第四章 春の茶と小さな卓
花殿に茶器が三客しかないことを知ったのは、曜様が来るようになってしばらくしてからだった。
ある日の午後、小鈴が水替えを終えて帰ろうとすると、部屋の中で杏華が茶の支度をしていた。蘭妃の椅子の脇に小卓を引き寄せ、茶器を並べている。曜様が来ていたので、二客分だった。
小鈴がくぐり戸へ向かおうとしたとき、曜様が言った。
「小鈴も飲めばいい」
「いえ、仕事がありますので」
「終わったでしょう。水替えは済んだのでしょう」
言い返せなかった。確かに今日の仕事は終わっていた。
「でも、茶器が」
「三つあるでしょう」
曜様が言うより先に、杏華がもう一客、茶器を卓に出した。三つ並べて、それ以上は何も言わなかった。目も合わせなかった。ただ、三つ出した。
小鈴は少し迷って、縁側に腰を下ろした。座っていいかどうか蘭妃に聞こうとしたが、蘭妃はすでに茶器を持ち上げていて、小鈴に一瞬だけ目を向けてから視線を窓の外へ戻した。それが許可だと判断することにした。
杏華が茶を注いでくれた。香りが立った。
飲んでみると、少し苦かった。上等な茶だということは分かったが、小鈴が花農家で飲んでいたものとは全然違う。でも悪くなかった。
「……おいしいです」
誰に言うでもなく言ったら、曜様が「そう?」と言った。蘭妃は何も言わなかったが、茶器を静かに卓に戻した。
それだけだった。
特に話をしたわけでもなく、四人が同じ卓を囲んで、少しの時間、茶を飲んだ。窓の外では春の風が枝を揺らして、光が縁側に細長く差しこんでいた。
その日から、小鈴が花殿を出る時刻が少しずつ遅くなった。
帰り道、廊下の向こうから来た宮女が、小鈴の顔を見るなりわずかに足をゆるめた。
何も言わずに会釈して通り過ぎていったが、その沈黙の方が、かえって花殿の名を含んでいる気がした。
花びらのことを考え始めたのは、その翌週だった。
花寮では、花の仕入れや配置が終わると、余りものが出る。折れた茎、傷んだ花びら、使わなかった小枝。捨てるには惜しいが、飾るには足りないものたちが、仕事の終わりにまとめて処分される。
小鈴はその余りものをもらえないか、と考えていた。
具体的には、花びらのことだった。
乾かせば香りが残る。曜様に渡した梅の花びらでそれを知っていたし、花農家の母も、散った花びらを乾かして袋に入れ、箪笥の引き出しに入れていた。でも今考えているのはそれより少し手間のかかることで、乾かした花びらを湯に浮かべて飲む、花茶のことだった。
花茶は花寮でも扱っていたが、専用の乾燥花を使った、きちんとしたものだった。小鈴が考えているのはもっと素朴なもので、余りものの花びらを乾かして、香りの強いものを湯に少し浮かべる、それだけのことだ。上等な茶ではないが、飲めないわけでもない。
ただ、花殿の茶器に、自分が工夫したものを持ち込んでいいのかどうか、小鈴には判断がつかなかった。蘭妃は上等な茶を飲み慣れている。花農家の娘が工夫した花びらの湯など、出しどころを間違えれば失礼になる。
迷いながら花寮へ戻ると、沈女官長が台帳を広げていた。
「女官長」
「なんですか」
「余りものの花びらを、少しいただけますか」
沈女官長が台帳から目を上げた。
「何に使うの」
「乾かして、花茶にしようかと思いまして」
「誰のために」
小鈴は少し考えてから、正直に言った。
「花殿へ持っていきたいと思います。よいものではないかもしれないですが……余りものを捨てるより、乾かして使えた方がいいかと思って」
沈女官長はしばらく小鈴を見ていた。それから台帳へ目を戻して、言った。
「梅と白蘭は香りが強すぎます。桃か、桜の花びらがいいでしょう。乾かすときは陰干し。湿気があると色が悪くなる」
それだけだった。
小鈴は「ありがとうございます」と言って、そっと仕事場の隅へ向かった。今日の余りものの中に、桜の花びらがあった。
四日かけて乾かした。
陰干しにした花びらは、乾くと少し縮んで、色が薄くなった。でも香りは残っていた。手のひらに乗せると、ほのかにあたたかい匂いがした。
