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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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最終章 花のある明日

春が来た。

 後宮の梅が白く咲いて、花寮に桃の枝が届いて、庭の土が少しずつ柔らかくなった。冬の間眠っていたものが、一斉に目を覚ます季節だった。

 花殿の庭では、水仙が咲いた。

 十月に植えた球根が、冬を越して白い花を出した。細い茎の先に、小さな花が二輪、三輪と並んでいた。香りは控えめで、でも朝の冷たい空気の中では、かすかに届いてくる清潔な匂いがあった。

 小鈴が朝一番に花殿へ来て、水仙の花を見つけたのは、三月の初めのことだった。

 くぐり戸をくぐって庭に入った瞬間に、白い花が目に入った。昨日まで蕾だったものが、今朝開いていた。小鈴は花籠を縁側に置いて、水仙の前にしゃがんだ。

 白い花びらが、朝の光の中で静かにひらいている。傷一つなく、曲がることもなく、ただそこに咲いていた。

 小鈴は少しの間、その花を見ていた。

 去年の秋、植えた。曜様が土を掘って、手が汚れるのも気にしなかった。杏華が球根の深さを確かめた。蘭妃が縁側から、三人の作業を見ていた。あの日植えたものが、冬を越して、今日咲いた。

「咲きましたか」

 縁側から声がした。

 蘭妃だった。まだ朝の早い時間だったが、もう起きていた。羽織をまとって、縁側に立って、水仙の方を見ていた。

「咲きました。三輪、出ています」

「見えます、ここから」

 蘭妃は縁側から降りてきた。冬の間は、寒さで庭に出ることが少なかった。でも今朝は、羽織一枚で庭まで歩いてきた。水仙の前に来て、小鈴の隣に立った。

 二人で、水仙を見た。

「蘭妃様、来年はもっと咲きます。球根が増えるので」

「楽しみですね」

「白蘭も、今年は咲くと思います。台風の傷口に、新しい皮が出てきていましたから」

「古木の方も、小株の方も」

「どちらも」

 蘭妃が古木を見た。傷口が癒えて、その周りから伸びた新しい皮が、もう傷を半分覆っていた。枝には芽が出ていて、今年の花の準備が始まっていた。縁側の内側に冬の間置いていた小株も、外に出されて、こちらも芽が出ていた。

「今年の春は、花殿が賑やかになりますね」

「そうですね」

「水仙と、白蘭と、萩はもう少し先ですが、菊も来年はもっとよく咲くと思います」

「記録しないと追いつかない」

「花暦が厚くなります」

 蘭妃が少し笑った。目が先に細くなる、あの笑い方だった。


 その日の午後、曜様が来た。

 くぐり戸から入ってきて、水仙を見つけて、「咲いた」と言った。声が素直だった。勝ち気な語尾が、春の日差しの中で少しやわらかくなっていた。

「咲きました。曜様が植えた球根です」

「わたくしが植えたの?」

「一緒に植えましたから、三人のものです」

「三人の水仙か」

 曜様は水仙の前にしゃがんで、花をよく見た。花の向きを確かめて、香りを嗅いで、葉の状態を見た。この一年で、曜様の花の見方が変わっていた。最初の頃は触れることだけ関心があったが、今は状態を確かめるように見る。花籠の作り方を覚えて、花の選び方を覚えて、見方が変わった。

「花暦に書いた?」

「まだです。今日の分は、これからつけます」

「わたくしも書く」

 最近、曜様も花暦に書くようになっていた。蘭妃と小鈴が書いているのを見て、「わたくしも書きたい」と言い出したのが二月のことで、それから来るたびに一行か二行、書くようになっていた。言葉は短くて、子どもらしい直截さがあったが、蘭妃は「曜様の言い方は正直でよい」と言っていた。

