送れなかったメール
電子メールというものは、便利だ。
わざわざ手紙を書いて、封筒に入れて、切手を貼って、ポストまで持っていく必要がない。
携帯電話を取り出して、文章を打って、送信ボタンを押す。
たったそれだけで、離れた相手に言葉を届けられる。
実に素晴らしい発明だと思う。
ただし。
メールには、一つだけ大きな欠点がある。
それは――。
「葛城くん! 昨日のメール、なんで返してくれなかったの!」
送るのが簡単なぶん、返事をしないと怒られることである。
「……朝からうるさい」
「ひどい!」
七月十四日、木曜日。
俺が教室へ入るなり、朝比奈ナツキが詰め寄ってきた。
昨日も今日も、相変わらず元気なやつだ。
「ちゃんと質問したじゃん!」
「何の話だよ」
「昨日の夜のメール!」
言われて思い出す。
昨夜、朝比奈から妙なメールが届いていた。
件名は『重大発表!』。
本文は、
『夕焼け電脳クラブの部長は私で決定しました! 異議はありますか?』
というものだった。
……あれか。
「異議が多すぎて返信できなかった」
「じゃあ異議なしってことで!」
「なんでそうなる!」
「沈黙は肯定って言うじゃん」
「言わない。少なくとも今は言わない」
朝比奈はけらけら笑っていた。
どうやら本気で怒っていたわけではないらしい。
まったく。
こいつのテンションに毎朝付き合っていたら、夏休みまで体力が持たないぞ。
「そういえばさ」
朝比奈が急に声をひそめた。
「昨日の白河先輩、面白い人だったね」
「ああ……扇風機の人な」
「その呼び方、ひどくない?」
「実際、扇風機を抱えて登場しただろ」
「まあ、そうだけど」
昨日、俺たちの部室――と言っていいのか分からない旧パソコン室に現れた三年生。
白河スズネ先輩。
古いものを集めるのが好きで、旧校舎に『忘れ物博物館』なる部屋を作っているらしい。
しかも、朝比奈からの勧誘を二つ返事で引き受けてしまった。
おかげで、夕焼け電脳クラブは四人になった。
……俺が正式に入った覚えはないけどな。
「今日も来てくれるかな?」
「さあな」
「扇風機、直るかなあ」
「久世がやる気になってたからな」
「楽しみ!」
「何が?」
「ちゃんと動くようになったら、部室が涼しくなるじゃん!」
なるほど。
確かに、それは魅力的だ。
七月の旧校舎は、正直言って暑い。
窓を開けても、風が入ってこない日がある。
ブラウン管モニターの熱まで加わると、なかなかひどいことになるのだ。
「……まあ、直ったら助かるな」
「でしょ!」
朝比奈は嬉しそうに頷いた。
「というわけで、今日も放課後よろしくね!」
「おい、まだ何も言ってないぞ」
「じゃ、またあとで!」
言いたいことだけ言って、自分の席へ戻っていった。
俺は深いため息をつく。
……もう、何を言っても無駄な気がしてきた。
◇ ◇ ◇
放課後。
俺たちが旧パソコン室へ行くと、すでに久世リョウが来ていた。
窓際の机に、例の古い扇風機が置かれている。
その前で、久世が真剣な顔をしていた。
「……ふむ」
「何してるんだ?」
俺が声をかけると、久世はゆっくり振り返った。
「見れば分かるだろう」
「いや、分からないから聞いてるんだが」
「修理だ」
久世は得意げに言った。
