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夕焼け電脳クラブ  作者: ナナメ横


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10/10

覚えのない夏

 夢というものは、起きた瞬間から忘れていく。


 どんなに変な夢でも、朝飯を食べて、歯を磨いて、テレビをつける頃には、だいたいどうでもよくなっている。


 少なくとも、俺はそうだった。


 ……そのはずだった。


     ◇ ◇ ◇


 雨が降っていた。


 見覚えのない交差点。


 濡れたアスファルト。


 道路の向こうには、ガラス張りの大きな建物が並んでいる。


 信号機が赤く光っていた。


 ぴっ、ぴっ、ぴっ。


 どこかで、電子音が鳴っている。


 俺は、交差点の手前に立っていた。


 いや。


 立っているというより、誰かの目を借りて景色を見ているような、不思議な感覚だった。


 手元を見る。


 黒い傘。


 銀色の腕時計。


 少し大きな、男の手。


 ……何だ、これ。


 俺の手は、こんなにごつごつしていただろうか。


 指を動かしてみる。


 ちゃんと動く。


 それなのに、どこか自分のものではないような気がする。


 そのとき。


「……ねえ」


 背後から、女の人の声がした。


 振り返ろうとする。


 けれど、身体が動かない。


「今日、楽しかったね」


 ……。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 何だろう。


 知っている声のような気がする。


 でも。


 誰の声なのか、分からない。


 雨が強くなる。


 信号が青に変わる。


 俺は、もう一度振り返ろうとした。


 その瞬間。


 目が覚めた。


     ◇ ◇ ◇


「……は?」


 八月七日、日曜日。


 午前九時十二分。


 俺は、自分の部屋のベッドで天井を見つめていた。


 カーテンの隙間から、夏の日差しが差し込んでいる。


 窓の外では、セミが盛大に鳴いていた。


 ……暑い。


 それから。


 何だか、妙に疲れている。


「……またかよ」


 俺は、ゆっくり起き上がった。


 最近、こういう夢を見ることがある。


 夕焼けの廊下。


 雨の道路。


 顔の分からない誰か。


 以前は、起きるとすぐに忘れてしまっていた。


 ところが今日は違った。


 雨の音。


 知らない交差点。


 銀色の腕時計。


 そして、あの声。


 ……妙にはっきり覚えている。


 俺は、自分の左手を見た。


 細い指。


 少し日焼けした手の甲。


 何の変哲もない、高校生の手だ。


 夢で見たものとは、ずいぶん違う。


「……まあ、夢だしな」


 俺は小さく呟いた。


 夢の中で自分が空を飛んでいても、現実では飛べない。


 それと同じだろう。


 そう考えて、ベッドから立ち上がる。


 そのとき。


 ぶるるっ。


 机の上で、携帯電話が震えた。


 折りたたみ式の携帯を開く。


 メールが一件届いていた。


 差出人は、朝比奈《あさひな》ナツキ。


 件名は、


『昨日の写真!』


 ……朝から元気だな、こいつ。


 本文を開く。


『おはよー!』


『昨日のお祭り楽しかったね!』


『写真見てたら、すっごくいいのがあった!』


『今度、部室で見せるね!』


『あと、久世くんが金魚すくいに失敗した瞬間も撮れてた!』


 ……。


 俺は、思わず笑ってしまった。


 久世のやつ。


 あの失敗、写真に残っていたのか。


 気の毒に。


 まあ、俺も見たいけど。


 俺は返信を打った。


『了解。久世には黙っておいてやれ。』


 送信。


 すると、一分もしないうちに返事が来た。


『もう本人に送った!』


「……おい!」


 俺は、思わず声を上げた。


 絶対に怒ってるだろ、久世。


 そのあと、もう一通。


『ところで葛城くん、昨日ちゃんと眠れた?』


 ……。


 俺は、少しだけ指を止めた。


 昨日。


 祭りの帰り際。


 朝比奈は、俺の様子を少し気にしていた。


 川沿いの橋で、ぼんやりしていたからだろう。


 ……変な夢を見た、なんて言う必要はないか。


『普通に寝た。』


 それだけ打って、送信した。


 すぐに返事が来る。


『そっか! じゃあまた明日!』


 ……。


 俺は、携帯電話を閉じた。


 そして、机の上を見た。


