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夕焼け電脳クラブ  作者: ナナメ横


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8/10

喫茶こもれびのナポリタン

 人間は、匂いだけで昔のことを思い出すらしい。


 例えば、雨が降り始めたときのアスファルトの匂い。


 夏休みの朝、近所から漂ってくる蚊取り線香の匂い。


 それから、学校の給食室の前を通ったときに嗅《か》いだ、何とも言えないおいしそうな匂い。


 確かに、そういうものには記憶を呼び起こす力がある気がする。


 ただし、俺の場合。


 今、一番思い出したい匂いは決まっていた。


 炒《いた》めたケチャップの匂いである。


「……腹減った」


 七月二十九日、金曜日。


 午後四時過ぎ。


 旧校舎の第二情報処理室で、俺は机に突っ伏していた。


 窓の外ではセミが鳴いている。


 扇風機は、ぶうんぶうんと働いている。


 なのに、ちっとも涼しくならない。


 暑い。


 腹が減った。


 帰りたい。


 夏休みの高校生としては、実に正しい三つの欲求だと思う。


「葛城《かつらぎ》くん、さっきからそればっかりだね」


 隣の席で、朝比奈《あさひな》ナツキが呆《あき》れたように言った。


「仕方ないだろ。昼飯、パン一個だったんだから」


「何でちゃんと食べなかったの?」


「財布の中身と相談した結果だ」


「悲しい相談だねえ」


「お前には分からんだろうな」


 今月は、ゲームソフトを一本買ってしまった。


 後悔はしていない。


 ただし、月末の財布が少し寂しくなったことだけは否定できなかった。


「じゃあ、これあげようか?」


 朝比奈が鞄《かばん》から何かを取り出した。


 小さな袋に入ったラムネ菓子だった。


「……それ、昼飯の代わりになると思うか?」


「甘いよ?」


「知ってる」


「おいしいよ?」


「それも知ってる」


「じゃあ問題ないじゃん!」


「問題しかないだろ!」


 朝比奈はけらけら笑いながら、ラムネを一粒口へ放り込んだ。


 ……自由なやつである。


「ふっ。食事とは、生命活動を維持するための重要な要素だ」


 窓際から、妙に偉そうな声がした。


 久世《くぜ》リョウである。


 いつもの黒縁眼鏡。


 いつもの黒いノートパソコン。


 そして、いつもの意味ありげな表情。


「空腹では脳の働きも鈍《にぶ》る。つまり、電脳魔術師《サイバーメイジ》にとって食事は不可欠なのだ」


「……それで?」


「俺も腹が減った」


「最初からそう言え!」


 朝比奈が笑い出した。


 久世は平然と眼鏡を押し上げる。


 こいつ、たまに自分が変なことを言っている自覚がないんじゃないだろうか。


「じゃあ、みんなで何か食べに行く?」


 そう言ったのは、白河《しらかわ》スズネ先輩だった。


 いつものように、椅子に座ってのんびりしている。


 机の上には、先日見つけた古いMDのケース。


 あれから先輩は、昔の録音を整理して、新しいラベルを作っていた。


「いいですね!」


 朝比奈が勢いよく顔を上げた。


「何食べます!?」


「そうだねえ」


 スズネ先輩は少し考える。


「駅前の喫茶店とか?」


「喫茶店!」


 朝比奈の目が輝いた。


「クリームソーダ!」


「食事の話をしてるんじゃなかったか?」


「クリームソーダは食事だよ!」


「絶対違う!」


 そんなやり取りをしていると。


『食事の前に、活動を終えてはいかがでしょうか。』


 スピーカーから、落ち着いた声がした。


 見ると、旧パソコンの画面にミナセが表示されていた。


 青みがかった髪をした、ドット絵の少女。


「ミナセちゃん!」


 朝比奈が手を振る。


『こんにちは、ナツキさん。』


「ミナセちゃんは、何食べたい?」


『私には食事機能がありません。』


「じゃあ、もし食べられるとしたら?」


『質問の前提が成立していません。』


「想像でいいんだってば!」


 ミナセは少しだけ首をかしげた。


『……検討します。』


 ……検討するんだ。


 それから、数秒後。


『フロッピーディスクでしょうか。』


「食うな、そんなもの!」


 俺は思わず突っ込んだ。


 久世が満足そうに頷く。


「ふっ。なかなか電脳的な回答だ」


「お前も納得するな!」


 旧パソコン室に、朝比奈の笑い声が響いた。


 ……まったく。


 こんな連中と一緒にいると、空腹まで忘れそうになる。


 いや。


 やっぱり腹は減っていた。


     ◇ ◇ ◇


 午後五時四十一分。


 そろそろ片付けを始めようかという頃だった。


 ぴこん。


 例の電子音が鳴った。


『新しいファイルを受信しました。』


「……おっ」


 俺は顔を上げた。


 朝比奈が勢いよく椅子から立ち上がる。


「来た!」


「七件目か」


 久世が旧パソコンの前へ移動した。


 画面には、新しいファイルが表示されていた。


『REQUEST_007.LZH』


「今度は何だろうねえ」


 スズネ先輩が、のんびりした声で言った。


 朝比奈は期待に満ちた顔で画面を見つめている。


「また落とし物かな?」


「それとも写真か?」


 俺が言うと、久世は眼鏡を押し上げた。


「まずは確認だ」


 圧縮ファイルを解凍する。


 中から出てきたのは、一つのテキストファイルだった。


『ONEGAI_007.TXT』


「……いつものやつだな」


 俺は呟いた。


 久世がファイルを開く。


 白い画面に、黒い文字が表示された。


『水守商店街にある「喫茶こもれび」を訪ねてください。』


『そこのナポリタンの作り方を、記録してほしいのです。』


『できれば、誰かがもう一度作れるように。』


『店主の許可を得て、お願いします。』


 ……。


 俺たちは、しばらく黙って画面を見つめた。


 そして。


「……ナポリタン?」


 俺が呟くと、朝比奈が大きく頷いた。


「ナポリタン!」


「……料理の作り方?」


 久世も首をかしげる。


「今回は、ずいぶん変わった依頼だな」


「いいじゃん!」


 朝比奈が嬉しそうに言った。


「おいしそう!」


「お前、何でもおいしそうで済ませるな」


「だってナポリタンだよ!?」


「分かってるよ!」


 スズネ先輩が、ふと笑った。


「ああ、こもれびかあ」


「先輩、知ってるんですか?」


 俺が尋ねると、先輩は頷いた。


「うん。昔からある喫茶店だよ」


「へえ」


「お店の前に、青い看板があるの。ナポリタンがおいしいんだって」


「……食べたことあるんですか?」


「あるよ」


 先輩は、にっこり笑った。


「おいしかった」


 その一言を聞いて、俺の腹が鳴った。


 ぐうう。


 ……。


 朝比奈が、ゆっくり俺を見る。


「……葛城くん」


「何だ」


「今の、聞こえたよ」


「気のせいだ」


「すっごい音だったよ?」


「旧パソコンのハードディスクだろ」


「そんな音する!?」


 久世が真面目な顔で割って入った。


「いや、ハードディスクの異音であれば、早急に――」


「お前は黙ってろ!」


 朝比奈は、机を叩いて笑っていた。


 スズネ先輩まで肩を震わせている。


 ……くそ。


 何で今日に限って、こんな依頼が届くんだ。


 俺は画面を見つめた。


 ナポリタンの作り方を記録する。


 しかも、誰かがもう一度作れるように。


 今までの依頼とは、少し違う。


 落とし物を探すわけでもない。


 誰かに言葉を届けるわけでもない。


 料理の作り方を残す。


 ……そんなもの、レシピを書けば終わりじゃないのか?