「昨日、白河先輩が持ち込んだ扇風機をな」
「おおっ!」
朝比奈が目を輝かせた。
「もう直ったの!?」
「ふっ。俺を誰だと思っている?」
「電脳魔術師!」
「その通り!」
久世は満足そうに頷いた。
……そこで喜んでいいのか。
「で、実際どうなんだ?」
俺が尋ねると、久世は腕を組んだ。
「動作確認はこれからだ」
「まだ直ったか分からないんじゃねえか」
「細かいことを気にするな」
「細かくないだろ!」
久世は電源コードを差し込み、扇風機のスイッチを押した。
カチッ。
ぶううううん。
昨日のような、ものすごい異音はしなかった。
代わりに、羽根がゆっくりと回り始める。
「おおーっ!」
朝比奈が拍手した。
「すごい! ちゃんと動いてる!」
「当然だ」
久世は満足げに眼鏡を押し上げた。
「この程度の修理、電脳魔術師にとっては朝飯前だ」
「扇風機は電脳じゃないけどな」
「葛城。そういう細かい指摘は、感動を損なうぞ」
「今、ちょっと感動したところだったんだけどな」
確かに、ちゃんと風が来る。
しかも思ったより静かだ。
「……お前、こういうの得意なんだな」
俺が言うと、久世は少しだけ照れくさそうに笑った。
「まあ、昔から機械をいじるのは好きだからな」
……なんだ。
普通に褒められると、普通に照れるんじゃないか。
そのとき。
「おー、動いてる」
背後から、のんびりした声が聞こえた。
振り返ると、白河スズネ先輩が立っていた。
昨日と同じく、片手には鍵束。
もう片方の手には、なぜか紙袋を持っている。
「白河先輩!」
朝比奈が駆け寄った。
「久世くんが扇風機を直してくれたんですよ!」
「ほんと? すごいねえ」
スズネ先輩は、久世の頭をぽんぽんと撫でた。
「えらいえらい」
「なっ!?」
久世が固まる。
朝比奈が吹き出した。
「久世くん、顔赤い!」
「赤くない!」
「赤いよ!」
「室温が高いだけだ!」
……扇風機、直ったんじゃなかったのか。
スズネ先輩は楽しそうに笑いながら、紙袋を机へ置いた。
「そうそう。差し入れ持ってきたよ」
「差し入れ?」
「うん。駄菓子」
紙袋の中には、小さな菓子がたくさん入っていた。
ラムネ菓子。
小袋のスナック。
昔ながらのチョコレート。
それに、見覚えのある棒状のお菓子。
「おおっ!」
朝比奈が歓声を上げる。
「先輩、最高!」
「ふふ。商店街で安かったから」
スズネ先輩は椅子を引き寄せた。
「なんか、こういうのって部活っぽいよね」
「そうですよね!」
「……一応、学校なんだから食べ散らかすなよ」
俺が言うと、朝比奈は不満そうに頬を膨らませた。
「葛城くん、お母さんみたい」
「誰がお母さんだ!」
すると、スズネ先輩がにっこり笑った。
「じゃあ、ユウマくんがお母さんで、私がお父さん?」
「なんでそうなるんですか!」
「えへへ」
……駄目だ。
この部活、まともな人間が俺しかいない。
いや。
そもそも、まともな部活なのかすら怪しいんだが。
◇ ◇ ◇
「さて」
ひとしきり騒いだあと、久世が旧パソコンの前に座った。
「そろそろ本題に入ろう」
「本題?」
朝比奈が首をかしげる。
「新しい依頼が届いているか、確認するのだ」
「あっ、そうだった!」
完全に忘れていたらしい。
……この女、本当に部長で大丈夫なのか?
