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花暦の妃たち−寵愛を失った妃の宮で、花売り娘は後宮の季節を書き換える−  作者: 明石竜


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第十九章 書けない夜 後編

 その夜、部屋へ戻った小鈴は、いつものように小さな帳面を膝の上へ置いた。

 窓の外はもう暗い。

 花寮の下働きたちに宛がわれた部屋は広くはないが、寝台と小卓と、衣を畳んで置くための箱がひとつあれば十分だった。夜になると物音は少なくなり、廊下を誰かが通る足音だけが、遠く薄く聞こえる。

 灯りのそばに座ると、袖へまだかすかに水の匂いが残っていた。

 昼の洗い場で濡らした指先はもう乾いているのに、冷たさだけが取れていない気がする。

 小鈴は帳面の表紙を撫でた。

 花寮へ入ってから使い始めた、薄い紙を綴じただけの簡素なものだ。最初は花の水替えの順や、茎の切り戻しの長さ、沈女官長に言われたことを忘れないために書いていた。

 花びらを乾かすのに向く花、向かない花。

 香りの強い日、弱い日。

 白蘭は水差しより口の広い花入れの方が持つこと。

 梅の折れ枝は、切り口を整えればもう二、三日は咲くこと。

 花殿へ通うようになってからは、そういう覚え書きのあいだに、ときどき別のことも混じるようになった。

 曜様が、梅の枝の花が開いたのを見て笑ったこと。

 蘭妃が、桜の花びらの湯気をしばらく眺めていたこと。

 杏華が何も言わずに茶器を一客多く出した日のこと。

 月下美人の夜、花がひらくのを待ちながら、誰も大きな声を出さなかったこと。

 書かなくても覚えていられると思った日もあった。

 けれど、書いておくと、その日がちゃんと一日になる気がした。花の名と一緒に残せば、過ぎていくものにも居場所があるように思えた。

 だから今夜も、いつものように書こうとした。

 小鈴は帳面を開き、筆を取った。

 墨壺の蓋を外し、筆先をほんの少し湿らせる。そこまでは、毎晩繰り返してきた手つきだった。迷いはないはずだった。

 ――今日の白蘭は、花殿へ行かなかった。

 最初の一行は、そうなるはずだった。

 けれど筆は紙の上で止まった。

 行かなかった。

 そのあとに続く言葉が、ひとつも出てこない。

 花殿へ行かなかった朝。

 沈女官長に止められたこと。

 杏華が花寮の裏手へ来たこと。

 花暦に自分の名があることが問題になったこと。

 蘭妃が、それを案じていること。

 曜様が、窓辺に白蘭がなくて広く見えたと言ったこと。

 どれも今日のことなのに、どこから書けばいいのか分からなかった。

 書いてしまえば、それが形になる。

 形になれば、今夜のこともまた残ってしまう。

 小鈴は筆を浮かせたまま、しばらくじっとしていた。

 帳面の上の紙は白い。

 昨日までの頁には、自分の少し癖のある字が並んでいる。花の名、香り、天気、たまに小さな失敗。読み返すと、その日の空気まで少し戻ってくるような字だった。

 なのに今日は、その白さがとても遠かった。

 書いてはいけないわけではない。

 沈女官長に禁じられたわけでもない。

 杏華は、開かなくても構わないと言った。曜様も、書けなくても忘れたことにはならないと言った。

 それでも、小鈴には筆を下ろすのが怖かった。

 もし書けば、この一日はどうなるのだろう。

 花殿へ行けなかった日として残るのか。

 それとも、花暦に自分の名があることを、初めて重く思った日として残るのか。

 どちらにしても、今までみたいに花のことだけを書いてはいられない気がした。

 筆先にたまった墨が、ぽとりと落ちた。

 紙の端に、小さな黒い点が滲む。

 小鈴ははっとして布で押さえたが、点は薄く広がって、丸いしみになった。

「……だめ」

 思わず声が出た。

 その一言が、静かな部屋に思ったより大きく響いた。

