グリム・リーパーによろしく
私は困っていた。
既に隅々まで読み終えてしまった新聞をテーブルに置き、ため息と共に懐へ手を入れる。冠を戴いた盾と月桂樹が刻印された懐中時計を開くと、私がこのカフェに来てから既に二時間が経過していることを二本の針が教えてくれた。
どんなに目を皿のようにして探しても、これ以上目の前の新聞から未読の記事を探し出すことは難しい。何せ私は今朝から三回もこの新聞を読んでいるのだ。普段なら間違いなく読み飛ばしているであろう取るに足らない記事にまで、一言一句目を通した。しかし事態は動かない。
私は沸々と込み上げてくる苛立ちを静めるため、本日四杯目になるアッサムティーへ手を伸ばした。
が、なかなか品のいい金縁のカップを持ち上げたところでその軽さに気づく。つと目を落とせば中身は空だ。自分でも気づかないうちにすっかり飲み干していたらしい。
そこはロンドンの片隅にある小さなカフェ。私は毎朝このカフェに顔を出し、新聞を片手にモーニングティーを飲むのが日課だった。
だがそれは何も、この店で出されるアッサムティーが格段にうまいからとか、ここの店主が焼くスコーンを特別気に入っているからとか、そんなことが理由ではない。毎朝新聞を持参してやってくるのは出勤前の一杯に見せかけるためのカモフラージュであって、本当の目的は別にあるのだ。
その〝目的〟をさっさと片づけたい一心で、私は奥にある窓際の席を一瞥する。そこは二つの椅子がテーブルを挟んで向かい合わせに置かれただけの、ごく小さな席だった。
その席に先程から一人の少女が座っている。まったく見覚えのない、明るい金色の髪を肩まで垂らした十歳くらいの少女だ。
あの少女は先程からあそこで何をしているのだろう?
見たところただ座って手持ち無沙汰にしているだけのように思えるのだが、彼女はああしてもう二時間もあの席に居座っているのだ。
そう、二時間も一人きりで!
私の中の苛立ちはいよいよピークに達しようとしていた。このままでは私が必死に貼りつけている紳士の仮面が剥がれ落ちるのも時間の問題だ。
何故なら私の目的はあの席にある。私の真の日課はあの席のテーブルの裏に仕込まれたとある人物からの手紙を受け取ることなのだ。それはいつも手紙とも呼べない、走り書きのような粗末なものだが、私にとっては非常に重要な意味を持つ。だがそれもあの少女がいたのでは回収することができない。
私はいよいよ抑えがたい衝動を覚えて、もう何度目になるか分からないため息をついた。
何なら五杯目の紅茶を注文しようかとも思ったが、これ以上は我慢の限界だ。ようやく決心のついた私は折りたたんだ新聞を小脇に挟み、テーブルに立てかけていた黒塗りの杖を手に取って決然と席を立つ。
「失礼、お嬢さん」
できれば他人との不必要な接触は避けたかったのだが――そんな不満を垂れるもう一人の自分を思考の暗がりへと追いやって、私は黒の山高帽を被りながらついに少女へ声をかけた。
子供特有の大きな両目が、途端に私を見上げてくる。瞳の色は満月の夜を思わせる深いブルー。
しかしそこに星空を思わせる輝きはなく、あるのは突然声をかけてきた男に対する不審だけだった。
それなりに良い家の子女なのだろうか。身なりは整い、目の端にもしっかりとした教育を受けた者のみが見せる聡明さが滲み出ている。
「一つお尋ねしても?」
「何かしら、サー?」
返ってきたのは、予想以上に大人びた受け答えだった。こちらを量るように小首を傾げた少女の肩から、緩やかに波打つ長髪がさらりと零れ落ちる。
私は先程からこの少女に対して渦巻いている疑問と苛立ちとを一旦収め、改めてまじまじとその姿を観察した。
大きな深紅のリボンがついたケープに品の良いショートドレス。傍らには山の浅い麦わら帽が置かれていて、これがまた控えめながらも上品なつくりをしている。
気になるのは足元に置かれたトランクだ。その大きさは華奢な少女の体つきにはどう見ても不釣り合いに思える。
初めは旅行者かとも思ったのだが、それにしては二時間以上も一人でカフェにいるというのは妙だ。このくらいの歳の少女――それも良家の子女ともなれば、付き人くらいいて然るべきではないか。
「実は、私が今朝この店に来てからかれこれ二時間が経過しているのだがね。君はその前から一人でこの店にいる。そうだろう?」
「ええ、そうよ。人を待っているの」
少女はやはりはきはきと、才気走った喋り方をした。
それが何となくお高くとまっているような、小生意気そうな印象を与えたが、私は努めて冷静であるよう自分に言い聞かせながら、「なるほど」と軽く咳払いをする。
「それは奇遇だ。実を言うと、私もここで人を待っていてね。だが一つ問題が発生している」
「というと?」
「私は彼と、君が座っているその席で待ち合わせる決まりになっているのだ。だからもし差し支えなければ、その席を私に譲ってもらいたいのだが」
「まあ」
と、それを聞いて少女は目を丸くした。
私は何も、そこまで驚かれるようなことを言ったつもりはないのだが――と、その反応にこちらの方がかえって驚く。いや、あるいは今のやりとりの中に何か失言があったのか?
