【23:罠(3)】
依頼人に恐怖心を抱きながらも、ヴェロニカは手を止めない。悩んで手が止まるのは駆け出しだけだ。冒険者として生きていく上で最も必要なことのひとつが、とりあえず悩みを脇へ置いて手を動かすことだ、とヴェロニカは考えている。
予備武器であろう短剣を投げようとした者、恐怖に負けて海側の斜面へ逃げようとした者、盾の構え方が甘く、脚や腕が盾で守れる範囲の外に出てしまっている者。皆、ヴェロニカの的になった。
やがて、半分ほどまで数を減らした敵兵は、盾を構えてひと固まりに急斜面の際に寄り、動かなくなった。そうなると、矢や太矢では容易に損害を与えられない。
ベイラムも同じことを考えたのだろう、手振りだけで射撃の中止を命じる。いつものような大声を出さないのは、こちらがまだいつでも射撃できる態勢でいる、と考えさせるためだ。ヴェロニカはひとつ息をつき、伏せていた姿勢から立ち上がる。
「問題は――なさそうだな」
抑えられた、低い声がした。内心で恐れていた当人の声を間近で聞いて、ヴェロニカの心臓がひとつ大きく跳ねる。
「はい。あちらの弓兵は後ろにしかいませんでしたから」
ともに射手を務めていたリディアが、同じような低い声で応じる。何かを抑え込むような声音だった。
眼下の敵兵は、抵抗の手段をほぼ持たない。だから今のところ、味方には死者どころか負傷者も出てはいなかった。
「大尉さん、驚かさないでよ」
「ああ済まない、問題が、なければいいんだ。アーデライドは……あっち側か?」
やはり抑えた声ながら軽い口調で抗議したヴェロニカに向き直り、やや西側の斜面の傍、背の低い木立のあたりを差して、レフノールが尋ねる。全力で走って切れた息が、まだ完全には元に戻っていない様子だった。
「はい、ご指示のとおりに。敵も今のところ、こちらへ来てはいないようですが」
リディアがどこか安堵したような態度で応じた。
「来ないなら来ない方がいいな……コンラート、伐り出した木を落としておいてくれ。ゴーレムを使って。済んだら油と松明も」
ちらりと斜面の下の街道に視線をやったレフノールが、淡々とした口調で指示を出す。そこには、盾を掲げてどうにか身を守ろうとしている敵兵がいる。その中には、負傷して動けなくなった者も、おそらく含まれている。射殺された者と反対側の急斜面へ逃げた者を除いても、抵抗できない状態の兵はいるはずだった。
レフノールに指示されてコンラートが行った準備の中には、枝も葉もついたままの木をゴーレムを使って伐り出すことも含まれていた。足止めに使うためのものではあったが、今の状況で上から落とせば、それ自体が殺傷能力の塊になる。更に油と火。その指示の意図はあまりにも明確だった。今は脅威とはなり得ない者まで含めて、文字通りの殲滅をしようとしている。動きようのない――逃げようのない相手を。生きたまま焼くことで。
「――わかりました」
常よりもいくらか硬い声で、コンラートが応じる。リディアが口許を引き結んだまま、目を閉じた。何かから目を背けるように。レフノールは表情を変えなかった。
「気分はわかるし、俺もいい気分にはなれないが、俺たちには時間が必要だ。連中の略奪の容赦のなさを、聞いたことくらいはあるだろう」
「邪教徒ですからね、あちらにしてみれば」
珍しく、吐き捨てるような口調でリオンが応じた。
隣国ラーマゴルトとの間には長年にわたる敵対関係がある。加えて、奉じる神の差異がある。戦時においても国と国との間を取り持ってくれる教会も、信仰の体系が異なる相手との仲介に立つことはできない。そもそも、西方諸国で信奉される神は唯一にして絶対のものとされ、それゆえに他の信教の一切を邪教と断じている。
そのような相手であるから、降伏した兵や将校であってさえまともな捕虜としての扱いなど期待できない。よくて奴隷、悪くすればひとまとめに殺されて打ち捨てられる。
都市や村落に対する略奪も同様だ。王国陸軍とて必要に応じた徴発は行う。徴発はある種の必要悪と認識されており、買い上げる側の言い値、という値の付け方であるにせよ、対価の支払いは行われる。無軌道な略奪が許されておらず、実行する者があれば軍規違反として裁かれるのは、長期的な統治との噛み合わせがあまりにも悪い、という理由によるものだ。
だがそれも、統治すべき相手という認識があればこその話である。相容れない邪教の信徒が相手であれば、そのような歯止めは存在しない。結果、行われる略奪は容赦のないものになる。家財、食糧、家畜や家禽、農器具を始めとする生業のための道具類に至るまで、見逃されるものはまずないと言ってよい。住民たち自身でさえある種の戦利品と見なされ、連れ去られてしまう。人というよりは品と見るような関係だから、こちらにもやはりまともな扱いは期待できない。
だから大規模な侵攻が行われるのであれば、まずもって進路上にある村落に居住する住民たちを逃がさなければならない。財産はまだ補いがつかないこともないが、人が攫われ、あるいは殺されるようなことになれば、それはもう取り返しがつかないことになるからだった。
『逃がす』と言っても、逃げろと一言伝えれば済むような話ではない。散在する村落に人を送り、事情を含めて逃げさせなければいけない。自力で歩けない者、足の遅い者をどうするか。道々の食糧や寝床の手配は。ある程度は事前に定められた計画があっても、細々としたところはその場その場で詰めていかねばならない。そして、それらの全てに、恐ろしい手間と時間がかかる。逃げる住民がラーマゴルトの軍勢に追いつかれれば、そこで不可避かつ不可逆の惨劇が発生する。
とりわけ、聖職者や聖印を持つような熱心な信徒は、邪教の先兵として扱われ、拷問と確実な死が待っている。普段は温和なリオンの口調にも、理由はあるのだった。
「だから俺たちはここで連中の戦力を削り、時間を稼ぐ。できれば恐怖心を刻み込んでおく。兵にも、将にも」
「――恐怖心、ですか」
ため息をつくような口調で、コンラートが応じた。
「間違いなく、その点では成功でしょうね。大いに」
「そうか?」
「ええ。まずもって、私自身が恐れていますよ。あなたが敵でなくて良かったと思っている」
味方がドン引きする回です(2回連続2回目)