久世は電源を入れた。
ぶうん、とブラウン管モニターが唸る。
相変わらず、起動には少し時間がかかる。
やがてWindows 98のデスクトップが表示された。
夕焼け色の封筒アイコン。
『YUYAKE』
久世がダブルクリックする。
灰色のウィンドウが開いた。
『YUYAKE MAIL SYSTEM』
受信一覧には、昨日までの依頼が二件。
『REQUEST_001 COMPLETE』
『REQUEST_002 COMPLETE』
「まだ新しいのはないみたいだね」
朝比奈が言った。
「まあ、毎日届くとは限らないんだろ」
俺はそう答えて、椅子へ座ろうとした。
そのとき。
ぴこん。
小さな電子音が鳴った。
『新しいファイルを受信しました。』
「……お」
久世が画面へ顔を近づける。
受信一覧に、一行増えていた。
『REQUEST_003.LZH』
「来た!」
朝比奈が勢いよく立ち上がった。
「新しい依頼!」
「落ち着け。まずは確認だ」
久世はマウスを操作し、ファイルを調べた。
「圧縮形式はLZH。前回と同じだな」
「中身は?」
「まだ分からん」
「早く開こうよ!」
「だから待てと言っている!」
……昨日とまったく同じやり取りである。
スズネ先輩は、そんな二人を見てくすくす笑っていた。
「楽しそうだねえ」
「先輩まで……」
俺はため息をついた。
久世がファイルを解凍する。
中から現れたのは、二つのファイルだった。
『ONEGAI_003.TXT』
『MAIL_003.EML』
「……二つ?」
朝比奈が首をかしげる。
「メール?」
「EMLは、電子メールを保存するときに使われる形式の一つだ」
久世が説明する。
「件名や本文などの情報が入っている場合がある」
「へえー」
「まずは依頼文を見よう」
久世がテキストファイルを開いた。
白い画面に、短い文章が表示される。
『送れなかったメールがあります。』
『その言葉を、届けてください。』
『ただし、送り主の気持ちを確かめてから。』
「……メールを届ける?」
俺は呟いた。
「今回は落とし物じゃないんだな」
「でも、誰のメールなんだろ?」
朝比奈が画面をのぞき込む。
「もう一つのファイルに書いてあるんじゃない?」
「可能性はある」
久世は頷いた。
そして、次のファイルを開こうとした。
「……待て」
俺は思わず声をかけた。
「どうした、葛城」
「それ、他人のメールなんだろ?」
「ああ」
「だったら、勝手に本文を読むのはまずくないか?」
久世が手を止める。
朝比奈も、少し考えるような顔になった。
「……確かに」
昨日の青い封筒を思い出す。
あのとき、俺たちは中身を見ずに持ち主へ返した。
今回も同じことだ。
他人に見せるつもりのなかった文章を、勝手に読むのはよくない。
「でも、読まないと誰のメールか分からないんじゃない?」
朝比奈が言った。
「そこが問題なんだよな」
すると、久世が眼鏡を押し上げた。
「ふっ。案ずるな」
「……何だ?」
「メールには、本文以外にも情報が含まれる」
「というと?」
「件名や差出人、宛先などだ。まずはそこだけを確認すればよい」
「なるほど」
俺は感心した。
やっぱり、こういうときは頼りになる。
久世は慎重にファイルを確認した。
画面には、いくつかの項目が表示される。
『件名:昨日のこと』
『差出人:不明』
『宛先:不明』
『送信日時:不明』
『本文:非表示』
「……全部不明じゃねえか!」
「むむむ……」
久世は腕を組んだ。
朝比奈が笑い出す。
「あはは! 久世くん、格好つけたのに!」
「うるさい! まだ調査は終わっていない!」
久世は再び画面を操作する。
「……ん?」
「どうした?」
「件名のほかに、もう一つ表示できる項目がある」
「何?」
「メールの保存名だ」
久世が画面を指さした。
そこには、短い文字があった。
『MAYU』
「……まゆ?」
朝比奈が首をかしげる。
「人の名前かな?」
「おそらくな」
俺は考えた。
まゆ。
真由。
麻友。
真優。
いろいろな書き方がある。
これだけでは、誰のことなのか分からない。
「困ったな」
俺が呟くと、朝比奈が突然、ぽんと手を打った。
「あっ!」
「何だ?」
「心当たりあるかも!」
「……本当か?」
