第十九章 書けない夜 前編
翌朝、花寮の空気は、いつもより少しだけ乾いていた。
朝露の残る白蘭が水盤に浮かび、切りそろえられた枝が卓の上に並んでいる。見た目はいつもと変わらない。けれど、仕事場を行き来する宮女たちの足音がどこか控えめで、言葉も低かった。
誰も何も言わないのに、何かがうまく流れていない朝というのはある。花の並びに乱れがなくても、水の匂いが変わるみたいに、場の空気だけが少しよどむ。
小鈴は白蘭を三本選び、籠へおさめた。
今朝の花はどれも水揚げがよく、花びらの開きも穏やかだった。真っ白な花弁の重なりを確かめ、茎の切り口を見て、葉先に傷がないか指先でなぞる。そうしているあいだだけは、いつも通りの朝だった。
「小鈴」
名を呼ばれて顔を上げると、沈女官長が帳場の前に立っていた。
「はい」
「今日、花殿へは行かなくていい」
小鈴は手を止めた。
白蘭の葉先に添えていた指が、そのまま宙でかたまる。
「……え」
「その籠は珠麗妃様の宮へ回しなさい。花殿の分は、今日は別にする」
沈女官長の声はいつも通りだった。短く、余分がない。
だからこそ、小鈴はすぐには言葉を返せなかった。行かなくていい、というより、行くな、と聞こえた。
「でも、花殿の白蘭は」
「今日は別にすると言いました」
沈女官長はそれだけ言って、帳面へ目を落とした。話は終わりだという顔だった。
けれど小鈴の足は、その場から動かなかった。
花殿の朝には、白蘭が要る。
窓際の花入れの水は昨日替えたが、今日は少し花びらが開くだろう。開けば香りも変わる。香りが変われば、置く位置も少しずらした方がいいかもしれない。昨日の夕方にはまだ気にならなかったが、今朝の湿り気なら、窓辺より卓の方が花は長くもつかもしれない。
そんなことを考えたあとで、小鈴ははっとした。
自分が、当たり前のように今日の花殿のことを思っている。
「……何か、ありましたか?」
沈女官長はすぐには答えなかった。
帳面の上を筆が一度だけ滑って、それから止まる。
「花殿に関する記録の扱いで、少し話が出ています」
「記録……」
小鈴の胸が、ひやりとした。
花殿にある記録といえば、ひとつしか思い浮かばなかった。
花暦。
咲いた花の名、その日の空気、部屋に残った香り、そこへ来た人のこと。蘭妃が静かに書きとめ、小鈴も少しずつ手伝うようになった、小さな暦。
「詳しいことは、まだ決まっていません。ただ、今日はおまえを行かせない方がいい」
「どうしてですか」
思ったより強い声が出た。
自分でも驚いて、小鈴は唇を結んだ。
花寮の端で、枝を選っていた宮女がちらりとこちらを見た。すぐに目を伏せたが、その一瞬だけで十分だった。
朝の乾いた空気の正体が、ようやく輪郭を持った気がした。
もう誰かは知っているのだ。花殿で何かが起きていることを。
沈女官長はようやく顔を上げた。
厳しい目ではなかった。困らせたいわけでも、叱りたいわけでもない。ただ、今はまだ言えないことがある人の目だった。
「理由を知れば、なおさら行きたくなるでしょう」
「……なります」
「だからです」
小鈴は何も言えなかった。
沈女官長はまた帳面へ目を戻した。
その横顔は、もうこれ以上は問うなと言っていた。けれど、その沈黙の中に、完全な拒絶ではないものも混じっていた。言えないのだ、と分かるくらいには、小鈴も花寮の空気を読むことを覚えていた。
それでも、胸の奥は落ち着かなかった。
白蘭の香りが、今日は少しだけ薄い気がした。
いや、薄いのではなく、自分の方がうまく息を吸えていないだけなのかもしれない。
小鈴は籠の中の白蘭を見下ろした。
この花は、今日いちばん花殿に似合うと思って選んだものだった。花びらの重なりがやわらかく、香りも静かで、朝の光の中では少し青みがかって見える。蘭妃が窓際で本を開くなら、きっとこのくらいの白がいい。曜様が来るなら、卓の端にもう一本添えた方が部屋が明るくなる。杏華はたぶん、香りが強すぎないか先に確かめる。
そんなふうに、もう誰の手に渡るかまで思い描いていたのに。
「小鈴」
沈女官長が、今度は少しだけ声をやわらげた。
「今日は珠麗妃様の宮へ行きなさい。手を止める方が、かえって目立ちます」