 今日、曜様が書いたのはこうだった。


 水仙、咲いた。秋に植えたのが春になった。当たり前のことだけど、嬉しい。


 読んだ蘭妃が「当たり前のことが嬉しい、というのが一番大事なことかもしれません」と言って、曜様が「そう?」と言った。


 夕方近く、杏華が縁側に座って、珍しく手仕事をしていなかった。

 ただ庭を見ていた。

 小鈴が隣に腰を下ろすと、杏華は横を向かずに言った。

「七年目の春です」

 小鈴は何も言わずに、庭を見た。

 水仙が、夕方の光の中で少し橙色に染まっていた。白い花びらが、光を受けて色を変える。昼間の白と、今の橙がかった白は、同じ花なのに違って見えた。

「長いですね」

小鈴は言うと、

「長いですね」

杏華もこう言った。同意ではなく、自分でも今初めてそれを実感しているような言い方だった。

「この一年で、花殿が変わりましたか」

「変わりました」

「どんなふうに」

 杏華は少しの間、考えていた。

「花が長持ちするようになったとか、人が来るようになったとか、そういうことは分かりやすい変化です。でも、いちばん変わったのは」

 言いかけて、止まった。

「いちばん変わったのは」

小鈴が続きを促した。

「蘭妃様が、来年のことを話されるようになったことです」

 小鈴は杏華を見た。杏華は庭を見たままだった。

「来年も月下美人を待ちましょうとか、来年は萩がもっとよく咲くとか、来年の春は白蘭が賑やかになるとか。そういう言葉を、蘭妃様は以前は言わなかった。今年のことは話されても、来年のことは言わなかった」

「それが変わったのですか」

「変わりました。あなたが来てから」

 杏華がそれだけ言って、また庭を見た。

 小鈴は、胸の中に何かがじんわりと広がるのを感じた。来年のことを話すようになった、という変化が、杏華にとって、花殿に来る人が増えることより、ずっと大きな変化だったのだと分かった。六年間、蘭妃のそばにいた杏華には、その変化の重さが分かる。

「杏華さん」

「なんですか」

「今年も、来年も、わたしはここへ来ます」

 杏華はしばらく何も言わなかった。

 それから、ぽつりと言った。

「……来て下さい」

 杏華らしくない言い方だった。命令でも許可でもなく、ただ、来てほしいという気持ちをそのまま言葉にしていた。杏華がそういう言い方をするのを、小鈴は初めて聞いた。

 二人で、水仙を見た。

 夕光の中で、三輪の白い花が、静かに揺れていた。


 数日後、白蘭の古木が咲き始めた。

 最初の一輪が開いたのは、朝の早い時間だった。小鈴が花殿へ来ると、蘭妃がすでに庭に出ていて、古木の前に立っていた。羽織も着ていなかった。春とはいえ、まだ朝は冷えた。

「蘭妃様、寒くないですか」

「寒いです。でも見ていたかった」

 古木の最初の花が、台風の傷口からほど遠くない枝に開いていた。傷口の近くの枝が、いちばん早く咲いた。傷を持つ枝の方が、春への急ぎが強かったのかもしれない。

「台風の枝から、咲きましたね」

「はい。あの枝は、去年の台風の前から少し弱っていました。だから折れた。でも残った部分が、今年一番に咲いた」

 傷ついたことが、かえって何かを引き出すことがある。蘭妃がそれを古木の話として言っているのか、別の何かとして言っているのかは、小鈴には分からなかった。でも、どちらでもよかった。どちらにしても、本当のことだった。

「小株の方は、もう少し後ですか」

「もう少し。でも今年中には咲くと思います」

「では、今年は二本の白蘭が見られますね」

「はい」

 蘭妃が羽織を取りに部屋に戻って、また庭に出てきた。今度は縁側の端に腰を下ろして、古木を見ていた。

 小鈴は今日の花籠の仕事を始めながら、蘭妃の横顔を時々見た。

 去年の今頃と、何が違うかを考えた。

 場所は同じだった。花殿の庭で、白蘭の古木があって、蘭妃が縁側にいる。でも何かが違った。去年の春は、小鈴はまだ花殿に来て間もない頃で、蘭妃の部屋に入ることをまだ少し緊張していた。

 今は、緊張がない。

 ではなくて、緊張の種類が変わっていた。遠くにいる人に近づくときの緊張ではなく、大事な場所へ来るときの、少し背筋が伸びる感じがある。それが今の緊張の形だった。


 その日の昼過ぎに、曜様が来た。

 白蘭が咲いているのを見て、真っ先に走り寄った。走り寄ってから、花の前で急に立ち止まって、静かに見た。走ってきたのに、花の前では止まる。曜様はいつも、花の前ではそうなる。