もしそうならば速やかに取り繕わねばならない。私は慌てて直前の自分の言葉を反芻した。
けれども少女はそんな私の心中などお構いなしに身を乗り出し、
「貴方、ヘンリー・ジェルキンス?」
と、突然私の名前を呼んだ。
瞬間、私の中で間欠泉のように湧き上がったのは驚きより警戒だ。
何故なら、なるほど、確かに私はヘンリー・ジェルキンスだが、今はその名を一身上の都合で封印している。既に滅んだその家名を知る者は、ブリテン広しと言えど両手の指で数えられるほどしかいない。
ゆえに私は少女の問いに「そうだ」とも「違う」とも答えなかった。
ただ警戒の刃を瞳の端に忍ばせて、
「どこでその名前を?」
と尋ねただけだ。
すると少女は夜空に私を映して答えた。
「わたくしに貴方を紹介して下さった方から聞いたの。その方の名前はわたくしも存じ上げないのだけれど」
「紹介?」
「ええ、そうよ。その方がここで待っていれば、貴方はきっと現れると教えてくれたわ。そして確かに貴方は来た」
「待ちたまえ。私は自分がヘンリー・ジェルキンスだとは一言も言っていないが?」
「あら、違うの?」
少女の夜を落胆の影がよぎった。そんな顔をされてしまうと、こちらとしても居心地が悪い。
「……では、仮に私がヘンリー・ジェルキンスだったとして、君は私に何用かね?」
「決まっているわ。わたくし、貴方に依頼があるの」
「それは私が何者か分かった上で言っているのか?」
「ええ、もちろんよ。――貴方、殺し屋なんでしょう?」
その問いはまったく声量を落とさず、むしろ堂々と胸を張って投げかけられた。これにはさしもの私も固まり、次いで自らの背後を顧みる。
幸いにしてまだ昼時には少し早い店内には私と少女、そしてカウンターの向こうに店主が一人いるだけだった。その店主は私と目が合うとすぐに視線を逸らしたが――まあいい。
私は改めて少女へ向き直った。そしてここ数年使っていなかった笑顔という名の盾を装備する――それはあまりにも長い間収い込んでいたせいで埃を被り、すっかり不恰好になってしまっていたが。
「なかなか面白い冗談だ。君のご両親はアメリカのお生まれかな、お嬢さん?」
「いいえ。れっきとしたイングランド人よ、サー」
「これは失礼。ちなみに君のお名前は?」
「メアリー・ウォールデン」
「ウォールデン?」
私はまたしても意表を衝かれた。
ウォールデン。聞き覚えがある。
その名前は、確か――。
「もう一度言うわ。貴方に依頼があるの、ミスター・ジェルキンス」
少女の口調に迷いはなかった。
彼女は利発そうな目元にナイフの鋭さを宿しながら、その切っ先を私の喉にぴたりと当てて、言う。
「ここにある、わたくしの全財産を貴方に捧げます。だからお願い。――『死神』を殺してちょうだい」
× × ×
その部屋からは、ロンドン中心部を流れるテムズ川が一望できた。
煙突から黒い煙を上げた蒸気船が、汽笛を鳴らしながらゆったりと流れを下っていく。あれらはここより下流にある工業地帯へ行く船だ。
少し遠くへ目をやれば、そこには産業革命の粋を集めて造られつつあるタワーブリッジの雄姿が見える。そうした景色を「革命前にはまったく考えられなかった」と大人たちは言うけれど、生まれたときには既に蒸気船や鉄道といった存在が当たり前になっていたわたくしには、特にこれといった感慨はなかった。
けれどもそんなわたくしでも意外に思ったのは、その部屋の小綺麗さだ。
外観からしてそこそこに上等な川沿いのアパート。窓からの眺めは良く、ダマスク柄の壁紙は新品同然。一階には玄関とダイニング、キッチン、パントリーがあり、二階には賃借人の寝室と書斎らしき部屋が一つずつ――。
それが殺し屋、ヘンリー・ジェルキンス氏の邸宅だ。
「なかなかいい家ね」
と、その二階の窓から身を乗り出し、曇天に沈むロンドンの街並みを一望したわたくしは、傍にいるこの家の主人に素直で率直な感想を述べた。
書斎の隅で一人掛けのソファに身を委ねたジェルキンス氏は、どこか浮かない顔でパイプに火を入れている。せっかくわたくしが良い趣味だと褒めて差し上げたのに、何もない壁の一点を見つめたその横顔は不満げで、たゆたう紫煙もどこか気怠そうだ。
「わたくし、殺し屋ってもっと野蛮で不衛生な暮らしをしているものだと思っていたわ」
「……これでも一応、表向きは売れっ子作家ということになっているのでね。だがこの部屋はどうにも家賃が高くて困る」
「殺し屋って儲からないの?」
「まともな職業ではないからな」
「なら、どうしてそんな職業に?」
「メアリー。蟻の巣をほじくり返して遊ぶのが許されるのは七歳までだ。君は立派なレディに見えるが?」
そう言ってじろりとこちらを一瞥してきた殺し屋に、わたくしは思わず「まあ」と腹立ちを覚えた。
要するに彼は〝詮索するな〟と言いたいのだ。けれども世の中には言い方というものがある。
まったく失礼な言い草だった。彼はわたくしを田舎の子供か何かだと思っているのかしら?
仮にも良家の子女だったわたくしが蟻の巣を掘り返して遊ぶだなんて、そんなはしたない真似をするはずがないのに。
「そう言う貴方はとても立派な紳士ね、ミスター・ジェルキンス。ブルジョアとお知り合いになれて光栄だわ」
「それはどうも」
わたくしが返した精一杯の皮肉を、ジェルキンス氏は無感動に受け流した。わたくしはそれがますます腹立たしくて、ツンと再び窓の外へと視線を投げる。
やはり殺し屋などに心を許しては駄目だ。わたくしは小鳥のような自らの胸にそう言い聞かせ、対岸に見える石造りの塔をじっと睨んだ。
ジェルキンス氏は、そう、殺し屋にしては見た目も物腰もとても紳士然としている。わたくしは殺し屋と言ったらみんなあのアメリカの大悪党ジェシー・ジェイムズのようなものだと思っていたのだけれど、実際に対面したジェルキンス氏は身なりもきちんとしていて粗野な印象はほとんどない。
ただ黙っているとひどく気難しそうに見える横顔以外は、整えられた口髭も、撫でつけられた金茶色の髪も、すべてが我が国の紳士と呼んで差し支えないように見えた。
首元を飾っているネクタイは彼の理性を証明し、さりげない所作にも洗練されたものを感じる。
けれどやはり殺し屋は殺し屋だ。彼とてまた法と社会に背を向けて薄暗い道を歩いている人物には変わりない。
その証拠にジェルキンス氏は初対面のわたくしにさえ、周囲に対して固く心を閉ざしているのが分かった。
年齢は三十がらみと思しいのに、呆れるくらい頑迷だ。わたくしの方が譲歩して良好な関係を築こうとしてみせても、彼の方はそっぽを向いてまるで応えようとしない。
――まったく子供だわ。わたくしは憂いのため息をつく。
果たしてこの人物に『死神殺し』なんて大役が本当に務まるのかしら?
