第二十一章 花殿、ひらく
十一月の半ば、花殿に見知らぬ人が来た。
小鈴が水替えを終えて縁側を拭いていると、くぐり戸の外に人の気配がした。覗きこむように立っているのに、なかなか入ってこない。
小鈴が「どうぞ」と声をかけると、細い声で「失礼します」と返ってきて、若い女がそっと中へ入ってきた。
下級の妃だと、見てすぐ分かった。衣は整っているが地味で、顔色があまりよくない。年は小鈴より少し上くらいに見えた。
「花殿に来てもよいと聞きまして。その、少しだけ庭を見させていただけますか」
ためらいがちな声だった。誰から聞いたのかは分からない。けれど花殿のことは、このごろ後宮の中で薄く噂になっていたから、そこから辿ってきたのかもしれなかった。
小鈴は少し迷ってから、杏華を呼んだ。
杏華は女の顔を見ると、すぐに事情を察したようだった。
「蘭妃様にお聞きします。少しお待ち下さい」
女はくぐり戸のそばで、小さく身をすくめるようにして待った。
やがて戻ってきた杏華は、いつもの落ち着いた声で言った。
「どうぞ。庭は自由にご覧になって構いません」
女は庭に入って、最初はおそるおそる歩いていた。
白蘭の古木を見て、萩の株を見て、台風から根が出た水挿しの鉢を見た。小菊が今日はよく咲いていて、その前で少しの間立ち止まった。
小鈴はそっと声をかけた。
「菊がお好きですか」
「……はい。故郷に、同じ色の菊があったので」
故郷の菊。小鈴には分かった。後宮に来てから、故郷のものを見ると、心がそちらへ向くことがある。畑の端の撫子を見たときのような、遠いものが近くに来る感じ。
「どちらのご出身ですか」
「北の方です。小さな土地で、後宮に来るまでは花をよく見ていました」
「花が好きだったのですか」
「好きでした。でも後宮では、花は飾るもので、見るためのもので、自分で触るものではなくて。それに慣れるまで、少し時間がかかりました」
小鈴はその言葉を、静かに聞いていた。
後宮に来た最初の日、花寮の花が息苦しかった理由が、少し分かった気がした。花が飾るためのもの、見るためのものになったとき、花との距離が変わる。土を触って、水をやって、咲くのを待つ、そういう関わり方がなくなる。
「ここの花は、触ってもいいですよ。手入れしながら、花と一緒にいる場所なので」
小鈴がそう言うと、女が小鈴を見た。それから、小菊に手を伸ばした。花びらの外側を、ごく軽く撫でた。その手つきが、慣れていた。花を知っている人の触り方だった。
その日から、その女が、ときどき花殿へ来るようになった。
名前は清姿といった。後宮に来て二年で、縁の薄い妃として、目立たない場所に置かれていた。来るたびに庭を見て、少し花の手入れを手伝って、短い時間で帰っていく。
蘭妃と話すことは、最初のうちは少なかった。でも清姿が来た日、蘭妃は必ず縁側に出てきた。直接話すわけではなかったが、同じ庭の空気の中にいた。
小鈴はその様子を見ながら、蘭妃が清姿を追い払わない理由を考えた。
たぶん、蘭妃には分かるのだと思った。花の香りで人の状態を感じ取る蘭妃には、清姿が後宮の中で息苦しくしていることが、見えているのかもしれない。かつて自分もそうだったから。
清姿が来る日は、その日だけ、花殿の空気が少し変わった。縮こまっていた人が、庭で少し伸びをする感じ。それが分かるくらいに、最近小鈴も花殿の空気を読むことができるようになっていた。
十一月の終わりに、宮女が一人、花殿に来た。
小鈴がよく知っている顔だった。花寮で一緒に仕事をしている、年上の宮女だった。
「お邪魔します、と言えばよいですか、こういう場合は」
「どうぞ」
小鈴は驚いたが、表には出さなかった。
宮女は庭に入って、少し歩いて、縁側のそばで止まった。
「花寮の仕事で疲れたとき、ここへ来ると少し楽になると聞いたので」
「誰に聞いたのですか」
「清姿様から」
清姿から、花殿の話が広まっていたのだ。
その宮女は三十分ほどいて、庭を一巡して帰った。
「また来てもよいですか」
「どうぞ」
十二月に入って、花殿に来る人が少しずつ増えた。
清姿は週に二度来るようになっていた。宮女は時々来た。曜様は相変わらず、特に理由もなく来て、特に理由もなく帰った。沈女官長が月に一度、仕事として来るようになっていた。
誰もが長居はしなかった。
一刻ほど庭を見て、ときに茶を飲んで、また自分の場所へ戻っていく。花殿に住むわけでも、毎日来るわけでもなかった。ただ、来ると少し息ができる場所として、花殿が静かに後宮の中に存在していた。