 小鈴は筆を置いた。置いたというより、逃がすみたいに卓へ戻した。

 灯りの火が、ひとつ揺れた。

 昼の洗い場で聞いた杏華の言葉が、遅れて胸の中へ戻ってくる。

 今日は帳面を開かなくても構わない。

 あなたは何でも書こうとするでしょう。

 けれど今日は、書けなくてもよい日です。

 曜様も言っていた。

 今日、書けなくても、忘れたことにはならないわ、と。

 小鈴は両手で帳面を閉じた。

 ぱたん、と薄い音がした。

 それだけで、何かを諦めたみたいな気がして、胸の奥がきしんだ。

 書けない。

 たったそれだけのことなのに、ひどく苦しかった。

 花寮へ入ってから、疲れて眠ってしまった夜はあっても、書こうとして書けなかったことはない。

 たとえ一行でも、何かしらは残してきた。花のことだけでも、天気のことだけでも、沈女官長に叱られたことだけでも。

 けれど今夜は、一行も書けない。

 それはまるで、今日という日が手の中に残らず、どこかへ滑っていってしまうみたいだった。

 小鈴は閉じた帳面へ手を置いたまま、うつむいた。

 灯りの熱が、頬の片側だけをじんわり温める。反対側は冷えたままで、顔の半分だけが別の場所にあるみたいだった。

 蘭妃も、今夜は何も書かないのだろうか。

 そのことを思うと、胸の奥がまた静かに痛んだ。

 花殿の窓辺に白蘭がなく、花暦も開かれない夜がある。

 それは、花が一輪もないよりも、もっとさびしいことのように思えた。

 小鈴は寝台の上へ帳面を置いた。

 開かないまま、灯りから少し遠い場所へ移す。

 もう書かないと決めたわけではない。

 ただ今は、閉じたままでいるしかなかった。

 横になっても、すぐには眠れなかった。

 窓の外で、風がどこかの枝を揺らしている。後宮の奥まで届く夜の風は、昼よりずっと薄い音を立てる。

 その音を聞きながら、小鈴は目を閉じた。

 今日のことを、書けなかった。

 けれど書けなかったことまで消えてしまうわけではないのだと、まだうまく信じきれないまま、ただ胸の内で何度も繰り返した。

 書けなかった夜。

 それだけが、今夜のいちばん確かな名前だった。


 同じ夜、花殿の窓辺にも、いつもの白蘭はなかった。

卓の上には灯りがひとつ置かれ、火は細くまっすぐに燃えている。

 そのそばに花暦はあった。閉じたまま、筆とともに整えて置かれている。開こうと思えば、すぐに開ける距離だった。

 蘭妃はしばらく、その表紙を見ていた。

 今夜、記すべきことがないわけではない。

 朝、窓辺がいつもより広く見えたこと。

 曜様が短い時間だけ来て、何も尋ねずに帰っていったこと。

 杏華の足音が、日中いつもよりひとつ多く廊下を往復したこと。

 そして何より、小鈴が来なかったこと。

 書こうと思えば、一行で足りる。

 白蘭、届かず。

 そう書けば、今夜のことは残るだろう。

 けれど蘭妃は、手を伸ばさなかった。

 記せば、その不在に名を与えることになる。

 それがためらわれた。

 花の名を残すように、来なかったことまで整った字で置いてしまえば、今夜だけがひどく冷たい形を持ってしまう気がした。

「……蘭妃様」

 杏華が、少し離れたところから声をかけた。

 蘭妃は顔を上げた。

 杏華は灯りを足しに来たのだろう、油壺を手にして立っていたが、卓の上の花暦を見て、それ以上は近づかなかった。

「もうお休みになりますか」

「ええ」

 短く答えると、杏華は頷いた。

 何も聞かない。その沈黙がありがたくもあり、少しだけ痛くもあった。

 杏華が下がったあと、蘭妃は再び卓へ目を戻した。

 小鈴なら、今日の白蘭は少しひらいたものがよいと言ったことを覚えているだろう。

 曜様なら、窓辺が広く見えたと、そのまま口にした。

 杏華は何も言わずに、ただ余計な者を通さなかった。

 誰も何も失ってはいない。

 まだ、そう言えるはずだった。

 それでも今夜は、花暦を開くことができない。

