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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第七章 見られる花殿 前編

 今朝の花寮は、いつもより少しだけ声が多かった。

 春も終わりに差しかかり、仕入れの花が増えているせいもある。桜は終わり、桃も盛りを過ぎかけて、代わりに白蘭と芍薬が花寮の棚に並ぶようになった。香りの種類が増えると、人の声もなぜか増える。小鈴はそれを、ここへ来てからなんとなく知った。

 白蘭の茎をそろえながら、隣の卓にいる年上の宮女たちの声が耳に入る。

「花殿の花、最近はずいぶん持つらしいわね」

「そうそう。この前、三日前の白蘭がまだきれいだったって」

「誰が行っているのだっけ。あの新入りでしょう」

 手元が、ほんの少しだけ止まった。

 止めたつもりはなかったが、白蘭の切り口を揃えていた指先が、一瞬だけためらった。小鈴は何も聞こえていないふりをして、花の茎を水桶の中でそっと回す。切り口の新しいものほど、水をよく吸う。今日は昨日より気温が高いから、いつもより少しだけ深く水を含ませた方がいい。

「曜様もよくおいでになるんですって」

「花殿に?」

「そうよ。迷いこんだのがきっかけで、って話だけど」

「迷うような場所でもないでしょうに」

「でも、あそこ最近、少し空気が変わったって聞くわ」

 小鈴は白蘭を三本、籠に移した。

 言い返したいわけではなかった。けれど、空気が変わった、という言葉には少しだけ胸が動いた。変わったのなら、よかったと思う。最初に花殿へ行った日の、あの息をつめたような静けさを小鈴はまだ覚えている。白蘭の古木が咲いていても、どこか花まで息をひそめているようだった庭。花が早く傷むのは、花のせいではない。たぶん、その場所が少しだけ息をしづらいだけだと、あの日そう思った。

 今も花殿は静かだ。静かだけれど、前とは違う静けさになった気がしている。

 水差しが光を受けるようになった。花入れの内側はきれいになった。曜様の声がときどき庭に響く。杏華は相変わらず口数が少ないが、茶器を出す手つきは前より迷いがない。蘭妃が花を見て、ほんの少し長く視線をとめる日もある。

 それはたぶん、よい変化なのだと思う。

 けれど、隣の卓の宮女たちの声には、よいとも悪いとも言いきれない、薄い笑いが混じっていた。

「花寮の新入りが、ずいぶん熱心なのね」

「熱心というか、肩入れしすぎではなくて?」

「まあ、ああいう宮ほど、親切にされると目立つものよ」

 最後の一言は、やけに静かに耳へ残った。

 小鈴は白蘭の籠を抱え直し、芍薬の仕分け札へ目を落とした。薄紅は珠麗妃の宮、白は北の宮、深紅はまだ振り分けが決まっていない。どの花がどこへ行くのか、花寮では朝のうちにほとんど決まる。咲く場所ではなく、届け先で値打ちが決まる。それが後宮だと、入ったばかりの頃に教わった。

 その理屈は、花だけのことだと思っていた。

 けれど今、もしかすると人もそうなのかもしれないと、小鈴はぼんやり考えた。誰がどこへ通うのか。誰が誰の宮へ出入りするのか。ただそれだけのことで、言葉の重さが変わってしまう場所なのかもしれない。

「小鈴」

 名を呼ばれて顔を上げると、沈女官長がいつの間にかすぐ近くに立っていた。小鈴はあわてて背をのばす。

「はい」

「今日の花殿は白蘭三本。水差しの洗い替えも持っていきなさい」

「はい」

「それから」

 沈女官長はそこで一度言葉を切った。いつものように無駄のない声だったが、今日はほんの少しだけ低かった。

「寄り道をしないこと。届けたら、余計な場所を見ず、そのまま戻りなさい」

 小鈴は目を瞬いた。

「……はい」

 注意されるようなことをした覚えはなかった。けれど沈女官長はそれ以上説明せず、帳簿の方へ戻っていった。問い返す間もなかった。

 籠の中で、白蘭が朝の光を受けていた。真白い花びらは静かにひらいている。傷のないものを選んだつもりだったが、小鈴は念のため、いちばん外側の花びらの端まで指先で確かめた。