「まあ、いいか」


 俺は呟いた。


「明日、行ってみよう」


「やった!」


 朝比奈が両手を上げる。


「みんなで喫茶店!」


「……ただし、ちゃんと自分の分は払えよ」


「分かってるって!」


 久世も頷いた。


「ふっ。食事を兼ねた調査というわけか」


「そういうことだ」


 スズネ先輩が、楽しそうに笑った。


「じゃあ、明日はお昼ごはん抜きで来ようかな」


「先輩、それはやめたほうがいいと思います」


 俺は真面目に答えた。


 ……空腹の怖さは、今日一日で十分に学んだからな。


     ◇ ◇ ◇


 翌日。


 七月三十日、土曜日。


 午前十一時半。


 俺たちは、水守商店街に集まっていた。


 夏休みの商店街は、思ったより賑《にぎ》わっている。


 八百屋の店先には、スイカが並んでいた。


 魚屋からは威勢のいい声が聞こえる。


 古いレコード店の前では、店員がホースで水をまいていた。


 そして、どこかの店から流れてくる、少し懐かしい歌。


 ……何だか、いい雰囲気だ。


「葛城くん、こっちこっち!」


 朝比奈が手を振る。


 振り返ると、彼女は商店街の奥を指さしていた。


「あれじゃない?」


 そこには、小さな喫茶店があった。


 淡い青色の看板。


 木製の扉。


 入口の横には、少し色褪《いろあ》せた食品サンプルのショーケース。


 看板には、丸っこい文字でこう書かれている。


『喫茶こもれび』


 ショーケースの中には、クリームソーダ、ホットケーキ、オムライス。


 そして。


 中央に置かれた、大きな皿。


 赤いソースが絡んだスパゲッティ。


 輪切りのウインナー。


 緑色のピーマン。


 上には、粉チーズがたっぷりかかっている。


「……うまそう」


 俺は思わず呟いた。


「でしょ!」


 朝比奈が笑った。


「もう食べたくなった?」


「……まあな」


「素直!」


「うるさい」


 久世は、食品サンプルを真剣に眺めていた。


「ふむ。実によくできている」


「何が?」


「この食品サンプルだ」


「……そこかよ」


「本物の料理に見えるではないか!」


「本物を食べに来たんだろ!」


 スズネ先輩が、くすくす笑いながら扉を開けた。


 カラン。


 小さなベルが鳴る。


 その瞬間。


 ふわりと、コーヒーの香りが漂ってきた。


     ◇ ◇ ◇


 店内は、思っていたよりも落ち着いた雰囲気だった。


 少し暗めの照明。


 木製のテーブル。


 赤い革張りの椅子。


 窓際には、背の低い観葉植物が並んでいる。


 壁には古い時計。


 カウンターの奥には、大きなコーヒーミル。


 そして、棚には何枚ものレコードが立てかけられていた。


「……いい店だな」


 俺が呟くと、朝比奈も頷いた。


「ね。何か落ち着く」


「お前が落ち着くなんて珍しいな」


「失礼な!」


 カウンターの奥から、白いシャツを着た男性が顔を出した。


 短く刈った白髪交じりの髪。


 口元には、少し立派なひげ。


 年齢は五十代の後半くらいだろうか。


「いらっしゃい」


 男性は、落ち着いた声で言った。


「四人?」


「はい!」


 朝比奈が元気よく答える。


「じゃあ、そこの席へどうぞ」


 俺たちは窓際の席へ座った。


 テーブルの上には、小さな砂糖入れ。


 紙ナプキン。


 それから、透明なメニュー立て。


「おおっ!」


 朝比奈がメニューを開いた。


「ナポリタンある!」


「そりゃ喫茶店だからな」


「五百八十円!」


「……意外と安いな」


 俺は財布の中身を思い出した。


 よし。


 これなら、何とかなりそうだ。


「私はクリームソーダも!」


「お前、昨日からそればっかりだな」


「だって好きなんだもん!」


 久世はメニューを真剣に眺めていた。


「ふむ……」


「何にする?」


 俺が尋ねる。


「ナポリタンだ」


「まあ、そうなるよな」


「ただし、飲み物はアイスコーヒーにしよう」


「……大人ぶってる?」


 朝比奈が笑う。


「違う! 俺は昔からコーヒーを飲んでいる!」


「ブラックで?」


「……」


 久世は、少し黙った。


「砂糖は二本だ」


「甘党じゃん!」


「黙れ!」


 スズネ先輩は、メニューを閉じた。


「私はナポリタンと、ホットコーヒーかな」


「先輩、暑くないですか?」


「暑いけど、コーヒーは温かいほうが好きなんだ」


「へえー」


 ……何だか、先輩らしい。


 結局、四人ともナポリタンを注文することになった。


 注文を聞きに来た男性は、少し驚いた顔をした。


「全員ナポリタン?」


「はい!」


 朝比奈が頷く。


「ここの名物なんですよね!」


「まあ、うちじゃ一番よく出るかな」


 男性は少し照れくさそうに笑った。


「じゃあ、少し待ってて」


 そう言って、カウンターの奥へ戻っていった。


 俺たちは、しばらく店内を眺めていた。


 古い時計が、かちかちと音を立てている。


 窓の外では、自転車が何台も通り過ぎていく。


 奥の席では、年配の男性が新聞を読んでいた。


 ……落ち着く。


