忘れ物博物館と最後の五分間
物を捨てられない人間には、二種類いると思う。
一つは、いつか使うかもしれないと考えて、何でも取っておく人間。
もう一つは、捨てるのが面倒だから、とりあえず取っておく人間。
ちなみに俺は後者だ。
机の引き出しには、小学校の頃に使っていた消しゴムや、インクの切れたボールペンが何本も残っている。
特に使い道はない。
ただ、捨てるのが面倒なだけである。
しかし。
どうやら世の中には、もう一種類の人間が存在するらしい。
「これね、三年前に廊下で拾ったんだよ」
白河スズネ先輩は、そう言って片方だけのスリッパを持ち上げた。
「……三年前?」
「うん」
「……それ、まだ持ってたんですか?」
「うん」
先輩は、にっこり笑った。
「だって、もう片方が見つかるかもしれないでしょ?」
……なるほど。
この人は、俺の知らない種類の人間だった。
◇ ◇ ◇
七月二十五日、月曜日。
夏休みが始まって最初の週末を終えた俺たちは、旧校舎の二階に集まっていた。
場所は、白河先輩が管理している『忘れ物博物館』。
先週、古いホームページの持ち主を探すために訪れた、あの部屋である。
正確には、使われなくなった準備室だ。
中には古い教科書、壊れた時計、カセットテープ、ぬいぐるみ、用途不明のケーブルなどがぎっしり詰まっている。
どう見ても倉庫なのだが、本人は博物館だと言い張っている。
「先輩」
「んー?」
「このスリッパ、誰か取りに来ると思います?」
「さあ?」
「さあ、って……」
「でも、取っておいたらいつでも返せるよ」
先輩はスリッパを棚へ戻した。
そして、当たり前のように言った。
「捨てちゃったら、もう返せないからね」
……。
俺は少しだけ黙った。
何だか、妙に納得してしまったのが悔しい。
「白河先輩ー!」
部屋の奥から、朝比奈ナツキの声がした。
「この箱、開けてもいいですかー?」
「いいよー」
「やった!」
「……ちょっと待て!」
俺は慌てて声を上げた。
「中身を確認してからにしろ!」
「えー、何で?」
「何が入ってるか分からないだろ!」
「宝物かもしれないじゃん!」
「虫の死骸かもしれないぞ」
「……」
朝比奈の動きが止まった。
それから、そっと箱を元の場所へ戻す。
「……葛城くん」
「何だ?」
「開けて」
「お前なあ!」
そんな俺たちの横では、久世リョウが古い電子機器を眺めていた。
「おお……」
また始まった。
こいつがこの声を出すときは、ろくなことにならない。
「久世、今度は何だ?」
「見ろ、葛城!」
久世が持っていたのは、銀色の小さな機械だった。
「ポータブルMDプレーヤーだ!」
「……ああ、MDか」
「しかも、なかなかいい機種だぞ!」
久世は嬉しそうに機械を眺めている。
MD。
ミニディスク。
俺も中学生の頃から使っている。
小さな四角いディスクに音楽を録音できるので、CDを何枚も持ち歩く必要がない。
お気に入りの曲を集めて、自分だけのMDを作るのも楽しい。
俺の家にも、何枚かある。
「これ、まだ動くんですか?」
俺がスズネ先輩へ尋ねると、先輩は首をかしげた。
「どうだろう。電池がないかもしれないね」
「ふっ」
久世が眼鏡を押し上げた。
「ならば、動作確認してやろう」
「……壊すなよ?」
「失礼な!」
久世は胸を張った。
「俺を誰だと思っている?」
「電脳魔術師だろ」
「その通り!」
「もう覚えたよ、その自己紹介」
朝比奈がけらけら笑った。
スズネ先輩も楽しそうだった。
……まったく。
夏休みだというのに、どうして俺たちは学校の倉庫でこんなことをしているんだろう。
普通なら、家でゲームをしたり、友達と遊んだりする時期だろうに。
いや。
これも、友達と遊んでいることになるのだろうか。
……少し違う気もするが。
まあ、悪くはない。
◇ ◇ ◇
「ところで、今日は何をするんですか?」
俺はスズネ先輩へ尋ねた。
「ん?」
「昨日のメールだと、博物館の整理を手伝ってほしいって話でしたけど」