 大丈夫。今日はどの花もきれいだ。

 それなのに、胸のあたりだけが少し落ち着かなかった。

 花殿への道は、もう迷わず歩けるようになっていた。角をいくつ曲がるか、どの廊下の先に風の抜ける庭があるかも、体が覚えはじめている。けれどその朝は、同じ道のはずなのに、石畳の音がいつもより硬く響いた。

 塀の向こうに、花殿の白蘭の梢が見える。

 小鈴は籠を抱えたまま、小さく息をついた。

 花が長く持つことは、よいことのはずだった。

 部屋に人の声があることも、きっと悪いことではない。

 なのに、よいことは、ときどき目立つ。

 そして目立つものを、人は黙って見逃してはくれないらしかった。

 くぐり戸の前まで来ると、今日は門が半ばまで開いていた。

 いつもなら、庭のどこかに杏華の気配がある。縁側の柱を拭いていることもあれば、鉢の土を見ていることもある。小鈴が門をくぐるころには、だいたい向こうも気づいていて、無言のままこちらを見る。その視線に迎えられているのか、見定められているのかは、いまだによく分からない。

 けれど今日は、小鈴が門のところで足を止めるより先に、杏華が姿を現した。

 くぐり戸の影から出てきて、まっすぐ小鈴の方を見る。相変わらず隙のない立ち姿だったが、どこかいつもより早い。待っていた、というほどではないにせよ、小鈴が来るのを承知していた顔だった。

「おはようございます」

 小鈴が頭を下げると、杏華もごく浅く頷いた。

「おはようございます」

 それだけ言って終わるかと思ったが、杏華は続けた。

「今日は寄り道をせず、そのままお入りなさい」

 小鈴は顔を上げた。

「……はい」

 寄り道をしたことはない。花を届けて、水を替えて、器を整えて、必要なら茶の支度を少し手伝って、それから帰る。それだけだ。けれど杏華の言い方は、まるで門の外に余計なものでも落ちているから踏むな、と言っているようだった。

 小鈴は籠を抱え直し、門をくぐった。

 庭には朝の光が差していた。白蘭の古木の下に、花びらが二枚落ちている。風は弱く、石畳も乾いていて、見たところ何も変わったところはない。変わらない庭だった。なのに、杏華の言葉があるだけで、庭の静けさが少し違って聞こえる。

 縁側へ上がろうとしたとき、小鈴はそっと聞いた。

「あの……何かあったのですか」

 杏華は立ち止まらなかった。

「何も」

 短い返事だった。

 でも本当に何もないときの杏華は、もっと言葉が少ない。何もないなら、わざわざ何もと言わない。小鈴はそう思ったが、口には出さなかった。

 廊下を進むあいだ、杏華は一度も振り返らなかった。案内しているというより、進むべき方向を先に歩いているだけ、という感じだった。それでも歩幅はほんの少し、小鈴に合わせてあった。

 蘭妃の部屋の前で、杏華がようやく足を止めた。

「蘭妃様。花寮の小鈴が参りました」

 中から少し間があって、静かな声が返る。

「どうぞ」

 杏華が障子を開けた。

 室内へ入ると、蘭妃は窓際の椅子に座っていた。薄い色の衣に朝の光が差して、輪郭がやわらかく見える。膝の上には綴じられていない紙が二、三枚置かれていたが、小鈴が入ってくると、蘭妃はそれをそっと重ねて脇へ寄せた。