 こういう場所で一日中本でも読めたら、きっと気持ちいいだろう。


 そう考えていると。


 じゅうううっ。


 厨房《ちゅうぼう》の奥から、何かを炒める音が聞こえた。


 それから、少しして。


 甘酸っぱい香りが漂ってきた。


「……」


「……」


 俺と朝比奈は、同時に顔を上げた。


「……いい匂い」


 朝比奈が呟く。


「……ああ」


 俺も頷いた。


 久世まで、厨房のほうを見つめている。


「……なるほど」


「何が?」


「これは期待できそうだ」


「普通に楽しみにしてろよ」


 スズネ先輩は、そんな俺たちを見て笑っていた。


「お腹空いてきたねえ」


 ……本当に。


 昨日から、ずっと腹が減っている気がする。


     ◇ ◇ ◇


「お待たせ」


 しばらくして、ナポリタンが運ばれてきた。


 白い大きな皿。


 赤いスパゲッティ。


 薄く切られた玉ねぎ。


 ピーマン。


 輪切りのウインナー。


 そして、横には小さな銀色のフォーク。


 ……うまそうだ。


 いや。


 間違いなく、うまいだろう。


「いただきまーす!」


 朝比奈が元気よく言った。


 俺もフォークを手に取る。


 スパゲッティを少し巻き取って、口へ運んだ。


 ……。


「……うまい」


 思わず声が出た。


 甘酸っぱいケチャップの味。


 少し柔らかめの麺。


 バターの香り。


 そして、しっかり炒められた玉ねぎの甘み。


 どこか懐かしい味だった。


 特別な材料が使われているわけではない。


 高級な料理でもない。


 けれど。


 なぜだか、もう一口食べたくなる。


「……おいしい!」


 朝比奈が目を輝かせた。


「これ、すっごくおいしい!」


 久世も頷いている。


「ふむ。なかなかの完成度だ」


「お前、料理評論家かよ」


「電脳魔術師は味覚にも優れているのだ」


「関係あるか!」


 スズネ先輩は、ゆっくりとナポリタンを食べていた。


「……うん」


 先輩は嬉しそうに笑った。


「やっぱり、この味だねえ」


「前に食べたときと同じですか?」


 俺が尋ねる。


「うん。変わってない」


 そう言って、もう一口食べる。


 ……なるほど。


 確かに、これは覚えていたくなる味かもしれない。


 俺たちは、しばらく無言で食べ続けた。


 朝比奈ですら、静かだった。


 それだけでも、このナポリタンがどれほどおいしいか分かるだろう。


 ……いや。


 単に腹が減っていただけかもしれないけどな。


     ◇ ◇ ◇


 食事を終えたあと。


 俺たちは、店主らしい男性へ声をかけた。


「あの!」


 朝比奈が手を上げる。


「ちょっといいですか?」


「ん?」


 男性が振り返る。


「どうしたの?」


「ナポリタン、すっごくおいしかったです!」


「おお、ありがとう」


 男性は嬉しそうに笑った。


「そう言ってもらえると、作ったかいがあるよ」


「それで、お願いがあるんですけど」


「お願い?」


 朝比奈は、少しだけ姿勢を正した。


「このナポリタンの作り方、教えてもらえませんか?」


 ……。


 男性は、少し驚いた顔をした。


「……作り方?」


「はい!」


「……うーん」


 男性は、腕を組んだ。


 少し考えたあと、困ったように笑う。


「そんな大したものじゃないよ」


「でも、すごくおいしかったんです!」


「ありがとう」


 男性は頷いた。


「ただねえ……」


 そこで、少し言葉を切った。


「教えるって言っても、難しいんだよな」


「……難しい?」


 俺が尋ねる。


「うん」


 男性は、厨房のほうを見た。


「もう何十年も作ってるけど、ちゃんと分量を量ったことがないんだ」


「……え?」


 朝比奈が首をかしげる。


「目分量ってことですか?」


「まあ、そういうこと」


 男性は笑った。


「塩も、ケチャップも、ソースも。だいたい、このくらいかなって入れてる」


「……なるほど」


 久世が腕を組む。


「つまり、レシピが存在しないわけですね」


「そうだね」


「ふむ……」


 久世は、何やら考え始めた。


 俺は、少しだけ困った。


 確かに。


 それでは、作り方を記録するのは難しい。


 材料だけ分かっても、同じ味になるとは限らない。


 ……どうしたものか。


 そのとき。


「じゃあ!」


 朝比奈が勢いよく顔を上げた。


「今から作ってるところを見せてもらえませんか!?」


「……えっ?」


 俺は思わず振り返った。


「おい、朝比奈!」


「だって、見れば分かるかもしれないじゃん!」


「営業中だぞ!」


「あっ」


 朝比奈は、ようやく気づいたらしい。


「……そっか」


 男性は、そんな俺たちを見て笑っていた。


「面白い子たちだねえ」


「すみません……」


 俺が頭を下げる。


「実は、学校でいろいろな記録を集めていて」


「記録?」


「はい。町のお店のこととか、昔からあるもののこととか」


 俺は少し言葉を選んだ。


 あのパソコンのことを、いきなり話すわけにはいかない。


 けれど。


