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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第七章 見られる花殿 後編


 そのとき、庭の方で軽い足音がした。

 石畳を急がずに渡ってくる、小さめの足音だった。

 次いで、くぐり戸のあたりで誰かが立ち止まる気配がする。

 杏華の肩が、ごくわずかに動いた。

 蘭妃も顔を上げる。

 間もなく、縁側の方から少し弾んだ声がした。

「……入ってもよろしくて?」

 曜様の声だった。

 いつものように、明るく響く声。

 けれど今日は、その一言が部屋の中へ届いたとたん、小鈴は胸のあたりが小さく揺れるのを感じた。

 今朝、花寮で聞いた噂。

 曜様が花殿へよく来ること。

 それがもう、人の口にのぼっていること。

 その全部を知ったあとで聞く曜様の声は、昨日までとは少し違って聞こえた。

 障子が開いて、曜様が顔をのぞかせる。

 明るい色の衣に春の光をまとって、目だけが先に部屋の中を見回した。

「おはようございます、蘭妃」

「おはようございます、曜様」

「あ、小鈴もいたのね」

「はい。ちょうど今、花を替え終えたところです」

 曜様はそこで白蘭へ目を向け、「今日もきれい」と素直に言いかけて、ほんの少しだけ声を止めた。

 部屋の空気がいつもと違うことに気づいたのかもしれない。

「……何かあったの?」

 問いかけは小さかった。

 さっきまでの弾んだ調子が、ひとつ分だけ下がっていた。

 小鈴はとっさに返事ができず、杏華もすぐには口を開かなかった。

 その短い沈黙のあとで、蘭妃が穏やかに答える。

「いいえ。少し、風の話をしていただけです」

 曜様は首をかしげた。

「風?」

「春は、よく目につく季節ですから」

 曜様は意味を測りかねる顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 代わりに縁側へ上がって、部屋の中をいつもより少し慎重に見回す。花、卓、蘭妃の顔、杏華の立ち位置、小鈴の膝元――そうしてから、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

「それなら、わたくしは静かにしています」

 その言い方が妙に真面目で、小鈴は思わず少しだけ目を丸くした。

 曜様自身も、自分がそう言ったことに照れたのか、すぐに白蘭の方へ顔を向けてしまう。

「……でも、花は見てもいいでしょう?」

 蘭妃の口元が、かすかにやわらいだ。

「ええ。花は見てもかまいません」

「では、静かに見ます」

 曜様はそう言って、いつもよりずっとそろそろと縁側へ上がった。

 静かにする、と自分で言ったせいか、足音まで控えめだった。衣の裾を引っかけないよう気をつけながら、卓のそばへ寄る。その慎重さが、かえって年相応で、小鈴は胸の奥で少しだけ息をついた。

 曜様は白蘭の前でしゃがみこんだ。

 近づきすぎないようにしているのが分かる。顔を寄せて香りを嗅ぎたいのを我慢しているらしく、背筋が妙にぴんとしていた。

「……本当に、きれい」

 小さな声だった。

 でも、その小ささがかえって部屋の空気に合っていて、糸を張ったような静けさが、少しだけゆるむ。

 小鈴はほっとしながら、花入れの水滴を布で拭った。

 曜様がいつものように無邪気に「今日は何の花」「昨日より咲いてる」などと話し出したら、さっきまでの会話が急に遠いものになってしまう気がしていた。けれど曜様は、よく分からないなりに何かを察しているらしい。言葉を慎重に選んでいた。

