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タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗~③ 江戸のストーカー、麦をくれる 其ノ弐

 朝五つ。仕事へ行くものを送り出した朝市は、ゆるりとした雰囲気に包まれる。


 ビールの原材料「大麦」がこの地にあることを認識した直と喜兵寿は、「麦湯」へと向かっていた。


「びいる」を造らなければ殺される。しかし何からどのようにして造っていいのかわからない。


 そんなまったく先のみえない状況の中で一筋の光が見えたのだ。大麦を使った茶を出す「麦湯」へ向かう喜兵寿の足は自然と早くなる。しかし直は相変わらずのんびりと歩いていた。


「おい、もっとちゃっちゃと歩けないのか?」


「まあそんなに急ぐなって。それにしても、あの蕎麦屋うまかったなあ。他の蕎麦も食いたいし、また行こうぜ」


 舌なめずりする直の首根っこを無言で掴むと、喜兵寿はずるずると引きずるようにして歩き出した。


「ちょっ!おいやめろって。ねこじゃないんだから」


「ねこの方がまだかわいげがあるだろ」


 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら「麦湯」に着くと、「ちょっときっちゃん、何してるの?」とクスクスかわいい笑い声が起こった。


 直が顔をあげると、かわいらしい女性が目を細めてこちらを見ている。真っ白な肌に、少し鼻にかかったような高い声。「可憐」という言葉がよく似合うその女性だ。直は吊るされた状態のまま、キリっと表情を整えた。


「どうもはじめまして。自分、直って言います」


「あらまあ、はじめまして。うちの名前は夏って言います」


 少しなまりある話し方は夏によく似合っていて、直は目じりを下げながら「よろしく」と右手を差し出した。


「はいはい、知ってる知ってる」


 突如頭上から聞こえてきた少し低めのハスキーボイス。見るとそこには喜兵寿の妹、つるが仁王立ちで立っていた。


「お、つるじゃん。こんなとこで何してんの?」


「何してんの?じゃないわよ。そっちこそ、なんでこんなとこで油売ってんのよ!びいる造る材料探しに行ったはずでしょう?」


「ああ!そうそう今絶賛探し中」


 つるの目がひゅうっと吊り上がる。大きなつり目が、さらに吊り上がる姿はなかなかに迫力があった。


「まあまあつる、落ち着けって」


 喜兵寿が開いた方の手で、つるの背中をポンポンと叩く。


「実はびいるに必要な材料のひとつが大麦だってことがわかってな。大麦を使っている麦湯に話を聞きにきたってわけだ」


「……ふん。そうならそうと早く行ってよね」


 つるはじろりと直に一瞥をくれると、スタスタと麦湯の椅子へと戻っていった。お茶会でもしていたのであろう、屋台の前に置かれた椅子では数人の若い女性達がくすくすと笑いながら何かを話している。


