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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第六章 杏華の目

 五月の花殿は、朝が早かった。

 日の出とともに鳥が鳴き、庭の木々が光を受けて青く揺れる。小鈴が花籠を持ってくぐり戸をくぐると、たいてい杏華はもう庭に出ていた。縁側を拭いているか、花入れの水を替えているか、蘭妃の部屋の窓を開けているか。何かしら、手を動かしていた。

 小鈴が花殿へ来るようになって、二ヶ月が経とうとしていた。

 最初の頃と比べると、杏華との間にある空気は変わった。警戒が消えたわけではないが、敵意ではなくなっていた。小鈴が庭に入っても「何をしに来たのですか」とは言わなくなったし、小鈴が花入れを動かしても咎めなくなった。ただ、黙って見ている。その目が何を思っているのかは、まだよく分からなかった。

 その日の朝、小鈴が縁側へ上がろうとすると、杏華が声をかけてきた。

「少し、よいですか」

 小鈴は足を止めた。杏華の方から声をかけてくることは、珍しかった。

「はい」

「昨日の白蘭、花びらが一枚落ちていました。茎の切り方を、少し変えてもらえますか」

 杏華は端的に言った。責めているのではなく、事実を告げている口調だった。

「花びらが落ちたのは、茎が短すぎて水の吸い上げが足りなかったためだと思います。もう少し長めに切って、斜めの角度を深くすると改善するかと」

 小鈴は少し驚いた。杏華が花の切り方について、そこまで具体的に言うとは思っていなかった。

「……杏華さんは、花のことをよくご存じなのですね」

「蘭妃様に長くお仕えしていれば、分かります」

 それだけ言って、杏華は縁側の雑巾を絞り直した。話が終わった、という仕草だった。

 でも小鈴は、もう少し聞きたくなった。

「杏華さんは、蘭妃様に長く?」

「今年の春で、六年になります」

短く、でも迷わずに言った。六年。小鈴はその歳月の長さを胸の中でそっとくり返した。蘭妃が花殿へ移る前から、杏華はそのそばにいたのだと、その言い方で分かった。

「……六年」

「それが何か」

「いいえ、すごいと思って」

 杏華は小鈴を一度見て、それから視線を庭へ戻した。何も言わなかったが、否定もしなかった。


 その日の仕事を終えて、小鈴が花入れを整えていると、曜様がいつものように来た。蘭妃の部屋に入って、しばらくして、今度は一人で縁側へ出てきた。

 小鈴が「曜様、どうされましたか」と尋ねると、曜様は縁側に腰を下ろして、庭を見ながら言った。

「蘭妃、少し疲れているみたい」

「そうですか」

「うん。目が、少し重そうだった。だから邪魔しないようにしてきた」

 曜様の言い方は素っ気なかったが、その判断は正確だと小鈴は思った。蘭妃が疲れているとき、曜様はちゃんとそれを察する。察して、部屋から出てくる。それは十二歳の子どもにできることではないかもしれないのに、曜様は当然のようにやっていた。

「曜様は、蘭妃様のことをよく見ていますね」

「そう?」 

曜様は少し首をかしげた。

「見ていないと、分からないから」

「何が分からないのですか」

「その人が、今どんな感じかが。声だけでは分からないことが、顔を見ると分かる。目が、とくに正直だと思う」

 小鈴はその言葉を聞きながら、杏華のことを思った。杏華も、蘭妃をよく見ている。六年間、ずっと。

 花殿には、蘭妃をよく見ている人が、もう一人いる。


 昼過ぎ、蘭妃が少し眠るということで、曜様は帰っていった。小鈴も帰るつもりで片付けをしていたが、庭の隅で杏華が何かをしているのが見えた。

 近づいてみると、杏華は古い香立てを分解して、丁寧に手入れをしていた。細かい部品を布で磨いて、詰まった灰を取り除いて、また組み直す。細かい作業だった。

「お手伝いしましょうか」

「結構です」

 即答だった。小鈴は引き下がりかけて、でも庭の端の方に、別の香立てがいくつか並んでいるのが目についた。全部、古びていた。

「……全部、手入れするのですか」

「蘭妃様が香を使われる前に整えておきたいので」

「蘭妃様は、香もお使いになるのですか」

「花の香りが届かない夜は。香りがないと、眠れないことがあるので」

 小鈴はそれを聞いて、少し胸が痛くなった。花の香りが届かない夜。花殿の夜に、蘭妃が一人でいることを、今更ながら思った。

「杏華さん」

「なんですか」

「花殿は、杏華さんが守っているのですね」

 杏華の手が止まった。ほんの一瞬だったが、確かに止まった。

「当たり前のことです」

「当たり前かもしれないですが、わたしが来る前から、ずっとそうだったんだと思って。花が長持ちしなくても、花殿がひっそりしていても、杏華さんはずっとここを守っていた」

