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夕焼け電脳クラブ  作者: ナナメ横


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9/10

夏祭りと夕焼けの約束

 夏祭りには、二種類の人間がいる。


 祭りそのものを楽しみにしている人間と、屋台の食べ物を楽しみにしている人間だ。


 ちなみに俺は、後者である。


 焼きそば、たこ焼き、フランクフルト。


 普段ならそれほど気にならない食べ物も、屋台に並んでいるだけで妙にうまそうに見える。


 あれは何なんだろうな。


 夏の暑さと、提灯《ちょうちん》と、人混みが作り出す魔法なのかもしれない。


 ただし。


 魔法というものには、だいたい代償がある。


 俺の場合、その代償は財布だった。


     ◇ ◇ ◇


 八月五日、金曜日。


 夏休みの旧パソコン室で、俺は残り少ない小遣いを数えていた。


 千円札が二枚。


 五百円玉が一枚。


 それから、小銭が少々。


 ……厳しい。


 先日の喫茶こもれびで使った金が、なかなかの痛手だった。


 後悔はしていない。


 ナポリタンはうまかったし、自分で作れるようにもなった。


 ただ、財布の中身が増えるわけではない。


「葛城《かつらぎ》くん!」


 突然、朝比奈《あさひな》ナツキが机を叩いた。


「明日、暇?」


「……何だよ、いきなり」


「暇?」


「先に用件を言え」


「じゃあ暇だね!」


「なんでそうなる!」


 朝比奈は、鞄《かばん》から一枚のチラシを取り出した。


 そこには、色鮮やかな花火の写真が印刷されていた。


『第28回 水守川灯り祭』


『八月六日(土)開催!』


 その下には、屋台や盆踊り、川辺の灯籠《とうろう》流しについて書かれている。


「……夏祭り?」


「そう!」


 朝比奈は満面の笑みで頷《うなず》いた。


「明日、みんなで行こうよ!」


「みんなって……」


「夕焼け電脳クラブのみんな!」


 ……なるほど。


 そういうことか。


「別にいいけど」


「本当!?」


「ただし、俺は金がないぞ」


「大丈夫!」


 朝比奈は力強く頷いた。


「屋台を見て歩くだけでも楽しいから!」


「お前、本当にそれで我慢できるのか?」


「……」


 朝比奈は少し考えた。


「たこ焼きは食べたい」


「ほらな!」


「あと、りんご飴!」


「増えたぞ!」


「焼きそばも!」


「もう昼飯じゃねえか!」


 朝比奈はけらけら笑った。


 まったく。


 こいつと一緒にいると、財布がいくつあっても足りない気がする。


「ふっ」


 窓際から、聞き慣れた声がした。


「夏祭りか。悪くない」


 久世《くぜ》リョウである。


 黒縁眼鏡を押し上げながら、ノートパソコンの画面を閉じた。


「地域の伝統行事を調査するのも、電脳魔術師《サイバーメイジ》の務めだろう」


「……何を調査するんだ?」


「屋台の構造や、照明設備、それから祭りの音響システムなどだな」


「普通に祭りを楽しめよ」


「無論、それも重要だ」


 久世は腕を組んだ。


「特に、金魚すくいには興味がある」


「金魚?」


「ああ。水面の動きと道具の強度を分析すれば、成功率を高められるはずだ」


 ……。


 俺は、少しだけ考えた。


「お前、金魚すくいやったことあるのか?」


「ない」


「まず一回やってから言え!」