 昨日、朝比奈にもらった小さなうちわ。


『水守川灯り祭 2005』


 その文字が、朝の日差しを受けている。


 ……昨日の橋。


 夕焼け。


 提灯の明かり。


 あの夢に出てきた交差点とは、まったく違う場所だった。


 なのに。


 どうして、似たような気がしたんだろう。


「……分からん」


 俺は、机の引き出しからノートを取り出した。


 最近、何となくつけ始めた日記だ。


 いつもなら、前の日にあった出来事を書いている。


 けれど今日は。


 少し考えてから、別のページを開いた。


『八月七日、日曜日。』


『変な夢を見た。』


『雨の交差点。知らない建物。銀色の腕時計。』


『女の人の声がした。』


『「今日、楽しかったね」』


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 ……。


 何だろう。


 文字にしてみると、ますます変な夢だった。


 俺は、ノートを閉じた。


 とりあえず。


 朝飯でも食おう。


 考え事は、腹が減っていないときにするべきだ。


 ……というのが、最近の俺の持論である。


     ◇ ◇ ◇


 翌日。


 八月八日、月曜日。


 午後三時半。


 旧校舎の第二情報処理室には、いつもの四人が集まっていた。


 窓際では、久世が直した古い扇風機が回っている。


 机の上には麦茶。


 壁際には段ボール箱。


 そして、ブラウン管モニターの中では、ミナセが静かにこちらを見ていた。


「さて!」


 朝比奈が勢いよく立ち上がった。


「今日は、特別活動を行います!」


「……何だよ、急に」


 俺が尋ねると、朝比奈はにっこり笑った。


「写真整理!」


「……写真?」


「うん!」


 朝比奈は、鞄から銀色のデジカメを取り出した。


「昨日のお祭りの写真を、ちゃんとまとめようと思って!」


「なるほど」


 久世が頷いた。


「記録の整理は重要だな」


「でしょ!」


「……ただし」


 久世は、少しだけ眉をひそめた。


「俺の金魚すくいの写真は削除してもらおう」


「えー!」


 朝比奈が不満そうに声を上げた。


「何で!?」


「何で、ではない!」


 久世は眼鏡を押し上げた。


「あれは、技術検証中の失敗記録だ。一般公開するものではない!」


「じゃあ、活動記録として残そう!」


「聞いていたか!?」


 俺は、思わず吹き出した。


「まあ、記録は重要なんだろ?」


「葛城!」


「お前がいつも言ってるじゃないか」


「それとこれとは別だ!」


 ……便利な言葉だな。


 スズネ先輩は、のんびり笑っていた。


「私は残しておいてもいいと思うけどなあ」


「先輩まで!」


「だって、久世くん楽しそうだったよ」


「……そうでしょうか」


「うん」


 先輩はにっこり笑った。


「失敗しても、楽しそうな写真ならいいじゃない」


 ……。


 久世は、少し黙った。


 それから。


「……ならば、一枚だけだ」


「やった!」


 朝比奈が歓声を上げた。


「じゃあ保存版にする!」


「なぜそうなる!」


 旧パソコン室に、笑い声が響いた。


 ……まったく。


 今日も、いつもどおりだ。


     ◇ ◇ ◇


 朝比奈は、久世のノートパソコンにデジカメをつないだ。


 Windows XPの画面に、写真の一覧が表示される。


「おおー!」


 朝比奈が目を輝かせた。


「いっぱい撮れてる!」


「……何枚あるんだ?」


 俺が尋ねると、久世が確認した。


「百二十七枚だな」


「……多すぎないか?」


「そんなことないよ!」


 朝比奈は胸を張った。


「大事な思い出だもん!」


「屋台のたこ焼きだけで何枚撮った?」


「……七枚」


「食べる前に冷めるだろ!」


 久世が写真を次々と開いていく。


 提灯。


 屋台。


 金魚すくい。


 川沿いの灯籠。


 それから、花火。


 画面の中には、昨日の風景が残っていた。


「……いいな」


 スズネ先輩が、少し嬉しそうに言った。


「ちゃんと撮れてるねえ」


「でしょ!」


 朝比奈も嬉しそうだった。


「これ、アルバムにしようと思って!」


「アルバム?」


「うん。夕焼け電脳クラブの!」


 ……また増えるのか。


 活動日誌。


 録音したMD。


 喫茶店のレシピ。


 そして、今度は写真アルバム。


 このままでは、部室が記録だらけになってしまう。


「……置く場所あるのか?」


 俺が尋ねると、スズネ先輩がにっこり笑った。