 ナポリタンの作り方を残したいという気持ちは、本当だ。


「ここのナポリタンを、誰かがまた作れるように記録したいんです」


 男性は、少しだけ驚いた顔をした。


「……誰かが?」


「はい」


 俺は頷いた。


「もちろん、お店の迷惑にならない範囲で」


 男性は、しばらく考えていた。


 そして。


「……変わったお願いだなあ」


 少しだけ笑った。


「でも、悪くないね」


 朝比奈の顔が明るくなる。


「本当ですか!?」


「うん。ただ、今日は忙しいからね」


 男性は店内を見回した。


「月曜日なら、店が休みなんだ」


「月曜日?」


「そう。そのときなら、少し教えてあげられるよ」


「やった!」


 朝比奈が声を上げた。


「ありがとうございます!」


 男性は、楽しそうに笑った。


「じゃあ、月曜日の午前中においで」


「はい!」


 ……なるほど。


 どうやら、今回の依頼も何とかなりそうだ。


 ただし。


 俺は、少し気になっていた。


 作り方を記録する。


 それは、いったいどこまでできれば成功なのだろう。


 材料を書けばいいのか。


 分量を量ればいいのか。


 それとも。


 誰かが本当に作れるようになるまで、なのだろうか。


 ……まあ。


 やってみるしかないか。


     ◇ ◇ ◇


 八月一日、月曜日。


 午前十時。


 俺たちは、再び喫茶こもれびに集まっていた。


 今日は定休日なので、店内にはほかの客はいない。


 昨日より少し静かだった。


「さて」


 店主の男性が、白いエプロンをつけながら言った。


「じゃあ、始めようか」


「お願いします!」


 朝比奈が元気よく頭を下げる。


 男性の名前は、柏木《かしわぎ》善治《ぜんじ》さん。


 この喫茶店を、三十年近く続けているそうだ。


「一応、聞いておくけど」


 柏木さんは、俺たちを見回した。


「料理、したことある?」


「あります!」


 朝比奈が勢いよく答える。


「ほう」


 柏木さんが頷いた。


「何を作るの?」


「目玉焼き!」


「……」


「あと、インスタントラーメン!」


「……なるほど」


 柏木さんは、少しだけ笑った。


 俺は朝比奈を見る。


「お前、それで自信満々だったのか」


「料理は料理でしょ!」


「まあ、間違ってはいないけどな」


 久世が、横から口を挟んだ。


「俺は計量なら得意だぞ」


「料理は?」


「……経験がない」


「駄目じゃねえか!」


 スズネ先輩が、のんびり手を上げた。


「私は、たまにお菓子作るよ」


「おお」


 柏木さんが頷いた。


「じゃあ、少しは慣れてるね」


「でも、料理はそんなに得意じゃないかも」


 先輩は、にっこり笑った。


「……」


 柏木さんは、しばらく俺たちを見つめていた。


 そして。


「……大丈夫かなあ」


 小さく呟いた。


 ……すみません。


 俺も、少し不安です。


     ◇ ◇ ◇


 まずは、材料を確認することになった。


 玉ねぎ。


 ピーマン。


 ウインナー。


 スパゲッティ。


 ケチャップ。


 ウスターソース。


 バター。


 塩とこしょう。


「……意外と普通ですね」


 俺が言うと、柏木さんは笑った。


「普通だよ」


「もっとこう、秘密の調味料とかあるのかと思ってました」


「そんなもの、使ってないよ」


 朝比奈が、少し残念そうな顔をした。


「えー。隠し味とかないんですか?」


「あると言えば、あるかな」


「えっ!」


 朝比奈の目が輝いた。


「何ですか!?」


 柏木さんは、にっこり笑った。


「ちゃんと炒めること」


「……」


「……」


 俺たちは、顔を見合わせた。


「……それだけですか?」


 朝比奈が尋ねる。


「うん」


 柏木さんは頷いた。


「それだけ」


 ……なるほど。


 どうやら、思ったより難しい話になりそうだ。


 まず、柏木さんが一人前を作ってみせてくれることになった。


 久世は、ノートを開く。


 朝比奈は、デジカメを構える。


 スズネ先輩は、材料の分量を確認する。


 そして俺は。


「葛城くん!」


 朝比奈が声をかけてきた。


「何だ?」


「ちゃんと見ててね!」


「言われなくても見てるよ」


「だって、あとで作ってもらうんだから!」


「……は?」


 俺は固まった。


「……俺が?」


「うん!」


「なんでだよ!」


「ほら、私たちの中で一番まともに料理できそうだし!」


「お前ら、俺を何だと思ってるんだ!?」


 久世が真面目な顔で頷いた。


「ふむ。適任だな」


「お前まで!」


 スズネ先輩も笑っている。


「頑張ってね、ユウマくん」


「……」


 ……逃げ道がなくなった。


 仕方ない。


 俺は、しっかり手を洗ってから、柏木さんの隣に立った。


     ◇ ◇ ◇


 柏木さんは、慣れた手つきで材料を切り始めた。


 玉ねぎは薄く。


 ピーマンは細く。


 ウインナーは斜めに切る。


「玉ねぎは、これくらいかな」


「……これくらい?」