「――ところで、もう一度話を整理させてもらいたいのだが」
と、ときに突然真横から聞こえた声に、わたくしはびくりと小さく跳ねた。
驚いて振り向けば、そこにはいつの間にかくだんのジェントルマンが立っていて、すまし顔で紅茶を差し出してくる。――まるで足音も気配もなかった。わたくしがテムズ川の対岸へ意識の翼を飛ばすまでは、確かにソファでパイプを吹かしていたはずなのに。
「アッサムはお嫌いで?」
「……いいえ、いただくわ、サー」
わたくしの胸の小箱に収われた心臓は、まるでゴーストにでも出くわしたかのように怯えている。けれども努めて平静を装い、わたくしは紳士の手からソーサーごとティーカップを受け取った。
そうしてカップから立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込み、跳ね回る鼓動をどうにか静める。……なんて意地の悪い人。わたくしが実力を疑っていると勘づいて、わざわざおどかしに来るなんて。
「メアリー。まずは君の素性についての確認だが、君は半年前に亡くなったウォールデン男爵のご息女で兄弟はなし。男爵の爵位と遺産は叔父のブレンドン氏の手に渡り、今や君は身寄りのない根なし草――そうだね?」
そんなわたくしの心中に見てみぬふりを決め込んで、ジェルキンス氏は一方的に話し始めた。
その手には彼の分のティーカップ。白い湯気の立つそれを時折口へ運びつつ、ジェルキンス氏は意味もなく書斎を歩き回る。今度はわざとらしく、黒い革靴の底でしきりと音を立てながら。
「君のご両親の名は私も知っている。半年前の新聞で読んだ。事件については――お気の毒にと言う他ないが」
「ありがとう、ミスター・ジェルキンス。だけどあの件について、殺し屋に同情される筋合いはないわ」
「それは失礼。だが同事件について、私が逆恨みされる筋合いもない。君の両親を殺したのは『死神』、そう呼ばれている殺し屋だ。そして私は、アレを同業者だとは認めていない」
「……」
「『死神』はただの殺人狂だ。これまでの殺しの手口を見ても、とてもまともな人間とは思えない。それでいて名前はおろか、一切の素性が謎に包まれた神出鬼没の殺戮者――それが、君が私に殺せと言った相手のすべてだ」
つまり〝同業〟のジェルキンス氏でさえも『死神』のことはそれ以上知らない。彼は言外にそう言っているのだわ、とわたくしは思った。
けれどそれについてはわたくしも初めから期待していない。近年巷を騒がせているその殺し屋の素性については、ロンドン警視庁さえ何一つ掴めていないともっぱらの噂だ。
それでもわたくしは、わたくしの目の前から一瞬にしてすべてを奪い去っていったあの悪魔を野放しになどしておけなかった。
わたくしは今でも覚えている。
半年前のあの晩の恐怖を。あの晩の悲鳴を。あの晩に降った血の雨を――。
「正直なところ、今の状況では『死神』を見つけ出して息の根を止めるというのは神の御業にも等しい。そもそもあのスペインの暴れ牛のような男を、私一人の手で葬れというのが土台無理な話だ。だのに何故情報屋は私のもとへ君を寄越した?」
「知らないわ。わたくしはただそうしろと言われたからそれに従ったのよ。『死神』を葬ることができる男がこの国にいるとしたら、それは貴方だけだからと」
「ほう。私があの情報屋にそこまで買い被られていたとは知らなかった。あの男にとって私は体よく使い捨てにできる手駒に過ぎないと思っていたのだがな」
「ミスター。残念だけれど、わたくし、貴方とその情報屋の関係には一切興味がないの。わたくしが知りたいのはただ一つ、貴方がこの依頼を受けて下さるのか下さらないのか、それだけよ」
「では、お断り申し上げると言ったら?」
「今すぐここから身を投げて死にます」
一抹の迷いもなく、わたくしは白い窓辺に寄り添ってきっぱりとそう言った。すると彼は珍しいダークグリーンの瞳を見開き、虚を衝かれたような顔をする。
けれどわたくしは本気だった。殺されたお父様とお母様の無念――それを晴らす望みが今ここで断たれると言うのなら、わたくしにはもう生きている意味がない。屋敷も遺産もすべてあの強欲なブレンドン叔父様に奪われ、今のわたくしには帰る場所すらも残されてはいないのだから。
「おい、待て。それはいささか早計すぎはしないか?」
「いいえ。それこそがわたくしに残された最後の道です。どのみちわたくしにはもう行くあてなどない。ならば人より早く神の御許へ行き、この不条理な世の中に一日も早く最後の審判を下して下さるよう、傅いてお願いする他ありません」
「君は自ら命を断った人間が神の御許へ行けると思っているのかね?」
「主に慈悲があるのなら」
わたくしはやはりきっぱりと言った。途端にジェルキンス氏は深いため息をつき、ほつれた前髪を呆れたように掻き上げる。
「まったくあの情報屋め、厄介な客を送りつけてくれた……」
「何かおっしゃいまして?」
「分かった、依頼を受ける。そう言ったんだ。だからその窓から身を投げて厄介な騒ぎを起こすのはやめてくれ。ちなみに情報屋は、私が依頼を果たすまで君をここに置くようにと、そう言ったんだな?」
「ええ、そうよ。貴方がそれを拒んだら、この手紙を見せるようにと」
わたくしはそう言って、ケープの裏ポケットに大切に収い込んでいたそれを、ついにジェルキンス氏へと差し出した。
彼はひどく怪訝そうな顔でそれを受け取ると、まるで危険な爆弾でも処理しているような手つきで封を開ける。
そうして中身を確認するや、彼はみるみる眉を寄せ、小声で下品な言葉を吐いた。