 朝比奈が吹き出した。


 久世は真面目な顔のままだった。


「理論があれば、経験不足は補える」


「その理論が合ってるといいな」


「何だと!」


 そんなやり取りをしていると、扉が開いた。


「あら、楽しそうだねえ」


 白河《しらかわ》スズネ先輩が、いつもの鍵束を持って入ってきた。


「何の話?」


「夏祭りです!」


 朝比奈がチラシを見せる。


「明日、みんなで行こうと思って!」


「ああ、水守川のお祭りかあ」


 スズネ先輩は懐かしそうに笑った。


「私も小さい頃から行ってるよ」


「じゃあ先輩も!」


「うん。行こうかな」


「やった!」


 ……決まるのが早い。


 これで四人全員、参加決定らしい。


「というわけで!」


 朝比奈が活動日誌を開いた。


「明日の活動予定を書きます!」


「祭りに行くだけだろ」


「立派な活動だよ!」


「何の活動なんだ?」


「親睦《しんぼく》会!」


 ……なるほど。


 そう言われると、少しだけそれらしく聞こえる。


 朝比奈は、日誌に大きく文字を書き込んだ。


『八月六日 夕焼け電脳クラブ・夏祭り親睦会!』


 その下に、さらに一行。


『全員参加。欠席は認めません!』


「……おい」


「何?」


「それ、強制参加じゃねえか」


「みんな行くって言ったじゃん!」


「そうだけどな」


 久世が満足そうに頷く。


「ふっ。部活動らしくなってきたな」


「まだ非公式だけどな」


「葛城! そこを突くな!」


 スズネ先輩は、くすくす笑っていた。


 そのとき。


『皆さん、楽しそうですね。』


 旧パソコンのスピーカーから、ミナセの声がした。


 画面の隅には、いつものドット絵の少女が表示されている。


「あっ、ミナセちゃん!」


 朝比奈が手を振った。


「明日、夏祭りに行くんだよ!」


『そうですか。』


「ミナセちゃんも行く?」


『申し訳ありません。私は、この端末から移動できません。』


「あ、そっか」


 朝比奈は少し残念そうな顔をした。


 しかし、すぐに笑う。


「じゃあ、写真いっぱい撮ってくるね!」


『ありがとうございます。』


「あと、お土産も!」


『私には食事機能がありません。』


「食べ物以外でもいいじゃん!」


『……検討します。』


「また検討するんだ」


 俺は思わず笑ってしまった。


 朝比奈は、嬉しそうに活動日誌を閉じた。


「じゃあ、明日は午後五時に商店街の入口で集合ね!」


 ……。


 こうして。


 何の依頼も届いていないのに、俺たちの翌日の予定が決まってしまった。


 まあ。


 たまには、こんな日もいいだろう。


     ◇ ◇ ◇


 八月六日、土曜日。


 午後五時。


 水守商店街の入口には、すでに祭りの音が響いていた。


 遠くから聞こえる太鼓。


 屋台の呼び込み。


 子供たちの笑い声。


 アーケードの天井には、色とりどりの提灯が吊るされている。


 空は、まだ明るかった。


 夕暮れまでは、もう少し時間がある。


「……暑いな」


 俺は、思わず呟いた。


 今日は紺色のTシャツにジーンズ。


 特に祭りらしい格好ではない。


 まあ、別にいいだろう。


 祭りは服装を見せに行く場所じゃないんだから。


 ……そう思っていたのだが。


「葛城くーん!」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 そこに立っていたのは、朝比奈ナツキだった。