「この花、昨日より開いたの?」

 曜様が尋ねる。

「はい。少しだけ」

「じゃあ、今がいちばんよいところなのね」

「たぶん、今日の昼すぎから明日くらいまでが、いちばんきれいです」

「そう」

 曜様は満足そうに頷いた。

 それから、白蘭を見たまま、少し考えるような顔になる。

「花って、きれいなときほど、みんな見るのね」

 その一言に、小鈴の手が止まった。

 蘭妃も杏華も、何も言わなかった。

 曜様自身は深い意味で言ったのではないのだろう。ただ、さっきの話をうまく理解できないまま、自分なりに受け取ったことをそのまま口にしただけだ。

 けれど、その素直な言い方は、妙にまっすぐだった。

「……そうかもしれません」

 小鈴が答えると、曜様は振り向いた。

「でも、見られるのは悪いこと?」

 それはさっき小鈴が蘭妃にしたのと、少し似た問いだった。

 ただ曜様の言葉には、もっと幼い単純さがある。良いか悪いか、好きか嫌いか、そういう形で世界を測る年頃の、まっすぐな問いだった。

 蘭妃が静かに答える。

「悪いこととは限りません」

「限らないの」

「ええ。けれど、目に留まるものには、それだけ風も当たります」

「風……」

 曜様は少し考えて、それから白蘭へもう一度目を向けた。

「でも、この花は、隠しておくのはかわいそう」

 小鈴は思わず顔を上げた。

 曜様は自分の言葉を飾ることがない。思ったことをそのまま言う。だから、ときどき驚くほど核心に触れる。

 蘭妃の目元が、ほんの少しだけゆるんだ。

「そうですね」

「でしょう?」

 曜様は少しだけ嬉しそうに言って、でもすぐに「あ」と声を小さくした。

「わたくし、静かにすると言ったのだった」

 その言い方があまりに律儀で、小鈴はこらえきれず、少しだけ笑ってしまった。

 声に出さないようにしたつもりだったが、肩がわずかに揺れたのを曜様に見つかったらしい。

「笑った」

「……すみません」

「いいの。静かにしていても、おかしいものはおかしいもの」

 曜様はそう言ってから、急に蘭妃の方を見た。

「蘭妃も、少しだけ笑ったでしょう」

「さあ、どうでしょう」

「笑いました」

「曜様には、そう見えたのですね」

 蘭妃の答えは相変わらず静かだったが、そのやりとり自体がもう、さっきまでの張りつめた空気とは少し違っていた。

 部屋の中に、人がいる。白蘭があり、朝の光があり、四人の呼吸が重ならずにちゃんと同じ場所にある。小鈴はそのことを、改めて胸の内で確かめた。

 杏華が無言で小卓を引き寄せた。

 茶の支度をするつもりらしい。曜様が来た日には珍しくないことだったが、今日はその動きが、部屋の空気をさらに一段だけ落ち着かせるものに見えた。

 小鈴もすぐに立って、湯の支度を手伝おうとした。

 すると曜様が先に言った。

「わたくしも、今日は騒がずにお茶を飲みます」

「騒いだことがありましたか」

 蘭妃が穏やかに問うと、曜様は少しだけ言葉に詰まった。

「……少しはあるかもしれません」

「少し、ですか」

「少しより少し多いくらい」

「それは、かなりですね」

「蘭妃」

 そのやりとりに、小鈴は今度ははっきり笑いそうになって、あわてて口元を押さえた。

 曜様も、部屋が少しほぐれたのを感じたのか、ようやく肩の力を抜いたようだった。

 茶が入るころには、朝のかたさはずいぶん薄れていた。

 曜様は本当に静かにしていようと努めているらしく、茶器を持つ手つきまで丁寧だった。ときどき白蘭の方を見て、何か言いたそうにしては飲み込み、それでも我慢しきれずに「……やっぱり今日の方がきれい」と小さく言う。そういう一つ一つが、妙に可笑しくて、そしてありがたかった。

