第五章 芍薬の置き場所
四月に入って、花寮に芍薬が届いた。
薄紅と白と、深い赤と。花びらが幾重にも重なって、まるく、重く、豊かに咲いている。花寮に運びこまれた朝、その香りだけで仕事場の空気ががらりと変わった。芍薬はそういう花だ。主張する。自分が来たことを、香りで先に知らせる。
小鈴は仕分けの仕事をしながら、芍薬を一本一本手に取って、状態を確かめていた。花びらの傷み、茎の固さ、水揚げの具合。どれを珠麗妃様の宮へ、どれを他の妃の宮へ。花寮の仕分けは咲き具合と格で決まる。いちばん形の整ったものが、いちばん格の高い宮へ行く。
仕分けが終わると、端の方に数本残った。
茎が少し短いもの、花びらの外側に小さな傷のあるもの。飾るのに十分きれいだが、格の高い宮には出せない。こういうものは花寮の中に飾るか、処分されるかだった。
小鈴はその芍薬を見ながら、しばらく考えた。
それから、沈女官長のところへ向かった。
「花殿へ持っていってもよいですか」
沈女官長は小鈴が指さした芍薬を一瞥して、問いかけた。
「蘭妃様が芍薬を好まれるかどうか、確認したことがありますか」
「……ありません」
「確認してから持っていきなさい。好みに合わないものを押しつけるのは、親切ではない」
小鈴は頷いた。それはそうだった。花を届けることと、花を押しつけることは、違う。
「それから、芍薬は香りが強い。蘭妃様のお体に合うかどうかも、よく見なさい」
その言葉が、小鈴の中に引っかかった。
お体に合うかどうか。
花の香りと、体の具合。何か関係があるのだろうか。小鈴には分からなかったが、沈女官長の言い方は、経験から来ているような重さがあった。
花殿へ着いて、いつものように水替えを済ませてから、小鈴は蘭妃に尋ねた。
「芍薬はお好きですか」
蘭妃は少し考えるような間を置いて、答えた。
「嫌いではありません。ただ……」
「ただ?」
「香りの強い日は、少し頭が重くなります」
小鈴はそこで、沈女官長の言葉を思い出した。お体に合うかどうかも、よく見なさい。
「香りで、体の具合が変わるのですか」
蘭妃は少しの間、何も言わなかった。
「……花の香りは、場所の空気を変えます。空気が変われば、体も多少影響を受ける。わたくしは少し、それに敏感なだけです」
敏感。でも小鈴には、それがただの敏感ではない気がした。蘭妃は花の香りで何かを感じ取っている。何を、とはまだ分からないが、花寮の誰よりも細かく、正確に。
「では、芍薬は控えた方がよいですか」
「いいえ。少量なら、むしろ好きです。花びらの色を見ていると、気持ちが落ち着くので」
「香りより、色の方が好きなのですか」
「香りも好きです。ただ、多いと疲れる。少し離れた場所に、一輪だけ、というのが好みです」
一輪だけ。少し離れた場所に。
小鈴はその言葉を、心の中でくり返した。
翌日、小鈴は余りものの芍薬を一本だけ持っていった。
薄紅の、花びらの外側にごくわずかな傷のあるもの。その傷は内側からは見えない。飾れば正面から見て美しく、傷のあることは分からない。
部屋に入ると、小鈴は芍薬を花入れに差さずに、手に持ったまま部屋の中を見た。
窓際、卓の上、棚の隅、縁側に近い柱のそば。
蘭妃は椅子に座って、それを黙って見ていた。不審がるでもなく、急かすでもなく、ただ待っていた。
「……どこに置けば、いちばん心地よいか考えています」
「そうですか」
「窓際は光が当たりすぎて、花びらが傷みやすいです。棚の隅は暗くて、せっかくの色が見えない。卓の上は食事のときに香りが強くなります」
「では」
「縁側に近い柱のそばに、細い花入れを一つ置けばどうかと思います。そこなら光が柔らかく、風も少し通る。香りが部屋の隅まで広がらずに、そこだけにある感じになると思います」
蘭妃は立ち上がった。
小鈴が驚いて見ていると、蘭妃は縁側に近い柱のそばへ歩いていって、そこに立って、部屋の中を見渡した。椅子のある場所から、そこまでの距離を確かめているようだった。
「……ちょうどよい距離です」
「そうですか」
「椅子から遠すぎず、でも正面ではない。意識しなければ気にならないが、ふと目を向けると、そこにある」
蘭妃の言葉を聞きながら、小鈴は細い花入れを棚から取り出した。白磁の、口の細いもの。先日小鈴が花寮から持ってきたものの一つだった。水を少し入れて、芍薬を一本差す。
柱のそばに置いた。
部屋の中に、薄紅の色が一点、現れた。
蘭妃が椅子に戻って、そこから芍薬を見た。少しの間、じっと見ていた。
「よいですね」
言い方が、いつもより少し素直だった。蘭妃が感想を言うとき、たいていは短く、必要なことだけ言う。でも今日の「よいですね」は、少しだけ余分を含んでいた。本当に、よいと思っている声だった。
その日の午後、曜様が来た。
部屋に入ってすぐ、芍薬に気づいた。
「あら、芍薬」
「はい。今日から置いてみています」
「一本だけ?」
「蘭妃様が、一本だけの方がよいとおっしゃっていましたので」
曜様は柱のそばへ近づいて、芍薬を近くで見た。そっと花びらに触れようとして、寸前で手を引いた。触ってよいか聞くことを忘れていたのだろう。曜様らしかった。