その言い方で、小鈴はようやく理解した。
これは花殿だけの話ではない。花寮にいる自分の様子まで、誰かに見られているかもしれないのだ。
小鈴は小さく息を吸いこんで、白蘭の籠から手を離した。
「……はい」
返事をした声は、自分で思うよりもかすれていた。
珠麗妃の宮へ向かう廊下は、今日に限って長かった。
いつもは花籠の重みと足元の石畳に意識を向けていれば着くはずの道が、何度角を曲がっても終わらない気がした。
花殿へ行かない朝など、いつ以来だろう。いや、通うようになってから初めてかもしれない。
小鈴は歩きながら、ふと昨日のことを思い出した。
夕方、花殿の白蘭の水を替えたあと、蘭妃が花暦の端に静かに筆を走らせていた。窓から入る薄い光の中で、紙の上だけが少し白く見えた。
小鈴は卓のそばで花びらの落ちたものを拾い集めていて、蘭妃はふいに言ったのだ。
――明日の白蘭は、少しひらいたものがよさそうですね。
小鈴は嬉しくなって、はい、と答えた。
ちょうどいいものを選んできます、と。
その約束を、自分は今、果たせない。
胸の奥で何かが、きし、と小さく鳴った気がした。
☆
翌朝も、沈女官長は小鈴に花殿へは行かなくていいと言った。
昼を少し回ったころ、花寮の裏手にある洗い場で、小鈴は黙って花器をすすいでいた。朝からずっと、手だけは動かしている。
珠麗妃の宮へ届けた花の空いた籠を戻し、使い終えた水差しを洗い、午後の仕分けに回す枝を選り分ける。やることはいくらでもあった。けれど、何をしていても、気持ちは花殿の方へ引かれていった。
今ごろ、あの白蘭はどこにあるだろう。
花殿へは届かなかったのだから、別の宮へ回されたのだろうか。それとも花寮の奥に残されたままなのだろうか。蘭妃は今日の窓辺を見て、何も言わなかっただろうか。
花器の縁を拭いていた手を止めたとき、足音がした。
表の廊下ではなく、裏手の細い通路から近づいてくる、ためらいのある足音だった。花寮の宮女ならもっと迷いなく歩くし、役目で来る者なら正面から入る。小鈴は顔を上げた。
格子戸の向こうに、見覚えのある衣の裾が見えた。
「……杏華さん」
思わず立ち上がると、杏華はすぐに人差し指を唇に当てた。
「声を落として下さい」
低い声だった。いつもの張った硬さが少しだけ欠けている。
杏華は花寮の裏手に立っていた。花殿で見る時と同じように背筋はまっすぐだったが、ここにいること自体がすでに不自然だった。侍女頭が花寮の洗い場まで来る用事など、本来はない。
「どうして……」
「長くはいられません」
杏華は周囲を一度だけ見た。人目を確かめる癖のような、素早い視線だった。
昼の花寮は忙しい。表では宮女たちが枝を運び、帳場では沈女官長が台帳を見ている。けれど裏手の洗い場までは、今のところ誰も来ていなかった。
小鈴は濡れた手を衣の端で拭いた。胸の奥がまた、朝より強く騒ぎ出す。
「花殿で、何があったんですか」
杏華はすぐには答えなかった。
その沈黙の短さが、逆に重かった。答えるべきことが多いのではなく、言ってよいところを選んでいるのだと分かった。
「花暦のことです」
やはり、と思うより先に、息が詰まった。
杏華は声をさらに低くした。
「花殿に人の出入りが増えたことを、快く思わない方がいます。もともと静養のための宮です。そこへ下働きの宮女が日参し、曜様までたびたびお見えになる。蘭妃様が何か書き残していることも、よく見ている者は見ています」
花暦。
小鈴は無意識に、指先へ力を入れていた。さっきまで持っていた布が、くしゃりと音を立てる。
「取り上げられたんですか」
「いえ、まだです。ただ、一度お預かりしたいと話が来ました。中を改めるほどのことではないと、蘭妃様はおっしゃっています」
「そんな……」
「大きくするつもりはないのです」
杏華の声は冷静だったが、その奥に抑えた苛立ちが滲んでいた。
それは相手に向けたものか、自分に向けたものか、小鈴には分からなかった。
「蘭妃様は、花暦を隠したくはないのです。隠せば、余計に疑われるから」
「でも」
「ですが、あなたの名があります」
小鈴は顔を上げた。
杏華の目が、まっすぐこちらを見ていた。