「おはようございます、蘭妃様」

「おはようございます、小鈴」

 いつも通りの声だった。

 それだけで、小鈴の肩のあたりの力が少し抜けた。

 卓の上の花入れを見る。昨日の白蘭がまだきれいだった。花びらの縁も傷んでいない。水も濁っていない。ちゃんと持っている。小鈴はそれを見て、少しだけほっとした。

「今日は新しい水差しも持ってまいりました」

「そうですか」

「花寮の洗い替えです。口が広いので、白蘭の茎が少し楽だと思います」

「見せてちょうだい」

 小鈴は布に包んだ水差しを取り出して、両手で差し出した。白磁の、素朴な形のものだった。古びてはいるが、内側はきれいに洗ってある。蘭妃は手に取って、口縁の厚みを確かめるように一度指でなぞった。

「軽いのですね」

「はい。水を替えるときも持ちやすいと思います」

「……そう」

 蘭妃はそれを杏華へ渡した。杏華は無言で受け取り、卓の脇へ置く。その手つきは丁寧だったが、やはりどこかいつもより固い。

 小鈴は籠から今日の白蘭を取り出した。三本とも朝の冷えをまだ残していて、花びらの白さが澄んでいる。一本ずつ茎先を確かめながら、花入れの前へ膝をつく。

 切り戻しをしていると、室内の静けさが少し気になった。

 いつも静かな部屋ではある。蘭妃は口数が多い人ではないし、杏華はなおさらだ。けれど今日は、静けさがいつもより薄く張っている。うまく言えないが、部屋の中の空気が少しだけ糸を張ったように感じる。

 小鈴は花を活けながら、思い切って口を開いた。

「あの……」

 自分の声が、思ったより小さく出た。

 蘭妃が視線を向ける。

「どうしました」

「花寮で、少しだけ……花殿のお話をしている方たちがいました」

 言ったあとで、やはり言わない方がよかったかもしれないと思った。噂など、運んできてよいものではない気もする。けれどもう遅い。

 蘭妃はすぐには答えなかった。

 小鈴の手元の白蘭を見て、それから小鈴の顔へ視線を戻した。

「どのような話を」

 責めるような声ではなかった。

 ただ、曖昧にしないための尋ね方だった。

 小鈴は花びらを傷つけないよう、そっと最後の一本を整えた。

「最近、花殿の花が長く持つとか……曜様がよくおいでになるとか、その……少し、空気が変わったと」

 そこまで言って、小鈴は指先を止めた。

 言葉にしてしまうと、今朝花寮で聞いたものが、ただの雑音ではなく、形のあるものになってしまう気がした。

 蘭妃は窓の外へ目を向けた。

 庭の白蘭の梢が、風もないのにわずかに揺れて見えた。

「そうですか」

 それだけだった。

 驚きも、怒りも、なかった。

 けれど何も感じていない言い方でもなかった。小鈴には、その短いひと言の奥に、もっと長い時間のようなものがある気がした。

 花殿が話題になること。

 見られること。

 人の口にのぼること。

 蘭妃にとって、それは初めてではないのだろうと、ふいに小鈴は思った。

 杏華が、部屋の隅で静かに口を開いた。

「動き始めたものは、目につきます」

 その声はいつも通り低く、乱れがなかった。

 けれど小鈴には、その言葉が誰に向けたものなのか分からなかった。自分への説明なのか、蘭妃への確認なのか、それとも杏華自身が長く守ってきたことの言い直しなのか。

 蘭妃はしばらく何も言わなかった。

 それから、卓の上の白蘭へ視線を落として、穏やかな声で言った。

「人は、止まっているものより、動き始めたものを見るのです」

 小鈴はその言葉を、胸の内でそっと繰り返した。

 止まっているものより、動き始めたものを見る。

 確かにそうかもしれなかった。花だって、蕾のままのときより、ひらきかけたときの方が目を引く。ずっとそこにあった枝より、今朝ひとつ落ちた花びらの方が、なぜか気になることがある。