「なあ喜兵寿、ひょっとしてだけど……おれ嫌われてる?」


 首根っこを掴まれたまま、直は喜兵寿を見上げる。


「まあ、そうだろうな」


 喜兵寿は小さく肩をすくめながら言った。


「えー、まじかよ。なんでだろ」


 首をかしげる直を引きずったまま喜兵寿は麦湯の屋台に行き、夏に話しかけた。


「騒がしくてすまんな。麦湯を2つおくれ。あと麦の話を少し聞かせてほしい」


 喜兵寿は言うと、椅子に座っていた女性たちが「きゃあ」っと色めき立つのがわかった。見れば着物で顔を隠しながら、喜兵寿のことをちらりちらりと盗み見ている。


「麦のはなしね。うん、わたしにわかることであればなんでも聞いて」


 そう返す夏の声色も、先ほどよりも丸く華やいで聞こえる。直は驚いたように再び喜兵寿を見上げた。


「え、まさか喜兵寿ってめっちゃモテる系の人?!」


「は?」


 眉間に皺を寄せているその顔は、たしかに渋い。身長もかなり高いし、体躯もがっしりとしている。ゆるく着くずした着物の着方も、きっとおしゃれなのだろう。


「そうか。俺ほどではないけど、男前だもんなあ」


 直がぶつぶつと呟いていると、夏が麦湯の入った湯飲みを二つ運んできてくれた。


「はい、おまちどうさま!暑いから気を付けてね」


 少し離れていても、そのふわりと香ばしい香りがわかる。


 湯飲みを受け取ると、濃い茶色は直もよく知る麦茶そのものだった。厚手の陶器越しに麦湯の温度が心地よく伝わる。口に含むと麦のあまみと香ばしさが広がり、それがゆっくりと喉を滑り落ちていった。


「これ、うまいな!おれの知ってる麦茶よりも甘みが濃い気がする」


「夏のつくる麦湯は、うまくて人気だからな」


 喜兵寿も麦湯を飲みながら、うんうんと頷く。


「わあ、うれしい。ありがとう」


 夏は両方頬に手を当てると、少し恥ずかしそうに微笑んだ。直がニヤニヤしていると、湯飲みを置いた喜兵寿が真剣な面持ちで話し始めた。


「夏、実はいろいろあって大麦のことを知りたい。この大麦はどこから仕入れている?」


「この時期来る流しの麦屋さんから買ってるよ。麦の収穫時期は初夏だから、毎年その時期になると麦売りが下の町にくるんだ。麦湯はね、穫れたての新麦をじっくり炒ることでおいしさが全然変わるから、どの時期に穫れた麦かがすごく大切なの!」


「麦売りか。そういえば見かけたことがある気もするな……それで次はいつ来るかわかるか?」


「ああ、もうしばらくは来ないかも。新麦の時期終わっちゃったから……」


 喜兵寿の顔がサッと曇ったのをみて、夏は慌てて言葉をつづけた。


「もしきっちゃんが必要だったら麦を分けてあげる!今年はいつもより多めに買ったんだ」


 喜兵寿はパッと顔を輝かせると、夏の両手をとった。


「それは本当か?!夏、恩に着る!」


 夏は頬を赤らめ、屋台前の女性集団からは「きゃあ」という声があがった。


「よかったな!これで良質な大麦は入手できそうだ」


 喜兵寿が嬉しそうに直を振り返る。


「……おお。よかったな」


 直は残りの麦湯を一気に煽った。でもそれは思った以上に熱くて、直は盛大にむせた。


 あたたかい麦茶を湯飲みで提供する「麦湯」。こんな暑い日に、それもお茶だけを売る店に果たして需要はあるのだろうか。そう思って見ていたが、入れ代わり立ち代わり様々な客がやってくる。買い物帰りの女性に、大きな籠を担いだ物売り。皆、汗をぬぐいながら麦湯をゴクゴクと飲んでいるのだ。


「……絶対ビールの方がいいだろ」


 麦湯はうまいが、湯飲みを通じて熱さがじんじんと伝わってくるのはやはりつらいものがある。


 店が落ち着いたら大麦を持ってきてくれるというので、直と喜兵寿は椅子に腰かけて待っていた。日陰とはいえじりじりと焼け付くように暑い。喉が渇いて麦湯を飲み、飲めばまた汗が噴き出す。


「ああ、ビール飲みたいわ」


 額の汗をぬぐいながら、直は叫んだ。


「びいるは暑い時に飲む酒なのか」


 喜兵寿が興味津々に食いついてくる。


「そうだな、ビールはいつ飲んでもうまいんだけど、やっぱり暑い日に飲むビールは格別だな。苦味感じる冷たい炭酸が喉を刺激しながら落ちていくあの感じ……あれはやっぱりビールだからこその魅力だよな」