「忘れ物博物館なら、まだ空いてるよ」


「先輩!」


「何?」


「そういう問題じゃないです!」


 先輩は、くすくす笑っていた。


 ……本当に、何でも受け入れる場所だな。


 久世が、写真を一枚開いた。


「……む?」


「どうした?」


「これは……」


 画面に表示されたのは、祭りの集合写真だった。


 赤い提灯。


 川沿いの道。


 そして、並んで笑う四人。


 俺。


 朝比奈。


 久世。


 スズネ先輩。


「……おお」


 俺は、少しだけ感心した。


「ちゃんと撮れてるな」


「でしょ!」


 朝比奈が嬉しそうに頷く。


「しかも、葛城くん!」


「……何だ?」


「目が開いてる!」


「……またそれか!」


 朝比奈は、けらけら笑った。


 ……もういいだろ、その話は。


 俺だって、たまにはちゃんと写真に写る。


「でも、いい写真だねえ」


 スズネ先輩が、画面を見つめながら言った。


「みんな楽しそう」


「そうですね」


 俺も頷いた。


 ……確かに。


 写真の中の俺は、ちゃんと笑っていた。


 自分で言うのも変だが。


 何だか、楽しそうだった。


 ……。


 そのとき。


 ふと。


 頭の奥に、あの夢の景色が浮かんだ。


 雨の交差点。


 ガラス張りの建物。


 銀色の腕時計。


 そして。


『今日、楽しかったね』


 ……。


「……葛城くん?」


 朝比奈の声で、我に返った。


「……ん?」


「どうしたの?」


「いや……」


 俺は、少しだけ首を振った。


「何でもない」


「……ほんと?」


「ああ」


 朝比奈は、しばらく俺の顔を見ていた。


 それから、少しだけ首をかしげる。


「……何か、考え事?」


「……まあ」


 俺は、正直に頷いた。


「ちょっとな」


 朝比奈は、すぐには何も言わなかった。


 そして。


「……そっか」


 小さく笑った。


「じゃあ、あとで聞くね」


 ……。


 何だろう。


 その言い方が、少しだけ意外だった。


 いつもの朝比奈なら、もっとしつこく聞いてくる気がしたのに。


 ……まあ。


 ありがたいけどな。


     ◇ ◇ ◇


 午後四時半。


 写真整理は、思ったより順調に進んでいた。


 久世が写真を日付ごとに分ける。


 朝比奈が、アルバムに入れるものを選ぶ。


 スズネ先輩が、プリントする写真に印をつける。


 俺は、その横で活動日誌の文章を考えていた。


 ……何で俺が文章担当なんだろう。


「葛城くん、文章うまそうだから!」


 朝比奈はそう言っていた。


 ……褒められているのか、仕事を押しつけられているのか。


 判断が難しい。


『八月六日。水守川灯り祭。』


『夕焼け電脳クラブの四人で参加した。』


『屋台で食べたり、金魚すくいをしたり、花火を見たりした。』


『迷子になった男の子を案内所へ連れていった。』


『全員、無事に帰宅。』


 ……よし。


 こんなものだろう。


「できたぞ」


 俺が言うと、朝比奈がのぞき込んだ。


「……うーん」


「何だよ」


「何か、報告書みたい」


「報告書だからな」


「もっと楽しそうに書こうよ!」


「どうやって?」


「例えば!」


 朝比奈はシャープペンを握った。


 そして、俺の文章の下に一行書き加える。


『久世くんは金魚すくいで一秒で失敗した。』


「……おい」


「これ大事でしょ?」


「久世に怒られるぞ」


「もう怒ってる!」


 久世が背後から叫んだ。


「何で俺の失敗ばかり記録するんだ!」


「印象に残ってるから!」


「ほかにもあっただろう!」


「例えば?」


「……」


 久世は少し考えた。


「……花火がきれいだった」


「それは書いた」


「……たこ焼きがうまかった」


「それも書けるな」


「……」


 久世は、さらに考えた。


 そして。


「……来年こそは、金魚すくいを成功させる」


 ……。


 朝比奈が、にっこり笑った。


「じゃあ、それも書こう!」


「……む」


 久世は少しだけ照れたようだった。


 スズネ先輩が、くすくす笑っている。


 ……こうして見ると。


 活動日誌なんてものも、案外悪くないのかもしれない。


     ◇ ◇ ◇


 午後五時を過ぎた頃。


 俺は、ふと窓の外を見た。


 夕焼けが、旧校舎の廊下をオレンジ色に染めている。


 ……。


 その光を見た瞬間。


 また、妙な感覚がした。


 ……あれ?