それから封筒ごとビリビリと手紙を破り、気が済むまで細切れにすると、あとはそれを屑かごの底に叩きつけて荒い息をつく。
「……分かった。君に協力しよう」
こうして、わたくしとジェルキンス氏の奇妙な生活は始まった。
× × ×
パキッといい音を立てて、黒茶色の板が折れた。
それと同時にほどよい甘味と苦味が口に広がる。少しだけ粘つくような独特の舌触り。
けれどもそれはほどなく溶けて、口の中に愛しい女の残り香のような、ほろ苦い香りを残していった。
その残り香まで存分に味わったところで、もう一度パキッ。今度はそれを強めのブランデーで飲み下す。そうすると脳髄がビリビリ痺れて、俺は思わず恍惚とした。
ああ、やっぱコレだよ、コレ。
抑圧されるだけされたあとの最高のゼイタク。
何ならこのまま一緒に溶けてなくなったっていい。それくらい幸福な時間だ。
俺はそこが薄汚い場末の酒場だということも忘れて、今日もチョコレートを噛み砕く。
「ウフフ……お兄さんったら、さっきからずっとチョコレートに夢中ね。まるで小さな子供みたい」
「アー、キミたち知らねぇの? チョコレートっていうのはさァ、一昔前まではお貴族サマの食いモンだったんだぜェ。ガキが図に乗ってゼータクするようになったのはここ最近さ。それにコレは俺にとって大事なご褒美なの」
「ご褒美?」
「そ。俺、チョコレート中毒だからさァ。コイツがないと生きていけねェの。ある意味麻薬みたいなモン?」
「アハハ、何それ? やっぱり子供みたい。ねえ、でも、そんなにオイシイならアタシにも一口くださらない?」
「えー? キミも食べたいのォ? どーしよっかなァ」
なんて笑って言いながら、手の中のイーティングチョコレートをヒラヒラさせる。俺様の甘いフェイスと焦らしプレイに、両脇のアバズレどもはメロメロだ。
そこはソーホーの外れにあるオンボロ酒場。細くて暗い路地の先、人目を憚るように佇んだ入り口から地下へ下りた先にあるその酒場は、今日も下品なお客でいっぱいだった。
何せここは高級娼館が並ぶ一角からちょいと外れた〝あぶれ者〟が集う場所だ。やってくるのは金もなく、地位もない、安酒に溺れたい連中ばかり。
俺はそんな連中の陽気で下卑た笑いを聞きながら、どこぞの娼館から客寄せに来たアバズレどもとカウンターで戯れていた。
正直、顔はどっちも好みじゃない。化粧はケバいし、いかにも下級娼館のオンナって感じで品もない。
だが酔っ払い特有の中身のない会話は暇潰しにはもってこいだ。コートの胸元をまさぐって懐中時計を取り出せば、時刻は既に深夜十二時を回っている。
――そろそろだな。
学のないオンナどものおかげで、とりあえず退屈はせずに済んだ。
「――ああ、これはボス、いらっしゃいませ」
そのときカウンターの向こうでグラスを磨いていたバーテンが、突然畏まった声を上げる。
その視線は俺の背後に向いていた。途端に酒場の空気が変わり、奥の席で羽目を外していたヤツらもサッとその場に立ち上がる。
被りっぱなしだった帽子を外して敬意を表するヤツ、いかにもゴマすりな愛想笑いを浮かべるヤツ、縮こまって床とにらめっこするヤツ――。
なるほど、どうやら俺の真後ろから現れたその男は、この辺じゃそれだけ顔が通った人物らしい。
「おう、スコット。いつものやつを頼む」
「はい、それはもう、すぐにご用意させていただきます」
一際ドスのきいた声が響いて、バーテンの表情が引き攣る。どうやら本人はそれで笑っているつもりのようだが、その顔はどう見ても顔面麻痺を起こしたサルだ。
俺がグラスを傾けながらそんなことを思っている間にも、ドラ声の主はのしのしとゾウのような足音を立てて奥へと向かった。
その身長、およそ七フィート。北欧のおとぎ話に出てくる化け物のような背中にドワーフのツラ。
後ろには取り巻きと思しい男が二人付き添っていて、どちらもトロールと並ぶと小人のようだ。
ただし顔は醜い小悪魔。間違っても家憑き妖精のような愛らしさはない。
「……あの人、このあたりの裏稼業を仕切ってる元締めさんよ」
「へえ」
と、ときに耳打ちしてきたオンナの囁きを、俺は適当に受け流した。そんなの知ってるよーんと言わなかったのは、ワケ知り顔で畏まっているオンナの態度が面白かったからだ。
そこにはもう、目の前のイイ男を口説き落とそうとしていたアバズレ娼婦の姿はない。いるのは首なし騎士の伝説に怯える少女のような、青い顔をした淑女だけ。
だがコイツは好都合だ。まとわりついてくるオンナを引き剥がす手間が省けた。
俺は最後にもう一度パキッとイーティングチョコレートの端を折ると、残りはグラスに立てかけて、代わりに飲みさしの酒瓶を手に取り立ち上がる。
「ちょいと失礼」
紳士ぶって席を離れ、そのまま俺はまっすぐに酒場の奥へと足を進めた。
爪先が向く先にはもちろんトロールがいる。すると向こうも悠然と歩み寄ってくる俺に気がついたのだろう、冬眠明けのグリズリーみたいな眼を注いできた。
「どーも、親分さん。ちょいとご挨拶してもよろしいですかァ?」
俺はそんなトロールの警戒を解くべく、酒瓶をヒラヒラさせて声をかける。けれども空腹なグリズリーは、早速目の前に現れた獲物に牙を剥いた。
「誰だ、てめえは?」
「いやァ、名乗るほどのモンじゃあないんですがね? アタクシ、巷じゃこう呼ばれております――〝死神〟と」
そう言って、俺がニヤリと笑った瞬間だった。
石造りの店内に銃声が轟く。途端に甲高いオンナの悲鳴が夜を劈き、周りにいた男たちもワッと浮き足立って逃げ出した。
