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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第二章 白蘭の水差し

 翌朝も、小鈴が花殿への届け役だった。

 花寮の仕事は基本的に持ち回りだったが、沈女官長が「小鈴、今日も花殿へ」と言ったのは、特に説明もなかった。小鈴は「はい」と答えて、白蘭の籠を受け取った。昨日とほぼ同じ顔ぶれの白い花だったが、今日は小鈴が自分で選ばせてもらった。花びらに傷のないもの、水揚げのよさそうなもの、香りが整っているもの。三本だけ、ていねいに選んだ。

 花殿への道は、もう少し覚えた。角の数も、石畳の並び方も。昨日より足が落ち着いていた。

 くぐり戸を入ると、庭に人影があった。

 杏華だった。縁側のそばで、鉢に水を与えている。小鈴が門をくぐった気配に気づくと、すぐにこちらへ向いた。その目に、昨日と同じ、静かな警戒が灯った。

「また来たのですか」

「はい。花寮からです。今日も白蘭をお届けに……」

「置いていきなさい」

 昨日と同じ言葉だった。小鈴は頷いて、それから少しだけ口を開いた。

「あの、よろしければ、水差しを見せていただけますか」

 杏華の動きが、ほんの一瞬止まった。

「何のために」

「花の水を替えたいので。昨日お届けした白蘭が、まだ飾ってあるなら……水が古くなっていると傷みが早くなります。もし器の中の水が濁っていたら、替えさせていただきたいと思って」

 杏華はしばらく小鈴を見ていた。何かを測るような目だった。

「……蘭妃様がお許しになれば」

 それだけ言って、杏華は踵を返して縁側の中へ入っていった。

 小鈴は庭に立ったまま、白蘭の籠を抱えて待った。白蘭の古木が頭上で静かに揺れる。昨日の夕暮れに塀の外から見上げたのと同じ梢が、今は真上にある。

 やがて杏華が戻ってきた。

「お入り下さい」


 花殿の室内は、小鈴が思っていたよりも広かった。

 広いというより、がらんとしていた。家具は必要なものだけが置かれ、飾りらしい飾りがない。花入れが一つ、卓の上に置かれていたが、昨日の白蘭が三本、水の中で静かに顔を上げていた。

 蘭妃は窓際の椅子に座っていた。

 小鈴は部屋に入った瞬間、思わず少し呼吸を整えた。昨日は門のところで遠目に見ただけだったが、今は近い。二十二歳だと花寮で聞いたが、年齢よりも落ち着いて見えた。薄い色の衣をまとい、膝の上に何かを広げていたが、小鈴が入ってくると静かに手を止めた。

 その目が、小鈴を見た。

「花寮の子ですか」

「はい。小鈴と申します。昨日もお届けに……」

「覚えています」

 短かった。でも、冷たくはなかった。ただ、言葉が少ない人なのだと分かった。

 小鈴は昨日届けた花入れへ目を向け、おそるおそる言った。

「あの、白蘭の水を替えさせていただいてよいですか。昨日からですと少し時間が経っていますので」

 蘭妃は何も言わなかった。でも、頷いた。

 小鈴は花入れをそっと手に取った。水はまだ透き通っていたが、少し温んでいた。花の茎を傷つけないように気をつけながら、水を捨て、新しい水を入れる。その前に茎の先を少しだけ切り直す。切り口が新しいほど、水を吸いやすくなる。

 作業をしながら、小鈴はふと気になって、花入れをよく眺めた。

 陶器のつくりはていねいで、昔はよいものだったと分かる。だが、内側に汚れが積み重なっていた。水あかではなく、もっと奥の方に染みついた、長い時間の汚れだった。花入れとしての役目を長く果たしてきた痕跡とも言えるが、もう少し洗えば花が長持ちする。

 小鈴は黙って作業を続けながら、部屋の中をさりげなく見回した。

 花入れだけじゃない。窓の縁の水差しも、卓の上の小さな鉢も、みんな古びている。丁寧に使われてはいるけれど、手が足りていないというより、新しくするという発想がずっとなかった様子だった。

 花は来る。けれど、花を受け取る器の方は、ずっとそのままだったのかもしれない。

「……白蘭が、よく吸っています」

 不意に声がした。

 小鈴が顔を上げると、蘭妃が花入れを見ていた。さっきまで何かを見るでもなく窓の外を向いていたのに、いつの間にか視線がこちらへ移っていた。

「はい。今日は水揚げのよい株を選んできましたので」

「あなたが選んできたのですか」

「……今日だけ、少し選ばせてもらいました」

 蘭妃はそれについて何も言わなかった。ただ、またほんの少し頷いた。


 翌日も、小鈴は花殿へ行った。

 その次の日も。

 杏華は毎回、最初に「置いていきなさい」と言ったが、その後で必ず「蘭妃様がお待ちです」と言い直した。言い直すというより、最初の言葉を前提として成立させたうえで、上書きしていく感じだった。小鈴にはよく分からなかったが、とにかく中に通してもらえるのならよかった。