 いつもの制服ではない。


 淡い水色の浴衣《ゆかた》。


 小さな白い花の模様。


 髪は後ろでまとめられ、横には金魚の形をした髪飾りがついている。


 ……。


「どう?」


 朝比奈が、その場でくるりと回った。


「浴衣!」


「……見れば分かる」


「似合う?」


「……」


 俺は少しだけ言葉に詰まった。


 似合う。


 普通に、似合っている。


 ただ、それを本人に言うのは何となく恥ずかしい。


「……まあ、祭りっぽいな」


「何それ!」


 朝比奈が頬を膨らませた。


「もっとこう、感想ないの?」


「……涼しそうだな」


「全然涼しくないよ!」


「じゃあ何て言えばいいんだよ!」


 朝比奈は、けらけら笑った。


 ……どうやら、からかわれていたらしい。


 まったく。


 油断も隙もない。


「お待たせー」


 そのとき、スズネ先輩がやってきた。


 紺色に朝顔の模様が入った浴衣を着ている。


 髪はいつもより少しきれいにまとめられていた。


「わあ!」


 朝比奈が目を輝かせる。


「先輩、きれい!」


「ありがとう。ナツキちゃんも可愛いね」


「えへへ!」


 ……なるほど。


 女子同士だと、こういう会話が自然にできるらしい。


 俺も少しは見習ったほうがいいのだろうか。


「……先輩、似合ってますね」


 思い切って言ってみた。


 スズネ先輩は、少し驚いた顔をした。


 それから、にっこり笑った。


「ありがとう、ユウマくん」


 ……よし。


 普通に言えた。


 ところが。


「……へえー」


 隣から、妙な声がした。


 朝比奈である。


「先輩にはちゃんと言うんだ?」


「……何が?」


「何でもなーい」


 にやにや笑っている。


 ……面倒くさい。


 非常に面倒くさい。


 そのとき。


「待たせたな!」


 最後の一人が現れた。


 久世リョウだった。


 黒いTシャツ。


 ジーンズ。


 首から下げたUSBメモリ。


 そして、片手には小さな巾着袋。


「……久世」


「何だ、葛城」


「その巾着、何が入ってるんだ?」


「小銭だ」


「……普通だな」


「何を期待していた?」


「魔法の道具でも出てくるのかと思った」


「ふっ。魔法の道具なら、すでに持っている」


 久世は首から下げたUSBメモリをつまんだ。


「これだ」


「……はいはい」


 朝比奈が笑い出す。


 スズネ先輩も楽しそうだった。


 四人揃ったところで、俺たちは商店街の奥へ歩き始めた。


     ◇ ◇ ◇


 祭りの会場は、水守川沿いに広がっていた。


 川の両岸には、たくさんの提灯。


 橋の近くには盆踊りの櫓《やぐら》。


 道沿いには、ずらりと屋台が並んでいる。


 焼きそば。


 たこ焼き。


 わたあめ。


 チョコバナナ。


 金魚すくい。


 射的。


 ……うん。


 実に素晴らしい。


「葛城くん!」


 朝比奈が、俺の袖を引っ張った。


「まず何食べる?」


「……いきなり食うのか?」


「もちろん!」


「さっきまで浴衣の話してただろ」


「お祭りに来たら屋台でしょ!」


 ……確かに。


 それは否定できない。


 俺たちは、まずたこ焼きを買うことにした。


 一皿を四人で分ける。


 熱々のたこ焼きを口へ運ぶ。


「……熱っ!」


 久世が声を上げた。


「大丈夫?」


 スズネ先輩が尋ねる。


「だ、大丈夫です!」


 久世は、慌てて麦茶を飲んだ。


「だから熱いって言ったのに」


 俺が言うと、久世は眼鏡を押し上げた。


「熱さに負けるわけにはいかん!」


「いや、普通に冷まして食えよ」


 朝比奈が笑った。


「久世くん、急いで食べすぎ!」


「うるさい!」


 ……まったく。


 食べ物一つで、どうしてこんなに騒がしくなるんだろう。


 そのあと、朝比奈はりんご飴を買った。


 スズネ先輩は、わたあめ。


 久世は焼きとうもろこし。


 そして俺は。


「……」


 財布を見つめていた。


 ……残金、千七百円くらい。


 まだ大丈夫。


 まだ、いける。


「葛城くん、何してるの?」


 朝比奈がのぞき込んできた。


「財布と相談してる」


「また?」


「今月は厳しいんだよ」


「じゃあ、これ半分あげる」


 朝比奈は、りんご飴を差し出した。


「……食べかけじゃねえか」


「いいじゃん!」


「いや、よくないだろ」


「何で?」


「……何でって」


