表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

第五章 芍薬の置き場所

 四月に入って、花寮に芍薬が届いた。

 薄紅と白と、深い赤と。花びらが幾重にも重なって、まるく、重く、豊かに咲いている。花寮に運びこまれた朝、その香りだけで仕事場の空気ががらりと変わった。芍薬はそういう花だ。主張する。自分が来たことを、香りで先に知らせる。

 小鈴は仕分けの仕事をしながら、芍薬を一本一本手に取って、状態を確かめていた。花びらの傷み、茎の固さ、水揚げの具合。どれを珠麗妃様の宮へ、どれを他の妃の宮へ。花寮の仕分けは咲き具合と格で決まる。いちばん形の整ったものが、いちばん格の高い宮へ行く。

 仕分けが終わると、端の方に数本残った。

 茎が少し短いもの、花びらの外側に小さな傷のあるもの。飾るのに十分きれいだが、格の高い宮には出せない。こういうものは花寮の中に飾るか、処分されるかだった。

 小鈴はその芍薬を見ながら、しばらく考えた。

 それから、沈女官長のところへ向かった。


「花殿へ持っていってもよいですか」

 沈女官長は小鈴が指さした芍薬を一瞥して、問いかけた。

「蘭妃様が芍薬を好まれるかどうか、確認したことがありますか」

「……ありません」

「確認してから持っていきなさい。好みに合わないものを押しつけるのは、親切ではない」

 小鈴は頷いた。それはそうだった。花を届けることと、花を押しつけることは、違う。

「それから、芍薬は香りが強い。蘭妃様のお体に合うかどうかも、よく見なさい」

 その言葉が、小鈴の中に引っかかった。

 お体に合うかどうか。

 花の香りと、体の具合。何か関係があるのだろうか。小鈴には分からなかったが、沈女官長の言い方は、経験から来ているような重さがあった。


 花殿へ着いて、いつものように水替えを済ませてから、小鈴は蘭妃に尋ねた。

「芍薬はお好きですか」

 蘭妃は少し考えるような間を置いて、答えた。

「嫌いではありません。ただ……」

「ただ?」

「香りの強い日は、少し頭が重くなります」

 小鈴はそこで、沈女官長の言葉を思い出した。お体に合うかどうかも、よく見なさい。

「香りで、体の具合が変わるのですか」

 蘭妃は少しの間、何も言わなかった。


「……花の香りは、場所の空気を変えます。空気が変われば、体も多少影響を受ける。わたくしは少し、それに敏感なだけです」

 敏感。でも小鈴には、それがただの敏感ではない気がした。蘭妃は花の香りで何かを感じ取っている。何を、とはまだ分からないが、花寮の誰よりも細かく、正確に。

「では、芍薬は控えた方がよいですか」

「いいえ。少量なら、むしろ好きです。花びらの色を見ていると、気持ちが落ち着くので」

「香りより、色の方が好きなのですか」

「香りも好きです。ただ、多いと疲れる。少し離れた場所に、一輪だけ、というのが好みです」

 一輪だけ。少し離れた場所に。

 小鈴はその言葉を、心の中でくり返した。


 翌日、小鈴は余りものの芍薬を一本だけ持っていった。

 薄紅の、花びらの外側にごくわずかな傷のあるもの。その傷は内側からは見えない。飾れば正面から見て美しく、傷のあることは分からない。

 部屋に入ると、小鈴は芍薬を花入れに差さずに、手に持ったまま部屋の中を見た。

 窓際、卓の上、棚の隅、縁側に近い柱のそば。

 蘭妃は椅子に座って、それを黙って見ていた。不審がるでもなく、急かすでもなく、ただ待っていた。

「……どこに置けば、いちばん心地よいか考えています」

「そうですか」

「窓際は光が当たりすぎて、花びらが傷みやすいです。棚の隅は暗くて、せっかくの色が見えない。卓の上は食事のときに香りが強くなります」

「では」

「縁側に近い柱のそばに、細い花入れを一つ置けばどうかと思います。そこなら光が柔らかく、風も少し通る。香りが部屋の隅まで広がらずに、そこだけにある感じになると思います」

 蘭妃は立ち上がった。

 小鈴が驚いて見ていると、蘭妃は縁側に近い柱のそばへ歩いていって、そこに立って、部屋の中を見渡した。椅子のある場所から、そこまでの距離を確かめているようだった。

「……ちょうどよい距離です」

「そうですか」

「椅子から遠すぎず、でも正面ではない。意識しなければ気にならないが、ふと目を向けると、そこにある」

 蘭妃の言葉を聞きながら、小鈴は細い花入れを棚から取り出した。白磁の、口の細いもの。先日小鈴が花寮から持ってきたものの一つだった。水を少し入れて、芍薬を一本差す。

 柱のそばに置いた。

 部屋の中に、薄紅の色が一点、現れた。

 蘭妃が椅子に戻って、そこから芍薬を見た。少しの間、じっと見ていた。

「よいですね」

 言い方が、いつもより少し素直だった。蘭妃が感想を言うとき、たいていは短く、必要なことだけ言う。でも今日の「よいですね」は、少しだけ余分を含んでいた。本当に、よいと思っている声だった。