「では……よくないことでしょうか」

 小鈴はおそるおそる聞いた。

 蘭妃は少しだけ目を細めた。

 すぐには答えず、まるでその問いを一度手のひらにのせて、重さを確かめるみたいに沈黙した。

 やがて、穏やかな声が落ちてくる。

「よいことか悪いことかは、すぐには決まりません」

 小鈴は顔を上げた。

 蘭妃は窓の外を見たまま、続けた。

「花が長く持つのは、よいことです。部屋に人の声があるのも、悪いことではありません。けれど、後宮では、よいことがそのまま穏やかに受け取られるとは限りません」

「……はい」

「ですから、騒がぬことも大切です」

 声はやわらかかった。

 けれど、その言葉は障子の桟のように、細く、しっかりと部屋の中に通っていた。

 小鈴は膝の上に置いた手をそっと握る。

 騒いだつもりはない。誰かに誇らしげに話したこともない。ただ、花を替えて、器を洗って、茶をいれて、そうしているうちに部屋の空気が少し変わっていっただけだ。

 けれど変わった、ということ自体が、ここでは静かにしていなければならないものなのだろう。

 蘭妃が白蘭へ視線を落とした。

「せっかく咲いたものほど、風に気づかれやすいのです」

「風、ですか」

「ええ。人の目と言い換えてもよいでしょう」

 小鈴は白蘭を見た。

 今日の花はどれも傷がなく、水もよく吸いそうだった。きれいに咲くはずだと思う。けれど、きれいに咲くことが目につくのなら、花は少し損をしている気もした。

 その考えが顔に出たのか、蘭妃がごくわずかに口元をやわらげた。

「小鈴」

「はい」

「目立たぬように咲く花はありません」

 小鈴は瞬いた。

「ただ、咲き方を急がないことはできます」

「……咲き方を」

「ええ。急に華やげば、それだけ人は振り返ります。少しずつ変われば、気づかれないこともある」

 それは花の話のようでもあり、花殿そのものの話のようでもあった。

 小鈴は返事をしようとして、うまく言葉が見つからなかった。

 代わりに、部屋の隅にいた杏華が言う。

「花殿は、ようやく息がしやすくなってきたところです」

 その言い方に、小鈴はそっと顔を向けた。

 杏華がこうして、自分から花殿のことを言葉にするのは珍しかった。

「ここで浮き立てば、また見られます」

 杏華は続けた。

「見られるだけならまだしも、何を見たことにされるか分かりません」

 小鈴はその言葉の意味を、完全には理解できなかった。

 でも、理解しきれないことごと胸の中へ沈んでいく感じがした。

 見られること。

 見たことにされること。

 その二つは違うのだろう。

 後宮では、たぶん大きく違う。

 しばらくのあいだ、誰も話さなかった。

 窓の外で、庭の白蘭が朝の光を受けている。花びらの影が障子へ淡く映って、風もないのに、光だけが少しずつ動いていた。

小鈴は、花入れの口元を指先で整えた。

 白蘭の向きが少しだけ右へ寄っていたので、茎をほんのわずかに回す。それだけで、卓の上の景色が落ち着いた。

 その小さな動きを見ていたのか、蘭妃がふと尋ねた。

「怖くなりましたか」

「……少しだけ」

 小鈴は正直に答えた。

 嘘をついても、たぶん蘭妃には分かる気がした。

「でも」

「でも?」

「花を替えるのを、やめたいとは思いません」

 言ってから、少しだけ不安になった。

 強すぎる言い方だったかもしれない。けれど本当だった。怖いとは思う。思うけれど、だからといって花殿の水差しをまた曇らせたくはなかったし、白蘭がすぐ傷む部屋へ戻したくもなかった。

 蘭妃は小鈴を見た。その目は静かで、細い光を含んでいた。

「そうですか」

 短い返事だった。

 だが今度の「そうですか」は、さっきのものとは少し違って聞こえた。受け流すのでなく、受け取ったあとの声音だった。

「では、なおさら騒がぬことです。続けるためには、続けられる形を選ばなければなりません」

「……はい」

 小鈴は頷いた。

 たぶん、今言われたことを全部分かったわけではない。でも、分からないままでも覚えておいた方がいい言葉だということは分かった。


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