第2話 最初の奇跡は、ただの偶然
公国を出て、数日。
最初に辿り着いたのは、小さな交易の街だった。
「……賑やかですわね」
アリアベルは、ゆるやかに視線を巡らせる。
行き交う人々。
荷を運ぶ商人。
子供たちの笑い声。
どこにでもある光景。
だが、彼女にとっては“外の世界”。
「はい」
隣を歩く青年が答える。
「この規模としては、標準的な交易都市にございます」
落ち着いた声音。
整った所作。
アルヴェインの血を引く者。
代々続く同行者。
「そうですの」
アリアベルは軽く頷く。
特に感慨はない。
ただ、見ているだけ。
それだけで十分だった。
そのとき。
「……困ったものだ」
近くで男の声がした。
振り向くと、井戸の前で商人が頭を抱えている。
「どうかなさいましたの?」
アリアベルが自然に声をかける。
深い意味はない。
ただ気になっただけ。
「いえ……水が出なくなりまして」
男は苦笑する。
「この街の井戸は浅いもので、時折こうなるのです」
「そうですの」
アリアベルは少し考える。
特に解決策があるわけではない。
ただ。
「……早く出るようになると良いですわね」
それだけ言った。
本当に、それだけだった。
次の瞬間。
音がした。
ごぼり、と。
乾いていた井戸の底から、水が湧き上がる。
「……え?」
商人が固まる。
水は止まらない。
透明な水が、溢れるように満ちていく。
「……出てる……?」
信じられないものを見るような目。
だが、現実だった。
「……良かったですわね」
アリアベルは小さく頷く。
特に驚きもなく。
「え、ええ……?」
商人は戸惑いながらも、水に手を触れる。
確かに、冷たい。
確かに、本物。
「……奇跡だ……」
ぽつりと呟く。
「いいえ、偶然ですわ」
アリアベルはあっさりと言う。
本気でそう思っている。
隣の青年が一歩前に出る。
「念のため、水質を確認いたします」
淡々とした口調。
だが、その目は僅かに鋭い。
「問題なし」
一拍。
「通常の地下水と同一です」
つまり。
自然現象として成立している。
にもかかわらず。
「……アリアベル様」
小さく声をかける。
「どうかしましたの?」
「いえ」
一瞬だけ間を置く。
「今の件ですが」
「偶然にしては、出来すぎています」
「そうですの?」
「はい」
「ですが、現時点では断定できません」
慎重な判断。
だが。
アリアベルは気にしない。
「……難しいですわね」
くすりと笑う。
「うまくいったのなら、それで良いのではなくて?」
「……その通りでございます」
青年は静かに頷いた。
それ以上は言わない。
言っても意味がないと理解している。
周囲では、人が集まり始めていた。
「本当に出てるぞ」
「さっきまで枯れてたのに」
「……あの人が来てからだ」
小さな声が、広がる。
だが。
アリアベルはすでに歩き出している。
「では」
振り返りもせずに言う。
「次へ行きましょうか」
「承知いたしました」
青年が後を追う。
井戸の水は溢れ続ける。
街を潤す。
人々を救う。
それは確かに奇跡だった。
だが。
本人にとっては。
ただの一言。
ただの出来事。
ただの旅の途中。
少女は歩く。
何も知らないまま。
何も変わらないまま。
その一歩が、何を変えているのかも知らずに。