 俺は少し考えた。


 別に、食べられないわけじゃない。


 ただ、何となく恥ずかしいだけだ。


「……気持ちだけもらっとく」


「えー」


 朝比奈は少し不満そうだったが、すぐにりんご飴へかじりついた。


 ……自由なやつである。


     ◇ ◇ ◇


「さて」


 久世が、金魚すくいの屋台の前で立ち止まった。


「ついに、このときが来たな」


「……何だよ」


「金魚すくいだ」


 久世は眼鏡を押し上げた。


「俺の計算が正しければ、高い確率で成功するはずだ」


「……本当に?」


 朝比奈が目を輝かせた。


「もちろんだ」


「じゃあ、やってみて!」


「ふっ。見ているがいい」


 久世は、店のおじさんから紙のついた道具を受け取った。


 ポイ、と呼ぶらしい。


 水槽の中には、赤や黒の金魚が泳いでいる。


 久世は、真剣な顔で水面を見つめた。


「まず、狙う個体を選定する」


「……うん」


「次に、水流と相手の動きを予測する」


「……うん」


「そして、最適な角度で――」


 ぴしゃっ。


 水面にポイを入れた瞬間。


 紙が破れた。


「……」


「……」


「……」


 沈黙。


 久世は、破れたポイを見つめていた。


「……何でだ?」


 朝比奈が吹き出した。


「あははは!」


「久世くん、一秒もたなかった!」


「お、おかしい!」


 久世は真剣な顔だった。


「理論上は成功するはずなのに!」


「力を入れすぎたんだろ」


 俺が言うと、久世は悔しそうに水槽を見た。


「くっ……実践は難しいな」


 ……ようやく気づいたらしい。


 スズネ先輩は、のんびり笑っていた。


「でも、楽しそうだったね」


「……はい」


 久世は少しだけ照れたように答えた。


 結局、金魚は一匹も取れなかった。


 店のおじさんが笑いながら、小さな飴を一つくれた。


 久世は、その飴を大事そうに巾着へしまった。


「……何してるんだ?」


 俺が尋ねる。


「戦利品だ」


「負けたんだろ」


「次への教訓なのだ」


 ……まあ。


 そういうことにしておこう。


     ◇ ◇ ◇


 午後六時半を過ぎた頃。


 空が、ゆっくりとオレンジ色に変わり始めた。


 川沿いには、さらに人が増えていた。


 提灯の明かりが、一つ、また一つと灯っていく。


 遠くでは、盆踊りの音楽が流れている。


 朝比奈はデジカメを取り出し、あちこち写真を撮っていた。


「葛城くん、そこ立って!」


「……何で?」


「写真!」


「またかよ」


「今日はちゃんと目開けてね!」


「分かってるって!」


 カシャッ。


 シャッター音。


 朝比奈が液晶画面を確認する。


「……あ」


「何だ」


「今回は開いてる!」


「そりゃそうだろ!」


 朝比奈は、けらけら笑った。


 ……まったく。


 俺の写真写りを何だと思っているんだ。


「じゃあ、今度はみんなで撮ろうよ」


 スズネ先輩が言った。


「せっかくのお祭りだし」


「いいですね!」


 朝比奈が頷いた。


 近くにいた祭りのスタッフの人にお願いして、四人の写真を撮ってもらうことになった。


 提灯を背景に並ぶ。


 俺。


 朝比奈。


 久世。


 スズネ先輩。


「はい、撮りますよー」


 カシャッ。


「ありがとうございました!」


 朝比奈が元気よく礼を言った。


 写真を確認する。


 俺は、ちゃんと目を開けていた。


 久世は眼鏡を押し上げている。


 スズネ先輩は、のんびり笑っている。


 朝比奈は、満面の笑みだ。


「……いい写真だな」


 俺が呟くと、朝比奈が嬉しそうに頷いた。


「でしょ!」


 そして、少しだけ真面目な顔になる。


「こういうの、いっぱい残しておきたいね」


「……写真?」


「うん」


 朝比奈は、カメラを胸の前に持った。


「今年の夏、すっごく楽しいから」


 ……。


 俺は、少しだけ黙った。


 確かに。


 今年の夏は、いつもと違う。


 変なパソコンを見つけて。


 久世と知り合って。


 スズネ先輩の忘れ物博物館に行って。


 喫茶店でナポリタンを作って。


 そして今日は、こうして祭りに来ている。


 どれも、少し前の俺なら考えられなかったことだ。


「……まあな」


 俺は頷いた。


「悪くない夏だと思う」


 朝比奈は、にっこり笑った。


「でしょ!」


 ……ああ。


 本当に、そう思う。


     ◇ ◇ ◇


 そのときだった。