 廊下。


 夕日。


 窓の外。


 ……見覚えがある。


 いや。


 当然だ。


 ここは、何度も通っている場所なのだから。


 でも。


 何かが違う。


 俺は、ゆっくり立ち上がった。


「……ちょっと外、見てくる」


「え?」


 朝比奈が顔を上げる。


「何かあった?」


「いや。少しだけ」


 俺は教室を出た。


 廊下には、誰もいなかった。


 夏休みの旧校舎。


 遠くで、セミが鳴いている。


 窓から入る風が、少しだけ涼しかった。


 俺は、ゆっくり歩いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 ……。


 そのとき。


 頭の中に、別の景色が重なった。


 同じ廊下。


 同じ窓。


 けれど。


 夕焼けの色が、少し違う。


 誰かが、前を歩いている。


 女の子。


 髪が揺れている。


 その子が、振り返る。


「……ねえ」


 ……。


 俺は、思わず足を止めた。


 目の前には、誰もいない。


 ただ、空っぽの廊下が続いているだけだった。


「……何だよ、これ」


 小さく呟く。


 夢だと思っていた景色が、起きているときにも頭に浮かぶ。


 ……さすがに、少し気になる。


 疲れているのだろうか。


 暑さのせいか。


 それとも、最近変なパソコンばかり見ているからか。


 ……最後のは、ありそうだな。


 俺は、自分で少し笑った。


「……葛城くん?」


 背後から、声がした。


 振り返る。


 朝比奈だった。


「何してるの?」


「……別に」


 俺は、少しだけ迷った。


 そして。


「……なあ、朝比奈」


「ん?」


「変な夢って、見たことあるか?」


 朝比奈は、少し考えた。


「変な夢?」


「ああ」


「あるよ!」


 即答だった。


「この前なんか、学校が巨大なプリンになってた!」


「……プリン?」


「うん!」


「……何で?」


「知らない!」


 ……。


 俺は、思わず吹き出した。


「……お前らしいな」


「でしょ!」


 朝比奈は、にっこり笑った。


「でも、どうして?」


「……いや」


 俺は、少し考えた。


 どう説明すればいいのだろう。


 夢で見たことがない場所へ行った。


 知らない人の声を聞いた。


 自分の手なのに、自分の手じゃない気がした。


 ……そんなことを言って、信じてもらえるだろうか。


「……最近さ」


 俺は、ゆっくり口を開いた。


「変な夢を見るんだ」


 朝比奈は、黙って聞いていた。


「知らない場所の夢なんだけど」


「うん」


「妙にはっきり覚えてる」


「……へえ」


「しかも、起きてからも、ときどき思い出す」


 ……。


 朝比奈は、少しだけ真面目な顔になった。


「……怖い夢?」


「……いや」


 俺は首を横に振った。


「別に、怖いわけじゃない」


「そっか」


「ただ、変なんだよ」


 俺は、窓の外を見た。


 夕焼け。


 校庭。


 遠くの山。


「……見たことないはずなのに、知ってる気がする」


 朝比奈は、少し考えていた。


 そして。


「……デジャヴってやつかな?」


「……デジャヴ?」


「うん!」


 朝比奈は頷いた。


「初めて見たのに、前にも見たことがある気がするやつ!」


「……ああ」


 確かに、似ている。


 でも。


 何か、少し違う気もした。


「……そうかもな」


 俺は、曖昧に頷いた。