「咲いた」

「今朝、最初の一輪が」

「去年の台風で折れた枝の近くから咲いてるね」

「よく見ていますね」

「この木、台風の後から気にしていたから」

 曜様は花に顔を近づけて、香りを確かめた。それから振り返って、縁側の蘭妃を見た。

「蘭妃様、白蘭咲いたよ」

「見ています、ここから」

「来て見ればいいのに」

「さっき見てきました」

「そうなの?」

「一番に見てきました」

 曜様が少しの間、蘭妃を見た。それから庭に向き直って、「そっか」と言った。その一言に、曜様の中で何かが静かに収まった様子があった。蘭妃が一番に見てきた、ということが、曜様にとって大事なことだったらしかった。

 杏華が茶を用意してきた。

 今日は自分から何も言わなかったが、四人分だった。それが、もう当たり前になっていた。


 夕方、蘭妃が花暦を開いた。

 今日は縁側で開いた。庭を見ながら書ける場所に座って、冊子を膝に置いた。小鈴も横に座って、一緒に今日の分を書いた。

 蘭妃が書いたこと。


 白蘭、今年最初の一輪。台風の傷口に近い枝から。傷ついた枝の方が、春を急いでいた。


 小鈴が書いたこと。


 白蘭が咲いた朝、蘭妃様が羽織も着ずに庭に出ていた。寒いですと言ったら、でも見ていたかったと言った。そういう蘭妃様が、好きだと思った。


 書いてから、少し恥ずかしくなった。花暦に残るものとして、これを書いてよかったのかどうか。

 蘭妃が横から読んで、何も言わなかった。

 ただ、次のページをめくって、今日の日付の隣のページを開いた。そこに小さく書いた。


 小鈴が好きだと書いた。残しておく。


 それだけだった。小鈴は胸の奥があたたかくなるより先に、少しだけ息をのみこんだ。

 花暦を見て、それから庭を見た。白蘭の最初の一輪が、夕暮れの光の中で橙色に染まっていた。


 三月の終わり、花殿の庭が春の盛りになった。

 白蘭が五輪になって、水仙がさらに増えて、萩の芽が土から出てきた。台風から育てた小株にも、小さな蕾が一つついた。まだ開くかどうか分からないが、蕾があった。

 清姿が来て、庭を見て、「今年は花殿が明るい」と言った。

 沈女官長が来て、白蘭の古木を見て、「よく咲きました」と言った。

 曜様が来て、小株の蕾を見つけて、「これ、咲く?」と尋ねた。

 杏華が「咲くかもしれません」と答えた。

 来た人がそれぞれ、花殿の春を見て、それぞれの言葉を残した。その言葉が全部、花殿の空気になった。

 夕方、人が引き上げた後の静けさの中で、小鈴は片付けをしていた。

 蘭妃が縁側から声をかけた。

「小鈴」

「はい」

「今日も来てくれてありがとう」

「いつも来ています」

「いつも、ありがとう」

 小鈴は手を止めた。

 毎日来て、水替えをして、花籠を持ってくる。それは今の小鈴には当たり前のことで、ありがとうと言われるようなことではない気がした。でも蘭妃は言った。いつも、ありがとう、と。

「蘭妃様」

「なんですか」

「わたしも、ありがとうございます」

「わたくしが、何を」

「ここへ来させてくれていること。花暦を一緒につけること。夜の水仙の話も、月下美人の夜も、白蘭の枝を継いだことも、全部、ここでのことです。ここへ来なかったら、知らなかったことです」