それとほぼ時を同じくして、足元で安いブランデーの瓶が砕ける――だって両手で銃を抜かざるを得なかったから。
俺の右手と左手には今やウェブリーMk.Iが握られ、その銃口からは細い硝煙がゆらゆらと立ち上っている。
「あーあ、もったいね」
と、俺は両手の銃はそのままに、ぶちまけられたブランデーを見てほんの少し落胆した。
けれどもそこから顔を上げれば、目の前では毛むくじゃらの大男が座り込んで放心している。その左右には頭から血を噴いたゴブリンが二匹。もちろんどちらも動かない。
そして生意気にもゴブリンどもは、その手にアメリカ製のボルカニック・ピストルを握っていた。
何ならここで南北戦争でもおっぱじめるつもりだったのか? 俺は呆れて口角を吊り上げる。
「アー、コイツは失礼。まずは自己紹介をと思ったんだケド、そちらサンがいきなり銃を抜いたりするから殺しちゃった。できればもう少し穏便にご挨拶したかったんだけどねェ」
「ま……待て、落ち着け。おれは銃を持っていない、今のはこいつらが勝手にやったことだ。だから頼む、銃を下ろせ」
取り巻きを殺されたトロールは必死だった。しっかり左胸を膨らませながら〝銃は持っていない〟なんてウソまでついちゃって、何ともまあ健気なことだ。
俺はそんなトロールが憐れになって、ひとまず両手の銃を下ろしてやった。
ウェブリーMk.I。イングランド軍も御用達の俺の愛銃。木製の銃把にスラリとした銀の銃身、そしてダブルアクション式のシリンダーはどれも頬擦りしたくなるほど愛おしい。
ああ――もう、我慢できねえ。
「お、お前が……お前が、本当にあの『死神』なのか? だとしたら何故おれを狙う?」
「何故ってェ? 殺し屋が人を殺すのに理由が要んのォ?」
「お、お前は誰かに雇われて殺しをしてるんじゃないのか? そうだろう?」
「まァ一応そういうことになってるケド、それが?」
「な、なら、おれを殺すよう依頼したのは誰だ? そいつを教えてくれたらいくらでも礼はする。お前の望むことで、おれに叶えられることなら何だって協力しよう。だから頼む、何でも言ってくれ」
あんなに周囲から恐れられていた大男が、今やすっかり小さくなってヘコヘコと媚びを売っている。俺にはそれが愉快で、たまらなく愉快で、思わず腹を抱えて爆笑した。
男もそれにつられたのか、初めは引き攣るように、やがてヤケクソのように大声で笑い出す。
殺す者と殺される者。その二人が誰もいなくなった酒場で向き合い笑っているというのは、何ともまあシュールな光景だ。
「ヒャハハハ! いいねェ、あんた、話が分かる。さすがはこの街の親分さんだ」
「ああ、ああ、そうだろう? こう見えておれだって紳士さ。男に二言はねえ、何でも言ってくれ」
「オーケー、そうだな。それじゃあ早速頼みがあんだけど――お近づきの印に、ド派手に死んで下さいやァ」
それまで大口を開けて笑っていた男の顔が、一瞬にして凍りついた。
瞬間、俺は二挺のウェブリーを構え、大笑いしながら左右の銃を乱射する。
血が迸り、銃声が鳴り響き、男はしばらく無様なダンスを踊ったあと、どうとその場に崩れ落ちた。
「あーーーっ、たまんねェ!!」
それを見た俺は歓喜の雄叫びと共に両手を突き上げ、全弾撃ち尽くしたウェブリーをクルクル回して哄笑する。
「ヒャハハハハ! なァ、オイ、見ろよ、コイツの死に顔! こりゃもうケッサク――……ってあれ、誰もいねェや」
と、そこでようやく我に返った俺は無人の店内を振り返り、何だか少し憮然とした。せっかく勇者サマがトロールを退治してやったってのに、まったく薄情な連中だ。
俺は「あーあ」とため息をつきながら二挺の銃をパキッと折ると、コートのポケットをジャラジャラ言わせ、取り出した弾薬を補充した。
すっかり熱くなった銃身は両脇のショルダーホルスターに収め、せっかくなのでバーテンのいなくなったカウンターに侵入する。そこからとりあえず高そうな酒を見繕って頂戴し、俺は追加報酬にヒヒヒと笑った。
カウンターを出ながら口でコルクを引っこ抜き、グビクビと浴びるように酒を飲む。ああ、コイツァいい白ワインだ。産地はフランス? やっぱりネ。
こんな場末の酒場にも探せばイイ酒はある。俺はゴキゲンな鼻歌を歌いながら出口を目指し、去り際に食べかけのチョコレートも回収した。
そうして地上への階段を上がりながら、パキッとその甘さと苦さを堪能する。
「アー、やっぱ仕事のあとはコレに限るよなァ」
× × ×
「――チョコレートが食べたいわ」
と、突然そんなことを言い出した少女に、私は軽い眩暈を覚えた。
きっと何かの悪い冗談だろう。そう思いながら広げた新聞を下ろし、神妙に相手の顔色を観察する。
アパートの二階、テムズ川に面した書斎で向かいのソファに腰かけた少女は、白い両足を意味もなくぱたぱたと動かしながら夜空色の目でこちらを見ていた。
私はその少女と視線が搗ち合ったところで新聞を戻し、再び目の前のつまらない記事へと視線を落とす。
「あ。無視するつもり? 依頼人が要望を伝えているのに」
「……私は殺し屋であって君の専属執事ではない」
「似たようなものよ。それが顧客と事業主の関係でしょう? わたくしはチョコレートが食べたいわ」
「私はチョコレートが嫌いだ」
「あら、どうして?」
「あれは人を堕落させる悪魔の食べ物だ。君も若いうちからあんなものに手を出すのはやめた方がいい」
「まあ。そうやって人の信仰心に訴えかけるつもり? だけどその手には乗らないわ」