「……あれ?」


 スズネ先輩が、小さく声を上げた。


「どうしました?」


 俺が尋ねると、先輩は道の端を指さした。


「あの子、さっきからずっと一人でいるね」


 見ると、屋台と屋台の間に、小さな男の子が立っていた。


 年齢は、六歳か七歳くらいだろうか。


 紺色の甚平《じんべい》を着ている。


 手には、黄色い水風船。


 男の子は、周りをきょろきょろ見回していた。


 誰かを探しているようだった。


「……迷子かな?」


 朝比奈が呟いた。


「かもしれないな」


 俺たちは、少し離れたところから様子を見た。


 男の子は、しばらく辺りを見回していたが、やがて目元をこすり始めた。


 ……ああ。


 これは、声をかけたほうがよさそうだ。


「……行ってみるか」


 俺が言うと、朝比奈は頷いた。


「うん!」


 俺たちは男の子へ近づいた。


「ねえ、ちょっといい?」


 朝比奈が、しゃがんで目線を合わせる。


 男の子は、少し驚いた顔をした。


「……なに?」


「誰か探してるの?」


 男の子は、しばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「……おばあちゃん」


「おばあちゃん?」


「うん」


 声が少し震えている。


「さっきまで一緒だったんだけど……」


 男の子は、黄色い水風船をぎゅっと握った。


「……いなくなっちゃった」


 ……なるほど。


 迷子だった。


 朝比奈は、優しく笑った。


「そっか。じゃあ一緒に探そうか」


「……うん」


 男の子は、小さく頷いた。


 俺は、辺りを見回した。


 人が多い。


 この中を歩き回って探すのは、かえって危ない。


「……まずは案内所だな」


 俺が言うと、久世が頷いた。


「うむ。会場の入口に、迷子案内所があったはずだ」


「よく覚えてたな」


「ふっ。会場図は確認済みだ」


「……珍しく役に立ったな」


「珍しくとは何だ!」


 スズネ先輩が笑った。


「じゃあ、スタッフの人に声をかけてくるね」


 先輩は、近くにいた祭りの係員へ事情を説明した。


 係員はすぐに頷き、案内所まで付き添ってくれることになった。


 俺たちは、男の子と一緒にゆっくり歩き始めた。


     ◇ ◇ ◇


 案内所で、男の子の名前を聞いた。


 田辺《たなべ》タクミ。


 六歳。


 今日は、おばあちゃんと一緒に祭りへ来たらしい。


「どこで離れちゃったの?」


 係員が優しく尋ねる。


 タクミは、少し考えた。


「……金魚のところ」


「金魚すくい?」


「うん」


「何かを見つけて、歩いてきちゃったのかな?」


 タクミは、小さく頷いた。


「……大きい金魚がいたから」


 ……なるほど。


 気持ちは分かる。


 子供にとって、屋台の金魚は魅力的だろう。


「おばあちゃん、きっと心配してるね」


 朝比奈が言った。


 すると、タクミの顔が曇った。


「……怒られるかな」


「……」


 朝比奈は、少しだけ考えた。


 そして、にっこり笑った。


「心配はしてると思うよ」


「……うん」


「でも、見つかったら嬉しいんじゃないかな」


 タクミは、ゆっくり顔を上げた。


「……ほんと?」


「うん」


 朝比奈は頷いた。


「私だったら、まず安心するもん」


 ……。


 俺は、少しだけ朝比奈を見た。


 こいつ。


 こういうときは、本当に優しい。


 普段は人の話を聞かずに走り回っているくせに。


 ……いや。


 それとこれとは、別か。


 係員が、タクミのおばあちゃんを探してくれることになった。


 俺たちは、案内所の横で少し待つことにした。


「……なあ、タクミ」


 俺は声をかけた。


「なに?」


「その水風船、いい色だな」


 タクミは、手の中の黄色い水風船を見た。


「……うん」


「自分で取ったのか?」


「おばあちゃんが取ってくれた」


「すごいな」


「……うん!」


 タクミは、少しだけ笑った。


「おばあちゃん、上手なんだ」


「へえ」


「二つ取れたんだよ」


「二つも?」


「うん!」


 ……それはすごい。


 久世の金魚すくいとは大違いだ。


 そう思っていたら、久世が真剣な顔でタクミに尋ねた。


「おばあさんは、どういう方法で取っていた?」


「……え?」


「水風船を釣るときの角度や、糸の扱いだ」


「……」


 タクミは、ぽかんとした顔になった。


 俺は久世の肩をつかんだ。