 杏華は香立てを磨く手を再開させた。答えなかった。でも小鈴は続けた。

「花寮で、花殿の花は長持ちしないって言われていました。最初にそれを聞いたとき、わたしは場所のせいだと思っていました。息のしづらい場所だから、花も早く傷むんだって。でも今は、少し違うと思っています」

「何が違うのですか」

「花が傷んでいたのは、花のせいでも、場所のせいでもなかったと思います。ただ、整える手が少なかった。蘭妃様のお体の具合によっては、花入れの水替えも難しい日があるでしょうし、杏華さん一人では追いつかないことがあったと思います。それだけのことだったと思います」

 杏華はしばらく黙っていた。

 磨いた香立てを、ゆっくりと組み直しながら、言った。

「……あなたが来て、花の持ちがよくなりました」

「はい」

「蘭妃様が、花を長く見ていられるようになりました」

「はい」

「それは、認めます」

 認めます、という言い方が、杏華らしかった。褒めているのではなく、事実として認めている。でも杏華がそれを口にしたことは、小鈴には十分だった。


 その日の夕方、小鈴が最後の片付けをしていると、蘭妃の部屋から声がした。

 眠っていたはずだったが、目が覚めたらしい。杏華が部屋へ入っていく。小鈴は邪魔をしないよう、縁側の外で花入れの位置を直していた。

 部屋の中で、杏華の声がした。

「お加減はいかがですか」

 蘭妃の返事は聞こえなかったが、杏華が続けた。

「今日は小鈴が、花入れを全部整えてくれました。明日も来ると思います」

 また蘭妃の返事は聞こえなかった。でも、何か言ったらしかった。杏華が短く笑う声がした。杏華が笑うのを、小鈴は初めて聞いた気がした。

 小鈴は花入れから手を離して、庭を見た。

 夕方の光が庭の木々を橙色に染めて、梅の古木の影が石畳に長く伸びていた。白蘭の鉢が一つ、縁側のそばに置いてあって、夕光を受けて花びらがほんのり赤みを帯びている。

 花殿の静けさは、最初に来た日からずっとあった。

 でもその静けさが、今は違う種類のものに見えた。最初は、誰もいないような静けさだった。今は、誰かがいるからこその静けさだ。杏華が毎朝縁側を拭いて、蘭妃が花暦をつけて、曜様が来て笑う。その積み重ねの上に、静けさがある。

 放置されてきたのではなく、守られてきた静けさだった。

 小鈴はそれを、ようやく体で分かった気がした。


 翌朝、小鈴がいつものように花殿へ来ると、杏華が庭で鉢の位置を動かしていた。

 昨日まであった場所とは少し違う。蘭妃の部屋の窓から、ちょうど目に入る場所へ移してある。

 小鈴が「あら」と言うと、杏華が振り返って言った。

「あなたが芍薬を置いた場所の話を、蘭妃様がしていました。窓から見えるところに花があると、起きたときに気持ちがよいと」

「では、わたしも……」

「わたしがやります」

 また即答だった。でも今日の即答は、拒絶ではなかった。杏華が自分でやりたいと言っている。それはつまり、蘭妃のために自分が整えたいということだ。

 小鈴は「はい」と言って、引いた。

 杏華が鉢の向きを微調整している。花が窓からいちばんよく見えるよう、丁寧に角度を合わせている。その横顔は、いつもの無愛想な顔だったが、手つきはとても丁寧だった。

 六年間、この人はこうして整えてきたのだ。

 花が傷んでも、誰も来なくても、外から噂が入ってきても、杏華はここで、花殿の形を守ってきた。一人で。

 小鈴は、杏華の隣に並んで立って、鉢の向きを一緒に見た。

「もう少し右が、花が正面を向くと思います」

「……そうですか」

 杏華は鉢をほんの少し右へ動かした。

 花が、窓の方へ顔を向けた。

 二人でそれを確認して、どちらも何も言わなかった。でも、同じものを見ていた。


 その日の帰り道、小鈴は花寮への道を歩きながら、今日のことを考えていた。

 杏華のことを、最初は怖いと思っていた。次に、壁だと思っていた。でも今日から、少し違う見方ができる気がした。

 杏華は壁ではなく、門番でもなく、ただ蘭妃のそばにずっといた人だ。蘭妃が寵愛を失う前から、失った後も、花殿が静かになっていく中で、一人で守り続けてきた人だ。その六年分の重さを、小鈴はまだ全部は分からない。分かろうとするには、まだ自分は日が浅い。

 でも、同じ場所を整える者として、並んで鉢の向きを見ることはできた。

 それで今日は、十分だと思った。

 杏華との距離は、まだ遠かった。

 でも昨日より、少しだけ縮まっていた。

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