 朝比奈は、しばらく俺を見ていた。


 それから。


「……ねえ、葛城くん」


「何だ?」


「その夢、ちゃんと覚えてるうちに書いておけば?」


「……書く?」


「うん」


 朝比奈は、にっこり笑った。


「忘れちゃったら、もったいないじゃん!」


 ……。


 俺は、少しだけ考えた。


 確かに。


 今朝も、夢の内容を日記に書いた。


 あれは、悪くない方法だったのかもしれない。


「……そうだな」


 俺は頷いた。


「やってみるよ」


「うん!」


 朝比奈は、嬉しそうに笑った。


 そして。


「あと、ちゃんと寝たほうがいいよ!」


「……寝てるって」


「夜更かししてゲームしてるんじゃない?」


「……」


「……葛城くん?」


「……昨日は、ちょっとだけ」


「やっぱり!」


 朝比奈が笑い出した。


 ……くそ。


 余計なことを言うんじゃなかった。


     ◇ ◇ ◇


 部室へ戻ると、久世がノートパソコンを操作していた。


「……ふむ」


「今度は何だ?」


 俺が尋ねると、久世は眼鏡を押し上げた。


「写真のバックアップだ」


「バックアップ?」


「ああ」


 久世は、CD-Rを一枚取り出した。


「データが消えたときのために、別の場所へ保存しておく」


「なるほど」


 朝比奈が頷いた。


「じゃあ、これで写真がなくなる心配も減るね!」


「そういうことだ」


 スズネ先輩が、にっこり笑った。


「大切なものは、いくつか残しておくと安心だよね」


「……先輩の場合、残しすぎですけどね」


 俺が言うと、先輩はくすくす笑った。


「それはそうかも」


 久世は、CD-Rをドライブへ入れた。


 少しして、パソコンから小さな回転音が聞こえる。


「……そういえば」


 俺は、ふと思いついて尋ねた。


「久世」


「何だ?」


「人間の記憶って、バックアップできないのか?」


 久世は、少し驚いた顔をした。


「……記憶?」


「ああ」


 俺は、少しだけ考えた。


「例えば、夢で見たこととか」


「……ふむ」


 久世は腕を組んだ。


「現時点では、脳の記憶をそのままファイルに保存するなど、現実的ではないな」


「……そうか」


「ただし、記憶を別の形で残すことはできる」


「別の形?」


「文章、写真、音声、映像」


 久世は、机の上に並んだものを指さした。


「俺たちが今やっていることだ」


 ……。


 俺は、少しだけ黙った。


 確かに。


 朝比奈の活動日誌。


 先輩が集めた昔の資料。


 五年前のMD。


 今日整理している写真。


 どれも、誰かの記憶を残したものだ。


「……なるほどな」


 俺が呟くと、久世は得意げに頷いた。


「ふっ。だから記録は重要なのだ」


「……それは分かったよ」


 久世は、少しだけ笑った。


「だが、どうした? 急にそんなことを聞いて」


「……いや」


 俺は、少し迷った。


 そして。


「最近、変な夢を見るんだよ」


 久世は、少しだけ眉を上げた。


「夢?」


「ああ」


「……どんな?」


 俺は、今朝書いた内容を簡単に説明した。


 雨の交差点。


 知らない建物。


 銀色の腕時計。


 誰かの声。


 久世は、意外なほど真面目に聞いていた。


 そして、少し考えてから言った。


「……なるほど」


「……何か分かるか?」


「分からん」


「即答かよ!」


 久世は、眼鏡を押し上げた。


「夢の内容だけでは、判断できんからな」


「……まあ、そうか」