逃がさないためではなく、きちんと受け取らせるための目だった。
「花の記録の脇に、誰が来たか、何を置いたか、短く記されている頁があります。毎日ではありません。けれど、あなたの名がある日がある」
小鈴の胸の奥で、何かがひやりと冷えた。
花暦に自分の名があることは知っていた。
蘭妃が、小鈴の選んだ白蘭について記しながら、その日のことも残していたのを見たことがある。曜様が折れた梅の枝を持ってきた日も、花びらの茶を囲んだ日も、花殿にとっては季節の一部だった。だからそこに名があるのは、自然なことのように思っていた。
でも、それを“問題”として見られるかもしれないとは、考えたことがなかった。
「わたしの、せいで」
「そう受け取らないで下さい」
杏華は即座に言った。
いつもの硬い言い方ではない、ほとんど遮るような速さだった。
「花殿を問題にしたい者は、あなたがいなくても別の理由を探します。今回はたまたま、いちばん目につきやすかっただけです」
そう言ってから、杏華はわずかに視線を伏せた。
「……ただ、蘭妃様はあなたのことを案じています」
「え」
「花暦を見られることより、そこにあなたの名があることを」
小鈴は何も言えなかった。
洗い場の水桶に、ぽたりと雫が落ちた。
自分の手からこぼれた水なのか、どこかから落ちたものなのか、分からなかった。
蘭妃は、自分の書いたものを惜しむより先に、そこに自分の名があることを気にしている。
その意味が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。やわらかいのに、重かった。
「どうして、わざわざ知らせに来てくれたんですか」
聞くと、杏華は少しだけ眉を寄せた。
「知らせない方がよかったですか」
「そうじゃなくて……」
小鈴は言葉を探した。
杏華はこれまで、花殿の門で人を止める側だった。必要なら通し、必要なら下がらせる。でも、自分から花寮まで来るような人ではなかった。
杏華は短く息をついた。
「あなたは、知らされずにいると余計なことを考えるでしょう」
それは少しだけ、不器用な言い方だった。
でも小鈴には、それが杏華なりの気遣いだと分かった。
「それに」
杏華は一度だけ、花寮の方角へ目を向けた。沈女官長のいる帳場を意識したのかもしれない。
「蘭妃様は、あなたに来るなとはおっしゃいませんでした」
小鈴の喉が、からからに乾いた。
「ただ、今は待つしかないと。そうおっしゃったのです」
待つ。
その言葉は蘭妃らしかった。騒がず、争わず、嵐が過ぎるまで静かにしているような言い方だ。けれど今の小鈴には、その静けさがひどく遠く感じられた。
「花殿は……今日は、どうですか」
やっとそれだけ聞くと、杏華の目がほんの少しやわらいだ。
「静かです」
その答えに、安心したのか、かえって苦しくなったのか、自分でも分からなかった。
「曜様は?」
「お昼前にお見えになりました。ですが、すぐにお帰ししました」
「……そうですか」
「蘭妃様はいつも通りにしておいでです。花暦も、ご自身でお持ちです。まだ、何も失われてはいません」
まだ。
その一言が、小さな棘のように残った。
杏華もそれを分かっているのだろう。
だからこそ、わざわざここまで来たのだ。
「小鈴」
名を呼ばれて、顔を上げる。
「今日は帳面を開かなくても構いません」
思いがけない言葉だった。
小鈴は目を瞬いた。
「え」
「あなたは何でも書こうとするでしょう。花のことも、花殿のことも」
杏華は少し言いにくそうに言葉を切った。
「けれど今日は、書けなくてもよい日です」
小鈴は返事ができなかった。
杏華がそんなことを言うとは思わなかった。
けれどその不器用な言葉は、沈女官長の厳しさとも、曜様のまっすぐさとも違うかたちで、小鈴の胸に落ちた。
「……蘭妃様も、今夜はたぶん、何もお書きになりません」
その一言で、胸の奥がきしんだ。
花暦に書けない夜が来る。
花の名も、香りも、その日の光も、残せない夜が。
杏華はもう言うべきことを言い終えたらしく、踵を返した。
けれど二歩だけ進んだところで立ち止まり、振り向かないまま言った。