 久世が眉をひそめた。


「できれば、重さを量りたいのですが」


「ああ、いいよ」


 柏木さんは、笑いながら量りを出してくれた。


 久世が、嬉しそうに数字を書き込んでいく。


「ふむ。なるほど」


「……何が?」


 俺が尋ねる。


「データが蓄積されている」


「普通にメモしてるだけだろ」


「何を言う、葛城。記録は重要なのだぞ!」


「はいはい」


 朝比奈は、デジカメで写真を撮っていた。


 カシャッ。


 カシャッ。


 カシャッ。


「おい、朝比奈」


「何?」


「俺の顔ばっかり撮ってないか?」


「えっ?」


「さっきから、こっちにレンズ向いてるだろ」


「……ばれた?」


「ばれるわ!」


 朝比奈は、けらけら笑っていた。


 ……まったく。


 真面目に調査する気はあるのだろうか。


 そんなことを考えているうちに、柏木さんはフライパンを温め始めた。


 バターを入れる。


 じゅわっ。


 小さな音とともに、香りが広がった。


 続いて、玉ねぎとウインナーを炒める。


 少しして、ピーマンを加える。


「いい匂い……」


 朝比奈が呟いた。


「まだ途中だぞ」


 俺が言うと、柏木さんが笑った。


「ここからだよ」


 野菜をいったん端へ寄せる。


 そこへ、ケチャップを入れた。


 じゅうううっ。


 さっきよりも、強い音がした。


 甘酸っぱい香りが、ふわりと立ち上がる。


「……あれ?」


 俺は、少しだけ首をかしげた。


 柏木さんは、すぐにスパゲッティを入れなかった。


 ケチャップだけを、しばらく火にかけていたのだ。


「……これ、何してるんですか?」


 俺が尋ねると、柏木さんは頷いた。


「ケチャップを少し炒めてるんだよ」


「……ケチャップを?」


「うん」


 柏木さんは、フライパンをゆっくり動かす。


「そのまま麺に絡めると、酸っぱさが強くなることがあるからね」


「へえ……」


「少し火を入れると、味が落ち着くんだ」


 ……なるほど。


 俺は、思わず感心した。


 普段、家でナポリタンを作るときは、全部まとめて炒めていた気がする。


 こんなやり方もあるのか。


 久世が、急いでノートに書き込む。


「重要な工程だな……!」


「……お前、楽しそうだな」


「当然だ。技術というものは、料理にも通じる!」


「また始まった」


 スズネ先輩は、柏木さんの手元をじっと見ていた。


「……なるほどねえ」


 そして、小さく笑った。


「確かに、いい匂い」


 ……本当に。


 これは、食べる前から分かる。


 絶対にうまいやつだ。


     ◇ ◇ ◇


 柏木さんのナポリタンが完成すると、俺たちは少しずつ味見させてもらった。


「……うん」


 俺は頷いた。


「昨日と同じ味だ」


「でしょ!」


 朝比奈も嬉しそうだった。


「すごい!」


 久世は、ノートを見つめていた。


「ふむ。工程はすべて記録した」


「じゃあ、作れる?」


 柏木さんが尋ねる。


「無論!」


 久世は得意げに答えた。


「完璧な再現が可能なはずです!」


 ……おい。


 自分で作る気はないくせに。


 俺は、少しだけ不安になった。


 そして。


 その不安は、見事に的中することになった。


     ◇ ◇ ◇


「……」


「……」


「……」


 俺たちは、完成したナポリタンを見つめていた。


 見た目は、悪くない。


 赤いスパゲッティ。


 玉ねぎ。


 ピーマン。


 ウインナー。


 ちゃんと、それらしい料理になっている。


 だが。


「……何か違う」


 朝比奈が、小さく呟いた。


「……だな」


 俺も頷いた。


 味はする。


 普通に食べられる。


 けれど。


 昨日食べた、あのナポリタンとは違う。


「……おかしい」


 久世が、真剣な顔でノートを見つめていた。


「材料も、分量も、工程も記録どおりのはずだ」


「じゃあ、何が違うんだ?」


 俺が尋ねると、久世は腕を組んだ。


「……分からん」


「おい!」


 朝比奈が、くすくす笑った。


「久世くん、完璧に再現できるって言ってたのに!」


「黙れ! これは想定外だ!」


 ……まったく。


 俺は、自分の作ったナポリタンをもう一口食べた。


 ……うん。


 やっぱり、違う。


 何だろう。


 味が、少しだけ薄い気がする。


 それに、香りも違う。


「……あれ?」


 ふと、俺は思い出した。


 さっき、柏木さんがケチャップを炒めていたとき。


 もう少し、長い時間だった気がする。


「……柏木さん」


「ん?」


「ケチャップ、どれくらい炒めればいいんですか?」


 柏木さんは、少し考えた。


「そうだねえ」


 それから、俺のフライパンを見た。


「もう少し、しっかり火を入れたほうがよかったかもしれないね」


「……やっぱり」


 俺は頷いた。


「でも、何分くらいなんですか?」


「うーん……」


 柏木さんは、少し困った顔をした。


「時間で決めたこと、ないんだよね」


「……えっ?」


「色とか、匂いとか。そういうのを見てるから」


 ……なるほど。