「ああ、そうそう」
先輩は、部屋の奥を指さした。
「あそこの段ボールを整理したいんだ」
見ると、大きな段ボール箱が三つ積まれていた。
どれも古びていて、端が少し潰れている。
「……何が入ってるんですか?」
「古い録音とか、学校の資料とか」
「録音?」
「うん。カセットテープとか、MDとか」
それを聞いて、久世が勢いよく顔を上げた。
「MDだと!?」
「食いつきすぎだろ」
「葛城! 古い録音資料というものは貴重なのだぞ!」
「分かった分かった」
スズネ先輩は、にっこり笑った。
「前に放送部が片付けたとき、いらないって言われたものを預かってたんだ」
「……それ、先輩が勝手に持ってきたわけじゃないですよね?」
「ちゃんともらったよ」
「ならいいですけど」
「顧問の先生にも聞いたし」
「……意外としっかりしてるんですね」
「ユウマくん、私を何だと思ってるの?」
「片方のスリッパを三年間保存する人です」
「それはそうだねえ」
先輩は、ちっとも気にしていなかった。
俺たちは段ボールを床へ下ろし、中身を一つずつ確認し始めた。
古いカセットテープ。
ラベルの剥がれたMD。
学校行事を録音したらしいビデオテープ。
それから、手書きの紙が何枚も出てきた。
「……放送原稿?」
朝比奈が一枚を手に取った。
『本日の昼の放送』
『七月七日』
『七夕にちなんで、皆さんの願いごとを紹介します』
「へえー」
朝比奈が楽しそうに読み上げる。
「昔の放送部って、こんなことしてたんだね!」
「今も似たようなことやってるだろ」
「でも、昔の原稿って何かいいじゃん!」
朝比奈は、紙をそっと箱へ戻した。
その隣で、スズネ先輩が小さなケースを取り出す。
「あれ?」
「どうしました?」
「これ、懐かしいなあ」
先輩の手には、一枚のMDがあった。
透明なプラスチックケース。
中には、青いディスク。
ラベルには、少しかすれた文字が書かれていた。
『放課後五分間ラジオ』
『2000.3.3』
「……ラジオ?」
俺が尋ねると、スズネ先輩は頷いた。
「昔、学校でやってた放送みたい」
「放課後に?」
「うん。部活が終わる前くらいに、五分だけ流してたんだって」
「へえ」
朝比奈が目を輝かせた。
「面白そう!」
久世は、さっそくMDを受け取った。
「ふむ。保存状態は悪くなさそうだ」
「再生できる?」
「試してみよう」
久世は先ほど見つけたMDプレーヤーを取り出した。
しかし。
「……む」
「どうした?」
「電源が入らん」
「やっぱり壊れてるんじゃないか?」
「まだ決まったわけではない!」
久世は機械を裏返し、電池の部分を確認した。
「専用の充電池が入っていないな」
「じゃあ駄目か」
「いや、外付けの乾電池ケースがあれば動くかもしれん」
スズネ先輩が首をかしげた。
「あ、それなら棚にあったかも」
「……本当ですか?」
「うん。たぶん」
……この部屋、何でもあるな。
いや、何でもありすぎる。
結局、少し探すと電池ケースが見つかった。
新しい乾電池を入れ、プレーヤーのスイッチを押す。
小さな液晶画面に文字が表示された。
「おっ!」
朝比奈が声を上げる。
「動いた!」
「ふっ。当然だ」
久世は満足そうに頷いた。
……お前、電池を入れただけだろ。
しかし、俺が突っ込む前に、プレーヤーから音が流れ始めた。
◇ ◇ ◇
『皆さん、こんにちはー!』
イヤホンから、明るい女の子の声が聞こえた。
久世はプレーヤーを小型スピーカーにつなぎ、全員で聞けるようにした。
『放課後五分間ラジオのお時間です!』
『本日の担当は、水野まどかと!』
『吉岡千尋でーす!』
……なるほど。
どうやら、二人で放送していたらしい。
『まどか、今日で最後だね』
『そうだねえ』
『寂しい?』
『全然!』
『嘘つけ!』
そのやり取りを聞いて、朝比奈が笑った。
「……何か、私たちみたい」
「どこがだよ」
「この感じ!」
確かに、少し似ているかもしれない。
