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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第十七章 白蘭の枝を継ぐ

 十月の初め、台風が来た。

 前の日から空が低くなって、朝には風が強くなった。花寮では朝の仕事が始まる前から、鉢の移動と花籠の固定が始まった。飛ばされやすいものを室内へ入れて、重いものは壁際へ寄せて、外の花壇には縄を張る。沈女官長の指示が飛んで、宮女たちが庭と室内を行き来した。

 小鈴も動いた。

 花殿のことが頭にあった。花殿の庭には、先月植えたばかりの萩と小菊がある。白蘭の鉢も、縁側のそばに出してある。台風の風雨に当たれば、折れるものが出る。

 沈女官長に「花殿へ行ってよいですか」と聞くと、「行きなさい」と言われた。

 雨が本格的になる前に、花殿へ走った。


 花殿では、杏華がすでに動いていた。

 縁側の鉢を室内へ運び込んで、庭の道具を小屋へ仕舞って、萩と小菊に支柱を立てている。一人でやっていたが、手際よかった。六年分の経験が、こういうときに出る。

 小鈴は「手伝います」と言って、すぐに動いた。

 白蘭の鉢が重くて、一人では動かしにくかったが、二人で持つと縁側まで運べた。萩の支柱を小鈴が持って、杏華が縛った。小菊は株が小さいので、周りに板を立てて風を遮る形にした。

 一通り終えた頃、風が急に強くなった。

 木々が大きく揺れた。藤棚の蔓がばたばたと音を立てた。庭の土が舞って、石畳に葉が飛んできた。

 そのとき、音がした。

 低く、鋭い音だった。

 小鈴が振り向くと、白蘭の古木の枝が一本、根元近くから折れていた。太い枝だった。完全に落ちてはいなかったが、裂けた部分が幹からほとんど離れて、皮一枚でつながっているような状態だった。

 杏華が息を飲んだ。

「蘭妃様に……」

「待って下さい」

 小鈴は走り寄って、折れた枝を確かめた。

 枝の直径は腕ほどあった。長さは、小鈴の身長より少し短いくらい。先の方に、まだ白蘭の花の名残が少しあって、来春に向けて芽が準備を始めている部分も見えた。枝の内側を見ると、木の繊維がまだ白くて、死んでいなかった。

 完全に折れてはいない。皮がまだつながっている。水と養分の通り道が、かろうじて残っている。

「接ぎ木か、水挿しでいけるかもしれません」

「この太さでは難しいです」

「接ぎ木は無理でも、枝の先を切って水挿しにすることはできます。先の方の細い部分に、来春の芽が出ています。そこだけ生かすことは、できるかもしれない」

 杏華は枝を見て、少しの間黙っていた。

「……やってみますか」

「やってみたいです」


 台風は夕方に最も強くなって、夜半には過ぎた。

 その間、小鈴は花殿の室内にいた。外に出られないので、できる仕事を室内でやりながら、台風が通り過ぎるのを待った。蘭妃は台風の間、部屋の奥に座っていた。風の音が強くなるたびに、少し表情が固くなった。外の庭が気になっているのだろうと分かったが、出ることはできない。

 曜様は、今日は来なかった。台風の日に外を歩かせるのは危ないと、侍女たちが止めたのだろう。

 小鈴は繕いものをしながら、折れた白蘭の枝のことを考えていた。

 台風が過ぎてから、枝の先端を切り取って水に差す。うまくいけば根が出る。根が出れば、鉢に植え替えることができる。そこまでできれば、白蘭の古木と同じ木から生まれた新しい株が育つ。

 ただ、白蘭の水挿しは難しかった。木質化した枝からは、根が出にくい。うまくいかないこともある。保証はできなかった。

 でも、やってみないことには分からない。


 台風が過ぎた翌朝、小鈴は早くに花殿へ来た。

 庭は荒れていた。石畳に葉が積もって、萩の支柱が一本傾いていた。小菊を守った板が外れていたが、株自体は無事だった。藤棚の古い蔓が一本落ちていた。

 白蘭の古木は、折れた枝が地面に落ちていた。夜の間に、皮一枚のつながりが切れたのだろう。幹には大きな傷口が残っていた。

 小鈴はしゃがんで、落ちた枝を確かめた。

 昨日より状態が悪かった。水が通らない時間が長かったために、繊維が少し乾いている。でも先端の方は、まだ緑が残っていた。

「やりますか」

 杏華が後ろから言った。今朝も早くから来ていたらしく、庭の片付けをすでに始めていた。

「やります」

 小鈴は枝の先端から、芽の出ている部分を含めて、三十センチほどを切り取った。切り口を斜めに整えて、すぐに水に差した。用意していた深めの花入れに、水をたっぷり入れて。

 それから、幹の傷口の方を確かめた。白蘭の古木は、傷を受けた部分が今後どうなるかが大事だった。傷が広がれば木が弱る。うまくいけば、傷口が癒合して、また元気を取り戻す。