 その日の午後、曜様が来た。

 部屋に入ってすぐ、芍薬に気づいた。

「あら、芍薬」

「はい。今日から置いてみています」

「一本だけ?」

「蘭妃様が、一本だけの方がよいとおっしゃっていましたので」

 曜様は柱のそばへ近づいて、芍薬を近くで見た。そっと花びらに触れようとして、寸前で手を引いた。触ってよいか聞くことを忘れていたのだろう。曜様らしかった。

「触っても構いません」

小鈴がそう言うと、曜様は今度こそ、外側の花びらを一枚だけそっと撫でた。

「……やわらかい」

「芍薬はとくに花びらが薄くて、やわらかいんです」

「傷みやすい?」

「丁寧に扱えば、数日はきれいなままでいられます」

 曜様は芍薬から離れて、蘭妃の椅子のそばに座った。今日は蘭妃が膝に薄い冊子を広げていて、曜様が「それ何?」と尋ねて、蘭妃が「花の記録です」と答えた。

 小鈴は、その会話を聞きながら片付けをしていた。

 花の記録。

 蘭妃が花の記録をつけているとは、知らなかった。どんな記録なのか、尋ねてみたい気がしたが、今日はまだ踏み込む場所ではない気がして、そのまま黙っていた。


 しばらくして、蘭妃が呼んだ。

「小鈴」

「はい」

「今日、あなたに聞いてもよいですか」

「……はい、なんでしょう」

 蘭妃は冊子を膝に置いて、小鈴を見た。

「あなたは、花の香りで何か分かることがありますか」

 小鈴は少し考えた。

「……花の状態は、香りで分かることがあります。水が切れてきた花は、香りが少し変わります。傷みかけた花も、同じように。嗅ぎ慣れると、花がそろそろ替え時だと教えてくれる感じがします」

「花の状態ではなく、場の状態、ということは」

「場の……」

「人が多くいた後の部屋と、誰もいなかった部屋は、花の香りの立ち方が違います。花が同じでも、空気が変わると香りが変わる。あなたはそういうことに気づきますか」

 小鈴はもう少し考えた。

 気づく、だろうか。意識したことはなかったが、確かに、人がいた後の部屋には何か残るものがある気がした。それが香りかどうかは分からないが、空気が違う、とは思う。

「……はっきりとは分かりません。でも、なんとなくは感じます」

「そうですか」

 蘭妃は冊子に目を落とした。それ以上は何も言わなかった。

 でも小鈴は、その問いが何かの入り口だったと感じた。蘭妃が花の香りで感じ取っているものが、ただの「敏感さ」ではなく、もっと具体的な何かではないかと。人の感情とか、体の具合とか、場の緊張とか。そういうものを、花の香りの変化として受け取っているのではないかと。

 言葉にするのは難しかったし、確かめることもできなかった。でも、そういうことかもしれないと思った。

 芍薬の薄紅が、柱のそばで静かに揺れた。外から風が入ってきて、かすかに香りが動いた。

 蘭妃が、冊子から顔を上げないまま、少しだけ深く息を吸った。

 その動作は、ほんのわずかで、小鈴だけが気づいた。

 花の香りが、蘭妃の呼吸を整えていた。部屋の中に一本だけ置かれた芍薬が、多くなく、少なくなく、ちょうどよく、そこにあった。


 それから小鈴は、花を届けるたびに、置き場所を少しだけ考えるようになった。

 花入れをどこに置くか。花を何本にするか。香りの強いものは入り口に近い棚に、色を楽しむものは光の入る場所に。蘭妃が椅子から目を向けたとき、自然に花が視界に入るような場所に。

 全部を一度に変えるのではなく、少しずつ、試しながら。

 蘭妃は毎回何も言わなかったが、小鈴が置き場所を変えた日は、必ず一度、その花に目を向けた。それが答えだと思うようにした。

 ある日、窓の近くに白蘭を置いてみたら、蘭妃が穏やかな声で言った。

「少し遠い方が、好きです」

「棚の上ですか」

「いいえ。その位置で、もう少し手前へ」

 小鈴は花入れを動かした。蘭妃が「そこです」と言った。

 二人で、花の居場所を決めた。

 それはとても小さいことだったが、小鈴にはなぜか、大事なことのように思えた。花の居場所を決めるということは、この部屋の空気を一緒に作るということだ。どこに何があれば心地よいかを、一緒に考えるということだ。

 花殿の部屋が、少しずつ、二人の手で整えられていく。

 芍薬は今日も、柱のそばで薄紅の色を持っていた。香りは強くなく、でも確かにあって、部屋の空気の中に、静かに混ざっていた。


 月が替わる頃、小鈴は気づいた。

 花殿へ来るのが、仕事だと思わなくなっていた。

 花寮での仕事は仕事だ。水替え、仕分け、花籠の準備。体を使って、決まった手順をこなす。それは好きだし、苦にならない。でも花殿でしていることは、それとは少し違う感じがした。

 花を置く場所を考える。蘭妃の呼吸が楽になるかどうかを考える。曜様が来たとき、どんな花があれば喜ぶかを考える。杏華が花の水替えをしやすいように、花入れの位置を整える。

 それは仕事の形をしているが、仕事というより、誰かのことを考えることに近かった。

 小鈴はその違いを、うまく言葉にできなかった。でも毎朝、花殿へ持っていく花を選ぶとき、蘭妃の横顔を思い浮かべている自分に気づいた。今日の蘭妃に、どの花が合うだろうか。今日の空気に、何が要るだろうか。

 この人を枯らしたくない、と思っていた。

 初めてそう思ったのがいつだったか、もう分からない。でも今も、そう思っている。花が長持ちするように、水替えをして、置き場所を考えて、香りを整える。それと同じように、蘭妃がここで、ちゃんと息ができるように。

 芍薬の季節は、もう少し続く。

 小鈴は明日も花殿へ行く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