起点:とある第一神域・麓
……シャン、シャン……。
揺らめく意識の遥か先で、控えめな鈴の音を聞いていた。
次第に音は、いつかの——誰かの啜り泣きを彷彿とさせて、やけに胸をざわつかせたのだ。
声を殺し、一人耐える様に泣かれるのは、耐えられない。
それが、薄暗い膜を隔てた向こう側の出来事ならば、尚更だった——。
「……ぁ、待って……!」
一番最初に視界が捉えたのは、虚しく空を切った右手で、指の隙間からは薄桃色の空が覗く。
不規則に乱れた己の鼓動とは対照的に、穏やかな春の日差しを思わせる、麗らかな色合い。
その四方が、生い茂る木々に丸く刈り取られ、即席の満月として浮かんでいる様だった。
一気に緊張感が抜けると、脱力した右腕がドサリと地面に投げ出される。
——ん?
その反動で、硬く冷たい衝撃が肌を伝い、続いて立ち込めたのは……湿っぽい土と青草の匂い。
少し顔を傾ければ、柔らかい風が吹き抜け、草に鼻を撫でられる。
——まだ、寝ぼけているのか。
どおりで、体の節々が酷く軋み、重い倦怠感も付きまとう訳だ。
一体どれだけの間、眠っていたのだろうか……そう思い返してみて、ある欠陥に気づく。
今こうしている経緯はもちろん、一番最近と呼べる記憶の輪郭が、曖昧に濁されるのだ。
思い出そうとすると、濃い靄でもかかったように阻まれてしまう。
また不思議なのが、全てを思い出せなくなっているのではなく、どうやら一定期間の記憶だけに限られること。
現に生きる上で必要な知識や言語、極端に昔の出来事なんかは、問題なく覚えている。
この異常事態——呑気に眠っている場合ではないと、体に鞭を打ち起き上がり……改めて驚かされる事となった。
「……こんな場所で倒れてたのか、俺は」
危ないな、とまるで他人事の様な感想が溢れた。
そこは丁度、布団を一枚横に敷けるほどしかない幅の踊り場で、前後にはそれぞれ上りと下りの石段が伸びている。
左右は鬱蒼と高い木々が生い茂げる林。
そして石段の端を辿るように植えられた低木は、林との境界線を担っている一方で、道らしき道はここ一つしかないと、主張しているかの様だ。
以上から考えられるのは、二つ。
転がり落ちてきたか、登る途中で力尽きたか——。
ここで初めて、自分の身なりを確認する。
袖口が多少薄汚れてはいるが、血が滲んだ痕や破れている様子はなく、外的要因による怪我も当然残ってない。
少なくとも、致命的ないざこざに巻き込まれた、という訳ではないのだろう。
それなら尚のこと、上で何かあった——或いは、目的地としていた可能性が高い以上、なんの確認もせずに下ってしまうのは勿体無い。
ひとまず行くべき方角だけ定め、一歩、また一歩と……緩やかだが、不揃いな石の寄せ集めである段差を上がっていく。
「今回はまだ楽だな、あの時は……」
ふと、自身の口からポロリと出た呟きに、口を覆う。
あの時……?
少し前にも、似たような事があったのか?
——それに、何かすごく大切なことを、俺は……。
この違和感の正体を、上手く言葉に出来ない自分が、心底腹立たしかった。
胸の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられる様な、容赦ない不快感。
思い出せないことが。焦りが。胸騒ぎが。
なにか、もうすでに……取り返しのつかない事態に陥ったと裏付けているようで、恐ろしい。
「だからこそ……このままに、しておけないだろ」
知らなければ、思い出さなくては。そして……向き合わなくては。
自分を鼓舞する名目で、パンっ、と思いっきり両頬を叩いたことで、袖の中からコロンとくぐもった音を鳴らす存在に気づく。
探ってみると、それは鈴が三つ連なった小さな飾りだった。
少し錆びついていたが、コロコロ奏でられる音色は、妙に馴染む心地良さがある。
それにしてもこんな鈴、俺はいつから持ってたのだろうか……?
カラッ、カラカラ、カラン……!
なにか軽いもの同士がぶつかり合う、けたたましい音に、意識が引き戻される。
それは何処か遠くから聞こえるものだが、今の自分には関係のないものだと割り切り、再び前だけを見据えて、耐えず足を動かし続けた。
……すると早々に、頂上と思しき場所から、住居らしい建物の一部が見え始めたのだ。
「ひとまず、あそこだな……必ず、手がかりを掴む」
そう……後になって思えば、もしあの時、石段を下っていれば、全く別の結末を歩んでいただろう。
そう思えるほど、彼と早い段階で出会えていたのは、幸運と言える。
しかし他に類をみない程、慌ただしく、荒々しい始まりでもあった——。