「ただ、人間の脳は、実際に見たものや聞いたものを組み合わせて、夢を作ることがある」


「……うん」


「だから、知らない景色に見えても、何かの写真やテレビで見たものかもしれん」


 ……なるほど。


 それなら、あり得る。


 俺は昔から、ゲームもテレビもよく見る。


 知らないうちに、何かの景色が頭に残っていたのかもしれない。


「……じゃあ、気にしすぎか」


「そうとも限らん」


 久世は、少しだけ真面目な顔をした。


「もし頻繁に見るなら、ちゃんと睡眠を取ったほうがいい。体調が悪いなら、無理せず相談したほうがいいだろう」


 ……。


 俺は、少しだけ驚いた。


「……お前、普通にまともなこと言うんだな」


「何だと!?」


「いや、褒めてる」


「褒めてないだろ!」


 朝比奈が笑い出した。


 スズネ先輩も、にっこり笑っていた。


「でも、ユウマくん」


「はい?」


「夢って、忘れやすいでしょ」


「……そうですね」


「だったら、ナツキちゃんの言うとおり、書いておくといいかもね」


 先輩は、机の上の活動日誌を見た。


「あとで読み返したら、何か分かるかもしれないし」


 ……。


 俺は、少しだけ考えた。


 そして。


「……そうですね」


 小さく頷いた。


 確かに。


 書いておくだけなら、損はない。


     ◇ ◇ ◇


 午後五時四十分。


 写真の整理が終わり、CD-Rへの保存も完了した。


 久世は、ディスクの表面に油性ペンで文字を書いている。


『夕焼け電脳クラブ 夏祭り写真 2005.8.6』


「……おお」


 朝比奈が嬉しそうに言った。


「何か、本格的!」


「当然だ」


 久世は満足そうだった。


 スズネ先輩は、写真を入れるアルバムを用意していた。


「じゃあ、プリントしたらここに入れようね」


「はい!」


 朝比奈が元気よく頷いた。


 俺は、その様子を見ながら、少しだけ笑った。


 ……本当に。


 記録ばかり増えていく部活だな。


 そのとき。


『皆さん。』


 旧パソコンのスピーカーから、ミナセの声がした。


『本日の活動内容は、記録整理でよろしいでしょうか。』


「うん!」


 朝比奈が答えた。


『承知しました。』


 ミナセは、小さく頷いた。


『活動日誌への記録をおすすめします。』


「もちろん!」


 朝比奈は、嬉しそうに日誌を持ち上げた。


「今日のことも書いたよ!」


『確認しました。』


 ……。


 俺は、ふと画面を見た。


 夕焼け色の封筒アイコン。


 YUYAKE MAIL SYSTEM。


 受信一覧には、これまでの依頼が並んでいる。


『REQUEST_001 COMPLETE』


『REQUEST_002 COMPLETE』


『REQUEST_003 COMPLETE』


『REQUEST_004 COMPLETE』


『REQUEST_005 COMPLETE』


『REQUEST_006 COMPLETE』


『REQUEST_007 COMPLETE』


 ……七件。


 気づけば、ずいぶんいろいろなことをしてきた。


 赤い傘。


 青い封筒。


 送れなかったメール。


 文化祭の写真。


 幽霊掲示板。


 古いMD。


 そして、ナポリタン。


 ……変な依頼ばかりだ。


 でも。


 全部、誰かの小さな困りごとだった。


 俺たちは、それを少しずつ解決してきた。


「……ミナセ」


『はい。』


「ちょっと聞いてもいいか?」


『どうぞ。』