特に、相手の話をあまり聞かないところが。
『さて、今日は最終回ということで、今までのお便りを振り返りたいと思います!』
『おおーっ!』
『最初に紹介するのは、ペンネーム「購買の焼きそばパンが好き」さん!』
『名前そのまんまじゃん!』
……。
俺は思わず吹き出した。
「こういう人、昔からいるんだな」
「葛城くん、焼きそばパン好きだもんね!」
「そこは関係ないだろ」
放送は、予想以上にくだらなかった。
購買の人気商品について。
テスト期間の過ごし方について。
学校の裏庭にいる猫について。
そんな話ばかりが続いていく。
けれど、聞いていると不思議と楽しい。
昔の高校生も、今の俺たちとたいして変わらないのだ。
『それじゃあ、そろそろ最後のお便りです』
『はい』
『ペンネーム「三年間ありがとう」さんから』
少しだけ、声の調子が変わった。
『「毎日、放課後にこのラジオを聞くのが楽しみでした。特別に面白いことを言っているわけでもないのに、なぜか最後まで聞いてしまいます」』
『……ひどくない?』
『褒めてるんだよ、たぶん!』
俺たちは笑った。
『「部活で嫌なことがあった日も、帰りたくない日も、放送が流れていると少し元気になれました」』
『「卒業しても、またどこかで二人の声が聞けたら嬉しいです」』
……。
少しだけ、部屋が静かになった。
スズネ先輩も、黙って聞いている。
『……嬉しいね』
『うん』
『じゃあ、最後に一言ずつ言おうか』
『そうだね』
そこで、一人目の声が少し弾んだ。
『三年間、ありがとうございました!』
『私も楽しかったです!』
『それじゃあ、皆さん――』
ぷつん。
音が途切れた。
「……あれ?」
朝比奈が首をかしげた。
「終わり?」
久世がプレーヤーの表示を確認する。
「どうやら、ここで録音が終わっているようだ」
「えー!」
朝比奈が不満そうに声を上げる。
「一番いいところだったのに!」
「仕方ないだろ」
「何か、続きが気になる!」
スズネ先輩は、MDのケースを見つめていた。
「……そうだねえ」
少しだけ、寂しそうに笑った。
「最後まで残ってたら、よかったのにね」
……。
確かに。
たった数秒。
それだけなのに、妙に惜しい気がする。
最後に、何を言おうとしていたのだろう。
ただの「さようなら」だったのかもしれない。
それでも。
聞いてみたかった。
◇ ◇ ◇
午後五時三十五分。
俺たちは、いつもの旧パソコン室へ戻っていた。
スズネ先輩は、青いMDを大事そうに持っている。
久世はMDプレーヤーを机へ置いた。
朝比奈は、今日見つけたものを活動日誌に書き込んでいる。
俺は扇風機の前で麦茶を飲んでいた。
すると。
ぴこん。
旧パソコンから、聞き慣れた電子音が鳴った。
『新しいファイルを受信しました。』
「……おっ」
朝比奈が顔を上げる。
「来た!」
久世もすぐにパソコンへ向かった。
「六件目か」
画面に、新しいファイルが表示されていた。
『REQUEST_006.LZH』
「今度は何だろう?」
スズネ先輩が、のんびりした声で言った。
「また写真かなあ」
「何でもいいけど、学校の外まで走り回るのは勘弁してほしい」
俺はそう答えた。
久世がファイルを調べ、解凍する。
中から現れたのは、一つのテキストファイルだった。
『ONEGAI_006.TXT』
「……お願い、か」
朝比奈が画面をのぞき込む。
久世がファイルを開いた。
そこには、こう書かれていた。
『古い学校放送の録音を探してください。』
『名前は「放課後五分間ラジオ」。』
『最終回の録音が、まだ学校に残っているはずです。』
『できれば、当時の二人に聞いてもらってください。』
……。
俺たちは、しばらく無言で画面を見つめた。
そして。
「……え?」
朝比奈が声を上げた。
「これって……」
俺は、ゆっくりスズネ先輩を見る。
先輩の手には、青いMD。
『放課後五分間ラジオ』
『2000.3.3』
……。
「……おいおい」