「私はあくまで善意で言っている。それに最近のチョコレートには混ぜものが多い。中には量を多く見せかけるために粘土を混ぜているものもあると聞く。体を壊したくなかったら、今のうちに自制心を味方につけておくことだな」
「嘘よ、そんなの」
「君は新聞を読まないのか?」
昨今のチョコレートブームに端を発する食品偽装問題については、度々新聞でも取り上げられている。その事実を知る私は彼女の無教養を責めるべく、顔を上げて新聞を鳴らした。
私の依頼人であり、男爵家の元令嬢でもある少女――メアリーはそれを見てみるみる不愉快そうな顔をする。恐らく私の言わんとするところを察したのだろう、彼女はそれ以上しつこくチョコをねだることはなく、ぷいっと不機嫌にそっぽを向いた。
「昨日はどこへ行っていたの?」
「何の話だ?」
「夕べのことよ。貴方、わたくしに内緒でこっそり外出していたでしょう」
「ああ、夢の国の姫君を起こすのは申し訳ないと思ってね」
「人を子供扱いするのはやめて下さる?」
「君が子供でないなら一体何だ、妖精か?」
「話を誤魔化そうとするのは、人を殺しに行っていたからね?」
「君は一体いつから私の妻になった?」
まるで婚約者に浮気を疑われているような気分だ。私はそれをひどく不愉快に思い、眉をしかめて少女を睨み据えた。
が、少女も負けてはいない。何とも気が強い娘だ。彼女は殺し屋にすごまれたところで怯みもしないどころか、逆に火のついたような目で睨み返してくる。
「わたくしは貴方の雇い主なのよ、ミスター・ジェルキンス。なら、自分が雇った相手のことをよく知っておきたいと思うのは当然でしょう?」
「それは確かにもっともな言い分だがね、ミス・ウォールデン。世の中には〝無知は幸い〟という言葉があるのをご存知かな?」
「ならわたくしはこう言うわ。〝わが民は無知のためにとりこにせられ、その尊き者は飢えて死に、そのもろもろの民はかわきによって衰えはてる〟」
――イザヤ書五章十三節。私は苦い顔をした。
〝ああ言えばこう言う〟とは、まさにこの少女のためにあるような言葉だ。
「それで? 昨夜はどこのどなたの命を奪ってきたの?」
「……」
「別に貴方の悪事を暴いて世に広めようなんて思っていないわ。ただこれは……そう、念のための確認よ」
「私の殺し屋としての腕を疑っていると、素直にそう言ってくれた方がまだ可愛いがね」
「分かっているなら、何故答えを隠すの?」
「――忘れたんだ」
「え?」
「殺した相手のことは、忘れた。だから君のその問いには答えられない」
これ以上彼女と押し問答することに疲れた私は、半ば自暴自棄になって再び新聞を広げた。
この小さな依頼人が私のもとに現れてから、今日でちょうど一週間が経つ。その間私たちの関係はずっとこんな感じで、正直なところ私は彼女との共同生活に辟易していた。
今の今まで悠々自適に――とまではいかないものの、この優良物件で気ままな一人暮らしを続けてきた私は、他人との距離の置き方が分からない。それも相手が好奇心旺盛な子供となれば尚更だ。
少女はその無邪気で残酷な好奇心でもって私の素性を暴こうとし、私はそんな彼女に対する鬱憤を日ごと着実に積み重ねていた。
このままではその鬱憤の塔が傾く。傾いたら最後、バランスを失った塔の行く末は――ただ崩壊あるのみ、だ。
「ちょっと待って。〝忘れた〟ってどういうこと?」
「言葉どおりの意味だ。私は自分が殺した相手のことはその日のうちに綺麗に忘れる。顔も、名前も、住所も性別も家族構成も何もかもだ」
「分からないわ。そんなことが」
「可能なのだよ。この稼業を続けるうちに身につけた術だ。自分が殺した相手のことなど忘れてしまえば、夜ごと悪夢に怯える必要もないし、重い罪悪感に苦しむこともない。そうやって記憶の整理をして、今日まで自らを守ってきたんだ。だから君の質問には未来永劫答えられない」
少女は初め、私の言葉を偽りだと受け取ったようだった。この男は奇妙奇天烈なことを言って自分を欺こうとしている――そう思ったに違いない。
けれど私がそれ以上何の補足も弁解もしないのを見て、彼女の中の疑いは怒りに変わった。
少なくとも、私にはそのように見えた。
「――ふざけないで!」
世界が割れるような音を立て、彼女の膝に置かれていたティーカップが床に叩きつけられる。部屋の壁紙と意匠を揃えたダマスク柄のティーカップは、その一撃で呆気なく砕け散った。
小さな男爵令嬢は肩を怒らせて立ち上がり、憤怒の表情で私を睨み据えている。その唇は激情に震え、心なしか金の髪も逆立って見えた。
「自分の罪を忘れた? そんなことが許されると思っているの!? 貴方は羊でも豚でもなく、人間の血を啜って生きているのよ! それなのにその事実も責任も放り投げて、一人のうのうと生きているなんて!」
「お言葉はごもっともだが、話したところで君には分かるまい。第一、君はその人殺しに人殺しの依頼をしに来たのではなかったのか?」
「ええ、そうよ! だけどわたくしが貴方に殺して欲しいと言ったのは極悪非道の殺人鬼! 彼はその報いを受けるべくして受けるの! あの悪魔はそれだけ多くの罪を重ねてきたのだから!」
なるほど。つまり私も等しく報いを受けるべきだとこの少女は言っているのか。
だがそれはあまりにも一面的な考えだ。彼女が私の一体何を知っている?
望まずに奈落へ突き落とされ、初めて人を殺めたときの恐怖。絶望。悲しみ。苦痛――。
筆舌に尽くし難いその闇の重さを、この少女は私と同じかそれ以上に知っているとでも言うのだろうか?