「このパソコンって、どこまで記録を残せるんだ?」


 ミナセは、少しだけ首をかしげた。


『保存容量の範囲内であれば、ファイルを記録できます。』


「……そうか」


「葛城くん?」


 朝比奈が、隣から顔をのぞき込んだ。


「何か保存したいの?」


「……いや」


 俺は、少し考えた。


「夢の内容でも、書いておこうかなって」


 朝比奈は、にっこり笑った。


「いいじゃん!」


 そして、鞄から小さなノートを一冊取り出した。


「はい!」


「……何だ、これ」


「使ってないノート!」


 表紙には、青い空と白い雲の絵が描かれていた。


 中身は、まだ真っ白だった。


「これに書けば?」


「……いいのか?」


「うん!」


 朝比奈は笑った。


「家にいっぱいあるから!」


 ……。


 俺は、少しだけノートを見つめた。


 安い、普通のノート。


 どこにでも売っているものだ。


 でも。


「……ありがとな」


 俺は受け取った。


 朝比奈は、嬉しそうに笑った。


「どういたしまして!」


 久世が、横から言った。


「タイトルをつけるとよい」


「……タイトル?」


「ああ。記録には名称が必要だ」


「……何にするんだよ」


 久世は、少し考えた。


 そして。


「『葛城ユウマの深層記憶解析記録』!」


「長いわ!」


 朝比奈が吹き出した。


「それ、何か怪しい!」


「何だと!?」


 スズネ先輩も、くすくす笑っていた。


「じゃあ、普通に『夢ノート』でいいんじゃない?」


 ……。


 俺は、少しだけ考えた。


「……それでいいです」


「えへへ」


 先輩は嬉しそうだった。


 こうして。


 俺は、新しいノートを一冊手に入れた。


 夕焼け電脳クラブの活動日誌とは別の。


 俺だけの記録。


 ……何だか、少し不思議な気分だった。


     ◇ ◇ ◇


 帰り道。


 俺と朝比奈は、旧校舎の前を歩いていた。


 夕日が、校庭をオレンジ色に染めている。


 遠くから、ヒグラシの声が聞こえてきた。


「ねえ、葛城くん」


 朝比奈が声をかけてきた。


「何だ?」


「その夢、また見たら教えてね」


「……何で?」


「面白そうだから!」


「……お前なあ」


 俺は、思わず苦笑した。


 朝比奈は、少しだけ笑った。


「でも、ちゃんと気になるなら、無理しないでね」


 ……。


 俺は、少しだけ驚いた。


 いつもの朝比奈なら、もっと勢いよく話してくるはずだ。


 でも今日は、少し違った。


「……心配してくれてるのか?」


 俺が尋ねると、朝比奈は目を丸くした。


 それから。


「……そりゃそうでしょ」


 当たり前のように言った。


「友達なんだから」


 ……。


 俺は、少しだけ黙った。


 友達。


 ……まあ。


 そうか。


 言われてみれば、そうなのかもしれない。


 この夏、俺たちは何度も一緒に出かけた。


 くだらないことで笑って。


 変な依頼を解決して。


 祭りへ行って。


 写真を撮って。


 ……なるほど。


 友達、か。


「……そうだな」


 俺は、小さく頷いた。


 朝比奈は、にっこり笑った。


「でしょ!」


 それから、少し先へ走っていった。


「じゃあ、また明日!」


「おい、走るなって!」


「大丈夫!」


 ……絶対、大丈夫じゃない。


 俺は、少しだけ笑った。


 夕焼けの中を走る朝比奈の背中。


 その景色を見ていると。


 ふと。


 また、妙な感覚がした。


 ……あれ?