俺は思わず呟いた。
「タイミングよすぎないか?」
久世は眼鏡を押し上げた。
「偶然にしては、出来すぎているな」
「だよね!」
朝比奈は、すっかり興奮していた。
「すごい! 私たち、先に見つけちゃったんだ!」
「……そういう問題か?」
俺は苦笑した。
しかし。
確かに、少し不思議だった。
ついさっきまで、存在すら知らなかった録音。
それを見つけた直後に、同じ録音を探してほしいという依頼が届く。
……どうなっているんだ、このパソコンは。
『依頼内容を確認しました。』
画面の隅に、ミナセが現れた。
『対象の録音を発見している場合は、次の手順へ進んでください。』
「……次の手順?」
朝比奈が尋ねる。
『当時の出演者二名に、録音を聞いてもらってください。』
「……なるほど」
久世が頷いた。
「つまり、今回の依頼は二人を探すことか」
「そういうことだな」
俺も頷いた。
スズネ先輩は、MDを見つめていた。
そして、少しだけ笑った。
「……よかった」
「何がですか?」
俺が尋ねる。
「これ、ちゃんと持ち主がいたんだね」
……。
俺は、少しだけ黙った。
先輩は、続けて言った。
「ずっとここにあったけど、誰のものか分からなかったから」
青いMDを、そっと持ち上げる。
「これで、返せるかもしれない」
その笑顔を見て。
俺は、何だか少しだけ、この人のことが分かった気がした。
◇ ◇ ◇
翌日。
七月二十六日、火曜日。
俺たちは、録音に登場した二人を探すことにした。
名前は分かっている。
水野まどか。
吉岡千尋。
そして、二〇〇〇年三月の放送に出演していたということは、おそらく当時の三年生だろう。
まずは学校の記録を確認することにした。
「……卒業アルバム?」
朝比奈が首をかしげる。
「そう」
スズネ先輩が頷いた。
「二〇〇〇年の卒業アルバム、資料室に残ってるよ」
「また先輩の得意分野ですね」
俺が言うと、スズネ先輩は嬉しそうに笑った。
「えへへ」
旧校舎の資料室には、昔の卒業アルバムが年度別に並んでいた。
先輩が学校側に確認を取ってくれていたので、俺たちは必要な部分だけ見せてもらうことができた。
「……あった!」
朝比奈が声を上げた。
二〇〇〇年卒業。
放送部の写真。
そこには、マイクの前で笑う二人の女子生徒が写っていた。
水野まどか。
吉岡千尋。
「この二人だね」
朝比奈が指さす。
「……懐かしいなあ」
スズネ先輩が呟いた。
「先輩、知ってるんですか?」
「ううん。でも、こういう写真っていいなあって」
……確かに。
マイクを持って笑う二人。
今から五年前。
俺たちがまだ小学生だった頃の写真だ。
それなのに、少しも古く感じない。
楽しそうな顔は、今の高校生と変わらないのだ。
「で、どうやって探す?」
俺が尋ねると、久世が腕を組んだ。
「学校の先生に聞くのがよいだろう」
「……まあ、そうなるよな」
俺たちは職員室へ向かった。
そこで、意外な事実が分かった。
「……水野先生?」
朝比奈が、ぽかんとした顔をした。
「ええ」
職員室の先生が頷く。
「今年から国語を教えている水野先生よ。放送部出身だったのね」
……なるほど。
まさか、今も学校にいるとは。
水野まどか先生。
今年から夕凪高校へ赴任してきた、若い国語教師だった。
俺たちのクラスを担当していないので、あまり接点はない。
しかし。
廊下ですれ違ったことくらいはある。
「……先生だったのか」
俺は呟いた。
「近くにいたねえ」
スズネ先輩が笑う。
「じゃあ、早速お話聞いてみよう!」
朝比奈は元気よく言った。
……本当に、行動が早いやつだ。
◇ ◇ ◇
「……放課後五分間ラジオ?」
水野先生は、少し驚いた顔をした。
年齢は二十四歳くらいだろうか。
肩まで伸びた黒髪。
落ち着いた雰囲気の、優しそうな先生だった。
「それ、どうして知ってるの?」
朝比奈が、少し得意げに笑った。
「実は、昔の録音を見つけたんです!」
「……録音?」
「はい!」