「おい」


「何だ?」


「六歳に技術指導を求めるな」


「……む」


 朝比奈が吹き出した。


 タクミも、少しだけ笑った。


 よかった。


 さっきよりは元気になったらしい。


     ◇ ◇ ◇


 それから十分ほどして。


「タクミ!」


 案内所の入口から、大きな声がした。


 振り返ると、年配の女性が急いで入ってきた。


 タクミが顔を上げる。


「……おばあちゃん!」


 男の子は、ぱっと立ち上がった。


 女性は、タクミの前にしゃがんで、ぎゅっと抱きしめた。


「もう、心配したんだよ!」


「……ごめんなさい」


「よかった。本当によかった」


 女性は、何度もタクミの頭を撫《な》でた。


 タクミは、少し泣きそうな顔で笑っている。


 ……うん。


 これで一安心だ。


 係員が、簡単に事情を説明してくれた。


 女性は、俺たちのほうを向いた。


「ありがとうね。助けてくれて」


「いえいえ!」


 朝比奈が笑った。


「無事に会えてよかったです!」


 スズネ先輩も頷いた。


「本当によかったねえ」


 タクミは、しばらくおばあちゃんの袖を握っていた。


 それから、俺たちを見た。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 俺は、少しだけ笑った。


「もう一人で走っていくなよ」


「……うん!」


 タクミは、元気よく頷いた。


 そして、おばあちゃんと手をつないで帰っていった。


 黄色い水風船が、楽しそうに揺れていた。


 ……。


「……よかったね」


 朝比奈が呟いた。


「そうだな」


 俺も頷いた。


 久世は腕を組んでいた。


「ふむ。今回は迅速な対応ができたな」


「お前、地図を覚えてただけだろ」


「それが重要なのだ!」


「……まあ、そうかもな」


 俺は小さく笑った。


 スズネ先輩も、嬉しそうだった。


「今日はパソコンの依頼じゃなかったけど、いいことしたねえ」


 ……ああ。


 そういえば。


 今日は、謎のファイルなんて一つも届いていない。


 ただ、たまたま困っている子を見つけただけだ。


 なのに。


 こうして、自然に四人で動いていた。


「……そうですね」


 俺は頷いた。


「こういうのも、悪くないですね」


 朝比奈が嬉しそうに笑った。


「でしょ!」


     ◇ ◇ ◇


 午後七時半。


 水守川の両岸には、たくさんの灯籠が並んでいた。


 小さな明かりが、川面にゆらゆらと映っている。


 屋台の賑わいは相変わらずだったが、川辺には少し静かな空気が流れていた。


「……きれいだねえ」


 スズネ先輩が呟いた。


「そうですね」


 俺も頷いた。


 川の向こうには、山の影。


 空には、まだ少しだけ夕焼けの色が残っている。


 風が吹くと、提灯が小さく揺れた。


 ……そのとき。


 ふと。


 妙な感覚がした。


 ……あれ?


 俺は、ゆっくり辺りを見回した。


 赤い欄干《らんかん》のある橋。


 川面に映る明かり。


 遠くで響く太鼓の音。


 ……。


 何だろう。


 この景色を。


 どこかで見たことがある気がした。


 いや。


 正確には、少し違う。


 前にも、こんな場所に立っていたような。


 でも、そのときは。


 ……雨が降っていたような。


「葛城くん?」


 隣から声がした。


 朝比奈だった。


「……ん?」


「どうしたの?」


「いや……」


 俺は、少しだけ考えた。


「何でもない」


「ほんと?」


「ああ」


 もう一度、橋を見る。


 今夜の空には、星が見えている。


 雨なんて、降っていない。


 橋の上には、祭りを楽しむ人たちが歩いている。


 どこにでもある、夏の風景だった。


 ……気のせいか。


 俺は小さく息を吐いた。


「……ちょっと、ぼーっとしてただけだ」


「そっか」


 朝比奈は、にっこり笑った。


「じゃあ、こっち来て!」


「……何だ?」


「花火、よく見える場所があるんだって!」


「おい、走るなよ」


「分かってるって!」


 ……絶対分かってない。


 俺は、少しだけ早足で朝比奈のあとを追った。


 その背中を見ながら。


 さっきの妙な感覚は、すぐに頭の隅へ追いやった。


     ◇ ◇ ◇


 午後八時。


 最初の花火が打ち上がった。


 ひゅうううっ。


 夜空に、細い光が伸びていく。


 そして。


 どおんっ!