「幹の傷は、少し手当てが要ります。切り口の保護剤があれば」

「花寮にありますか」

「あります。取りに行ってきます」

 小鈴は花寮へ走って、保護剤と刷毛を持って戻った。幹の傷口に丁寧に塗った。これで傷口からの感染や乾燥を防ぐことができる。完全ではないが、何もしないよりはいい。


 その作業をしている間、蘭妃が縁側に出てきた。

 羽織を一枚余計に重ねて、台風一過の朝の冷たい空気の中に立っていた。白蘭の古木の傷口と、小鈴が作業をしているのを、静かに見ていた。

 小鈴は作業を続けながら、蘭妃に声をかけた。

「折れた枝の先を、水に挿しています。うまくいくか分からないのですが、試してみたくて」

「見ていました」

「白蘭の水挿しは、難しいこともあります。もしかしたら根が出ないかもしれない。でも、芽があったので、やってみようと思いました」

 蘭妃は答えなかった。

 折れた白蘭の枝が水に差してある花入れを、しばらく見ていた。枝の先に、小さな芽がある。来春に向けて準備していた芽が、まだそこにある。

 それから蘭妃が言った。

「折れたものにも、続きはあるのですね」

 声が静かだった。

 小鈴は刷毛を止めて、蘭妃を見た。蘭妃は古木の幹を見ていた。大きな傷口が残った幹を。五年間、花殿の庭に立ってきた白蘭の古木の、今朝の傷口を。

「あります。木はすぐには死なないです。傷ついても、次の春に向けて力を蓄えます。枝が折れても、また別の枝が伸びる。古い木ほど、底に力を持っています」

「そうですか」

「古木は強いです。傷口が癒えるのに時間がかかることもありますが、それだけ長く生きてきた分、折れることへの慣れが、たぶん幹の中にある」

 蘭妃は小鈴を見た。

「花農家らしい言い方ですね」

「……難しい言い方が分からないので」

「そのままでいいです」

 蘭妃がまた古木を見た。傷口のそばの、傷ついていない部分の皮が、朝の光の中で静かに光っていた。


 その日の午後、沈女官長が花殿へ来た。

 台風の後の様子を確認しに来たのかもしれなかった。庭の被害を一通り見てから、小鈴が水に挿した白蘭の枝を見て、「やっているのですか」と言った。

「はい。うまくいくか分からないですが」

「発根促進剤を使いましたか」

「持ってきていなくて」

「花寮にあります。使いなさい。白蘭の水挿しは、助剤があった方が成功率が上がります」

 また花寮へ走った。

 発根促進剤を切り口に少し塗って、水に戻した。沈女官長が花殿へ来るまでの時間、切り口が水の中にあったので、状態はまだよかった。

 沈女官長は花入れの水を少し替えてから、幹の傷口を確かめた。小鈴が塗った保護剤を見て、「よくやりました」と言った。

「来春、新芽が出れば、古木は大丈夫です。傷が残っても、花は咲きます」

「白蘭は、傷ついても咲けますか」

「咲きます。傷口の周りから、新しい皮が出てきます。時間はかかるが、木は諦めない」

 沈女官長らしい言い方だった。余分がなくて、でも確かなものがある。


 夕方、小鈴が帰り支度をしていると、蘭妃が部屋から声をかけた。

「今日は一日、ありがとう」

「いいえ。台風の後でしたから、気になって」

「白蘭のことも」

「まだ分かりません。根が出るかどうかは、もう少し時間が要ります」

「それでも、やろうとしてくれたことが」

 蘭妃が縁側まで出てきた。夕方の光の中で、古木の傷口を見た。保護剤が乾いて、傷口が少し落ち着いて見えた。

「この木は、わたくしが花殿へ来たときからありました。最初の冬に、花が咲いているのを見て、この宮でいちばん好きな木だと思いました」

「五年間、一緒にいたのですね」

「ええ。毎年春に咲いて、夏に葉を茂らせて、秋に落ち着いて、冬に力を蓄える。それを五回、見てきました。わたくしが花殿にいる時間と、ほぼ同じだけ、この木がそこにいた」

 小鈴は古木を見た。傷口はあるが、他の枝はまだ力を持っていた。来春、また花が咲くだろう。

「来春も、咲くと思います」

「そうですね」

「もし水挿しがうまくいったら、新しい株もできます。古木と同じ白蘭が、別の鉢で育つことになります」

「その鉢も、花殿に置けますか」

「はい。来春、根が出たら鉢に植えて、ここに置きます」

 蘭妃が少し目を細めた。

「では来春が、また楽しみになりました」

 来春。小鈴の中に、来春の花殿の庭が浮かんだ。萩は今年しっかり根を張っていれば、来春には力強くなっている。小菊も、来年はもっとよく咲く。水仙の球根が冬を越して、白い花を出す。そして白蘭の古木が、傷口に新しい皮を纏いながら、また白い花を開く。

 もしかしたら、水挿しから育った小さな株も、最初の花を見せるかもしれない。

「来春、一緒に見ます」


 帰り道、小鈴は今日のことを思い返した。

 台風が来て、白蘭の枝が折れた。荒れた庭に、葉が積もった。それでも、折れた枝を水に挿した。保護剤を塗った。支柱を直した。

 折れたから終わりではない。傷ついたから終わりではない。

 蘭妃が「折れたものにも、続きはあるのですね」と言った。その声の静けさが、今も耳に残っていた。あの声は、白蘭の枝だけのことを言っていなかったと、小鈴には分かっていた。

 花殿に来て五年。寵愛を失って、人前に出なくなって、静かな宮に引きこもった五年間。傷ついた幹のように、外からは分かりにくいが、内側では力を蓄えていた時間があった。

 そして今、少しずつ、新しい芽が出始めている。

 曜様が来るようになって、花暦を一緒につけるようになって、月下美人の夜を待つようになって、来年の約束が増えていく。それが全部、続きだった。折れた枝の、続き。

 花は諦めない、と沈女官長が言った。

 木は諦めない。傷口の周りから、新しい皮が出てくる。時間はかかるが。

 小鈴は花寮への道を歩きながら、水に挿した白蘭の枝を思った。

 花入れの中で、今夜も水を吸っているだろうか。切り口から、少しずつ根になろうとするものが出てきているだろうか。

 見えないところで、確かに続いている何かがある。

 根が出るかどうかは、まだ分からない。でも、水に挿した。それで今日は、十分だった。

 来春が、また楽しみになった。


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