スズネ先輩が、青いMDを取り出した。
「これです」
水野先生は、しばらくMDを見つめていた。
それから。
「……えっ」
小さく声を上げた。
「これ……まだ残ってたの?」
「はい」
スズネ先輩が頷いた。
「旧校舎の資料室にあったんです」
「……そうなんだ」
水野先生は、少しだけ笑った。
「懐かしいなあ」
青いMDを、そっと受け取る。
「これ、私たちが卒業するときの放送なんだよ」
「最終回、ですよね?」
朝比奈が尋ねると、先生は頷いた。
「うん」
「先生、千尋さんと一緒にやってたんですよね?」
「そう。吉岡千尋」
水野先生は、少し懐かしそうな顔をした。
「高校の頃の親友だったの」
「……今は?」
俺が尋ねると、先生は少し考えた。
「今も、たまに連絡は取るけど……」
少しだけ笑う。
「お互い忙しくて、最近は会ってないかな」
「そうなんですか」
「うん」
先生はMDを見つめた。
「……これ、ちゃんと録音できてたんだね」
「え?」
朝比奈が首をかしげる。
「どういうことですか?」
水野先生は、少し照れくさそうに笑った。
「あの日、録音したMDが行方不明になっちゃったの」
「……行方不明?」
「うん。卒業式の準備で放送室を片付けてたら、どこに置いたか分からなくなっちゃって」
先生は、青いMDを指でなぞった。
「だから、ずっと残ってないと思ってた」
……なるほど。
五年前に行方不明になった録音。
それが、今になって見つかったわけか。
「……聞いてみますか?」
俺が尋ねると、先生は少し驚いた顔をした。
「いいの?」
「はい」
朝比奈が頷いた。
「ぜひ!」
俺たちは、近くの空き教室を借りて録音を再生することにした。
久世がMDプレーヤーを用意する。
水野先生は、少し緊張した様子だった。
「……自分の声を聞くの、ちょっと恥ずかしいな」
「分かります!」
朝比奈が笑った。
「私も、自分の声を録音して聞くと変な感じします!」
「そうなのよね」
水野先生も笑った。
そして。
再生ボタンが押された。
『皆さん、こんにちはー!』
五年前の声が、教室に響いた。
水野先生は、思わず口元を押さえた。
「……わあ」
その声は、とても小さかった。
『放課後五分間ラジオのお時間です!』
『本日の担当は、水野まどかと!』
『吉岡千尋でーす!』
……。
水野先生は、しばらく何も言わずに聞いていた。
時々、小さく笑っている。
時々、懐かしそうに目を細めている。
そして。
『三年間、ありがとうございました!』
『私も楽しかったです!』
『それじゃあ、皆さん――』
ぷつん。
録音が終わった。
水野先生は、少しだけ驚いた顔をした。
「……あれ?」
「どうしました?」
俺が尋ねる。
「ここで終わり?」
「はい」
久世が頷いた。
「どうやら、録音が途中で切れているようで」
先生は、しばらく考えていた。
それから。
「……ああ」
小さく笑った。
「そうだった」
「何がですか?」
朝比奈が尋ねる。
「この日、最後に録音ボタンを押したの、千尋だったんだよね」
「……そうなんですか?」
「うん。放送が終わって、片付けようとして……途中で止めちゃったみたい」
先生は、少しだけ笑った。
「本当は、最後に二人で『また明日』って言うつもりだったの」
「……また明日?」
「うん」
先生は頷いた。
「いつも、そう言って放送を終わってたから」
……なるほど。
最後の放送でも、いつもどおりの挨拶をしようとしたのか。
でも。
録音には残らなかった。
「……じゃあ」
朝比奈が、少し考えてから言った。
「今から言えばいいんじゃないですか?」
「……え?」
水野先生が顔を上げる。
「千尋さんと一緒に!」
朝比奈は、にっこり笑った。
「まだ、間に合いますよね?」
……。
俺は、思わず朝比奈を見た。
こいつ。
たまに、こういうことをさらっと言う。
それが、少しだけ羨ましい。
水野先生は、しばらく考えていた。
そして。
「……そうだね」
小さく笑った。