「うん!」
朝比奈は嬉しそうに頷いた。
「二年一組に、真由ちゃんって子がいるんだよ!」
◇ ◇ ◇
二年一組の小野寺真由。
朝比奈によれば、文芸部に所属している女子生徒らしい。
小柄で、眼鏡をかけたおとなしい女の子。
絵を描くのが好きで、昼休みにはよくスケッチブックを広げているという。
「で、その子がメールの送り主なのか?」
「まだ分からないけどね」
朝比奈は頷いた。
「でも、ちょっと気になることがあるの」
「気になること?」
「最近、友達と喧嘩してるみたいなんだ」
……なるほど。
件名は『昨日のこと』。
そして、依頼文には『送れなかったメール』と書かれていた。
確かに、関係があるかもしれない。
「その友達って?」
「藤沢美緒ちゃん。二人とも文芸部だよ」
「詳しいな」
「新聞部ですから!」
朝比奈は得意げに胸を張った。
……本当に、こいつの情報網はどうなっているんだろう。
俺たちは二年一組へ向かった。
廊下には、部活動へ向かう生徒たちが行き交っている。
夏休みが近いせいか、どことなく浮かれた空気が漂っていた。
二年一組の前まで来ると、朝比奈が教室をのぞき込んだ。
「あ、いた!」
窓際の席に、一人の女子生徒が座っていた。
肩まで伸びた黒髪。
細いフレームの眼鏡。
机の上には、一冊のスケッチブック。
彼女は鉛筆を持ったまま、何かを考え込んでいるようだった。
「真由ちゃん!」
朝比奈が声をかけた。
女子生徒が顔を上げる。
「あ……朝比奈さん」
「ちょっといい?」
「う、うん」
朝比奈は俺たちを紹介した。
「こちら、同じクラスの葛城くん。こっちは久世くん。あと、三年生の白河先輩!」
「よろしくねえ」
スズネ先輩がのんびり手を振る。
真由は少し驚いた顔をした。
……まあ、いきなり四人も現れたら驚くよな。
「それで、何か用?」
真由が尋ねる。
朝比奈は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「実はね、ちょっと気になることがあって」
「……うん」
「最近、美緒ちゃんと何かあった?」
その瞬間。
真由の表情が、わずかに曇った。
「……どうして?」
「あ、ごめん。変なこと聞いちゃったね」
朝比奈は慌てて手を振った。
「話したくなかったら、全然いいんだけど」
真由は少し俯いた。
それから、小さく息を吐く。
「……喧嘩、したの」
やっぱり。
俺たちは顔を見合わせた。
「美緒ちゃんと?」
「うん」
真由は、机の上のスケッチブックを見つめた。
「私たち、文化祭で一緒に出す本を作ってたんだけど……」
「本?」
「うん。絵と短いお話をまとめた、小さな冊子」
なるほど。
文芸部らしい活動だ。
「私が絵を描いて、美緒が文章を書いてたの」
真由は、少しだけ笑った。
「中学の頃から、ずっとそんなことしてて」
「仲良しだったんだね」
朝比奈が言う。
「……うん」
真由は頷いた。
「でも、私……美緒に相談しないで、途中の絵を先生に見せちゃったの」
「途中の絵?」
「うん。文化祭のポスターに使えないかって言われて」
真由は鉛筆を置いた。
「先生は褒めてくれたんだけど……美緒は、まだ完成してないから誰にも見せたくなかったみたいで」
「……ああ」
俺は小さく頷いた。
何となく、状況が分かってきた。
真由に悪気はなかった。
でも、美緒にとっては大切な作品だったのだろう。
「それで、喧嘩になっちゃったの」
真由は苦笑した。
「私も、つい言い返しちゃって……」
「何て?」
朝比奈が尋ねる。
真由は少し迷ってから答えた。
「……美緒が、そんなに怒ることじゃないって」
……ああ。
それは、怒るかもしれないな。
「本当は、そんなこと思ってなかったんだけど」
真由の声が小さくなる。
「謝ろうと思ったの。でも、直接言う勇気がなくて……」
「……メール?」
俺が思わず呟くと、真由が顔を上げた。
「えっ?」
「いや……」
俺は少し迷った。
ここで、謎のパソコンからメールの情報が届いたことを話すべきだろうか。
しかし、それを説明するには、あのパソコンのことから話さなければならない。
それに。
本人が誰にも見せるつもりのなかったメールなら、こちらから話題にするのもどうかと思う。