杏華は最初、来る人が増えることを警戒していた。
でも、来る人たちが蘭妃を困らせることをしないと分かってから、少しずつ態度が変わった。茶を出すようになった。庭の花の見方を、一言だけ教えるようになった。それ以上はしなかったが、それだけでも、杏華が花殿に来る人を受け入れていることの証だった。
ある午後、蘭妃と小鈴が縁側で花暦をつけていると、杏華が「少しよいですか」と言って座った。
最近、杏華もたまに花暦の記録に加わるようになっていた。花の細かい観察を言葉にするのが、意外と上手かった。蘭妃が「杏華の見方は正確です」と言ったことがあって、それから杏華も少しずつ話すようになっていた。
「今日、清姿様が来たとき、何か変わっていましたか」
杏華の質問に、
「顔色がよかったです。最初に来た日より、ずっと」
小鈴が答える。
「そうでしょう。私もそう思いました」
蘭妃が花暦に何かを書いた。小鈴は横から見た。
「清姿、来る。顔色が戻りつつある。花殿の空気が、彼女に合っているのかもしれない」
それだけだった。でも、蘭妃が人の体調のことを花暦に書いたのは、初めてだった。花の記録の中に、人の回復が書かれた。
「蘭妃様は、清姿様のことが気になっていたのですか」
小鈴が尋ねた。
「気になるのではなく、分かります。香りで」
「清姿様の状態が」
「後宮では、無理をしている人は、香りが張り詰めます。緊張が、花の香りの受け取り方に出る。清姿様が最初に来た日は、そういう香りがしていました。今日は、少し緩んでいた」
小鈴はその言葉を聞いて、最初に来た日に自分が感じた息苦しさを思い出した。あの日、花寮の花が息苦しかったのは、自分自身の緊張が、花の香りの受け取り方に出ていたのかもしれない。
「蘭妃様は、わたしが最初に来た日も、分かっていましたか」
「あなたは緊張していましたが、張り詰めてはいなかった。もともとの香りが、おおらかな人だと感じました」
「おおらかな、ですか」
「花農家の子だと、後で知りました。土と花の近くで育った人は、香りの受け取り方が柔らかい。後宮の緊張に当てられにくい」
それが、蘭妃が小鈴を遠ざけなかった理由の一つだったのかもしれない、と小鈴は思った。最初から、香りで何かを感じていた。
十二月の半ば、珠麗妃様の侍女が花殿を訪ねてきた。
珠麗妃様からの、非公式の使いだった。
用件は短かった。花殿の庭に、来春の花苗を一つ分けてほしい、ということだった。萩か、小菊か、どちらでも構わない、と侍女は言った。
杏華が「少し待って下さい」と言って、蘭妃に伝えた。
蘭妃はしばらく考えてから、「萩の株を一つ分けましょう」と言い、それから一言付け加えた。
「珠麗妃に、よい春を、と伝えて下さい」
侍女が帰った後、杏華が「よかったのですか」と尋ねた。
「花を分けることに、悪い意味はありません。それに、珠麗妃が花殿の萩を望んだということは、珠麗妃もここのことを知っている、ということでしょう」
「壊しに来ないということですか」
「壊す気があれば、侍女を使いに来ません。直接動きます」
小鈴はそのやり取りを聞きながら、花宴の日に見た珠麗妃様の横顔を思い出した。宴の喧騒の中で、少しだけ表情を外して、花殿の方角を見ていた目。あの目に、何があったのかは分からない。でも今日、侍女が来た。
珠麗妃様が花殿を壊さないことを、蘭妃は知っていた。知っていて、萩を分けることにした。
十二月の二十日過ぎ、花殿の庭が冬の顔になっていた。
萩は葉を落として、細い枝だけになっていた。菊は終わって、水仙の葉が地面から出てきていた。白蘭の古木は冬の眠りに入って、台風の傷口の周りに新しい皮が少しずつ広がっていた。
水挿しから育った白蘭の小株は、小さな鉢に植え替えられて、縁側の内側に置かれていた。冬の間は室内で育てる。春になったら外へ出す。
庭は冬の静けさだったが、人は来た。
清姿が来て、杏華と庭の手入れの話をした。宮女が来て、縁側で短い時間だけ茶を飲んだ。曜様が来て、水仙の葉を見つけて「これが春に咲くの?」と聞いた。沈女官長が来て、花殿の庭を一通り見てから、「来年の春の花苗を余分に回します」と答えた。
来る人はそれぞれで、長さもそれぞれだった。でもどの人も、帰り際の顔が来た時と少し違った。緊張が少し緩んでいる人、顔色が少しよくなっている人、目が少し柔らかくなっている人。