「たんさん、というのはなんだ?」


「ビール飲んだ時、しゅわしゅわ、パチパチっとしただろ?あれだよ」


 喜兵寿は眉間に皺を寄せると、思い出すように口を動かす。


「あの酒がはねる感じがいいのか……今は想像すらできないが、びいるが出来たあかつきには外で飲んでみることにしよう」


 喜兵寿が麦湯を飲みながら、「楽しみだ」と笑った。


「そうだな、大麦も手に入りそうだし、他の原材料もなんとかなるだろ。外で飲むビールはうまいぞ!俺は天才ブルワーだからな。期待していいぞ」


 直の言葉に、喜兵寿が急に真顔になる。


「いまさらだがびいるは大麦の他には何が必要なんだ?朝市を見ていて造れそうな材料はありそうだったか?」


「ビールは必要なのは麦芽とホップに酵母。日本酒があるってことは酵母はどうにかなるんだろうけど……問題はホップだろうな」


「ほっぷ、というのはなんだ?」


「簡単にいうと植物の実だな。その実を使ってビールの苦みをつけるんだよ。俺が普段使ってるホップは海外からの輸入もんなんだけど、日本で栽培してるとこもあるわけだし……まあ探せばどっかに生えてんじゃないか?」


「どっかに生えてんじゃないか?じゃないでしょ!」


 直の呑気な言葉に、突然隣の椅子にいたつるが突っかかってきた。他の女性たちと話しつつも、喜兵寿と直の会話に耳をそばだてていたのだろう。噛みつかんばかりにこちらを睨みつけている。


「びいるが出来なきゃ、牢屋敷に入れられちゃうんだからね!わかってる?!」


「……わかってるって!」


 つるの大きな声に、直は思わず耳をふさいだ。


「つる、落ち着きなさい」


 喜兵寿はつるを引き寄せると、ポンポンと優しく頭を叩く。


「心配かけてすまんな」


 喜兵寿の言葉に、つるは少しおとなしくなった。


「殺されちゃうかもしれないのに、なんでこんなに呑気なんだろって……そりゃあ気も立つでしょう」


 そういって再び直を睨む。そんなつるを見て、喜兵寿はにっこりと笑って言った。


「必ずなんとかするからつるは心配しなくていい。後で蘭学者の幸民先生のところにも行ってみるよ。西洋の酒にも詳しいはずだから、びいるについてなにかしらの助言をくれるはずだ」


 つるは黙って聞いていたが、最後に小さく頷いた。


「……わかった。でも本当なにかあったら必ず相談してよね」


 そういうと、直に向かってべえっと大きく舌を出し、「店の準備するね」と荷物をまとめて帰っていった。


「やっぱり俺、つるに嫌われてるよなあ。なんでだろうな」


 心底不思議そうに首を傾げる直を、喜兵寿は奇異の目で見ながら「お前は本当いままで幸せに生きてきたんだろうな」と大きくため息をついた。


「きっちゃん大丈夫?あれ、つるちゃんは?」


 先ほどのピリピリとした空気を感じたのだろう。夏がお盆片手にパタパタと駆け寄ってくる。


「つるは仕込みがあるから帰ったよ。すまんな、騒がしてしまった」


 喜兵寿が片手をあげると、夏は「そっか!全然だよ~」とほほ笑む。そして


「お待たせしちゃってごめんね。もうちょっとしたら落ち着くと思うから、そうしたら麦もってくるからね。あ、これお隣の屋台のお団子」


 と、お盆に乗せていた団子とおかわりの麦湯を椅子の上に置いた。


「いや、気持ちはありがたいんだが、さすがにこんなには……」


 先ほどから夏は何かにつけて食べ物を持ってきてくれていた。くず餅に大福、焼き芋などふたりが座る椅子は甘味でいっぱいだ。そしてその都度、夏は嬉々としておかわりの麦湯を持ってきてくれた。


