【22:罠(2)】
レフノールは必死だった。もつれそうになる足を懸命に動かして、できる限りの速さで駆ける。懸かっているのはいるのは文字通り、己の命。あっという間に息が上がったが、足を止めることなどできるはずがない。恐ろしくて、振り返ることさえできなかった。
それなりの距離の優位があったとはいえ、レフノールはけっして逃げ足に自信がある方ではない。というよりも、身体能力全般が高くはない。リディアが部下であり、己が前線にいた頃からその差は歴然としていて、レフノールは早々に「得意なことは得意な者に任せておけばよい、自分は最低限、自分の身さえ守れればよい」と考えることに決めていた。己を囮の一部にしたがゆえに、相応の距離を全力走しなければならないことなど想定していなかったのだ。
――畜生、誰がこんなことを……!
恨んでみても、現場で作戦を決めたのは自分自身で、恨む相手がいるとすればそれは自分でしかなかった。
無限とも思える距離を走りきり、兵たちの最後尾に少々遅れてレフノールはもうひとつの防柵へたどり着く。早くと手招きする下士官に迎えられて防柵の隙間を抜け、よろよろと街道の上へへたり込んだ。下士官がいささか乱暴な手つきでレフノールの腕を掴み、防柵から引き離す。
「……もうちょっと丁寧に頼むよ」
愚痴とも小言ともつかないことを口にしながら立ち上がると、防柵の隙間を塞ぐように兵たちが数人がかりで移動式の防柵を据えつけるところだった。
東側の防柵は西側のそれと異なり、いかにも防柵という、縦横に木材を組み合わせたものではない。横木として、枝葉のついたままの木がびっしりと結びつけられており、そこにはたっぷりと油が掛けられている。
「すぐにやってくれ」
気を取り直してレフノールが声をかけると、はい、と応じた下士官が手ぶりで兵たちに指示を出す。指示を出された兵たちが、あらかじめ用意していた松明を防柵の下に差し込むと、数瞬後にはばちばちという激しい音とともに炎と煙が吹き出した。
直後、西から爆発音が響く。
「よし、あっちはたぶん、うまく行った。俺は上に出て様子を見てくる。打撃歩兵は俺と来てくれ。戦列歩兵諸君、連中に抜けられるとも思えんが、ここは絶対に通すな」
※ ※ ※ ※ ※
最初にヴェロニカが放った太矢の餌食になったのは、およそ100人の敵の中でも一際装備の立派な相手だった。前と後ろを炎で塞がれて慌てる兵たちを叱咤し、燃えている場所から離れろと声を張っていた。ヴェロニカはその相手を、大人の背丈の数倍という程度の高さの急斜面の上、水平距離にして20歩も離れていない場所から、狙いを定めやすい伏せ射ちの姿勢で射撃した。外しようのない距離だった。兜ごと頭を射貫かれて指揮官が倒れ、兵たちの恐慌状態が更にその度合いを増す。
混乱する敵のどよめきをかき消すように、先任下士官の太い声が響く。
「構え!」
打撃歩兵と、そして弩兵としての訓練を受けた輜重兵たちが急斜面の際まで進み出て、それぞれの武器を構える。敵兵に弓を持っている者はいない。斜面は容易く登れる高さではない。槍も届かない。つまりこれから行われるのは、一方的な殺戮だった。
「狙え!」
「皆、盾だ、盾を――」
戦友に指示を出そうとした言葉を言い終える前に、リディアが放った太矢がその兵の首を射貫く。
「射ぇ!」
ベイラムの号令とともに弦音が連鎖する。至近距離からの斉射を浴びて、敵兵がばたばたと倒れた。
「……えげつな」
その光景を見たヴェロニカの口から、呟きが漏れる。
この場で戦うと聞き、取るべき戦術を聞いて、ヴェロニカは恐ろしいと思った。敵が、ではない。味方であるレフノールが、だ。
冒険者も軍人も、危険を扱うことこそが商売だ。だから、できる限り一方的に、相手の側にだけ危険を押し付けることが肝要。その点は理解しているつもりだった。
仲間内で言えばコンラートがまさにそのような考え方をする。知恵を絞り、自分たちにできることを組み合わせて、可能な限り仲間を危険に晒すことなく問題を解決しようとする。だが、100人規模の敵を殲滅しようと考えたことはない。それは単純に、そのような依頼を請けることがなかったからだ。
たとえば商隊の護衛であれば、襲ってくる野盗などは追い散らせば済む。野盗にとって割に合わないほど手ごわい相手がいる、ということを理解させればそれ以上は襲われないのだから、それでよい。小規模な妖魔の群れを退治するような場合は結果として殲滅することも多いが、4人で対応できるのはせいぜいが十数体まで。どちらにしても、概ね対等なやり取りの上で勝つことが多く、よほど上手く奇襲が決まりでもしない限り、無抵抗な敵を一方的に殺すような機会はそうそうない。
そもそも、数が100に届くような相手を敵に回すような仕事は、冒険者のところへ持ち込まれることがない。それはまさしく、軍が対応するべきものになる。レフノールが部下や自分たちを指揮してそのような数の妖魔と戦うところも、ヴェロニカは実際に見てきた。ヴェロニカが見た2回のいずれも、レフノールの優先順位は損害を抑えながら敵を退けることが第一で、それ以上のことは望んでいない。行動からも結果からも、そう言ってよいだろう。
だが、今回はどうか。逃げられない罠の中に敵を閉じ込め、容赦なく殲滅しようとしている。それが可能な手を講じ、そのまま実行に移している。前回もその前も、守りに徹していたのは、おそらく性格ゆえではない。置かれた立場や彼我の数の差、そして可能だった準備が、あの兵站将校を縛っていたに過ぎない。
『中尉さんって、将校さんなんだねえ』
自分が口にした言葉が、唐突に思い出される。兵站将校。兵站を――戦闘以外のすべてを支える任に就く、将校。巨大な暴力を扱う組織において、決断を下す役割を負った者。必要ならば、そして可能ならば、最も効果的な手段を選び取り、そしてそれを実行することを躊躇わない。
あの商売人じみた兵站将校は、味方にしている限り、誠実で話の通じる依頼人だ。だが、いざというときには、使えるすべての手段を使って目的を遂げようとする。軍という組織の力と、自分たちのような異物を組み合わせて使うことを躊躇しない。その上で最善と思われる手段を使う。自分を囮に使うことすらやってのけた。結果がこれだ。計画された退却を潰走と誤認した敵は、見事に罠に嵌まり、抵抗できないままに殲滅されつつある。
――この先何があっても。
あの一見どうということのない兵站将校を敵に回すことだけは、絶対に避けなければ。
もとより依頼人を裏切ることなど考慮の対象外、というヴェロニカではあったが、改めてそのように決意していた。
味方がドン引きする回です。