小鈴はその花びらを、小さな紙袋に入れて花殿へ持っていった。
蘭妃の部屋に入って、「少しよろしいですか」と言って、紙袋を差し出した。
「花びらを乾かしました。湯に浮かべると、ほんのり香りがします。上等なものではありませんが、よろしければ試していただけますか」
蘭妃は紙袋を受け取って、少し開いて中を見た。それから鼻を近づけて、香りを確かめた。
「桜ですか」
「はい。花寮の余りもので。捨てるには惜しいと思って」
「……そうですね」
蘭妃が杏華を呼んだ。
「湯を」
杏華は少し驚いた顔をしたが、すぐに動いた。
湯が来ると、蘭妃は自分で花びらをひとつまみ、茶器に入れた。湯を注ぐと、花びらが広がって、薄い桜色が茶器の底に揺れた。香りが、細く立ち上がった。
蘭妃はそれをしばらく見てから、一口飲んだ。
何も言わなかった。でも、もう一口飲んだ。
ちょうどその日に曜様が来た。
縁側に差しかかったところで、部屋の中の香りに気づいて「何の匂い」と聞いた。小鈴が花びらの茶のことを説明すると、「わたくしにも」と迷わず言った。
杏華が茶器を用意して、曜様にも花びらの湯を出した。
「甘くない」
「はい、甘くはないです」
「でも、なんか、春の匂いがする」
それが曜様の感想だった。
杏華は自分の分を用意しなかったが、片付けのために部屋に残って、小卓の周りに立っていた。小鈴は縁側に腰を下ろして、自分の茶器を持っていた。蘭妃が「あなたも飲みなさい」と言ったのだ。
四人が、同じ部屋にいた。
同じ香りの中にいた。
誰も、たいした話をしなかった。曜様が「庭の桃はいつ咲くの?」と聞いて、蘭妃が「もう少し先でしょう」と答えた。それくらいだった。
でも小鈴は、この時間がとても好きだと思った。
うまく言葉にはできなかったが、何かが、ちゃんとここにある、という感じがした。花殿に来て初めて、息がしやすかった。最初の日に、後宮の空気が息苦しいと思ったことを、思い出した。あの頃と場所は同じなのに、今は違う。
花があって、湯気があって、四人がいる。
それだけで、ずいぶん違う。
帰りがけ、くぐり戸のところで杏華に呼び止められた。
振り返ると、杏華は腕を組んで、少し下を向いていた。
「花びらは、また余りますか」
「……たぶん、余ります」
「では、また持ってきて下さい」
それだけだった。
それ以上の言葉も、目を合わせることもなかった。杏華はすぐに踵を返して、庭の方へ戻っていった。
小鈴は少しの間、くぐり戸のところに立っていた。
杏華が「また持ってきて下さい」と言った。それは杏華なりの、受け入れた、という意味だと小鈴は思った。茶器を三客から四客に増やしたように、杏華は言葉を選んで、自分にできる形で、何かを少しだけ変えた。
花殿への道を帰りながら、小鈴は手の中に残っている花びらの紙袋を持ち直した。まだ少し残っている。次に来る時もまた乾かしたものを持ってこよう。桜が終われば、次は何の花びらが余るだろうか。
春の花は次々と咲き替わる。
そのたびに余りものが出て、そのたびに乾かせる。花殿の小卓に、季節のぶんだけ、新しい湯気が立つ。
悪くない、と思った。
それどころか、とても好きだと思った。
その日の夜、部屋へ戻った小鈴は、仕事の覚え書きに使っている小さな帳面を開いた。花の水替えの記録や、花寮で習ったことを書き留めるためのものだったが、今日は少し違うことを書きたい気がした。
花びらを乾かすのに向く花、向かない花。香りが飛びやすいもの、残りやすいもの。湯に浮かべたときの色が出るもの、出ないもの。
書いていると、次に試したいことが出てきた。白蘭の花びらは香りが強いから向かないと沈女官長に言われたが、では少量ならどうか。桃の花びらはどうか。乾かした後に少し蜜と合わせてみたら甘みが出るかもしれない。
書き出すと止まらなくなって、気づいたら行が増えていた。
小鈴は帳面を閉じて、灯りを消した。
暗い中で、今日の花殿の香りを思い出した。桜の花びらの湯気と、春の光と、曜様の声と、蘭妃の静かな横顔。杏華が無言で湯を足しに来たこと。
それから眠った。
よく眠れた。