それらを誰とも分かち合えない孤独を、苦しみを――。
「なのに貴方は、自らの重ねた罪を背負いもせずに逃げて、隠れて……! そうして目も耳も塞いでしまえば、己の罪がなかったことになるとでも思っているの? これまで貴方に殺された人々の――!」
「――私だって好きでこんな仕事をしているわけではない! ただひたすらに強いられ、息を吸う度に肺が焼けるような苦しみの日々を送っているのだ! それ以上の罰がこの世にあるとでも言うのか!?」
次に気がついたとき、なけなしの理性が支えていた鬱憤の塔は、ものの見事に崩壊していた。
我に返ったときにはもう遅い。目の前では生まれたてのウサギのように弱く小さな子供が怯えた表情で立ち尽くしていて、部屋には沈黙が満ちている。
――こんなはずではなかった。
私は自らの幼稚さに急き立てられ、立ち上がって新聞をたたんだ。
そうして壁にかかっていたコートを手に取り、晩秋のロンドンに備える。更に首には襟巻きを巻き、茫然としている少女に背を向けて言った。
「出かけてくる。君は留守番をしているように」
少女を振り返る勇気はない。
私はそのまま部屋を出て、今や沈黙と後悔の牢獄と化したアパートをあとにした。
――分かっている。そろそろ潮時だと自分でも感じていたのだ。
私は自らの記憶を操作できる。夜眠る前に、頭の中に二つの箱を用意して、そこに一日の記憶を振り分けることができるのだ。これは必要な記憶、これは不必要な記憶――といった具合に。
けれどもそんな風に自分を騙して生きていくのもそろそろ限界だ。元々私は望んでこの道へ堕ちたわけではなかった。
ただ必要に迫られて、恐れおののきながらも生きるために銃を取ったのだ。いや――今となっては〝生かすために〟と言った方が正確か。
とにかく引き金を引くごとに罪を重ねるばかりのこの仕事を、これ以上続けられる自信が私にはなかった。
初めて銃を握った瞬間から、心は解放の日を渇望している。もう私は十分やったのではないだろうか。これ以上苦しむ必要などないのではないだろうか――。
ゆるやかな濁流のように渦巻くそんな思いを胸に抱えて、曇天のロンドンを歩く。うっすらと濡れた石畳を杖が叩いた。その音がやけに耳に刺さる。
「いらっしゃいませ」
川沿いのアパートから逃げ出した私はそのまま、いつものカフェへと足を運んだ。そこで六年前からやりとりをしている情報屋からの指示を受け取り、次の仕事に備えるためだ。
私はその情報屋の顔を知らない。名前も知らない。ただいつもこうして手紙でのやりとりを交わすだけだ。
思えば最初に人を撃ったあの日から、私はこの情報屋の奴隷だった。私は彼について知ることを許されず、知るための手立てすらなく、ただただ言われるがままに人を殺め、人間として最低限の暮らしを送れる程度の報酬を受け取って生きている。
こんな生活はもううんざりだ。私は舌打ちしたいような気分でいつもの席に腰を下ろし、いつものアッサムティーを注文してから、いつもの場所へ手を滑らせた。
そこにあるはずの情報屋からの手紙を指先の感覚だけで探し、しかしすぐに悪態をつく。なんということだ。今日も情報屋からの手紙はない。
そんなことは何もこれが初めてではないが、彼は最低でも五日に一度は何らかの連絡を寄越す男だった。特に連絡事項がなければただの白紙が挟まれていることもあるし、〝何日後にまた連絡する〟といった一文が残されていることもある。
その彼がかれこれもう一週間、何の音沙汰もない。私がこの店でメアリーと出会った翌日、『死神』に関する情報提供の依頼とささやかな抗議を綴った手紙をここへ挟んでいったにもかかわらず、だ。
その手紙は翌日には回収されていたから情報屋が来たことは間違いないが、その後の彼の消息は杳として知れなかった。
――まさかとは思うが、彼の身に何かあったのだろうか?
たとえばこの件が『死神』の耳に入って殺されたとか?
しかしあれほど慎重で用心深い男が、そう簡単に息の根を止められたりするだろうか?
いくら神出鬼没の『死神』と言えど、私が六年かけてもその正体の一端すら掴めずにいる相手をただちに抹殺できるとは思えない。
私は今の自分を取り巻く状況と形のない不安に焦燥を覚えながら、その日も一枚の手紙を残して帰った。
その手紙に綴ったのは一文だけだ。
『名前だけでもいい、やつに関する情報があるならどんな些細なことでも教えてくれ』
そして一刻も早くこの憂鬱な生に終止符を。
× × ×
透き通るような少年たちの歌声が止み、講堂いっぱいの拍手が捧げられた。
讃美歌五一一番。パイプオルガンの演奏に合わせ、聖歌隊が退場していく。
今日の礼拝はこれで終わりだ。最後に司祭様と共に皆が祈りの言葉を捧げ、わたくしは今日もまた主の恵みに感謝する。
けれども、心は晴れなかった。
教会からの帰り道。わたくしは杖をつきながら歩くジェルキンス氏の後ろを数歩遅れてついていく。
すらりと背が高く、足の長い彼は気を抜くとどんどん先へ行ってしまって、目印にしている黒い山高帽も、ロンドンを行き交う紳士たちのそれに紛れてしまいそうだった。
通りには何台もの馬車が行き交い、雑踏と喧騒が曇天の下を埋めている。十一月のロンドンは寒い。わたくしは故郷の屋敷から唯一持ち出せた財産の一つ、貂の毛皮のマフに両手を入れながら、うつむきがちに街を行く。
日曜日。
ジェルキンス氏との口論から一夜が明けた。
あれ以来わたくしとジェルキンス氏はほとんど口をきいていない。昨日も彼は夕方頃アパートへ帰ってきて、何と声をかけようか迷っているわたくしを一瞥すると、何も言わずに寝室へ引き取ってしまった。
だから、もしかしたら今日は礼拝へ連れていってもらえないかもしれない、と思っていたのだ。わたくしは昨日、己の無知と幼さゆえに放ってしまった残酷な言葉について主に懺悔したい気持ちでいっぱいだったから、もし今日教会へ行けなかったらどうしようとそればかりが気がかりだった。
けれどジェルキンス氏は今朝になると、まるでそうするのが当然だと言うように聖書を持ち、わたくしを教会へ促したのだ。
彼は殺し屋なんて背徳的な職業に従事しながら、意外と信心深いらしい。礼拝中に盗み見た横顔もそれは真剣で、一途に主の御救いを求めているように見えた。
他にもジェルキンス氏について、ここ数日の間に分かったことがいくつかある。
まず、チョコレートが嫌いということ。紅茶はアッサムが好きということ。料理があまり上手ではないということ。どうやら望んで殺し屋をしているわけではないということ。
そして銃を握っているとき以外は、努めて紳士であろうとしていること――。
そんな彼に、わたくしはなんと愚かな言葉をかけてしまったのだろう。初めてあのカフェで出会った日、彼はわたくしにこう言った。わたくしの両親が殺された事件について、自分が恨まれる筋合いはないと。
わたくしもそれは分かっているつもりでいた。けれど本心ではまったく理解していなかった。
彼は殺し屋。
わたくしの暖かな家、優しかった家族、約束されていた未来――それらすべてを奪ったあの悪魔と同じ、殺し屋。
そんな思いが、ティーカップの底にしつこく残るシミのようにこびりついていたのだ。
だから彼にもまた憎しみと猜疑の眼差しを向け、己の罪を恐れ苦しむその心を叩き割ってしまった――昨日、わたくしが幼稚な癇癪と共に床へ叩きつけたあのカップのように。
けれど今のわたくしは、彼にかけたあの言葉が間違いだったと気づいている。
それを彼に謝りたいのに、何と声をかければいいのか分からない。
子供だったのはわたくしの方だわ。
既に失った自らの地位を鼻にかけ、ちっぽけな己の価値観を得意になって振り回していた。
そのくせその独善の刃で傷つけた相手に対してろくに謝罪もできないだなんて。
ああ、惨めで泣きたくなる。
わたくしはいつからこんな不誠実で暗愚な人間に成り下がったのだろう――?
