タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗~④ 江戸のストーカー、麦をくれる 其ノ参
柳やは下の町では珍しい二階建ての建物だ。一階は居酒屋、二階には喜兵寿とつるが住んでいる。
麦芽作りの最初の工程は、大麦を水に浸すこと。最初は少量から試すつもりだったが、水を吸った麦は大きく膨らみ、発芽すれば根も伸びる。麦汁まで仕込める量を考えれば、それなりに大きな容器が必要だった。
ごそごそと棚を物色しながら、直は呟いた。
「昔、遊びでやった麦芽作りの知識が、こんなところで役に立つとはなぁ」
通常、ビール造りでは完成した麦芽を購入して仕込むため、自分で麦芽を作ることはほとんどない。
だがブルワリーに勤め始めた頃、遊び半分で実家に持ち帰った大麦を発芽させたことがあった。結局その麦でビールを仕込むことはなかったが、作り方だけは身体が覚えていた。
「あとは道具さえあれば、つくれちゃうもんね~」
視線を巡らせると、棚と棚の間に大きなたらいがあった。
「お!ちょうどいいサイズみっけ」
直はたらいと、台所に立てかけてあったざるを持つと水場へと向かった。
水場は、柳やの裏にある路地を少し進んだところにある。木で組まれた井戸があり、その脇には水を汲むための桶がいくつも並んでいる。
「おお、井戸!本物はじめてみたかも」
直は思わず足を止めた。
井戸といえば、石積みの円い井戸に滑車が付いているものを思い浮かべていた。しかし目の前にあるのは、それとはまったく違う素朴な造りだ。
昼飯時だからだろうか。井戸の前では女性達が野菜片手に立ち話をしており、その足元では腹掛け姿の子どもたちが元気よく駆け回っていた。
直はたらいとざるを置くと、よいしょっと井戸の中を覗き込んだ。深さはかなりあるようで水面は見えないが、かすかに水音が聞こえてくる。
「さてと。これでどうやって水を汲むかだな……」
井戸の上には長い柄のついた桶が立てかけられているので、それで汲むのだろう。
「……誰かに聞くか」
直は、井戸端で立ち話をしていた女たちに声をかけた。
「すみませーん!この井戸の使い方、教えてもらえませんか?」
すると、女たちは「信じられない」といった表情で一斉に直を見た。
「井戸の使い方知らないなんて」
「ちょっと、この人どこのだれ?」
「いやだ、誰か呼んだほうがいいんじゃない?」
ひそひそとした話し声が広がり、刺すように睨みつけてくる。
「いや、俺はただ水を汲みたいだけで……」
弁解する間もなく、一人の女が大声を張り上げた。
「誰か!助けて!」
その声に、近くの長屋から男たちが飛び出してきた。その手には武器になりそうなものが握り締められており、中には鎌を持った男までいる。
「おい!お前何者だ!」
(……やばい)
思わず一歩後ずさった、その時だった。
「皆さん、驚かせてすみません!」
聞きなれた声に振り返ると、つるだった。息を切らせながら、人垣をかき分けて駆け寄ってくる。
「この人は柳やが新しい酒つくりのために南方からお招きした杜氏でして。いまはうちに住んでおります」
つるの言葉に、女性たちが口を開く。
「怪しいもんじゃないったって、この人井戸の使い方もわからなかったんだよ?!それにおかしな髪の色だし、様子もおかしいし……」
つるは直の前に立つと、深々と頭を下げた。
「なにせ暮らしの違うような遠方に住んでいるものなので、わからないことも多いんです。少し様子がおかしいこともあったかもしれませんが、決して害を加えることはありませんので、ご安心ください」
「いや、様子はおかしくないって……!」
直が口を開くと、つるの鋭い後ろ蹴りが飛んできた。
「いっ……!!!」
「これからどうぞよろしくお願いします。新たな酒ができたあかつきには、是非みなさん柳屋に飲みにきてくださいね。振る舞い酒をさせていただきますので」
つるの穏やかで淡々としたはなし口調に、人々は「まあ、つるちゃんが言うのなら」と、手にしていた武器を下ろし、ぞろぞろと家の中へと戻っていった。人がいなくなると、つるはなおに向き直り、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめん。水場の使い方、教えなくて」
てっきり怒られると思っていた直は、その言葉に思わずたじろぐ。
「いや……えっと、聞かなかった俺も悪いわけだし……」
「聞きにくくしてたのもわたしの責任。ごめん」
そういって再び頭を下げた後、つるは切り替えるようにパンっと手を叩いた。
「よし、この話はこれでおしまい!さあ。さっさと水を汲んじゃいましょう」
「お、おう」