俺は言葉を選んだ。
「……メールで謝ろうとしたのか?」
真由は、少し驚いたように目を丸くした。
そして、小さく頷いた。
「うん」
「送った?」
「……送れなかった」
真由は苦笑した。
「何回も文章を書いたんだけど、送信ボタンが押せなくて」
その言葉を聞いて。
俺たちは、もう一度顔を見合わせた。
◇ ◇ ◇
「……なるほどな」
旧パソコン室へ戻る途中、久世が呟いた。
「どうやら、今回の依頼は彼女に関係している可能性が高い」
「そうだね」
朝比奈が頷いた。
「でも、どうしよう」
「何が?」
「真由ちゃん、まだ謝る勇気が出ないみたいだったし」
「……そうだな」
俺は考えた。
今回の依頼には、こう書かれていた。
『送れなかったメールがあります。』
『その言葉を、届けてください。』
『ただし、送り主の気持ちを確かめてから。』
最後の一文。
これが、少し気になっていた。
「……なあ」
「ん?」
「俺たちが勝手にメールを送るのは、違うよな」
朝比奈が頷く。
「うん。真由ちゃんが決めることだと思う」
「でも、じゃあどうする?」
久世が尋ねる。
俺は少し考えた。
「……本人が言いたいことを、ちゃんと言えるようにするしかないんじゃないか」
「どうやって?」
「それが分かれば苦労しない」
俺が答えると、久世は肩をすくめた。
「まったくだ」
そのとき。
「だったらさあ」
スズネ先輩が、のんびりした声で口を開いた。
「二人が話せる場所を作ってあげたら?」
「……場所?」
「うん」
スズネ先輩は鍵束を指で回した。
「喧嘩してると、教室とか廊下じゃ話しづらいでしょ」
「確かに」
「だったら、人があまり来ない場所で、ちゃんと話せるようにしてあげればいいんじゃないかな」
朝比奈の目が輝いた。
「それだ!」
……いや、待て。
今、ものすごく嫌な予感がした。
「まさかとは思うが」
「うん?」
「旧校舎に呼び出すつもりじゃないだろうな」
朝比奈は、にっこり笑った。
「そのまさか!」
「やっぱりか!」
◇ ◇ ◇
結局、真由と美緒の二人には、文芸部の話を聞きたいという名目で旧校舎へ来てもらうことになった。
もちろん、無理やりではない。
朝比奈が事情を説明し、二人が了承したうえでのことだ。
ただし。
問題が一つあった。
「……なんで俺たちまでいるんだ?」
俺は小声で尋ねた。
「だって、電脳クラブの活動だし!」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
旧パソコン室の中央。
机を二つ並べた場所に、真由と美緒が向かい合って座っている。
その少し離れたところに、俺たち四人。
……何だ、この状況。
まるで、何かの会議である。
しかも、二人ともかなり気まずそうだ。
「……真由」
先に口を開いたのは、美緒だった。
肩までの髪を後ろで結んだ、少し勝ち気そうな女子生徒。
「何?」
真由が小さく答える。
「……何の用?」
「……」
真由は、すぐには答えられなかった。
視線を落とし、膝の上で手を握っている。
朝比奈が何か言おうとした。
しかし。
「……待て」
俺は小声で止めた。
「え?」
「二人に任せよう」
朝比奈は少し考えてから、静かに頷いた。
しばらく沈黙が続いた。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえている。
扇風機が、静かな音を立てて回っていた。
やがて。
「……ごめん」
真由が、ぽつりと言った。
美緒が顔を上げる。
「……何が?」
「この前のこと」
真由は、膝の上の手をぎゅっと握った。
「勝手に絵を先生に見せて、ごめん」
「……」
「美緒がまだ完成してないって言ってたのに、私……」
少しだけ、声が震えた。
「先生に褒められて、嬉しくなっちゃって」
美緒は黙って聞いていた。
「それで……怒られたとき、私も腹が立って……」
「……うん」
「そんなに怒ることじゃない、なんて言っちゃった」
真由は、ゆっくり顔を上げた。
「ごめんね」
短い言葉だった。
けれど、ちゃんと相手へ届いた気がした。
美緒は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……私も」