 蘭妃はそっと手を伸ばし、表紙に触れた。

 薄い紙を重ねた手帳の感触は、いつもと変わらない。変わらないままで、今夜だけ少し遠かった。

 やがて蘭妃は、その上へ静かに掌を置いたまま、灯りを見つめた。

 開かれない頁がある。

 書かれない夜がある。

 そのことを、今はまだ記さずにおくしかなかった。


けれど翌日には、花暦をあらためる話はいったん引いた。

中をあらためても、咎め立てるべきことはないとされたのだと、杏華が短く告げた。

小鈴の名のある記述も、そのまま消されずに残された。

ただし今しばらく、人の出入りは目立たせない方がいい――そういう形で、話はようやく収まった。


 それから二日後、小鈴は久しぶりに花殿の卓のそばへ立っていた。

 白蘭の花入れは、また窓辺に戻っている。

 前より少しだけひらいた花弁が、朝の光を受けてやわらかく透けていた。たった二日空いただけなのに、その白さを見ると胸の奥のこわばりが、ようやく少しほどける気がした。

 蘭妃はいつものように窓際に座っていた。

 曜様は今日は来ておらず、杏華も少し離れたところで茶の支度をしている。部屋の中は静かだったが、前の静けさとは少し違っていた。何かをやり過ごしたあとの、薄い疲れのようなものが残っている。

 小鈴は水差しの位置を整えながら、卓の上へ目をやった。

 花暦が開かれていた。

 いつものように、花の名と短い記述が整った字で並んでいる。白蘭、香りはやや淡い。薄曇り。午后、風あり。

 その少し前の頁に、一か所だけ、妙に広い余白があった。

 あの夜の頁だと、小鈴はすぐに分かった。

書かれなかった夜。

 白蘭が届かず、花殿の窓辺がひどく広く見えた夜。

 小鈴が帳面を開いて、それでも何も書けなかった夜。

 その余白の端に、新しい墨の色で、一行だけ記されていた。


 書けなかった日も、失われたわけではない。

 

小鈴は息を止めた。

 整った、いつもの蘭妃の字だった。

 花の名も、香りも、誰が来たかも書かれていない。ただ、その一行だけが、余白へそっと置かれていた。

「……蘭妃様」

 思わず呼ぶと、蘭妃は窓の外を見ていた視線を、小鈴の方へ移した。

「そのままでは、抜け落ちてしまう気がしたのです」

 穏やかな声だった。

「けれど、あの夜は花の名では残せませんでした。だから、せめて」

 そこで蘭妃は言葉を切り、花暦を見下ろした。

「花は咲いていました」

 蘭妃の声は静かだった。

「でも、咲いたことを誰にも言わないまま朝になる日が続くと、庭まで遠くなる気がしたのです。書けなかったことまで含めて、あの日だったのだと思うことにしました」

 小鈴は何も言えなかった。

 自分はあの夜、帳面を閉じた。

 書けなかったことが苦しくて、それ以上どうしていいか分からなかった。

 けれど蘭妃は、書けなかったことにあとから言葉を与えたのだ。

 その一行だけで、あの夜の空白が、ただの欠けではなくなった気がした。

 杏華が、少し離れたところで湯を注ぐ音がする。

 窓辺の白蘭が、朝の風にほのかに揺れた。

 小鈴は花暦の余白をもう一度見た。

 そこには花の名前はない。

 ときどき、言葉が置かれたあとに少しだけ息をついたような間がある。

 そのわずかな違いを、小鈴はうまく言葉にできなかった。

 ただ、花暦は花の咲き具合だけを残すためのものではなく、ここで過ぎた日々を、失くさないために書かれてきたのかもしれないと思った。

 小鈴はそっと花暦を閉じた。

 今はまだ、うまく読めない。

 けれど、いつか分かる日が来るような気がした。

 

 杏華が、湯を注ぎ終えた茶器を卓へ置いた。

 かすかな音がして、それでようやく小鈴は今ここが朝の花殿であることを思い出した。泣くわけにはいかないし、変な顔もできない。けれど、うまく息ができなかった。

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