 数日のうちに、小鈴は花殿の花入れを全部洗った。

 杏華には、最初の日に「花の水替えのために」と説明したが、実際には花入れの内側をきれいにすることの方が時間がかかった。それでも杏華は咎めなかった。見ていたが、止めなかった。

 花入れを洗い直すと、花の持ちが変わった。昨日の白蘭が今日もきれいなままでいる。それだけで、部屋の空気が少しちがって見えた。

 窓の縁の水差しも、小鈴はこっそり拭いた。布が届く範囲だけ、すこし丁寧に。水差しは口が細く、内側が奥まで洗えなかったが、外側だけでもきれいにすると、光の受け方が変わる。

 ある午後、その水差しを拭いていると、蘭妃が言った。

「あなたは花だけでなく、水の居心地も見るのですね」

 小鈴は手を止めた。

「……水の、居心地、ですか」

「花入れや水差しの使い心地、ということです。花が来ても、受け取る器が古びていれば、どこかで不釣り合いが生まれる」

 蘭妃の言葉は穏やかだった。

「気づいていたのに、わたくしは長いこと何もしませんでした。誰かが花を持ってきて、置いて、帰っていく。それだけが続いていた」

 小鈴は何と答えていいか分からなくて、少しの間黙っていた。


「花は、器が好きじゃないと、うまく咲けないと思います……うまく言えませんけど」

「いいえ。よく言えていますよ」


 その日の帰り道、小鈴は少し遠回りをした。

 花寮へ戻る前に、使われていない物置のような部屋があるのを、以前廊下を歩いていて見かけていた。花寮の端の方にある、あまり人が来ない場所だ。そこに、古い花器がいくつか重ねて仕舞われているのを、扉の隙間からちらりと見たことがあった。

 恐る恐る引き戸を開けてみると、やはりあった。

 古い白磁の花入れが三つ、小さな水差しが一つ。使われなくなったのか、ほこりをかぶっているが、割れてはいない。丁寧に洗えば十分使える。

 小鈴はしゃがんで、花入れを一つ手に取った。重さを確かめる。底に亀裂はない。

 持っていっていいのかどうか、分からなかった。勝手に動かすのは怒られるかもしれない。でも、誰も使っていないのに仕舞われたままなのも、なんとなくもったいない気がした。

「何をしているの」

 声がして、小鈴は花入れを危うく取り落としそうになった。

 振り向くと、沈女官長が腕を組んで立っていた。

「す、すみません、勝手に開けてしまって……」

「聞いています。何をしているのかと」

 小鈴は正直に言った。花殿の花入れが古びていること、洗い直したこと、ここに使われていないものがあったから、もし許してもらえるなら持っていきたいと思ったこと。話しながら、だんだん声が小さくなっていった。怒られる予感がしたからだ。

 沈女官長は黙って聞いていた。それから、少しの間があって言った。

「花寮の備品を無断で動かしてはなりません」

「……はい」

「明日、帳簿に記録してから持っていきなさい。使用目的は花殿への貸し出しと書くこと」

 小鈴はきょとんとした。怒られなかった。

 沈女官長はもう踵を返していた。廊下へ出ながら振り向かずに、

「花は正直です。受け取るものが整っていれば、ちゃんと応えます」

 それだけ言って、足音もなく遠ざかっていった。


 翌朝、帳簿に記録を済ませてから、小鈴は白磁の花入れと小さな水差しを一つずつ布で包んで、花籠とともに花殿へ持っていった。

 杏華は「またそんなものを」という顔をしたが、制止はしなかった。

 蘭妃は、小鈴が花入れを取り出したとき、少しだけ目を細めた。驚いたのか、呆れたのか、小鈴には判断できなかった。

「……花寮にあったものです。使われていなかったので、借りてきました。もしよろしければ、こちらに替えませんか。白蘭に合う大きさだと思うので」

 蘭妃は何も言わなかった。

 ただ、そっと手を伸ばして、小鈴が持ってきた白磁の花入れを受け取った。膝の上で少し傾けて、口の広さや底の厚みを確かめるように見ている。

 その横顔を、小鈴はそっと見ていた。

 何かを確かめるような目だった。久しぶりに新しいものに触れた人の、少し戸惑うような、それでいて微かに嬉しそうな、そういう目だった。

「……使ってみましょう」

 蘭妃がそう言うと、小鈴は白蘭を古い花入れから移し替えながら、胸の奥がほんの少し、あたたかくなるのを感じた。花殿の空気は相変わらず静かで、音もほとんどなかった。でも昨日より、何かが少しだけ違う気がした。

 部屋の中に、生活の匂いがした。

 花が来て、器があって、誰かがそれを整える。たったそれだけのことだったが、その積み重ねがようやく始まった、そんな感じがした。

 帰り際、くぐり戸を出ようとしたとき、蘭妃の声がした。

「小鈴」

 初めて、名前で呼ばれた。

「明日も来るのですか」

 小鈴は振り返り、頷いた。

「はい。花が続くあいだは」

 蘭妃は答えなかった。ただ、窓の方へ視線を戻した。その横顔が、朝の光の中で、ほんの少しだけやわらかかった。

 小鈴は花殿を出て、石畳を踏んで帰った。

 今日の白蘭は、きっとよく咲く。

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