「小鈴。あなたの名が記されるのは、迷惑だからではありません」
それだけ言って、今度こそ裏手の通路へ消えていった。
小鈴はしばらく、その場から動けなかった。
水の音だけがしていた。
洗い終えた花器の縁から、一筋の雫が落ちる。ぽたり、ぽたりと同じ音が続く。
今日は帳面を開かなくても構わない。
杏華はそう言った。けれどその言葉は、帳面を開けない夜が来るのだと、先に知らされたようでもあった。
小鈴は洗い場の板に手をついた。
木の感触が、ひどく冷たかった。
杏華の足音が聞こえなくなってから、どれくらいそこに立っていたのか、小鈴にはよく分からなかった。
洗い終えた花器の縁から雫が落ちる。
ぽたり、ぽたりと、同じ音だけが続く。
花暦に自分の名がある。
蘭妃はそれを案じている。
今夜はたぶん、何も書かれない。
頭の中で言葉だけが繰り返されて、うまく次の動きに移れなかった。花寮へ戻らなければならない。午後の仕分けもある。分かっているのに、足の裏だけが冷えたみたいに、板の間へ貼りついていた。
「小鈴」
声がして、小鈴はびくりと肩を揺らした。
今度は裏手の通路ではなかった。
花寮の表から、ためらいなく踏みこんでくる足音だった。軽いのに隠す気がなく、まっすぐこちらへ向かってくる。
振り向くと、曜様が立っていた。
今日は薄い若草色の衣を着ている。後宮の皇女らしい上等な布地なのに、裾の端へ細かな木の葉がひとつくっついていた。たぶん急いで来たのだろう。背後には付き添いの宮女がひとり、困ったような顔で立っている。
「曜様」
小鈴は慌てて膝を折ろうとしたが、曜様はすぐに言った。
「いいから、そのままで」
言い方はいつものように少し強い。
けれど、その目は落ち着いていなかった。花殿で梅の枝を見つめていた時とも、茶の香りに顔をしかめた時とも違う、まっすぐで焦った目だった。
「どうして来なかったの?」
小鈴は口を開きかけて、閉じた。
曜様は一歩、こちらへ近づいた。
「今朝、花殿へ行ったの。そしたら白蘭がなかった」
声は低いのに早かった。
「蘭妃は何もおっしゃらなかったけれど、窓のところが、いつもより広く見えた」
小鈴の胸がきしんだ。
今朝、自分が選んだ白蘭は、やはり届かなかったのだ。
窓辺には何も置かれず、その空いた場所だけが残った。
「花寮で止められました」
ようやくそれだけ言うと、曜様の眉が寄った。
「どうして」
「……花殿に関することで、少し」
「少し、では分からないでしょう」
曜様はぴしゃりと言った。
付き添いの宮女が「曜様」と小さくたしなめたが、曜様は振り返りもしなかった。
「わたくしには関係があります」
そう言い切る声が、思った以上に強くて、小鈴は少しだけ目を見開いた。
曜様はまだ十二だ。けれど後宮で育った子のまっすぐさは、ときどき大人の遠慮より深く届く。
「……花暦のことです」
小鈴がそう言うと、曜様は黙った。
知っていたのか、知らなかったのか、一瞬では分からなかった。
ただ、その沈黙は驚きより先に、何かを確かめるような間だった。
「やっぱり」
やがて曜様は、唇を結んだまま言った。
「今朝、部屋の外に見慣れない女官がいたの。蘭妃のところへ行くふりをして、書き物のことを聞いていた。杏華が通さなかったけれど」
小鈴は息を呑んだ。
杏華は“大きくするつもりはない”と言っていた。
けれど実際には、もう花殿の外まで視線が来ているのだ。
「蘭妃は?」
「いつも通りだったわ」
曜様は少しだけ視線を落とした。
「いつも通りに見えた。だから、余計によくないの」
その言い方に、小鈴は小さく息を止めた。
曜様も分かっているのだ。
蘭妃は本当に平気な時より、誰かを心配させたくない時の方が、よほど静かにしていることを。
洗い場の上に置きっぱなしだった布を、小鈴はようやく握り直した。濡れたままで、冷たかった。
「曜様は、どうしてここへ」
「決まっているでしょう」
曜様は少し顎を上げた。
「あなたが何も聞かされずにいるのは、おかしいからよ」
その言い方が、妙に曜様らしくて、小鈴はほんの少しだけ泣きそうになった。
慰めるのでもなく、やさしく包むのでもなく、ただ“おかしい”から来たと言う。そこに飾りがないぶん、かえって胸へ落ちた。
