鞠月神社
『ユメビシ一人では、辿り着くことが困難だろう』
まさか追っ手を振り払いながら、アサギから聞いていた洗礼を受ける事になるとは、思いもしなかった。
首が張るほど見上げても先は見通せず、どれだけ登っても、変わらない景色。
自分の現在位置さえも、夜明けには未だ遠い暗がりに加え、密集した林に囲まれているせいで不明瞭。
ならば振り返り、どれだけ登って来たか確認すれば良いだけの事だが……こんな急勾配の荒れ果てた道、重心を後ろにしたらきっと最後だ。
成す術なく、真っ逆さまに転がり落ち、再び登る気力なんて湧かないだろう。
それに運良く撒けたのに、またアレと出会しても、もう……。
あぁ、本当……こんな場所に、鞠月神社なんて実在するのか?
『……それでも諦めず、あの場所に行きたいと、心から願うんだよ』
疲弊からくる弱音が、師の言葉で払拭される。
……そうだ、今更後戻りは出来ない。
悠長にしていられる時間も、俺達には残されていないんだから。
***
ヒュー、ヒュー、ヒュー。
肺が悲鳴をあげ、喉が焼き切れそうな痛みを訴えるが、かまわず俺はただ一つの目的地を目指し、進み続けていた。
感覚が鈍り出した足を、規則的に動かすことにだけに意識を集中させて——。
あれから、どれだけの時間、歩き続けていただろうか。
木々の間から差し込むささやかな木漏れ日で、人知れず夜は明けたのだと知らされる。
つう、と一筋の汗が背中を伝い、酸素の巡りもいよいよ怪しくなってきた頃。
足裏から伝わる感触が、野晒しの土を踏む感触から、硬く規則性のある——石段へと変化したのだ。
更には朦朧とする視界の隅に、これまでの風景とは不釣り合いなほどの、鮮やかな朱色が飛び込んできた。
——あれは…………鳥居?
そうだ間違いない。目をこらし『鞠月神社』という文字も確認出来た。
沸き起こる安堵感を胸に、最後の一段を登りきったところで、ようやく動きを止める。
膝に手をつき、肩で息をしながら、ぶわっと吹き出した汗の滴が地面に落ちるのを、どこか他人事の様に眺めていた。
こうして立ち止まっていても、あの女が追ってくる気配はない。
念の為、背後を振り返って確認するが、自分以外の生物は何処にも存在しないんじゃないか、そう思うほど、辺りは異様に静まり返っていた。
いや…………落ち着こう、ここまで来られたんだ、一旦冷静に。
目的地だけは取り決めていて、その後の事は何も聞いてなかった……のだが、落ち着け。
鳥居をくぐり、念入りに周囲を確認する。
しかし案の定、アサギどころか、神社は無人のようだった。
「……とりあえず、まずは……水が、飲みたい」
今後の動きを確認する為にも、一度頭は冷やしておきたい。
見かけた手水舎と思しき水源の元へ駆け寄ると、透き通った水がチョロチョロと湧き出ていた。
その涼しげな水流を目にした途端、激しい喉の渇きに襲われ、堪らず置いてあった柄杓を拝借して、キンキンに冷えた水を一気に飲み干す。
「ゴホゴホっ…………はあ……」
どうやら、渇ききった体には刺激が強かったらしく、少し咽せ込んでしまう。
ついでに顔も洗わせてもらい、ゆらゆら波打つ水面を眺めていると、神妙な面持ちの自分と視線が交わる。
——あの二人は、どうなっただろうか?
あぁ、本当にどうして……首なんて突っ込んだのやら。
偶然出くわしてしまった現場は、控えめな月明かりが静かに暴いた小道だった。
二対一。襲われてる男女と、襲う女。
お面をした男は、透けていた女を必死に庇おうとしていた。
そんな彼らと対峙する形で、歪な形をした武器を振り下ろしていたのは、鬼の形相をした女。
人の姿こそ模っていたが、双方、人ならざる者達のいざこざであるのは明白。
こちらとしても自分達の事で手一杯だ。
安売り出来る余裕なんて、持ち合わせていない……はずなのに、声をかけずにはいられなかった。
それは一重に、消えかけていた女の方に肩入れしたからだ。
この忌々しい悪癖——死ねば、治るのだろうか?
でも今回はそれ以上に、ただどうしようもなく『彼女を助けなくては』という強い衝動に突き動かされた。
——そう、確か別れ際に聞いた、彼女の名前は……
「おや、本当に来てたね。ユメビシ」
突然、背後から自分を呼ぶ明るい声に、思考が遮られる。
声の主であるその男は、俺のすぐ真横に忽然と立っており、思わず後ずさってしまう。
長い白髪を適当に結え、ここは仮にも神社であるのに、坊さんが着ている袈裟によく似た物を身に纏った、自由過ぎる出で立ち。
こんな派手な格好の存在がすぐ近くまで迫っていたのに、足音どころか気配をまるで感じなかったからだ。
そして何よりも、昔ながらの旧友に会ったかの様に振舞われても、こちらとしては不信感が募る一方である。
「……あんたは誰で、どこでその名前を知った?」
「んー、覚えてないのはキミだけさ。そんなことより、ロメイが礼を言ってたよ」
「……? 誰のことを言っている?」
「おや、なにも知らずに助けたの? ほんと面白い子だね。今より少し前、キミに助けられたと感謝していた、二人からの言伝だよ」
そうか——良かった、無事に辿り着けたのか。
「まあボクとしては、どちらでも構わないんだよね」
心底愉快そうに笑う長髪の優男は、なんの前触れも無く、俺を思いっきり後ろに突き飛ばした。
いや、正確には手水舎の中へ突き落とした。
「……って、なにを……?!」
すぐ這い出ようと足掻くが、そもそも前提として妙だ。
外見は腰より下の高さまでしかない、石の器だったはず。
なのに何故、全身が浸かってもなお……底に足がつかないのか?
そして——水が、酷く重い。
もがけば、もがくほど、体にまとわりつく異物感。
ここでようやく気づいたのだ……手水舎の中で蠢いている物の正体に。
それは遠目で見れば、白い魚の群れに見えただろう。
しかし今や、俺にキツく巻き付くそれは無数の人の手だ。
足、腰、胸、腕、首、顔に……ぺったりと張り付き、離れない。
もはや成す術なく、眼下に続く暗闇へ、ゆっくりと引き摺り込まれていく。
「——賭けてみようか」
かろうじて聞き取れたその声を最後に、世界から音が消えた。
何処までも、ずっとずっと……沈んでいく。
底無し沼と錯覚するほどに、中は深く、何も無い。
いつの間にか拘束は解かれ、体は自由になっていたのに、抗えない猛烈な眠気に襲われる。
……意識が沈む深度に比例して、四肢の感覚も失われていく様だった。