 大きな音とともに、赤い花が開いた。


「わあっ!」


 朝比奈が歓声を上げる。


「すごい!」


 続いて、青い花火。


 緑色の花火。


 金色の光が、夜空いっぱいに広がる。


 川面には、その光が揺れていた。


 ……きれいだな。


 俺は、思わず見入っていた。


 久世は、何やら真剣な顔で夜空を見つめている。


「……なるほど」


「何が?」


 俺が尋ねる。


「花火の発色は、使用される金属の種類によって変わるのだ」


「……知ってるよ」


「例えば、赤色は――」


「久世」


「何だ?」


「今だけは、普通に花火を見ようぜ」


 久世は少し黙った。


 それから、夜空を見上げた。


「……そうだな」


 珍しく素直だった。


 スズネ先輩は、手に持ったうちわでゆっくり風を送っている。


「きれいだねえ」


「ですね」


 朝比奈は、しばらく写真を撮っていた。


 けれど。


「……あれ?」


 突然、カメラを下ろした。


「どうした?」


 俺が尋ねる。


「うーん……」


 朝比奈は、液晶画面を見つめていた。


「写真にすると、あんまりきれいに写らないんだよね」


「夜だからな」


「そうなんだけど」


 朝比奈は、少しだけ残念そうだった。


「本物は、もっとすごいのに」


 ……確かに。


 花火の光。


 音。


 空気の震え。


 近くで聞こえる子供たちの歓声。


 そういうものは、写真にはなかなか残らない。


「……じゃあ」


 俺は言った。


「今日は、ちゃんと目で見ておけばいいだろ」


 朝比奈が顔を上げる。


「……え?」


「写真がうまく撮れなくても、別にいいんじゃないか」


 俺は夜空を見上げた。


「今、ちゃんと見えてるんだし」


 ……。


 朝比奈は、少しだけ黙った。


 それから。


「……うん!」


 にっこり笑った。


「そうだね!」


 彼女はデジカメを鞄へしまった。


 そして、もう一度夜空を見上げる。


 どおんっ!


 大きな花火が開いた。


 白い光が、空いっぱいに広がる。


「……きれい」


 朝比奈が、小さく呟いた。


「……ああ」


 俺も頷いた。


 それから、しばらく。


 俺たちは、あまり話さなかった。


 ただ、花火を見ていた。


 ……不思議なことに。


 その時間は、ちっとも退屈じゃなかった。


     ◇ ◇ ◇


 花火が終わった頃には、夜の九時近くになっていた。


 人の流れが、少しずつ駅前へ向かっていく。


「いやー、楽しかった!」


 朝比奈が大きく伸びをした。


「夏祭り、最高!」


「そうだな」


 俺も頷いた。


 久世は、なぜか少し悔しそうだった。


「……来年こそは」


「何が?」


 俺が尋ねる。


「金魚すくいを成功させる」


「まだ言ってるのかよ!」


「当然だ!」


 朝比奈が笑い出す。


「じゃあ来年もみんなで来ようね!」


「いいねえ」


 スズネ先輩が頷いた。


「私も来たいな」


「もちろん!」


 朝比奈は嬉しそうだった。


 ……来年。


 そうか。


 来年も、こんなふうに集まれるのだろうか。


 少なくとも、今のところは。


 そう思っても、何もおかしくない。


「……まあ、来年も暇だったらな」


 俺が言うと、朝比奈が頬を膨らませた。


「えー!」


「何だよ」


「そこは『絶対行く』って言うところでしょ!」


「……予定が分からないだろ」


「予定なんて、これから決めればいいじゃん!」


 ……なるほど。


 相変わらず、朝比奈らしい考え方だ。


 スズネ先輩が笑った。


「じゃあ、来年も予定を合わせようね」


「はい!」


 朝比奈が元気よく頷いた。


 久世も腕を組む。


「ふっ。来年は、金魚すくい攻略法を完成させておこう」


「……ほどほどにな」


 俺は苦笑した。


 そのとき。


「葛城くん」


 朝比奈が、少しだけ声を落とした。


「……ん?」


「今日、楽しかったね」


 ……。


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。


 ……あれ?