「え?」
「私も、言いすぎた」
美緒は少しだけ顔を背けた。
「真由が、わざと嫌なことしたわけじゃないって分かってたのに」
「……」
「でも、あの絵……私たちで完成させたかったから」
「……うん」
「だから、勝手に誰かに見せられたのが、嫌だった」
真由は、小さく頷いた。
「……うん」
「それだけ」
美緒は、少し照れくさそうに笑った。
「別に、もう一緒に描きたくないわけじゃないし」
その言葉を聞いて。
真由の顔が、ぱっと明るくなった。
「……本当?」
「うん」
「じゃあ……」
真由は、おずおずと尋ねた。
「文化祭の本、まだ一緒に作ってくれる?」
美緒は、少し考えるような顔をした。
そして。
「……当たり前でしょ」
小さく笑った。
「だって、まだ半分もできてないじゃん」
「……うん!」
真由も笑った。
その様子を見て、朝比奈が小さく拳を握る。
「……よしっ!」
俺は思わず笑ってしまった。
……何だ。
案外、簡単なことだったのかもしれない。
いや。
簡単じゃなかったから、今まで言えなかったのだろう。
謝ることも。
許すことも。
どちらも、少し勇気がいる。
でも、ちゃんと顔を合わせて話せば、伝わることもある。
メールだって便利だけど。
たまには、直接言うほうがいいこともあるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「いやー、よかったねえ」
二人が帰ったあと。
スズネ先輩が、のんびりした声で言った。
「仲直りできて」
「ですね!」
朝比奈も嬉しそうだった。
「やっぱり、人助けっていいね!」
「……まあな」
俺は頷いた。
久世は、なぜか少し不満そうだった。
「しかし、結局メールの中身は確認しなかったな」
「別にいいだろ」
「まあ、そうなのだが……」
久世は腕を組んだ。
「技術的な問題として、あのファイルがどこから来たのかは気になる」
「それは俺も気になる」
俺たちは旧パソコンの画面を見る。
夕焼け色の封筒アイコン。
YUYAKE MAIL SYSTEM。
受信一覧には、昨日までの二件と、今日の一件。
『REQUEST_003 PENDING』
「……まだ未完了?」
朝比奈が首をかしげた。
「仲直りしたのに?」
久世が画面をのぞき込む。
「依頼の条件が満たされていないのか?」
「でも、言葉は届けたよね?」
朝比奈が言った。
「ちゃんと謝ったし」
「……そうだな」
俺も不思議に思った。
今回の依頼は『送れなかったメール』。
その言葉を届けてほしい、と書かれていた。
しかし。
真由は直接謝った。
メールは送っていない。
……もしかして。
「……あ」
俺は思わず呟いた。
「どうした、葛城?」
「いや……」
少し考えてから、口を開いた。
「今回の依頼ってさ」
「うん?」
「メールを送ることが目的なんじゃないのか?」
朝比奈が首をかしげる。
「でも、本人が直接謝ったんだよ?」
「そうなんだけど……」
俺は画面を見る。
PENDING。
未完了。
……どういうことだ?
そのとき。
『確認します。』
ミナセの声がした。
画面の隅に、小さなウィンドウが開く。
『依頼の進行状況を確認しています。』
「……ミナセ?」
俺が呼びかける。
ドット絵の少女が、こちらを向いた。
『今回の依頼は、まだ完了していません。』
「なんで?」
朝比奈が尋ねる。
『メールに関する処理が残っています。』
「メール?」
『はい。』
ミナセは、いつもの無表情な顔で続けた。
『未送信のメールが、現在も保存されています。』
……なるほど。
真由は直接謝った。
けれど、送れなかったメールはまだ残っている。
それが、依頼の完了を妨げているのだろうか。
「じゃあ、そのメールを送ればいいのか?」
俺が尋ねると、ミナセは首を横に振った。
『いいえ。』
「……え?」
『送信する必要はありません。』
「じゃあどうすればいいんだよ」
ミナセは、少しだけ間を置いた。
『送り主が、どうするか決める必要があります。』
……どうするか、決める。
俺は、今日の真由の言葉を思い出した。
メールを書いた。
でも、送れなかった。
直接謝った。
それなら。
もう、あのメールは必要ないのかもしれない。