「いいの!いいの!きっちゃん甘いものすきでしょう?遠慮しないで食べてね」


 夏は喜兵寿の飲みさしの湯飲みをお盆に乗せると、うふふっと立ち去って行った。


「なあ喜兵寿、夏ちゃん、めっちゃ尽くしてくれてんじゃん。あんなにかわいいんだしさ、付き合ったりしないわけ?」


 夏の背中を見ながら、直はにやにやと喜兵寿の肩を組む。


「付き合わないな」


「なんでだ?あ、他に付き合ってる人がいるのか」


「いない。というか誰とも付き合う気はない」


「なんで?」


 直が怪訝そうに眉をしかめるのを見て、喜兵寿は面倒くさそうにため息をついた。


「今は店で手一杯なんだ」


「……ふうん。あーあ、これだからモテる男は」


 直は麦湯を飲み干すと、立ち上がって屋台へと向かった。


「おかわりもらってくるわ。喜兵寿には毎回新しい湯飲みで持ってきてくれるけど、俺には持ってきてくれないからさ」


 しかし、屋台には夏の姿は見当たらなかった。大きな鍋に入った麦湯からはゆらゆらと湯気が立ち上っている。湯飲みはきっちりと揃えて置かれていて、店主である夏の几帳面な性格が透けて見えるようだった。


 ちょうど客足も途絶えたタイミングのようだし、厠にでも行っているのだろうか?ふと屋台の下に目をやると、向こう側に草履を履いた足がみえる。


「なんだ、夏ちゃんいるんじゃん」


 直がひょいと覗き込むと、夏はしゃがみ込んだ姿勢で作業をしていた。湯飲みの中身をゆっくり一滴も残らないように徳利に移し、風呂敷で一つずつ大事そうに包む。その横顔があまりにも真剣なので、直はしばらく黙ってその様子を眺めていた。


「ずいぶん丁寧に仕事するんだね」


 声をかけると、夏はきゃっと小さな声をあげた。


「びっくりしたあ。見ていたなら声かけてくださいよ」


「何か手伝おうか?」


 直が屋台の裏側に回ろうとするのを、夏は「大丈夫です!」と慌てて止めてくる。


「これ洗い物じゃなくて、宝物なので!」


「ん?」


 意味がわからず直が戸惑っていると、夏は大事そうに風呂敷を抱えた。


「これ、きっちゃんがいま飲んだ湯飲みなんです。ふふ、すごいですよね。きっちゃんいつも忙しくてたまにしか来てくれないし、来てもすぐに帰っちゃうので、最近は全然わたしの宝物増えなかったのですが……今日はこんなに集まっちゃいました!」


「ん?」


 にこにこと説明してくれる夏の言葉がまったく頭に入ってこない。


「うれしいなあ。でもこれ、直さんのおかげでもありますね。ありがとうございます。大事に使いますね!」


 そう言ってゆっくりと風呂敷を撫で、徳利を愛おしそうに眺める。「使うって何にだ!?」そんなツッコミが頭いっぱいに浮かんだが、夏の横顔があまりにも嬉しそうで、言葉はどうにも出てこなかった。


「あ、これきっちゃんには秘密にしてくださいね!恥ずかしいので。じゃあわたし、麦を取りに帰るついでにこれをおうちにしまってきますので、すみませんが少し店番をお願いできますでしょうか?」


「お、おう……」


 直が思わず返事をすると、夏は「ではちょっと行ってきますね」と頭を下げ、パタパタと走っていった。


「どこにでも、変わったやつはいるんだな……」


 直はもうもうと湯気を立てる麦湯の鍋をみながら呟いた。


 喜兵寿の飲み残した茶を集め、大事そうに湯飲みを抱える夏。その笑顔を思い出し、直は小さく身震いした。


(あの飲み残しの茶、まさか夏は自分で飲むのだろうか……いや、まさかな……)