「触っても構いません」
小鈴がそう言うと、曜様は今度こそ、外側の花びらを一枚だけそっと撫でた。
「……やわらかい」
「芍薬はとくに花びらが薄くて、やわらかいんです」
「傷みやすい?」
「丁寧に扱えば、数日はきれいなままでいられます」
曜様は芍薬から離れて、蘭妃の椅子のそばに座った。今日は蘭妃が膝に薄い冊子を広げていて、曜様が「それ何?」と尋ねて、蘭妃が「花の記録です」と答えた。
小鈴は、その会話を聞きながら片付けをしていた。
花の記録。
蘭妃が花の記録をつけているとは、知らなかった。どんな記録なのか、尋ねてみたい気がしたが、今日はまだ踏み込む場所ではない気がして、そのまま黙っていた。
しばらくして、蘭妃が呼んだ。
「小鈴」
「はい」
「今日、あなたに聞いてもよいですか」
「……はい、なんでしょう」
蘭妃は冊子を膝に置いて、小鈴を見た。
「あなたは、花の香りで何か分かることがありますか」
小鈴は少し考えた。
「……花の状態は、香りで分かることがあります。水が切れてきた花は、香りが少し変わります。傷みかけた花も、同じように。嗅ぎ慣れると、花がそろそろ替え時だと教えてくれる感じがします」
「花の状態ではなく、場の状態、ということは」
「場の……」
「人が多くいた後の部屋と、誰もいなかった部屋は、花の香りの立ち方が違います。花が同じでも、空気が変わると香りが変わる。あなたはそういうことに気づきますか」
小鈴はもう少し考えた。
気づく、だろうか。意識したことはなかったが、確かに、人がいた後の部屋には何か残るものがある気がした。それが香りかどうかは分からないが、空気が違う、とは思う。
「……はっきりとは分かりません。でも、なんとなくは感じます」
「そうですか」
蘭妃は冊子に目を落とした。それ以上は何も言わなかった。
でも小鈴は、その問いが何かの入り口だったと感じた。蘭妃が花の香りで感じ取っているものが、ただの「敏感さ」ではなく、もっと具体的な何かではないかと。人の感情とか、体の具合とか、場の緊張とか。そういうものを、花の香りの変化として受け取っているのではないかと。
言葉にするのは難しかったし、確かめることもできなかった。でも、そういうことかもしれないと思った。
芍薬の薄紅が、柱のそばで静かに揺れた。外から風が入ってきて、かすかに香りが動いた。
蘭妃が、冊子から顔を上げないまま、少しだけ深く息を吸った。
その動作は、ほんのわずかで、小鈴だけが気づいた。
花の香りが、蘭妃の呼吸を整えていた。部屋の中に一本だけ置かれた芍薬が、多くなく、少なくなく、ちょうどよく、そこにあった。
それから小鈴は、花を届けるたびに、置き場所を少しだけ考えるようになった。
花入れをどこに置くか。花を何本にするか。香りの強いものは入り口に近い棚に、色を楽しむものは光の入る場所に。蘭妃が椅子から目を向けたとき、自然に花が視界に入るような場所に。
全部を一度に変えるのではなく、少しずつ、試しながら。
蘭妃は毎回何も言わなかったが、小鈴が置き場所を変えた日は、必ず一度、その花に目を向けた。それが答えだと思うようにした。
ある日、窓の近くに白蘭を置いてみたら、蘭妃が穏やかな声で言った。
「少し遠い方が、好きです」
「棚の上ですか」
「いいえ。その位置で、もう少し手前へ」
小鈴は花入れを動かした。蘭妃が「そこです」と言った。
二人で、花の居場所を決めた。
それはとても小さいことだったが、小鈴にはなぜか、大事なことのように思えた。花の居場所を決めるということは、この部屋の空気を一緒に作るということだ。どこに何があれば心地よいかを、一緒に考えるということだ。
花殿の部屋が、少しずつ、二人の手で整えられていく。
芍薬は今日も、柱のそばで薄紅の色を持っていた。香りは強くなく、でも確かにあって、部屋の空気の中に、静かに混ざっていた。
月が替わる頃、小鈴は気づいた。
花殿へ来るのが、仕事だと思わなくなっていた。
花寮での仕事は仕事だ。水替え、仕分け、花籠の準備。体を使って、決まった手順をこなす。それは好きだし、苦にならない。でも花殿でしていることは、それとは少し違う感じがした。
花を置く場所を考える。蘭妃の呼吸が楽になるかどうかを考える。曜様が来たとき、どんな花があれば喜ぶかを考える。杏華が花の水替えをしやすいように、花入れの位置を整える。
それは仕事の形をしているが、仕事というより、誰かのことを考えることに近かった。
小鈴はその違いを、うまく言葉にできなかった。でも毎朝、花殿へ持っていく花を選ぶとき、蘭妃の横顔を思い浮かべている自分に気づいた。今日の蘭妃に、どの花が合うだろうか。今日の空気に、何が要るだろうか。
この人を枯らしたくない、と思っていた。
初めてそう思ったのがいつだったか、もう分からない。でも今も、そう思っている。花が長持ちするように、水替えをして、置き場所を考えて、香りを整える。それと同じように、蘭妃がここで、ちゃんと息ができるように。
芍薬の季節は、もう少し続く。
小鈴は明日も花殿へ行く。