 夕焼け。


 廊下。


 誰かの声。


 ……。


 でも。


 今度は、すぐに消えた。


 俺は、少しだけ首を振った。


「……まあ、いいか」


 小さく呟いて、歩き始めた。


     ◇ ◇ ◇


 その日の夜。


 俺は、机の上に新しいノートを広げた。


 朝比奈にもらった、小さなノート。


 表紙には、青い空と白い雲。


 俺はシャープペンを握った。


 そして、一ページ目に書いた。


『夢ノート』


『八月八日、月曜日。』


『最近、同じような夢を見る。』


『雨の道路。』


『知らない街並み。』


『銀色の腕時計。』


『女の人の声。』


『夕焼けの廊下。』


 ……。


 俺は、しばらく考えた。


 そして、続きを書いた。


『夢なのに、妙にはっきり覚えている。』


『見たことがないはずなのに、知っている気がする。』


『でも、どこで見たのかは分からない。』


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 ……。


 何だか、変な文章だ。


 まるで、誰かの記憶を借りているみたいじゃないか。


「……何言ってんだ、俺」


 俺は、小さく笑った。


 夢は夢だ。


 久世も、そう言っていた。


 実際に見たものや聞いたものが、頭の中で組み合わさっているだけなのかもしれない。


 ……それなら。


 そんなに気にする必要もないだろう。


 俺はノートを閉じた。


 机の上には、昨日の祭りでもらったうちわ。


 その隣には、朝比奈がくれた夢ノート。


 さらに、喫茶こもれびのレシピのコピー。


 ……最近、机の上まで変なものが増えてきたな。


 俺は、少しだけ笑った。


 それから、部屋の電気を消した。


 窓の外では、夏の虫が鳴いている。


 ……。


 目を閉じる。


 ゆっくりと、眠りに落ちていく。


 そして。


 また、あの景色が現れた。


     ◇ ◇ ◇


 雨。


 濡れた道路。


 ガラス張りの建物。


 信号機の赤い光。


 ……。


 俺は、交差点の手前に立っていた。


 黒い傘を持っている。


 銀色の腕時計。


 少し大きな手。


 ……。


 そのとき。


 ふと、足元に目が向いた。


 革靴。


 黒いズボン。


 そして、腕には見慣れない長袖のシャツ。


 ……何だろう。


 制服じゃない。


 俺は、こんな服を持っていただろうか。


 顔を上げる。


 道路の向こうには、知らない建物が並んでいる。


 けれど。


 その景色を見ていると、妙に落ち着く。


 初めて来た場所のはずなのに。


 何度も通ったことがあるような気がした。


 ……。


 そのとき。


「……ねえ」


 また、声がした。


 女の人の声。


 俺は、ゆっくり振り返ろうとした。


 今度こそ、顔を見たい。


 誰なのか、確かめたい。


 ……。


 けれど。


 振り返った先に見えたのは、雨ににじむ街の明かりだけだった。


「今日、楽しかったね」


 ……。


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥が、少しだけ痛くなった。


 何だろう。


 懐かしい。


 でも、少し寂しい。


 ……。


 俺は、何かを言おうとした。


 けれど。


 言葉が出てこない。


 ただ。


 なぜだか。


 ひどく大切なことを、忘れている気がした。


     ◇ ◇ ◇


 目が覚めた。


 八月九日、火曜日。


 午前六時二十分。


 窓の外では、まだセミが鳴き始めたばかりだった。


 俺は、しばらく天井を見つめていた。


 ……。


 夢の内容を、覚えている。


 昨日よりも、はっきりと。


 雨の交差点。


 知らない街並み。


 銀色の腕時計。


 そして、あの声。


 ……。


 俺は、ゆっくり起き上がった。


 机の上に置いてある夢ノートを開く。


 シャープペンを握った。


 そして、昨日のページの下に一行書き足した。


『あの場所にいたのは、本当に俺だったのだろうか。』


 ……。


 書き終えたあと、少しだけ考えた。


 夢の中の手。


 あの感覚。


 ……不思議だ。


 知らない誰かの手を見ていたはずなのに。


 どうして。


 自分の手を動かしているように感じたのだろう。


 俺は、もう一度自分の左手を見た。


 十七歳の、見慣れた手。


 何も変わっていない。


 ……。


「……まあ、考えても仕方ないか」


 俺は、小さく呟いた。


 そして、ノートを閉じた。


 今日は、学校へ行く日だ。


 旧パソコン室では、きっと朝比奈が待っている。


 久世は、また何か妙なことを言っているだろう。


 スズネ先輩は、きっとのんびり笑っている。


 ミナセは、相変わらず少し皮肉なことを言うはずだ。


 ……それでいい。


 少なくとも、今は。


 俺たちの夏休みは、まだ続いている。


 そして。


 あの古いパソコンにも、またいつか新しい依頼が届くのだろう。


 誰かの、小さなお願いが。


 ……。


 俺は、夢ノートを鞄に入れた。


 そして、部屋の扉を開けた。


 廊下の向こうから、朝飯の匂いがしてきた。


 ……うん。


 まずは、飯だ。


 変な夢のことを考えるのは、そのあとでいい。


 俺は、いつもどおり階段を下りていった。

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