと起こした。
「咲いた?」
曜様が尋ねる。目がまだ半分眠っていた。
「咲きました。もう閉じ始めています」
曜様は月下美人を見た。目がゆっくり覚めていく中で、今が夜明け前だということと、花が閉じていることを、少しずつ理解した顔だった。
「見そびれた」
「途中まで見ていたでしょう」
「全部見たかった」
「来年も咲きます」
曜様はしばらく、閉じていく月下美人を見ていた。それから立ち上がって、毛布を几帳面にたたんだ。
「来年は絶対、全部見る」
「眠くなっても?」
「眠くなっても」と曜様は言い切って、蘭妃に「今年もありがとう」と言った。おやすみの挨拶のような、でもそれより少し重い言い方だった。
蘭妃が「ありがとう、曜様」と返した。
曜様はくぐり戸を出ていった。暗い中を、足音が遠ざかっていった。
杏華が後片付けを始めた。
行灯の油を確かめて、縁側の湯飲みを片付けて、毛布を部屋に戻した。小鈴も手伝おうとしたが、杏華は「いいです」と言った。今夜の杏華の「いいです」は、拒絶ではなかった。自分がしたい、という意味だった。
小鈴は縁側で、蘭妃の隣に少し残った。
東の空が、わずかに白み始めていた。夜が明けようとしている。月下美人は、もうほとんど閉じていた。昨夜あれほど大きく咲いていたとは思えない形に戻って、鉢の中で静かにしていた。
来年の秋まで、また待つ。
「来年も、見られますね」
小鈴が言うと、蘭妃が頷いた。
「見られます」
「では来年は、曜様が眠らないように、途中で声をかけましょう」
「そうしましょう」
来年の約束が、また一つ増えた。
月下美人の夜の約束。一年に一度しか来ない夜の、来年の約束。それがあることが、小鈴にはとても大事なことに思えた。来年もここにいる。来年もこの夜を待つ。それだけのことが、今夜を終わらせないようにしてくれる気がした。
蘭妃が立ち上がった。夜明けの冷えた空気の中で、羽織を少し引き上げた。
「今夜はありがとう。一緒に待ってくれて」
「ありがとうございました、わたしも」
「帰り道、気をつけて」
「はい」
小鈴はくぐり戸を出た。
後宮の石畳が、夜明け前の薄明の中で、灰色に見えた。昨夜水を撒いた石畳とは違う、乾いた灰色だった。でも空は少しずつ明るくなっていて、東の端が淡い橙色になりかけていた。
月下美人の香りが、まだかすかに体に残っていた。
甘くて、夜の空気に溶けるような香りが、夜明けの風の中でも少しだけ続いていた。
小鈴は花寮への道を歩きながら、今夜のことを心の中に丁寧に仕舞っていった。白い花が開いていく様子、蘭妃の深い息、曜様の寝顔、杏華の丁寧な毛布のかけ方、蘭妃の「あなたがいてくれてよかった」という声。
言葉にならないものは、言葉にならないまま持っていればいい。
さっき自分が言ったことを、もう一度思った。
今夜のことは、うまく書けないかもしれない。花暦に残るかもしれないし、残らないかもしれない。でも小鈴の中には、ちゃんと残る。
一年に一度だけ咲く花の夜が、今年の分として、確かにあった。
それだけで、ほかにはいらなかった。




