第三章 梅の枝と幼い客人
三月の終わりに、花殿の梅が見頃を過ぎた。
白い花びらが一枚ずつ、風の来るたびに石畳へ落ちた。小鈴は毎朝その花びらを掃き集めながら、梅の古木を見上げていた。散り際の梅は、咲いているときとは別の美しさがある。花寮の宮女たちは「もう終わりね」と言って目を向けなくなったが、小鈴はまだ好きだった。落ちた花びらだって、半日は香りを持っている。
その日の朝も、小鈴は花籠を持って花殿へ向かった。
白蘭の季節はまだ続いていたが、今日は梅の細枝を少し添えてあった。沈女官長が「梅は終わりかけが香りの盛りだから、持っていきなさい」と言ったのだ。切り口を斜めにして、水揚げのよい状態で籠に収める。白蘭と並べると、白と白でも雰囲気がちがう。白蘭は丸くて重く、梅はほそくて軽い。
花殿のくぐり戸をくぐると、庭に杏華がいた。縁側の柱を布で丁寧に拭いている。小鈴と目が合うと、杏華はいつものように一度だけ「おはようございます」と言って、視線を柱へ戻した。最近は「置いていきなさい」とは言わなくなっていた。代わりに無言で中へ通してくれるようになって、小鈴はそれを前進だと思うことにしていた。
縁側へ上がり、蘭妃の部屋へ向かおうとしたとき、庭の奥で何かが動いた。
梅の古木の根元に、子どもがいた。
十二か十三かというくらいの、小柄な少女だった。後宮らしい仕立てのよい衣を着ているが、それが裾をひきずるほど木の根元へしゃがみこんで、梅の枝を両手でつかんでいた。
折ろうとしている。
小鈴は思わず声を出した。
「あ、待って」
少女が振り返った。丸い目が大きく開いた。驚いているのは少女の方だが、小鈴も似たようなものだった。こんな場所に子どもがいるとは思っていなかった。
まだあどけなさの残る顔立ちだったが、引き結んだ口元には勝ち気な気配があった。髪には細い飾り紐が結ばれていて、衣の色も、後宮の子女らしく明るく整っていた。
「誰、あなた」
少女が問いかけた。声にも勝ち気な色があった。驚いているくせに、語尾が強い。
「花寮から来ています、小鈴と申します。あの、その枝は……」
「折れたの。わたくしが折ったんじゃない、もう半分ひびが入っていたから、触ったら」
言いながら、少女は手の中の梅の枝を小鈴の方へ差し出してきた。確かに、折り口を見ると、古い亀裂があった。ひびが入っていたところへ力がかかったのだろう。少女が意図して折ったわけではないようだった。
けれど枝は折れた。蘭妃の花殿の庭の梅の枝が、根元からではないが、ひとつ落ちた。
杏華が庭に飛んできた。
「曜様、こちらへいらっしゃったのですか」
曜様、と呼ばれた少女は、少しだけばつの悪そうな顔をした。
その呼び名で、小鈴はようやく相手の身分を悟った。後宮にいる幼い皇女――曜公主だ。
曜様はすぐに顎を上げて、「迷いこんだだけです」と言った。
「花殿へはお立ち入りを……」
「分かっています。だから帰ろうとしていたの。そしたらこの枝が」
杏華の表情が硬くなった。折れた梅の枝を見て、どう処理すべきか考えているのが分かった。花殿の庭の木を傷めたとなれば、相手が誰であれ、報告が要る。
小鈴は曜様の手から枝を受け取った。
折り口を確かめた。長さは腕より少し短いくらい。葉はまだなく、花もほとんど散っていたが、先の方の小さな芽はまだ生きていた。
「これ、水につければまだ咲けます」
曜様が小鈴を見た。
「……本当に?」
「折れた枝でも、切り口から水を吸えれば花が開きます。梅は特に丈夫で。先にまだ芽がありますから、暖かい部屋に置けば、もう少し咲くと思います」
杏華も黙って聞いていた。止めなかった。
蘭妃の部屋に入ると、蘭妃は椅子に座って窓の外を見ていた。いつものように膝に何かを広げているかと思ったが、今日は何も持っていなかった。ただ外を見ていた。
小鈴と曜様が並んで入ってきたのを見て、蘭妃はわずかに目を細めた。
「曜様」
「……蘭妃」
曜様の声が、さっきより少し小さくなった。蘭妃の前では、勝ち気な語尾が引っこんでいる。怖いというより、緊張しているようだった。
「庭で迷いこんだのですか」
「……少しだけ。梅を見たかっただけです」
「梅は今年もよく咲きましたね」
蘭妃はそれだけ言って、小鈴が持ってきた折れ枝へ目を向けた。
「それを持ってきたのは」
「はい。水につけようと思いまして。ここに花入れをひとつ借りてもよいですか。花殿の中に置けば、もう少し花が見られると思います」
蘭妃は少しの間、折れ枝を見ていた。それから言った。
「杏華、水差しを」
「……はい」
杏華が水差しを持ってきた。小鈴は枝の切り口を少し整えて、水に差した。長い枝が水差しに収まると、部屋の中に急に梅の気配が立った。まだ花がほとんどないのに、枝ぶりだけで、空気が春になる感じがした。
曜様が、その枝をじっと見ていた。
「……本当に、咲くの?」
「たぶん、二、三日すると小さな花が開きます」
「見たい」