 何だろう。


 似たような言葉を。


 どこかで聞いたことがある気がした。


 でも。


 いつだったのか、思い出せない。


「……葛城くん?」


 朝比奈が、首をかしげる。


「……ああ」


 俺は、慌てて答えた。


「楽しかったよ」


 朝比奈は、にっこり笑った。


「でしょ!」


 ……。


 その笑顔を見ていると。


 さっきの妙な感覚なんて、どうでもよくなった。


 今日は、楽しい一日だった。


 それで十分だろう。


     ◇ ◇ ◇


 駅前の商店街まで戻ると、俺たちはそこで解散することになった。


「じゃあ、また学校でね」


 スズネ先輩が手を振る。


「お疲れさまでした!」


 朝比奈が元気よく答えた。


 久世も頷く。


「ふっ。よい調査だった」


「祭りを楽しんだだけだろ」


「親睦会だ!」


「分かってるよ」


 俺は小さく笑った。


 スズネ先輩と久世が先に帰っていく。


 残ったのは、俺と朝比奈だった。


「……さて」


 俺は時計を見た。


「そろそろ帰るか」


「うん」


 朝比奈は、少しだけ名残惜しそうだった。


 それから、ふと思い出したように鞄を開く。


「あ、そうだ!」


「何だ?」


「これ!」


 取り出したのは、小さなうちわだった。


 片面には、祭りの花火の絵。


 もう片面には、『水守川灯り祭 2005』という文字。


「……うちわ?」


「うん。さっき、屋台でもらったの」


「へえ」


「葛城くんにあげる!」


「……俺に?」


「うん!」


 朝比奈は、にっこり笑った。


「今日の記念!」


 ……。


 俺は、少しだけそのうちわを見つめた。


 安っぽい紙のうちわ。


 別に、珍しいものじゃない。


 どこにでもある、祭りの記念品だ。


 でも。


「……ありがとな」


 俺は受け取った。


 朝比奈は、嬉しそうに笑った。


「どういたしまして!」


 それから、くるりと背を向ける。


「じゃあ、またね!」


「ああ」


「次は部室で!」


「分かってるって!」


 朝比奈は、手を振りながら歩いていった。


 俺は、その後ろ姿を見送った。


 水色の浴衣。


 金魚の髪飾り。


 小さく揺れる巾着袋。


 ……。


 何だか。


 今日のことは、しばらく忘れない気がした。


 俺は、手の中のうちわを見た。


『水守川灯り祭 2005』


 ……夏だな。


 本当に。


     ◇ ◇ ◇


 その日の夜。


 俺は、自分の部屋で日記を開いていた。


 最近、何となく続けている記録だ。


 最初は、謎のパソコンのことを書き残すためだった。


 けれど、今では普通の日のことまで書くようになっている。


 俺はシャープペンを握った。


『八月六日、土曜日。』


『夕焼け電脳クラブで夏祭りに行った。』


『久世は金魚すくいで一秒で失敗した。』


『スズネ先輩は浴衣が似合っていた。』


 そこまで書いて、少し考える。


『朝比奈も浴衣だった。』


『……似合っていたと思う。』


 ……。


 俺は、しばらくその一行を見つめた。


 何となく恥ずかしくなった。


 ……いや。


 別に、誰に見せるわけでもないんだからいいだろ。


 俺は続きを書いた。


『迷子の男の子を案内所へ連れていった。』


『無事におばあちゃんと会えた。』


『今日はパソコンの依頼はなかった。』


『でも、悪くない一日だった。』


 そこまで書いて、ペンを置いた。


 机の上には、朝比奈にもらったうちわが置いてある。


 花火の絵。


 祭りの日付。


 少し曲がった持ち手。


 俺は、それを手に取った。


 ……。


 ふと。


 夕方の川辺の風景が、頭に浮かんだ。


 赤い欄干の橋。


 川面に映る明かり。


 そして、雨に濡れた道路。


 ……あれ?


 俺は、少しだけ首をかしげた。


 今日は、雨なんて降っていない。


 なのに。


 どうして、雨の景色を思い浮かべたんだろう。


 ……まあ、いいか。


 以前から、ときどき変な夢を見ることがあった。


 そのせいかもしれない。


 俺は、うちわを机へ戻した。


 窓の外では、夏の虫が鳴いている。


 どこか遠くで、まだ祭りの音が聞こえるような気がした。


 ……。


 今日は、本当に楽しかった。


 パソコンの依頼もなかった。


 何か大きな事件が起きたわけでもない。


 ただ、みんなで祭りへ行っただけだ。


 屋台で食べて。


 くだらないことで笑って。


 迷子を助けて。


 花火を見た。


 それだけ。


 ……でも。


 そういう一日も、たまにはいいと思う。


 むしろ。


 こういう日が、もう少し続けばいい。


 そんなことを考えながら、俺は部屋の電気を消した。


 八月。


 夏休みは、まだ半分以上残っている。


 明日も、きっと暑いだろう。


 そして、あの旧パソコン室では。


 また誰かが、変なことを言い出すに違いない。


 ……まあ。


 それも悪くない。

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