 どうやら、問題はそこだったらしい。


 久世のノートには、材料の分量が細かく書かれている。


 けれど。


 火加減。


 香り。


 炒める時間。


 そういうものは、数字だけでは表しにくい。


 俺は、少しだけ考えた。


「……じゃあ」


「ん?」


「もう一回、作ってもいいですか?」


 柏木さんは、少し驚いた顔をした。


「もう一回?」


「はい」


 俺は頷いた。


「今度は、ちゃんと見ながら」


 柏木さんは、しばらく俺を見つめていた。


 そして。


「……いいよ」


 にっこり笑った。


「やってみようか」


     ◇ ◇ ◇


 二回目。


 俺は、さっきよりも慎重にフライパンを動かした。


 玉ねぎを炒める。


 ウインナーを加える。


 ピーマンを入れる。


 そして、ケチャップ。


 じゅうううっ。


 甘酸っぱい香りが立ち上がる。


「……もう少し」


 柏木さんが言った。


 俺は頷いた。


 フライパンの中で、ケチャップの色が少しずつ変わっていく。


 水分が飛び、香りが濃くなる。


「……今だね」


 柏木さんが言った。


 俺は、すぐに麺を加えた。


 フライパンを動かす。


 具と麺が、少しずつ混ざっていく。


 最後に、バターを少しだけ加える。


 ……よし。


「できた!」


 俺は、思わず声を上げた。


 朝比奈が拍手する。


「おおーっ!」


 久世も頷いた。


「ふむ。今度こそ、完成だな」


「まだ味見してないだろ」


「細かいことを気にするな!」


 ……お前、さっきもそれで失敗しただろ。


 俺は、フォークでスパゲッティを少し巻き取った。


 口へ運ぶ。


 ……。


「……あ」


 思わず声が出た。


 さっきよりも、ずっと近い。


 甘酸っぱさ。


 玉ねぎの甘み。


 ケチャップの香ばしさ。


 そして、バターの風味。


「……うまい」


 俺は呟いた。


 朝比奈も味見をする。


「……あっ!」


 目を輝かせた。


「おいしい!」


 久世が、すぐにノートを開く。


「何が違った?」


「……ケチャップを炒める時間かな」


「時間?」


「ああ」


 俺は、フライパンを指さした。


「香りが変わるまで、ちゃんと待ったんだ」


 久世は、少し考えた。


 そして。


「……なるほど」


 小さく頷いた。


「数字だけでは、分からないこともあるわけか」


「そういうことだな」


 スズネ先輩が、楽しそうに笑った。


「じゃあ、匂いのことも書いておこうか」


「……匂い?」


「うん」


 先輩は、朝比奈のノートを指さした。


「料理の途中で、どんな匂いがしたか」


 ……なるほど。


 それなら、少しは伝わるかもしれない。


「写真も撮ったし!」


 朝比奈がデジカメを持ち上げた。


「ケチャップの色が変わるところ、ちゃんと写ってるよ!」


「……お前、いつの間に」


「ふふん。新聞部ですから!」


 ……なるほど。


 こういうときは、本当に頼りになる。


 久世も頷いた。


「では、写真と文章を組み合わせよう」


「うん!」


「材料の分量だけでなく、調理の順序と目安も記録する」


「いいねえ」


 スズネ先輩が笑った。


「これなら、誰かが作れそうだね」


 俺は、自分の作ったナポリタンをもう一口食べた。


 ……うん。


 完璧ではない。


 柏木さんの味とは、まだ少し違う。


 けれど。


 最初よりは、ずっと近づいた。


 それが、何だか嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


「……ありがとうね」


 片付けが終わったあと、柏木さんが言った。


「えっ?」


 朝比奈が首をかしげる。


「何がですか?」


「いや、こっちの話」


 柏木さんは、少し照れくさそうに笑った。


「うちのナポリタンを、そんなに真剣に調べてもらえるとは思わなかったから」


「だって、おいしいですもん!」


 朝比奈が元気よく答えた。


 柏木さんは笑った。


「ありがとう」


 そして、少しだけ店内を見回した。


 木製のテーブル。


 赤い革張りの椅子。


 古い時計。


 カウンターの奥のコーヒーミル。


「……もう、三十年近くになるんだよ」


 柏木さんが呟いた。


「この店?」


 俺が尋ねる。


「うん」


 柏木さんは頷いた。


「最初は、こんなに長く続くと思ってなかったんだけどね」


 少しだけ笑う。


「気づいたら、ずっとここで料理してた」


「……すごいですね」


「いやいや。毎日、同じことをしてただけだよ」


 柏木さんは、少し照れくさそうだった。


「でも、最近は考えることがあるんだ」


「……何をですか?」


「いつまで、続けられるかなって」


 ……。


 俺たちは、少しだけ黙った。


 柏木さんは、すぐに笑った。


「ああ、別に今すぐ店を閉めるわけじゃないよ」


「……そうなんですか」


「うん。まだまだ働くつもり」


 それを聞いて、朝比奈がほっとした顔をした。


「よかった!」


 柏木さんは、嬉しそうに笑った。