 直が唸りながら考えていると、きゃぴきゃぴと明るい夏の声がした。


「お待たせしましたあ。麦持ってきましたよ」


 声のする方を見ると、藁包んだ大きな荷を持った夏が立っていた。おそらく走ってきたのだろう。ほほ笑んではいるが、肩でふうふうと息をしている。


「こんなにたくさん!重かっただろう!?言ってくれれば一緒に取りに行ったのに!」


 喜兵寿が駆け寄ると、夏は「しまった」という顔をし、わざとらしく喜兵寿の方によろめいた。


「あぁ、重くて……ごめんなさい」


 そういって上目遣いで喜兵寿を見上げる。


「悪かったな、さあ荷をこちらに渡して」


 喜兵寿が夏から荷を受け取った瞬間、腕がぐっと沈んだ。


「うおっ」


 慌てて抱え直し、椅子の上へと下ろす。荷をほどいてみると、中には大量の大麦が入っていた。


「すげえ!麦だ!」


 直は顔を輝かせて駆け寄る。こげ茶色の麦はキレイに脱穀されており、美しく輝いていた。大切に育てられたのだろう、一粒一粒に生命力が満ちているようだ。手を入れると、麦がさらさらと子気味のいい音をたてた。喜兵寿も麦を数粒手のひらに乗せ、まじまじと見つめている。


「これは素晴らしい!かなり上質な麦だ。夏、この麦いくらで譲ってもらえるだろうか?」


 喜兵寿が財布を出そうとすると、夏は「いいよいいよ」と首を振った。


「つるちゃんから少し聞いたよ、大変な状況だって……!なんか異国のお酒を造らなきゃいけなくて、それにこの麦が必要なんだよね?だったら持って行って」


「いやしかし……」


「いいんだよ、きっちゃんの役に立てたらわたしそれだけで嬉しいの。そうだ、そのお酒ができたら飲ませてくれる?わたしも異国のお酒飲んでみたいなあ」


「もちろんだ、約束するよ。そうか、夏は酒が好きだったのか。じゃあ今度ぜひ柳やにも来ておくれ。最高の酒とつまみをご馳走するよ」


 二人の会話を聞きつつ、直は改めて麦に向き合った。


 直の知っている大麦よりも少し小さいような気はするが、これは時代によるものなのかもしれない。


 ビールを造るのに必要なのは、大麦を麦芽にしたもの。直は購入した麦芽を使ってビールを醸造しているので、大麦にはそんなに馴染みはなかったが、見知った存在は思った以上に直を安心させてくれた。


「あとはこれをうまいこと麦芽にできるかだよな……」


 大麦を太陽にかざしながら呟くと、喜兵寿が「ばくが、とはなんだ?」と覗き込んできた。


「このままじゃビールにはできないから、この大麦を麦芽にしてやる必要があるんだよ。麦芽ってのは……うーん、簡単に言うと、この麦を発芽させて乾燥させたやつって感じかな」


「酒を造るのに、なぜわざわざ芽を出させる必要がある」


 酒についての好奇心が異常に強い喜兵寿だ。その理由を細かに知りたがっているのは手に取るようにわかったが、どのように説明したらいいのか、直は頭を抱えてしまった。


 ちょんまげの時代に、「でんぷんがー」とか「アミラーゼがー」とか言ったところで通じる気がまったくしない。


「えっと、ビールを造るためには糖が必要なんだよ。糖って伝わるか?なんか甘いやつなんだけど、その糖を酵母が食べることで炭酸とアルコールができるわけ。だから大麦の中にあるでんぷんを糖に変えてやる必要があるんだよ。


 んでそのための必要な酵素を麦を発芽することで作ることができるんだけど……いや、これ全然わかんねえよな?!」


「確かに何を言っているのか全くさっぱりわからないな」


 しかしその言葉と裏腹に、喜兵寿の表情は面白くてたまらないといったものだった。


「ところで、あるこーるというのはなんだ?」


「アルコールか。アルコールは酒だよ。飲んだら酔っぱらうやつ」


 喜兵寿は腕組みしたまま考えこんでいたが、しばらくすると「ひょっとして」と口を開いた。


「ひょっとして麦芽にする、とは日本酒造りでいう麹造りのようなものか!?いや、日本酒を造る前にはな、まず米を米麹にする必要があるんだが、なんだかその話に似てるような気がするぞ、それ」


 直の主戦場はあくまでもビール造りであり、日本酒は専門外でからっきしだ。今度は直が腕組みをして「うむ」と考え込む番だった。


 そういえばかつて麹でビールを醸造しているというブルワーに出会ったことがある。初対面だったが、面白すぎる彼の話に意気投合して、途中から肩を組んでしこたま飲んだので、記憶が本当にあいまいなのだが、確か麹の力で米のでんぷんを糖に変えていると言っていたような……気がする。


