七色の未来
「おはようございます。」
「おはよ…。」
あの後、私はまたアーテルの住処に泊めて貰った。
お互いに話なんかしないで、パンを食べて、直ぐに寝てしまった。
そして起きたら、彼はいなかった。
昨日と同じように、同じ場所にパンが置いてあっただけ。
「ねぇ、オー…。私昨日、彼に話をしたんだけど… あんなので良かったのかな、って後悔してる。」
足りない頭で一生懸命考えて、言葉を慎重に選んで私の考えを伝えたつもりではあるけれど…。
やはり、何か間違っていたのではないか。
もっといい方法があったのではないか。
そんな不安ばかりが積り積もって、雪みたいに溶けて消えることもなくて。
そんなわけで、今日の私は今まで通り、何だか憂鬱に包まれていた。
「ふむ。私はそのやり取りは聞いていませんでしたが…それでよかったと思いますよ。」
けれどもそんな私の気持ちはお構い無しに、オーはいつもの笑みを浮かべたままに言った。
思いがけない一言に、私は顔を上げる。
「え?何で…?彼の色、変わってたから、とか?」
「いえいえ、私は最初の日以来、彼を見てはいませんよ。ただ、貴女を見れば分かるのです。」
益々訳がわからない。
何故私を見ればそう言えるのだろう?
混乱する私が滑稽だったのか、オーは微笑みを浮かべるのではなく、声を出して笑った。
「言葉は、あまり関係ありません。色を変えるのは、色。同じように、心を変えるのは、心。貴女が心を込めて接したのであれば、それで良い。彼の黒に貴女の白は間違いなく混ざり込んだことでしょう。…心は、色は、誰かを変えれば己も変わる。貴女の色も、しっかりと変わっていますよ。」
「私の色が…? 何色に?」
あのやり取りの中で、いったい何色になったのだろう。
白以外の色になれたということで、私の心持ちは一時ながら、憂いから解放される。
「白と黒が混ざれば、何色になりますか?」
白と黒が混ざれば、それは──
………灰色?
「地味…。」
そして再び、憂いの中へ。
灰色。
別段嫌いな色ではないが──かといって好きな色でもない。
強いて言うなら、どうでも良い色だ。
印象の薄い色、とも言える。
「まあ、見てくれは冴えない色かもしれませんね。でも勿論、良い意味ありますよ。」
「一応、聞いておく…。」
「はい、有り難うございます。灰は、調和や穏やかさを意味します。馴染みやすい色、とでも言いましょうか。」
………調和、か。
今までの私には、無縁の言葉。
けれども、今の私には、最も必要な言葉で、色なのかもしれない。
これから、更に多くの人と交わって生きていく私には。
「因みに他の意味としては、陰気。無気力、不安、曖昧、迷い──。グレーゾーンという言葉を言えば伝わりやすいでしょうか。自己主張の弱さを表すときにも使われますね。」
「…今はそういう意味は、聞きたくない。」
…全く、オーはこういう、空気の読めないところが酷い。
私の気持ちの上げ下げの様が面白かったのか、オーはまた声を出して笑った。
「空を、見てごらんなさい。」
「え…?」
不貞腐れる私を慰めるかのように、オーは優しく、けれども脈絡のない事を言う。
そう言いながら、彼自身も空を見上げている。
それに倣って、私もゆっくりと顔をあげた。
すると、そこに広がっていたのは、群青。
昨日までの暗雲は無く、代わりにどこまでも続く青空があった。
そして、虹。
一晩降り続いた雨の後、空を渡す橋のように、七色に輝く虹が伸びている。
「…綺麗。」
あまりの美しさに、私はそう呟く。
久しく忘れていた、有彩色の輝き。
長い間モノクロに慣れていた私の目には、それが酷く染みた。
「色は、その一つ一つも綺麗ではありますが、やはり調和してこそ、その本領を発揮するというもの。それは、人も同じですよね。」
人は人と交わってこそ、という事か。
今までの私は、それすらを拒み、過ごしてきた。
…これからの私は今までより、どれだけ輝くことができるだろうか。
「…さて、私のこの街での用も済みましたし、そろそろ失礼させていただきましょうか。」
空から視線を下ろし、オーはイーゼルを担ぎ直す。
その言葉に、私の心臓はどきり、と鼓動を大にする。
「…どこへ、行くの?」
「ここからずっと、東の方に──。そこにも、用がありましてね。」
別れたくない。
そんな思いが、私の中に渦巻く。
けれどもこの思いは、口にしてはならないのだろう。
それは、私が彼にとっての鎖になることを意味するのだ。
束縛の辛さは、もう、身に染みて知っている。
だから、私はその言葉を飲み下した。
「ねぇ、オー…。最後に一つだけ、聞いていいかな…?」
その代わりに、紛らしの問いを口にした。
けれども、紛らしにしては余りにも私の本心を現したものでもある。
「えぇ、何でも良いですよ。」
「人は誰しも、色を持ってるんだよね…。私が白で、アーテルが黒。じゃあ、オーは…?」
一番気になっていたこと。
それは、彼が何色なのかと言うことだ。
私を惹き付け、アーテルと会わせた彼の色も、私の中に混ざりこんだのだろうか。
そうすると、アーテルの黒以外にも私の白の中に入り込んだわけで。
単純に今の私の色が灰色とも言えないのではないのだろうか。
少しだけ虹を見つめてから、オーは答える。
「乾き固まってしまった色を混ぜるには、少しの水が有れば良い。水は他色を変えることは出来ませんが、色と色とを混ぜ合わせることは出来るのです。」
「んん…?」
乾いて固まった色が私やアーテルとするなら…それを解きほぐす為の水がオーだと言うことだろうか。
水は無色透明だけれど…。
「無色も、色ですよ。色と付いているのですから。」
私の考えを察したのか、オーがそう言った。
思わず私は笑ってしまう。
「それは屁理屈…。」
暫しの間、私とオーの笑い声が響いた。
…思えば、笑い声なんていつぐらい振りだろうか。
両親を亡くしてから、同時にずっと失っていた気がする。
「それでは、この辺で。彼の、貴女の人生が、あの七色の虹の如く輝くことを…陰ながら願っています。」
笑いを納めてから、少しだけ頭を下げ、くるりと背を向け去っていくオー。
振り向くなんて事はせず、ただ真っ直ぐに東へと歩んでいって──地平の彼方へ、ふっと消えてしまう。
彼の最後の言葉から、もう二度と会うことはないだろうと…そう悟った。
「さよなら、オー…。」
彼は私とアーテルを救ってくれた。
恥ずかしくて“ありがとう”を言いそびれてしまったけれど、感謝の気持ちを伝えてたら、彼は何と言っただろうか。
『私は色を混ぜただけ。それは画家として、当たり前の事ではないですか。』
…そんな風に返すだろうか。
想像してみて、私は再び笑う。
そんな時、背後から声が聞こえた。
私の名を呼ぶその声は、吹っ切れたかのように明るいものだった。
私も振り返り、その人に向かって大きく手を振って、名前を呼び返した。
──そして再び、空を見上げる。
依然として輝く七色の虹。
この世界は、こんなにも色に溢れている。
いや、空だけではない。
これから、春が来る。地上が様々な色に満たされる、鮮やかな季節。
それらに負けないくらい彩ろう。輝こう。
彼と私が混ざるなら…どんな色にも、なれるから──