「でもね」


 少しだけ声を落とした。


「いつか店を閉める日が来たら、この味もなくなるのかなって思ってたんだ」


 ……。


 俺は、少しだけ考えた。


 確かに。


 この店のナポリタンは、柏木さんが作っている。


 もし柏木さんが料理を作らなくなったら。


 この味は、どうなるのだろう。


「……でも」


 朝比奈が、少し考えてから言った。


「今日、私たちが作り方を覚えましたよ!」


 柏木さんが顔を上げる。


「……うん?」


「だから、なくなりません!」


 朝比奈は、にっこり笑った。


「少なくとも、私たちは覚えてます!」


 ……。


 柏木さんは、しばらく朝比奈を見つめていた。


 それから。


「……そうだね」


 小さく笑った。


「そうかもしれないね」


 スズネ先輩も、嬉しそうに頷いた。


「ちゃんと記録も残しますから」


「うん」


 柏木さんは、ゆっくり頷いた。


「ありがとう」


 ……何だか。


 少しだけ、胸の奥が温かくなった。


 大げさなことをしたわけじゃない。


 ただ、ナポリタンの作り方を教わっただけだ。


 でも。


 それが、誰かにとっては嬉しいことなのかもしれない。


     ◇ ◇ ◇


 午後五時四十八分。


 俺たちは、旧パソコン室へ戻ってきた。


 机の上には、今日作ったレシピのメモ。


 朝比奈が撮影した写真。


 久世がまとめた材料の一覧。


 それから、柏木さんが確認してくれた手順の紙。


「……結構な量になったな」


 俺が呟くと、久世は得意げに頷いた。


「ふっ。当然だ」


「お前、今日は本当によく働いたな」


「当然だ!」


「……二回言うな」


 朝比奈は、机の上の写真を並べていた。


「これ、いいね!」


「何が?」


「みんなで作ってるところ!」


 見ると、そこには厨房で料理している俺たちが写っていた。


 柏木さんが笑っている。


 スズネ先輩は、メモを取っている。


 久世は、真剣な顔で量りを見つめている。


 朝比奈は、カメラを持って笑っていた。


 そして俺は。


「……あれ?」


 俺は写真を見た。


 ちゃんと目が開いている。


「……珍しいな」


 思わず呟いた。


 朝比奈が、にやりと笑う。


「葛城くん、気づいた?」


「……何が?」


「今回は、目が開いてるんだよ!」


「見れば分かる!」


「やったね!」


「何がやったんだ!」


 朝比奈は、けらけら笑った。


 ……まったく。


 俺の写真写りを何だと思っているんだ。


 久世は、まとめたレシピを旧パソコンの隣へ置いた。


「では、記録の保存だな」


「どうする?」


 俺が尋ねると、久世はノートPCを開いた。


「文章と写真を整理して、CD-Rに焼いておこう」


「CD-R?」


「ああ。紙だけでは傷む可能性もあるからな」


「なるほど」


 朝比奈が頷いた。


「じゃあ、二つ残せるね!」


「そういうことだ」


 スズネ先輩が、にっこり笑った。


「いいねえ。忘れ物博物館にも一部置いておこうかな」


「先輩、また物増やすんですか」


 俺が言うと、先輩は笑った。


「大切なものだからね」


 ……。


 俺は、少しだけ笑った。


 確かに。


 これは、大切なものかもしれない。


 俺たちが作った、ナポリタンのレシピ。


 柏木さんが何十年も作り続けてきた味。


 それを、誰かがまた作れるようにした記録。


 ……悪くない。


 俺は、素直にそう思った。


     ◇ ◇ ◇


「さて!」


 朝比奈が勢いよく立ち上がった。


「結果発表!」


「……またか」


 俺は呟いた。


「恒例行事だから!」


「分かってるよ」


 久世が、YUYAKE MAIL SYSTEMを開く。


 受信一覧には、七件目の依頼が表示されていた。


『REQUEST_007 COMPLETE』


「やったー!」


 朝比奈が両手を上げた。


「七件目も成功!」


「……よかったな」


 俺も、少しだけ笑った。


 久世は、満足そうに頷いた。


「ふむ。今回は、料理という新たな分野に挑戦したわけだな」


「そうだな」


「電脳魔術師の活動領域は、ますます広がっている」


「お前、料理ほとんどしてないだろ」


「記録担当だ!」


「便利な役職だな!」


 朝比奈が笑い出した。


 スズネ先輩も、楽しそうだった。


 画面の隅では、ミナセがこちらを見ている。


『依頼の完了を確認しました。』


「お疲れー、ミナセちゃん!」


 朝比奈が手を振る。


『お疲れさまでした、ナツキさん。』


「ねえねえ、ミナセちゃん!」


『はい。』


「ナポリタンの作り方、覚えた?」


『レシピの内容は確認できます。』


「じゃあ、作れる?」


『私には調理機能がありません。』


「そっかー」


 朝比奈は、少し残念そうだった。


「ミナセちゃんにも食べさせたかったなあ」


 ミナセは、少しだけ首をかしげた。


『お気持ちだけ、いただきます。』


 ……。


 俺は、思わず笑ってしまった。


「お前、そんなことも言えるんだな」


『会話の内容に合わせた応答です。』