「わたしの名が、花暦にあることが、問題になっているらしくて」
言ってしまうと、言葉は思ったよりずっと重かった。
曜様の目が、小さく揺れた。
「名があるから何なの? 花殿へ来た者の名が書いてあって、何が悪いの。わたくしだってあるでしょう」
ほとんど怒っているみたいに問いかけた。
「でも、わたしは下働きです」
「だから?」
曜様は即座に返した。
「花を持ってきて、水を替えて、蘭妃のところを明るくしたのは小鈴でしょう。それを書いたらいけないのなら、花暦は何のためにあるの」
付き添いの宮女が、今度は何も言わなかった。
止める言葉がないのだと分かった。
小鈴は、布を握ったままうつむいた。
止まりかけていた胸の奥が、今度は別のかたちで痛んだ。
「でも、それで蘭妃様が困るなら」
「困らせているのは小鈴じゃない」
曜様の声が、ひどく真っ直ぐだった。
「書かれたから困るんじゃないわ。誰かが、それを困るものにしたいだけ」
子どもの言葉なのに、その線引きは驚くほど正しかった。
小鈴は顔を上げた。
曜様の頬は少し赤くなっていた。怒っているのだ。自分のためだけではなく、蘭妃の静かな場所が、いつものように乱されることに。
「曜様……」
「わたくし、嫌いなの」
曜様はふいに、少しだけ声を落とした。
「花殿は、余計なことを聞かれないから好きなのに。みんな、どうして放っておけないのかしら」
その言葉は幼い愚痴みたいなのに、花殿の本質をきれいに言い当てていた。
余計なことを聞かれない。
だから、人はそこで息ができたのだ。
小鈴はようやく、少しだけ口元をゆるめた。笑うというほどではない。けれど、曜様の前でうつむいたままではいけない気がした。
「曜様は、蘭妃様のところへ戻られるんですか」
「戻るわ」
曜様は頷いた。
「でもその前に、あなたに言いに来たの。蘭妃はきっと待つでしょうって顔をしていたから」
小鈴の喉が、また少しだけ痛んだ。
待つ。
やはり、蘭妃はそういう人なのだ。
「小鈴」
曜様が、今度は少しだけやわらかく呼んだ。
「今日、書けなくても、忘れたことにはならないわ」
小鈴は目を瞬いた。
杏華も、似たことを言った。
帳面を開かなくてもいい、と。
けれど曜様のそれは、もっと子どもらしく、もっと直接的だった。
「わたくし、梅の枝のことも覚えてるし、花びらのお茶のことも覚えてる。月下美人の夜、眠ってしまったことだって覚えてるもの」
少しだけ悔しそうに言ってから、曜様は顎を上げた。
「だから、書けない日があっても平気」
その言い切り方に、小鈴はやっと息をついた。
平気、かどうかはまだ分からない。
でも少なくとも、自分ひとりが空白を抱えているのではないのだと分かった。
花殿で過ごした日々を覚えているのは、蘭妃だけでも、小鈴だけでもない。
杏華も、曜様も、それぞれのかたちで持っている。
「……ありがとうございます」
そう言うと、曜様は少しだけ照れたように顔をそむけた。
「お礼を言われることはしていません」
それから、ふと思い出したように小鈴の手元を見た。
「それ、何を洗っていたの」
「花器です」
「だったら、ひとつ貸して」
「え」
「明日、わたくしが白蘭を持っていく」
小鈴は思わず曜様を見つめた。
付き添いの宮女が小さく息を呑む。
曜様はまったく怯まなかった。
「花寮の者が行けないなら、曜様が花を運んで何が悪いの」
無茶だ、と思った。
けれどその無茶さが、ひどく頼もしくも見えた。
小鈴は、洗い終えた花器をひとつ見下ろした。白磁の、小ぶりなものだ。花殿へ最初に持ちこんだものより少し軽い。白蘭を一、二本差すのにちょうどいい。
「……水は、毎朝替えた方がいいです」
「分かってるわ」
「茎の先も、少しだけ切り戻して」
「分かってると言ったでしょう」
曜様はそう言って、やっと少しだけ笑った。
小鈴も、今度こそほんのわずかに笑った。
それが安心からなのか、呆れからなのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、さっきまで冷たかった洗い場の空気が、少しだけ動いた気がした。