 話の内容は朧げだったが、「麹はいいぞ、麹はすごいぞ」と何度も語る彼の笑顔だけははっきりと覚えているので、まあ麹が何かしてくれるということだけは確かなのだろう。


「そうだな、まあ同じようなもんだな!」


 直が言うと、喜兵寿は「なるほどな!」と嬉しそうに顔を輝かせた。


「びいるを造るにはまず麦芽からか。大麦も手に入ったことだし一刻もはやく店に戻って作ろう」


 喜兵寿は大きな荷を担ぎ、夏への挨拶もそこそこに歩き出した。三か月でビールを造らなければ牢屋敷に入れられる。それでもその足取りは軽かった。


「ほら、いくぞ」


 振り返ったその目は、おもちゃを買ってもらった子どものように輝いていた。


 夏はそんな喜兵寿をうっとりと見つめ


「きっちゃーん、頑張ってね!今度お店に行くからねえ」


 と手を振って顔を赤らめていた。


 途中交代で大麦を担ぎながら、喜兵寿と直は柳やへと戻った。そんなに距離はないとはいえ、夏の真っ昼間だ。身体中から汗が吹き出し、くたくただった。大麦を下ろすと、崩れるように座敷に座る。


「うへえ、あっつ」


「暑いな、これはさすがに堪える」


 外では蝉がやかましく鳴き、窓から入ってくる風はゆるりとぬるい。それでも店の中はひんやりと静かに涼しかった。客席も調理場も整理されており、どこもかしこもきっちりと拭き込まれている。


「なんだかこの店くつろぐな」


 直が呟くと、


「それはどうも」


 という声と共に湯飲みが差し出された。見るとつるがふふんっといった表情で立っている。


「まあわたしが店の管理全般してるからね!居心地がよくないわけがないわよね」


 湯飲みの中には並々と水が注がれている。それは冷たいとはいかないまでも、火照った身体を冷やしてくれるには十分だった。


「うへー。生き返る」


 麦湯もうまかったけれど、やっぱり暑い日には冷たい飲みものだ。直が喉を鳴らしながら水を飲んでいると、つるが徳利に入れた水を持ってきてくれた。


「ありがとうな、つる。ところで今何時だ?」


 喜兵寿が聞くと、「さっき昼の鐘がなってたから……」少し考えてつるが言う。


「たぶん真昼九つくらいじゃない?そうだお兄ちゃん、さっき魚売りの久兵衛さんが『いい鰹が入ったから見に来てほしい』って来てたよ」


 鰹、と聞いて喜兵寿の顔がサッと変わる。


「久兵衛さんが『いい鰹』というのだから、さぞいい鰹なんだろうな……厚く切って、表面を炙って、薬味はたっぷり」


 喜兵寿はぶつぶつと呟くと、「よし、ちょっと久兵衛さんのところに行ってくる!」と立ち上がった。しかしすぐに「いや、しかし麦芽をつくる作業も今からするのだった」と腰を下す。


 本当に料理と酒が好きなのだな。直は右往左往する喜兵寿を見て笑った。


「麦芽作りには、数日かかんだ。最初は水に漬けておくだけ。俺が作業しとくから、喜兵寿は鰹見に行ってきな」


「大麦を水に漬けるのか!うむ、気になるが……それなら後で話を聞けるもんな。じゃあ先に鰹を仕入れに行ってくる。台所や倉庫にあるものは好きに使ってくれ」


 そういうと、喜兵寿は颯爽と出かけていった。


 喜兵寿の背中を見送ったあと、「もう少し休もう」と直が横たわると、背中に悪寒を感じた。恐る恐る振り返ると、つるが冷たい目で睨みつけてきている。


「おーっと、そうだ。そろそろ麦芽つくりの準備でもするかな。何か使える道具はあるかなっと」


 直はわざとらしく伸びをすると、道具を探しに店の奥へと向かった。

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