「久しぶりに、会ってみようかな」
◇ ◇ ◇
それから二日後。
七月二十八日、木曜日。
旧パソコン室には、いつもより一人多く人が集まっていた。
「……うわあ」
部屋へ入ってきた女性が、驚いたように声を上げる。
「懐かしい!」
吉岡千尋さん。
水野先生と一緒に、放課後五分間ラジオを担当していた元放送部員である。
今は町の音楽店で働いているらしい。
少し明るい茶色の髪。
元気そうな笑顔。
話し方も、録音の中とあまり変わっていない気がした。
「まどか!」
千尋さんが、水野先生を見つけて手を振る。
「久しぶり!」
「千尋!」
二人は、嬉しそうに笑った。
「元気だった?」
「うん! まどかは?」
「私も」
「先生やってるって聞いてびっくりしたよ!」
「私も、自分が先生になるとは思わなかった」
二人は、楽しそうに話している。
その様子を見て、朝比奈が小さく笑った。
「……よかったね」
「……ああ」
俺も頷いた。
久世は、机の上にMDプレーヤーを置いた。
「では、準備はできた」
「ありがとう、久世くん!」
朝比奈が言うと、久世は得意げに眼鏡を押し上げた。
「ふっ。当然だ」
……最近、こいつの『当然だ』を聞かない日がない気がする。
スズネ先輩は、青いMDを千尋さんへ差し出した。
「これ、見つかったんです」
「……え?」
千尋さんは、MDを受け取った。
ラベルを見る。
『放課後五分間ラジオ』
『2000.3.3』
その瞬間。
「……あっ」
小さく声を上げた。
「これ!」
「覚えてますか?」
スズネ先輩が尋ねる。
「覚えてる!」
千尋さんは、少し興奮した様子だった。
「なくしたと思ってたやつ!」
水野先生が笑う。
「やっぱり千尋も覚えてた?」
「当たり前じゃん!」
千尋さんはMDを見つめた。
「懐かしいなあ……」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「私たち、こんなことしてたんだよね」
「うん」
二人は、顔を見合わせて笑った。
俺たちは、少し離れた場所でその様子を見ていた。
……何だか。
五年前の二人が、そのまま目の前にいるような気がした。
◇ ◇ ◇
録音を再生すると、二人は何度も笑った。
『ペンネーム「購買の焼きそばパンが好き」さん!』
「うわっ、これ覚えてる!」
千尋さんが声を上げる。
「この人、毎週お便りくれてたんだよ!」
「そうそう!」
水野先生も笑った。
「いつも焼きそばパンの話ばっかりで!」
「結局、本人が誰だったのか分からなかったんだよね!」
「そうだった!」
……何だか、楽しそうだな。
俺は、少しだけ笑った。
朝比奈も、嬉しそうに二人を見ている。
そして。
『それじゃあ、皆さん――』
ぷつん。
録音が終わった。
千尋さんは、少し驚いた顔をした。
「……あれ?」
「ここで終わってるんだよね」
水野先生が言う。
「……ああ!」
千尋さんは、突然笑い出した。
「そうだ! 私、最後に止めちゃったんだ!」
「やっぱり!」
「だって、もう終わったと思ったんだもん!」
「まだ挨拶してなかったでしょ!」
「ごめんごめん!」
二人は、楽しそうに笑い合った。
……なるほど。
五年前の録音が途切れた理由は、単純な操作ミスだったらしい。
何だ。
少し安心した。
いや、別に心配していたわけじゃないが。
そのとき。
「……ねえ」
朝比奈が、二人へ声をかけた。
「もしよかったら、続きを録音しませんか?」
「……続きを?」
千尋さんが首をかしげる。
「うん!」
朝比奈は、にっこり笑った。
「五年前の、最後の挨拶!」
水野先生と千尋さんは、顔を見合わせた。
そして。
「……面白そう」
千尋さんが笑った。
「やってみる?」
水野先生も笑う。
「……うん!」
久世が、すぐに準備を始めた。
予備の録音用MD。
小さなマイク。
それから、スズネ先輩が持ってきた古い録音機。
「ふっ。任せろ」
久世は眼鏡を押し上げた。
「俺の技術で、最高の録音を――」