 けれど、小鈴の胸の奥には、別の感覚も残っていた。

 曜様がここにいる。

 そのこと自体が、もう人の口にのぼっている。

 いまこうして茶を飲んでいるこの時間が、花殿の中だけで完結するものではないのかもしれない。

 茶が終わり、曜様が帰るころには、光が少し高くなっていた。

「今日は本当に静かだったでしょう」

 立ち上がりながら、曜様が言う。

「ええ、とても」

 蘭妃が答える。

「では、また静かに来ます」

「曜様」

 杏華がごく静かに呼ぶ。

「はい?」

「お足元にお気をつけ下さい」

「それはいつものこと」

「今日は、いつもよりも」

 曜様は一瞬きょとんとして、それから杏華の顔を見た。

 たぶん、言葉の全部は分かっていない。けれど、いつもより少し気をつけた方がよいと言われていることだけは伝わったらしい。

「……はい」

 曜様は珍しく素直に頷いた。

「では、本当に気をつけます」

 そう言って部屋を出ていき、縁側を渡り、庭を横切っていく。

 その背を、小鈴は見送った。

 春の色の衣が白蘭の下を通る。

 花殿へ通う曜様の姿は、小鈴にはもう見慣れたものだった。見慣れていたのに、その日は初めて、あの小さな背中が、ただそこを歩いているだけではないように見えた。

 くぐり戸が閉まって、庭に静けさが戻る。

 小鈴は茶器を下げるのを手伝いながら、ぽつりとこぼした。

「曜様は、何も悪いことをしていないのに」

 自分でも、誰に向けた言葉なのか分からなかった。

 曜様に対してかもしれないし、今朝の花寮の声に対してかもしれない。あるいは、どうしてこういう気持ちになるのか分からない自分自身へ向けてだったのかもしれない。

 杏華が茶器を重ねる手を止めずに言う。

「ええ」

 短い相槌だった。

 それから、もう一つ言葉が続く。

「曜様は悪くありません」

 小鈴は顔を上げた。

 杏華は卓の上の茶こぼしを布で拭いながら、視線を落としたままだった。

「けれど、悪くないことで揺れるのが後宮です」

 その声音は低く、静かで、少しも揺れていなかった。

 だからこそ、その言葉の重さだけが部屋の中へ残った。

 小鈴は何も言えなかった。

 悪くないこと。

 花を替えること。茶を飲むこと。曜様が来ること。部屋に声があること。

 そのどれもが悪くない。悪くないはずなのに、場所が変われば揺れる。

 それが、後宮なのだろう。

 蘭妃は窓の外を見ていた。

 白蘭の花びらが一枚、枝先で光を受けている。落ちそうで、まだ落ちない。その白さがやけに目についた。

 小鈴はその花を見ながら、自分の中でも何かが少し変わったのを感じていた。

 花殿は好きだ。

 ここに来て、水を替えて、茶の湯気が立つのを見るのが好きだ。曜様の声がして、杏華が無言で茶器を置いて、蘭妃が静かに花を見る、その時間が好きだ。

 でも好きだと思うことと、それを無邪気に守れることは、どうやら同じではないらしい。

 その日の帰り道、石畳を踏む足音は朝よりも静かだった。

 塀の向こうに白蘭の梢が見える。風はなく、花はただそこに咲いているだけなのに、見られるものには、それだけで風が当たるのだと蘭妃は言った。

 花寮へ戻る前に、小鈴は一度だけ足を止めた。

 花籠の中はもう空で、白蘭の香りだけがかすかに残っている。

 よいことを、よいまま続けるには。

 そのためには、たぶん花だけを見ていては足りない。

 小鈴は籠を抱え直して、また歩き出した。

 花殿へ通う道は、もう迷わない。

 けれど、ここから先は、道が分かるだけでは足りないのかもしれなかった。

 その夜、小鈴は部屋へ戻ってから、灯りのそばに帳面をひらいた。

 花の水替えのこと。白蘭の具合。新しい水差しは口が広く、やはり使いやすかったこと。

 曜様が来て、今日は静かにすると言って、本当に少しだけ静かだったこと。

 書けることはいくつもあるはずだった。

 けれど筆を持つと、どの言葉も少しずつ違う気がした。

 花殿の空気が変わったことを、よいことだと書いてしまってよいのか分からない。曜様の声で部屋がやわらいだことも、本当だった。でもその本当を、そのまま言葉にしてしまうと、昼のあいだ胸の奥に残っていた、あの見えない風まで一緒に呼びこんでしまう気がした。

 小鈴は筆を置いて、指先で帳面の端をなぞった。

 悪くないことで揺れるのが後宮です。

 杏華の声が、まだ耳の奥に残っている。

 悪くないこと。

 花が長く持つこと。

 茶の湯気が立つこと。

 曜様が笑うこと。

 蘭妃が少しだけやわらかい目をすること。

 それを守りたいと思うのは、きっと悪いことではない。

 でも、守りたいと思うだけでは守れないのかもしれない。

 帳面の白い頁を見つめたまま、小鈴は小さく息をついた。

 何も書かずに閉じてしまおうかと思ったが、それも違う気がした。

 少し迷ってから、ようやく一行だけ書く。

 花はきれいに咲くほど、風に気づかれやすい。

 書いてしまうと、その言葉は思っていたより静かだった。

 怖い言葉ではなく、覚えておいた方がよいことのように見えた。

 小鈴は帳面を閉じ、灯りを吹き消した。

 暗くなった部屋の中で、昼の白蘭を思い出す。

 卓の上で静かにひらいていた白い花。曜様の小さな声。蘭妃の「騒がぬことも大切です」という、やわらかく細い声。杏華の、揺れない声。

 明日もまた、花殿へ行く。

 花を替えて、水を見て、たぶん同じように白い花がひらく。

 けれど明日は、今日と少しだけ違う目で、あの部屋を見ることになるのだろうと、小鈴は思った。

 そのまま目を閉じると、眠りの手前で、白蘭の香りだけがかすかに残った。

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