「……なるほど」


『ですが。』


「ん?」


『皆さんが楽しそうにしていることは、確認できています。』


 ……。


 俺は、少しだけ画面を見つめた。


 ミナセは、いつもどおりの無表情なドット絵だった。


 それなのに。


 何となく、少しだけ嬉しそうに見えた。


「……そっか」


 俺は、小さく頷いた。


「じゃあ、よかったな」


『はい。』


 ミナセは、ぺこりと頭を下げた。


     ◇ ◇ ◇


 帰り道。


 俺と朝比奈は、夕焼けに染まる商店街を歩いていた。


 久世は、家でレシピのデータを整理すると言って先に帰った。


 スズネ先輩は、忘れ物博物館にCD-Rをしまってから帰るらしい。


 商店街には、夕方の買い物客が行き交っている。


 八百屋の店先では、スイカが半分に切られて並んでいた。


 遠くから、風鈴の音が聞こえる。


 ……夏だな。


 俺は、ぼんやりそんなことを考えた。


「ねえ、葛城くん」


 朝比奈が声をかけてきた。


「ん?」


「今日、楽しかったね」


「……そうだな」


 俺は頷いた。


 確かに。


 思ったより、楽しかった。


 ナポリタンを食べて。


 作り方を教わって。


 みんなで騒いで。


 結局、俺が二人前も作ることになったけれど。


 ……まあ。


 悪くない一日だった。


「また行きたいなあ、こもれび」


「そうだな」


「今度はホットケーキ食べたい!」


「お前、まだ食うのか」


「だって、おいしそうだったんだもん!」


 朝比奈は、楽しそうに笑った。


 俺も、少しだけ笑った。


「……じゃあ、また行けばいいだろ」


「うん!」


 朝比奈は、嬉しそうに頷いた。


「約束ね!」


「……約束?」


「うん!」


 彼女は、にっこり笑った。


「夏休み中に、もう一回!」


 ……。


 俺は、少しだけ考えた。


 財布の中身。


 ゲームソフトの発売予定。


 宿題の残り。


 いろいろと問題はある。


 ……あるけれど。


「……まあ、いいか」


 俺は、小さく頷いた。


「分かったよ」


「やった!」


 朝比奈は、嬉しそうに笑った。


 そして、少しだけ先へ走っていく。


 夕焼けの光が、彼女の髪をオレンジ色に染めていた。


 俺は、その背中を見つめながら思った。


 今日作ったナポリタン。


 もし、いつか喫茶こもれびがなくなったとしても。


 俺たちは、あの味を思い出せるのだろうか。


 ……いや。


 今は、そんなことを考えなくてもいいか。


 まだ、店はある。


 柏木さんもいる。


 ナポリタンも食べられる。


 だから。


 今度、また食べに行けばいい。


 それだけのことだ。


「葛城くーん!」


 少し先で、朝比奈が手を振っていた。


「早くー!」


「分かってるって!」


 俺は、少しだけ歩く速度を上げた。


 夕焼けの商店街。


 どこかの店から漂ってくる、夕飯の匂い。


 遠くで鳴くヒグラシ。


 そして、夏休みの帰り道。


 ……何だか。


 今日のことは、しばらく忘れない気がした。


 それくらい。


 いい一日だった。


     ◇ ◇ ◇


 その日の夜。


 俺は、自分の部屋でノートを開いていた。


 最近、何となく続けている日記だ。


 別に、大したことを書いているわけじゃない。


 今日何をしたとか。


 誰と会ったとか。


 そんな、どうでもいいようなことばかりだ。


 俺は、シャープペンを握った。


『八月一日、月曜日。』


『喫茶こもれびのナポリタンの作り方を教わった。』


『材料は普通なのに、作り方で味が変わるらしい。』


『二回目は、それなりにうまくできた。』


 そこまで書いて、少し考える。


 そして、続きを書いた。


『朝比奈と、また食べに行く約束をした。』


 ……。


 俺は、しばらくその一行を見つめていた。


 別に、特別な意味はない。


 ただ、喫茶店に行く約束をしただけだ。


 それだけのこと。


 ……なのに。


 何となく、消す気になれなかった。


 俺は、ノートを閉じた。


 窓の外では、夏の虫が鳴いている。


 八月。


 夏休みは、まだまだ続く。


 きっと、これからもいろいろなことが起きるのだろう。


 変な依頼とか。


 くだらない騒動とか。


 少しだけ嬉しい出来事とか。


 ……まあ。


 そういう夏休みも、悪くない。


 俺は、机の上に置いたレシピのコピーを見た。


 そこには、朝比奈の丸っこい字で一言だけ書かれていた。


『おいしいものは、みんなで食べるともっとおいしい!』


 ……。


 俺は、思わず笑ってしまった。


「……あいつらしいな」


 小さく呟いて、部屋の電気を消す。


 目を閉じると、今日のナポリタンの匂いを思い出した。


 甘酸っぱいケチャップ。


 バター。


 炒めた玉ねぎ。


 ……うん。


 また食べたい。


 今度は、ちゃんと自分の金で。


 そんなことを考えながら、俺は眠りについた。

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