「……そういうことか」
俺は呟いた。
朝比奈が首をかしげる。
「何が?」
「真由に、メールをどうするか聞いてみよう」
◇ ◇ ◇
翌日の昼休み。
俺たちは、真由にもう一度話を聞いた。
昨日のこともあって、彼女は少し照れくさそうだった。
「……メール?」
真由が首をかしげる。
「うん。昨日、送れなかったって言ってたやつ」
俺が尋ねると、彼女は小さく笑った。
「ああ……あれね」
「まだ残ってるのか?」
「うん。下書きに」
「……どうするつもり?」
真由は少し考えた。
それから、鞄から携帯電話を取り出した。
小さな折りたたみ式の携帯。
画面を開き、何度かボタンを押す。
「……消そうかな」
「いいのか?」
「うん」
真由は、少しだけ笑った。
「もう、ちゃんと言えたから」
その言葉に、朝比奈が嬉しそうに頷いた。
「そっか!」
真由は、携帯電話の画面を見つめた。
そして、何かを確かめるようにボタンを押した。
ぴっ。
小さな電子音が鳴る。
「……消した」
真由は、ほっとしたように笑った。
「なんか、すっきりしたかも」
「よかったね」
朝比奈が言った。
俺も頷いた。
……なるほど。
送れなかったメールを届ける。
それは、必ずしもメールそのものを送ることじゃなかったのかもしれない。
大切なのは、書かれていた気持ちをどうするか。
それを、本人が決めること。
……なかなか、奥が深い。
◇ ◇ ◇
その日の放課後。
旧パソコン室。
俺たちがYUYAKE MAIL SYSTEMを開くと、受信一覧の表示が変わっていた。
『REQUEST_003 COMPLETE』
「やったー!」
朝比奈が両手を上げた。
「三件目も解決!」
「……今度は、ちゃんと完了したな」
俺は画面を見つめた。
久世が腕を組む。
「ふむ。今回の依頼は、少し特殊だったな」
「そうだね」
スズネ先輩が頷いた。
「メールを送るんじゃなくて、送らなくていいようにするっていうのも、解決なんだね」
「……そうですね」
俺は小さく笑った。
画面の中では、ミナセがこちらを見ていた。
『依頼の完了を確認しました。』
「お疲れ、ミナセ」
俺が言うと、ミナセは小さく頭を下げた。
『お疲れさまでした、葛城さん。』
朝比奈が活動日誌を広げる。
「じゃあ、今日の記録を書こう!」
「またか」
「まただよ!」
彼女はシャープペンを握り、楽しそうに書き始めた。
『七月十五日、金曜日。』
『送れなかったメールの依頼、完了!』
『真由ちゃんと美緒ちゃんが仲直りしました。』
『メールを送らなくても、気持ちは届けられることがある。』
そこまで書いて、朝比奈は少し考えた。
そして、最後に一行付け加えた。
『でも、大事なことは、ちゃんと言ったほうがいい。』
……なるほど。
確かに、そのとおりかもしれない。
「いいこと書くじゃないか」
俺が言うと、朝比奈は嬉しそうに笑った。
「でしょ!」
「ただし、一つ訂正」
「え?」
「メールを送らなくても、じゃなくて、今回は本人が直接言えたからだろ」
「あ、そっか」
朝比奈は少し考えたあと、文章を書き直した。
……こういうところは、案外素直なんだよな。
窓の外では、夕日がゆっくり沈んでいた。
扇風機が、静かな音を立てて回っている。
机の上には、スズネ先輩が持ってきた駄菓子。
久世は、また何かパソコンの設定を調べている。
朝比奈は活動日誌を書いている。
ミナセは、画面の中で小さく瞬きをしていた。
……変な部活だ。
本当に、変な部活だと思う。
でも。
こうしていると、なんとなく居心地がいい。
それが、少しだけ不思議だった。
「ねえ、葛城くん」
朝比奈が顔を上げる。
「何だ?」
「次は、どんな依頼が来ると思う?」
「さあな」
「また落とし物かな?」
「かもしれないな」
「それとも、もっとすごい事件とか!」
「やめろ。平和なのが一番だ」
朝比奈は、けらけら笑った。
「葛城くんって、ほんと夢がないよね!」
「現実的と言ってくれ」
……まあ。
少しくらいなら。
変な依頼が来ても、いいかもしれない。
そんなことを考えている自分に気づいて、俺は小さく苦笑した。
どうやら俺も、すっかりこの部活に馴染み始めているらしい。
まったく。
人生、何が起こるか分からないものだ。