言ってしまってから、曜様はまた顎を上げた。「見てもいいかと言っているのではありません、見たいと思っただけです」と付け加えた。
蘭妃が、ほんの少し、口元をやわらかくした。
笑った、と言っていいかどうか分からなかった。でも小鈴はそれを見て、胸の奥が少し動いた。蘭妃がそういう顔をするのを、初めて見た気がした。
「見たければ、来ればよろしい」
蘭妃が言った。
曜様は一瞬、何か言いかけて、やめた。代わりに短く「……では」と言って、帰っていった。廊下に出る前に一度だけ振り返って、水差しの梅の枝をもう一度見た。その目に、期待と照れが混ざっていた。
翌日、曜様は来た。
今度は迷いこんだのではなく、最初からくぐり戸を開けて入ってきた。杏華が「曜様」と出迎えたとき、曜様は「梅を見に来ました」とだけ言った。堂々としていたが、少し早口だった。
小鈴はちょうど花の水替えをしていたところで、水差しの梅を一緒に確かめた。小さな白い花が、二輪だけ開いていた。
「咲いた」
曜様が言った。声が素直だった。さっきまでの勝ち気な感じが消えて、年相応の声になっていた。
「折れた枝なのに」
「水を吸えれば、咲けます。ちゃんと生きていましたから」
曜様は少しの間、その小さな花を見ていた。それから、小鈴に向かって言った。
「あなたは花寮の人なの」
「はい」
「なのに花殿にいるの」
「花を届けに来ています。ついでに水替えも」
「ついでに?」
「……ついでが多くなっています」
曜様が笑った。子どもらしい、素直な笑い方だった。「正直なのね」と言ってから、蘭妃の部屋の方へ目を向けた。
「蘭妃は、今日もあそこに?」
「はい」
「……わたくしが来ても、迷惑ではないかしら」
小鈴は少し驚いた。さっきまでの勝ち気はどこへいったのかと思うくらい、その声は小さかった。
「蘭妃様が来ればよいとおっしゃっていましたから、迷惑ではないと思います」
「そう」
曜様はまた顎を上げた。
「では参ります」
そう伝えて、縁側の方へ歩いていった。
途中で振り返り、こんな確認もしてくる。
「あなたも来るでしょう」
「はい、もう少し仕事が残っていますので、あとから」
「そう」
曜様は部屋へ入っていった。
小鈴は庭に残って、花殿の花入れを一つ一つ確かめながら、部屋の中から曜様の声が聞こえてくるのを聞いていた。内容は聞こえなかったが、蘭妃の静かな返事と、曜様の少し弾んだ声が、交互に続いた。
花殿に、子どもの声があった。
それだけのことだったが、庭の空気が、昨日よりも少し明るかった。
それから曜様は、三日に一度くらいの割合で花殿に来るようになった。
毎回「迷いこみました」とは言わなくなったが、特に理由も言わなかった。来て、梅の枝の様子を確かめて、蘭妃の部屋に少し座って、帰っていく。滞在は短かったが、来るたびに少しずつ長くなった。
杏華は最初「曜様のお立ち場が」と蘭妃に申し上げたが、蘭妃が「構いません」と言ったので、それ以上は言わなかった。ただ、曜様が来る日は、茶を二人分用意するようになっていた。
ある日、小鈴が水替えを済ませて帰ろうとすると、曜様が縁側から声をかけてきた。
「小鈴」
いつの間にか名前で呼ばれるようになっていた。
「なんですか、曜様」
「その梅の枝、花が全部散ったらどうなるの」
水差しの梅は、今は十輪ほど咲いていたが、確かに盛りを過ぎていた。あと数日もすれば散ってしまうだろう。
「枯れます。切り花ですから、根がないので」
「そしたら捨てるの」
「……花びらは乾かせば香りがしばらく残ります。枝も、乾かして香を炊くのに使えることがあります。全部が無駄にはなりません」
曜様は少し考えてから言った。
「じゃあ、散ったら教えて。花びらをもらう」
「はい」
「蘭妃のところに置いておく。香りがするものが好きだから」
言い方はそっけなかったが、中身はとても曜様らしかった。自分の好みではなく、蘭妃の好みを理由にしている。それが照れ隠しなのか本心なのか、たぶん両方だろうと小鈴は思った。
梅の花びらが全部散った日の翌朝、小鈴は乾かした花びらを小さな布袋に入れて持っていった。
渡すと、曜様は「ありがとう」とだけ言って、すぐに蘭妃の部屋へ持っていった。しばらくして、部屋の中から蘭妃の声がした。何を言ったかはよく聞こえなかったが、穏やかな声だった。
庭に残っていた小鈴は、石畳の上を見た。
梅の花びらは、もうほとんど落ちていなかった。葉の芽が、枝先にほんの少しだけ出始めていた。花の季節が終わると、今度は緑の季節が来る。
折れた枝は水差しの中で枯れたが、庭の梅の古木は、春をちゃんと次へ渡していた。
小鈴は掃除用の小箒を手に取って、石畳の最後の花びらを掃き集めながら、花殿の中から聞こえてくる声に、そっと耳を傾けていた。
蘭妃の声と、曜様の声と、杏華の短い相槌。
それからしばらくして、笑い声がした。誰のものかは分からなかったが、花殿ではまだ聞いたことのない音だった。
小鈴は箒を動かす手を止めて、少しのあいだ、その音を聞いた。