蘭妃は来る人に向かって、何か特別なことをするわけではなかった。庭にいれば庭にいて、部屋にいれば部屋にいた。でも、来た人が帰るとき、必ず一度だけ目を向けて、短く言葉をかけた。それだけだった。
ある夕方、花殿に来る人が引き上げた後の静けさの中で、蘭妃と小鈴が縁側に並んでいた。
杏華が庭の片付けをしていた。冬の庭は仕事が少なくて、杏華の動きが今日は少し緩かった。
小鈴が伝える。
「今日、清姿様が来たとき、笑っていました。最初に来た日は、笑っていなかったので」
「そうですね」
「蘭妃様のおかげだと思います」
「わたくしは何もしていません。庭があって、花があって、来てもいいという場所があっただけです」
「それが、蘭妃様がしたことです」
蘭妃は少しの間、黙っていた。
「小鈴がいなければ、この庭はなかったと思います」
「わたしは花を持ってきただけです」
「花が来て、水差しが変わって、花びらの茶が生まれて、花の置き場所が変わって、花暦に別の声が入って。それが全部、庭を変えました」
「でも庭は、蘭妃様が守ってきた場所です。わたしが来る前から、杏華さんが手入れしてきた場所です。わたしは、花を持ってきただけです」
杏華が、庭から言った。
「どちらも、でしょう」
二人が杏華を見た。杏華は庭の落ち葉を集めながら、こちらを向かずに続けた。
「庭があって、花が来た。花が来て、庭が変わった。どちらが先でもなくて、どちらが大事でもなくて、両方があったから、今日の庭があります」
それだけ言って、杏華はまた落ち葉に向かった。
小鈴と蘭妃は、しばらく何も言わなかった。
杏華が珍しく、そういうことを言った。感情を言葉にしない杏華が、今日だけは、言葉にした。六年以上、一人で守ってきた庭への気持ちと、小鈴が来てからの変化への気持ちが、その一言に入っていた。
帰り際、くぐり戸を出ようとした小鈴に、蘭妃が言った。
「今日の花暦は、あなたに書いてほしいのですが」
「わたしが、ですか」
「今日のことを、あなたの言葉で残してほしい。わたくしの言葉では書けない部分が、今日は多い気がするので」
小鈴は少し考えてから、花暦を受け取った。
今日の日付のページを開いた。蘭妃がすでに花の状態だけ書いてある。小菊、終わり。水仙、芽が出てきた。白蘭の小株、縁側の内側へ移した。それだけが書いてあって、その下の余白は空いていた。
小鈴は少しの間、余白を見ていた。
それから書いた。
今日、清姿様が来て笑った。宮女が来て茶を飲んだ。杏華さんが「どちらも、でしょう」と言った。庭は冬だけれど、人が来た。花がなくても、人が来た。この場所が、誰かにとって息のできる場所になっていた。蘭妃様は何もしていないと言うけれど、ここにいてくださることが、この場所の中心だと思う。花があって、蘭妃様がいて、それが花殿の花殿たるゆえんだと、わたしは思っています。
書き終えて、冊子を蘭妃に返した。
蘭妃は小鈴の書いた部分を読んだ。
黙って読んで、顔を上げた。
「ありがとう」
「上手ではないですが」
「上手でなくていいです。正直だから」
正直だから。
蘭妃がそう言ったことは、小鈴にとって、上手という褒め言葉より嬉しかった。
花寮への道を歩きながら、小鈴は今日の花殿を思い返した。
清姿が笑っていた。宮女が短い時間だけ息をついた。杏華が、珍しく感情を言葉にした。蘭妃が、花暦を小鈴に渡した。
花殿は閉じた場所ではなくなっていた。
完全に開いているわけでもなかった。後宮の真ん中で賑やかに咲く牡丹のような場所ではなかった。それは花殿の性質に合わなかったし、蘭妃の性質にも合わなかった。
でも、ひっそりと、静かに、必要な人が来られる場所になっていた。後宮の中で傷ついた人が、少し息をつける場所。そういう場所として、花殿はひらいていた。
蘭妃は今も、前に出る人ではなかった。
でも、閉じた人でもなくなっていた。
花殿の庭にいて、来る人を静かに受け取る。花を知る目で、香りを感じ取る力で、来た人の状態を見て、一言だけ言葉をかける。それが今の蘭妃の在り方だった。
閉じていた花が、開いたわけではなかった。
ただ、咲く場所を、ここに決めた。
そう思ったら、小鈴には、それが一番蘭妃らしいことに思えた。
月下美人は、一晩だけ、その場所で咲く。来てほしい人が来て、一緒に夜を過ごす。それだけでよかった。どこへも行かなくていい、何者かにならなくていい、ただ、咲く場所にいればいい。
花殿が、ひらいた。
静かに、その場所で、確かにひらいた。