「久世くん、早く早く!」
「最後まで聞け!」
……まったく。
いつものことだ。
俺たちは笑いながら、録音の準備を進めた。
◇ ◇ ◇
「……じゃあ、いくよ?」
水野先生が、マイクを持った。
「うん!」
千尋さんが隣で頷く。
久世が録音ボタンを押す。
小さなランプが点灯した。
水野先生は、少しだけ深呼吸した。
そして。
『皆さん、こんにちはー!』
五年前と同じ声。
いや。
少しだけ、大人になった声。
『放課後五分間ラジオのお時間です!』
千尋さんが続ける。
『本日の担当は、水野まどかと!』
『吉岡千尋でーす!』
……。
俺たちは、思わず顔を見合わせた。
何だか、本当にラジオ番組を聞いているみたいだった。
『えー、実は私たち』
水野先生が笑う。
『五年ぶりに、マイクの前へ戻ってきました!』
『いやー、まさかこんなことになるとは思わなかったね!』
『本当だねえ』
二人は、少し照れくさそうに笑い合った。
『でも、こうしてまた一緒に話せて嬉しいです』
『私も!』
千尋さんが頷く。
『あの頃は、毎日当たり前みたいに会ってたけど』
『うん』
『卒業すると、なかなか会えなくなるんだよね』
……。
少しだけ、静かな空気が流れた。
けれど。
『でも、こうしてまた会えるんだね』
水野先生が笑った。
『うん!』
千尋さんも笑う。
『というわけで!』
『はい!』
『五年前に言いそびれた、最後の挨拶をしたいと思います!』
俺たちは、静かに聞いていた。
二人は、顔を見合わせる。
そして。
『それじゃあ、皆さん!』
『また明日!』
その瞬間。
何だか、胸の奥が少しだけ温かくなった。
たった二言。
それだけの挨拶。
けれど。
五年前には言えなかった言葉が、ようやく形になったのだ。
録音が終わると、二人は少し照れくさそうに笑った。
「……何だか恥ずかしいね」
水野先生が言う。
「でも、楽しかった!」
千尋さんも笑う。
朝比奈は、満面の笑みだった。
「すごくよかったです!」
「ありがとう」
二人は、嬉しそうに頷いた。
スズネ先輩は、録音したMDを手に取った。
「……よかったねえ」
「何がですか?」
俺が尋ねる。
「五年前の続きが、ちゃんと録れたこと」
先輩は、にっこり笑った。
「これで、あのMDも寂しくないね」
……。
俺は、少しだけ笑った。
この人らしい言い方だと思った。
◇ ◇ ◇
午後五時五十五分。
二人が帰ったあと。
俺たちは、旧パソコンの前に集まっていた。
「さて!」
朝比奈が、いつものように声を上げる。
「結果発表!」
「……毎回言うな、それ」
「恒例行事だから!」
「いつからだよ」
「最初から!」
……まあ、いいけど。
久世がYUYAKE MAIL SYSTEMを開く。
受信一覧には、六件目の依頼が表示されていた。
『REQUEST_006 COMPLETE』
「やったー!」
朝比奈が両手を上げる。
「六件目も成功!」
「……今回は、少し変わった依頼だったな」
俺は呟いた。
古いMDを探して。
昔の放送を聞いて。
五年前の二人を、もう一度マイクの前へ連れてきた。
ただ、それだけのこと。
けれど。
二人とも、本当に嬉しそうだった。
それが、何だかよかった。
『依頼の完了を確認しました。』
ミナセの声がした。
画面の隅に、小さなウィンドウが開く。
『お疲れさまでした。』
「お疲れー!」
朝比奈が手を振る。
『ナツキさんは、本日も元気ですね。』
「うん!」
『それは何よりです。』
久世が腕を組んだ。
「ふむ。今回も、なかなか興味深い依頼だった」
「そうだな」
俺も頷いた。
すると、スズネ先輩が、ふと口を開いた。
「……ねえ、みんな」
「何ですか?」
朝比奈が尋ねる。
「今日の録音、ここに置いてもいいかな?」
「……ここ?」
俺は首をかしげた。
「旧パソコン室にですか?」
「うん」
先輩は、青いMDと新しく録音したMDを並べて持っていた。
「昔の放送と、今日の続き」
にっこり笑う。