 蘭妃は少しの間、小鈴を見ていた。

 それから言った。

「あなたが来てくれなければ、わたくしも知らなかったことが、たくさんあります」

「たとえば」

「花籠に引き算があることとか、水差しの居心地とか、花農家の娘の言い方とか。それから、こうして庭で誰かと春を見ることとか」

 小鈴は縁側のそばへ来て、庭を見た。

 白蘭が咲いていた。水仙が揺れていた。萩の芽が土から出ていた。小株の蕾が、明日か明後日に開くかもしれなかった。

「来年も、春が来ます」

「来ますね」

「来年の春も、白蘭が咲きます。小株も、来年はもっとよく咲くと思います。水仙の球根も、毎年増えます」

「曜様は、月下美人を眠らずに見ると言っていましたね」

「そうでした。今年は皆で眠らないようにしないと」

「杏華が途中で眠くなるかもしれない」

「杏華さんが?」

「あれで、夜更かしは得意でないので」

 小鈴は少し笑った。蘭妃も、目が先に細くなった。

 夕暮れの庭で、二人が少し笑っていた。白蘭が風に揺れて、かすかに香りが来た。


 帰り際、くぐり戸を出ようとした小鈴に、蘭妃が声をかけた。

「明日も来ますか」

「来ます」

「明後日も」

「来ます」

「来年の春も」

「来ます。毎年来ます」

 蘭妃がくぐり戸の内側に立っていた。羽織の裾が、春の夕風に少し揺れていた。

「分かりました」

 それだけ言って、蘭妃は中へ戻っていった。でも、完全に向き直る前に、一度だけ振り返った。

「蘭珠さま」

 小鈴は自分が言った言葉に、自分で少し驚いた。

 名前で呼んだことが、今までなかった。蘭妃様、とずっと呼んでいた。でも今日、この夕暮れの庭の前で、自然に出てきた。呼んでみると思っていたよりやわらかかった。

蘭妃が止まった。

振り返って、小鈴を見た。

驚いていたが、怒っていなかった。その目に、夕暮れの光が淡く差していた。

「……今、何と」

小鈴は少しだけ頬を熱くしながら、でも目をそらさずに言った。

「蘭珠さま」

蘭妃は何も言わなかった。けれどその目が、夕暮れの光の中で、少しだけやわらかかった。

「……来年も、よろしくお願いします」

 小鈴はそれだけ言って、くぐり戸を出た。

 背後で、くぐり戸がゆっくり閉まる音がした。


 花寮への道を歩いた。

 春の夕方の空気は、冬よりずっと柔らかかった。光が長くて、まだ日が残っていた。花寮の方向の空が、薄い橙色をしていた。

 名前で呼んだ。

 小鈴は歩きながら、今しがた自分がしたことを、静かに確かめた。蘭珠さま、と呼んだ。その二文字が、夕暮れの空気の中に出て、消えた。でも消えたのは音だけで、呼んだという事実は残った。

 怖かった。

 呼ぶ前、一瞬だけ怖かった。蘭妃が言っていた通り、言葉にすると本当のことになるから。名前で呼ぶことは、距離を変えることだ。今まであった形が変わる。

 でも言えた。自然に出てきた。

 本当のことになってよかったと、今は思えた。


 花寮への道の、花殿の塀が見えなくなる曲がり角で、小鈴は少しだけ足を止めた。

 振り返って、花殿の方角を見た。

 塀の向こうに白蘭の梢がある。今日最初に咲いた一輪が、夕暮れの中にある。その向こうに、水仙がある。萩の芽がある。小株の蕾がある。杏華が夕食の支度をしている。

 そして蘭妃が、今頃花暦を開いているかもしれない。

 今日のことを書いているかもしれない。白蘭が咲いたこと、小鈴が「好きだと思った」と書いたこと、蘭珠さまと呼ばれたこと。

 小鈴も今夜、帳面を開こうと思った。

 白蘭の一輪のこと、蘭妃が羽織も着ずに庭に出ていたこと、杏華が「来て下さい」と言ったこと、夕暮れの庭で二人が笑ったこと、そして、名前で呼んだこと。

 書き留めて、名前をつけておきたかった。過ぎていく季節に、名前をつけることで、それがそこに留まる。蘭妃から教わったことだった。

 春は続く。

 白蘭が咲いて、水仙が増えて、萩が伸びて、月下美人がまた一年を待つ。花暦が積み重なって、帳面の行が増えて、来年の春がまた来る。

 その全部が、花殿にある。

 花があって、蘭珠さまがいて、杏華がいて、曜様が来る。

 小鈴は明日も、花籠を抱えてあの道を歩く。くぐり戸をくぐって、庭に入って、白蘭の様子を確かめて、水を替えて、花の向きを整える。それが今の小鈴の仕事で、その仕事は今、仕事以上のものになっていた。

 塀の向こうに、灯りがついた。

 蘭妃の部屋の障子が、橙色に染まっていた。

 小鈴はその光を見て、また明日、と思った。

 声には出なかったが、確かにそう思った。

 また明日、花殿へ行く。

 花のある明日が、また来る。

(了)

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