つるは井戸の上に置いてあった持ち手の長い桶を手にとると、ざぶんと井戸の中に落とした。
「井戸の水を汲むには、この桶を使って。水を運ぶには、土間にある水桶を使うといいと思う」
話しながらつるは器用にするすると桶を井戸から持ち上げた。中にはたっぷりと水が入っている。
「ほら、こんな感じ。でもさ、こんなの見ただけでわかるでしょう?井戸があって桶があったら、こうやって汲み上げる他別になくない?なんでわざわざ声をかけたの?」
つるが怪訝そうにいう。
「そりゃあ聞くだろ。だってこの水はここらに住む人たちの大事なもんだろ。下手なことして汚しちまったら大変だと思ってさ」
直が答えると、つるは一瞬きょとんとした顔をした後、あははと笑い出した。
「あんたのことだらしなくて、どうしようもない男だと思ってたけど、意外なとこちゃんとしてんのね」
「そんなの当たり前だろ。って、俺だらしなくもどうしようもなくないから!」
つるはひとしきり笑うと、直の持ってきたたらいに水をざばりとあけた。
「さあ、汲んじゃってちょうだい。このたらいなら、二人で運べるでしょ」
直は桶を受け取り、井戸へと下ろした。思った以上に重い。水を汲み上げるたびに腕へずしりと重みがのしかかる。照りつける日差しの中、額からは汗が滝のように流れ落ちた。
さぶん、さぶん。
何度か繰り返すと、たらいは透き通った井戸水でいっぱいになった。
「たったこれだけでへばるなんて、だらしないわね。さ、店まで帰るわよ」
つるがたらいの縁に手をかける。
「まじか……これ運ぶのかあああ!」
直は思わずその場に倒れ込んだ。汗で張りついた着物。耳をつんざく蝉の声。見上げた空は、驚くほど青い。
「ああ、ビールが飲みたい……キンキンに冷えたやつを、一気に」
脳裏に浮かぶのは、凍ったジョッキになみなみと注がれた黄金色のビール。しかしその幸せな妄想も、「ほら、遊んでないで帰るよ!」つるの一言であっさり打ち砕かれた。
「……うい」
こうして二人は、たらいを抱えて柳やへ戻った。
麦芽つくりは、まず麦を洗うところから始まる。直は早速ざるに大麦をあけた。ざらりと心地よい音を立てながら、つややかな麦が姿を現す。
直はゴミなどがはっていないか、大麦をざるに少しずつ広げていった。麦はさらさらとしており、手を入れるとひんやりとしていて心地がいい。薄茶色の殻に包まれた大麦は、小さいながらもぽってりと存在感があって、先ほど飲んだ麦湯の香りが漂ってくるようだった。
「やっぱりちょっと小さい気がするんだよなあ」
直は麦を一粒持ち上げると、日にかざした。普段見慣れているのは麦芽になった大麦だ。一概には比べられないが、形がどこか違うように見える。
「ちょっと食べてみるか」
直は麦を2~3粒口の中に放り込んだ。ガリガリとかみ砕くと、香ばしさのあとからほのかな甘みがじわりと広がる。
「あまみはしっかりあるけど、少し弱いというか、すっきり気味すぎるような……」
舌で麦の情報を少しでも舐めとろうとしていると、つるが笠を持って現れた。
「ずっと外で作業していたら暑いでしょ。これよかったら被って」
そうって笠を直に渡してくれる。頭に乗せるとしっかりと日差しを遮ってくれた。
「おお、本物の笠だ。これ、めちゃくちゃ涼しいな。ありがとう」
お礼を言うと、つるは「別に」と肩をすくめ、直の側にしゃがんだ。
「さっきから変な顔して何してたの?」
「ああ。なんかこの麦、俺が知ってるものと少し違う気がしてさ。味はどんなもんなんだろうって確認してたとこ」
「で、どうだったの?」
つるが真剣な顔で直を覗き込む。
「甘みはある。でも、なんとなく質が違う気がする。普段は麦芽の味を細かく比べながら仕込んでるわけじゃないから、自信はないけど」
「ふうん」
つるも一粒つまみ、前歯でかりっと噛んだ。
「……うん。麦だね」
「だよな」
直は思わず吹き出した。
「ま、やってみりゃわかるか」
直は麦をざるごとたらいの中に移した。たっぷりとした水に麦はゆっくりと沈んでいく。
「水に漬けるんだ」
麦の様子を興味深そうに見ながらつるがいう。
「そう。まずは二日くらい水に漬ける。途中で何度か水を替えて、ちゃんと麦に息をさせてやるんだ」
「へえ」
つるは立ち上がると、腕を組んで直を見下ろした。
「せいぜい酔っぱらって水替え忘れないようにしてよね。まぁ、もしもの時は、わたしも手伝ってあげてもいいけど」
相変わらず口調はぶっきらぼうだったが、その目はもう睨んではいなかった。
(キツそうに見えて、なんだかんだ優しいんだよな)
そう思ったものの、口にすればまた怒られそうだ。
「じゃあ、その時は頼むわ」
直が笑うと、つるは小さく頷いた。