「二枚一緒に、ここへ置いておきたいなって」
朝比奈が嬉しそうに頷いた。
「いいですね!」
「でしょ?」
「夕焼け電脳クラブの宝物にしましょう!」
「……宝物?」
俺が呟くと、朝比奈は笑った。
「うん!」
「ただの録音だぞ?」
「ただの録音じゃないよ!」
朝比奈は、少しだけ真面目な顔になった。
「五年前の二人が、また一緒に話した記録だもん」
……。
俺は、少しだけ黙った。
そして。
「……まあ、そうだな」
小さく頷いた。
スズネ先輩は、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、ユウマくん」
……別に。
大したことは言ってないんだけどな。
◇ ◇ ◇
帰り際。
俺たちは、忘れ物博物館へ寄った。
スズネ先輩が、青いMDの空になったケースを棚へ戻すためだ。
部屋には、相変わらずいろいろなものが詰まっていた。
古い教科書。
壊れた時計。
カセットテープ。
そして、片方だけのスリッパ。
「……先輩」
「ん?」
「やっぱり、何でも取っておくんですね」
俺が言うと、スズネ先輩は笑った。
「うん」
「……捨てたくならないんですか?」
「なるよ?」
「えっ?」
意外な答えだった。
先輩は、棚の上にある古い時計を手に取った。
「全部残しておくのは無理だし、もう使えないものもあるから」
「……そうですよね」
「でもね」
先輩は、少しだけ笑った。
「誰かにとって大切だったものなら、捨てる前に一度くらい、考えてあげたいなって」
……。
俺は、黙って聞いていた。
「これ、もういらないのかなって」
先輩は時計を見つめる。
「それとも、誰かがまだ探してるのかなって」
そう言って、棚へ戻した。
「まあ、考えすぎかもしれないけどね」
……。
俺は、少しだけ笑った。
「……先輩らしいですね」
「そう?」
「はい」
先輩は、嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
そのとき。
「ねえねえ!」
朝比奈が、部屋の奥から声を上げた。
「この箱、開けてもいい?」
「……またか!」
俺は思わず突っ込んだ。
「お前、さっきも同じこと聞いてただろ!」
「だって、まだ見てない箱がいっぱいあるんだもん!」
「だからって全部開けるな!」
久世が、横から言った。
「ふっ。俺も少し興味がある」
「お前まで!」
スズネ先輩は、そんな俺たちを見ながら、くすくす笑っていた。
「いいよー」
「先輩!」
「でも、ちゃんと元に戻してね」
「はーい!」
……まったく。
この人たちは、本当に懲りない。
けれど。
そんな騒がしい声を聞きながら、俺は少しだけ考えた。
今日見つけた、古いMD。
五年前の放送。
そして、今日録音した新しい挨拶。
もし。
あのMDが捨てられていたら。
今日の出来事は、なかったのだろう。
水野先生と千尋さんが、久しぶりに会うことも。
五年前の続きを録音することも。
俺たちが、あの放送を聞くことも。
全部、なかったのかもしれない。
……そう考えると。
物を残しておくのも、悪くないのかもしれない。
「……よし」
俺は、小さく呟いた。
そして、朝比奈たちのほうへ歩いていく。
「手伝うよ」
「えっ?」
朝比奈が顔を上げた。
「葛城くんが?」
「ああ」
「どうしたの!?」
「……何がだよ」
「いつもなら『面倒くさい』って言うのに!」
「……うるさい」
朝比奈は、にっこり笑った。
「じゃあ、一緒に開けよう!」
俺はため息をつきながら、段ボールの前へしゃがんだ。
……まあ。
たまには、こういうのもいいだろう。
夏休みは、まだ始まったばかりだ。
きっと、これからも。
変な依頼が届いたり。
誰かの忘れ物を探したり。
くだらないことで笑ったりするのだろう。
そんな時間が、いつまで続くのかは分からない。
でも。
少なくとも、今は。
この場所が、少しだけ好きになっていた。
俺たちの放課後は、まだ終わらない。