「メアリー」
そのとき突然名前を呼ばれて、わたくしの心臓は跳び上がった。
何だか信じられないものを聞いたような気分で顔を上げると、そこにはこちらを向いて立ち止まったジェルキンス氏の姿がある。
「あの店に少し用がある」
そう言って彼が杖の先を向けたのは、ロンドンの大通りに面する小商店だった。
入り口には慎ましやかな木の吊り看板が下がっていて、そこが雑貨屋であることを教えてくれる。その店はテムズ川に架かる橋のすぐ手前にあり、わたくしは器用に馬車の間を縫って歩き出した彼の背中を慌てて追った。
小窓のついた木製のドアをくぐれば、店内には軽快なカウベルの音が鳴り響く。
途端にむっと漂ってきた甘い香りは香水だろうか? 少し暗めの照明が下がった店内は狭く、ちょっとした日用品から帽子、襟巻きなどの衣類、それから調理用の油まで、ありとあらゆるものが取り揃えられている。
これじゃあ雑貨屋というより何でも屋だわ。わたくしが奇異と好奇の目でそんな店内を眺め回していると、先に店へ入ったジェルキンス氏が店主へ向けて帽子を上げた。
どうやらジェルキンス氏はこの店の常連のようだ。簡単な紳士の挨拶を済ませた彼はそのまま、迷いのない足取りですたすたと奥へ歩いていく。
まるで小さな都市のように雑然とした店内にあっても、自分の目当ての品がどの棚に置かれているのか、ジェルキンス氏にはそれが分かるらしかった。
けれど土地勘がないわたくしはその場から動くことがためらわれて、彼の買い物が済むまで大人しく待つことにする。
庶民の暮らしというものに未だ馴染みのないわたくしには、店内を飾るいくつもの品々はどれも未知の塊に見えた。
天井から吊られてキラキラ光っているあれは何だろう? 向こうの壁には見たこともない異国の織物がかかっているし、目の前の机には夜になったら動き出しそうなくらい精巧なフランス人形が並んでいる――。
「行くぞ」
そのフランス人形を手に取ってみようかどうか、わたくしが真剣に悩んでいると、唐突に声が降ってきた。
驚いたわたくしは小さく肩を跳ねさせて、伸ばしかけていた手を引っ込める。
そうして反射的に振り向けば、そこには紙袋を小脇に抱えた紳士がいた。
彼は突然のことに慌てふためくわたくしを訝るように見下ろすと、そのわたくしと目の前のフランス人形とを見比べる。
「欲しいのか?」
「い、いいえ!」
「それは良かった。私はフランスと名のつくものが嫌いでね」
そう言って口の端だけで不器用に笑うと、彼は店をあとにした。
わたくしはそんな彼の態度に少し驚き、数瞬その場に立ち尽くしてから、ようやく我に返って店を飛び出していく。
「あ、あの!」
――昨日はごめんなさい。
今ならそう言える気がした。
ジェルキンス氏は雑貨屋を出てすぐのところに佇んでいて、店を出てきたわたくしに一瞥をくれる。
それから何を思ったか、彼は店で買った荷物の中に手を入れると、そこから取り出した小さな紙の包みを差し出した。
わたくしはそれを受け取り、おずおずと目を落としてみる。
そこには最先端の印刷技術によって美しく刷られた――『Chocolate』の文字。
「食べたかったんだろう?」
驚きのあまり言葉を失い、茫然と立ち尽くしてしまったわたくしに、ジェルキンス氏はちょっとだけ決まりが悪そうに言った。
わたくしはそんな彼に返す言葉が見つからず、もう一度手の中のチョコレートに目を落とす。
それから黙り込むことしばし。
やっとのことでわたくしは言った。
「……わたくし、チョコレートはミルクチョコレートが好きなの」
「贅沢を言うな。あのアパートが貴族の屋敷に見えるのか?」
呆れたように彼が言う。もちろん彼が買ってくれたそれは、ごくごく普通のチョコレートだ。
けれどもわたくしにはそれが嬉しくて――たまらなく嬉しくて、つい彼をからかいたくなってしまった。
もちろん彼もそれを分かっている。だから余計な冗談を言うのはそこまでにして、わたくしは相変わらず気難しい顔でこちらを見ている紳士に笑いかけた。
「ありがとう、ミスター・ジェルキンス。大切に食べるわ」
「ヘンリーでいい」
やはり決まりが悪そうに言って、彼は横を向く。そのダークグリーンの瞳が忙しなく泳いでいるのを見て、わたくしは更に吹き出したくなってしまった。
「分かった。ありがとう、ヘンリー」
「……。そんなに大事に抱えると溶けるぞ」
「いいの」
「良くないだろう」
「いいの!」
貂皮のマフは小脇に抱えて、わたくしは彩り美しいチョコレートの包みを抱き締める。彼は――ヘンリーはそんなわたくしを見てますます呆れ顔をし、けれどもわたくしの足元に段差があるのを見て取って、すっと左手を差し出した。
わたくしも自然とその手を取る。革の手袋を嵌めたヘンリーの手はしかし、温かかった。
わたくしたちはそのまま歩き出す。
彼は右手にステッキを、わたくしは左手にチョコレートを持ったまま。
「ねえ、ヘンリー」
「何だ?」
「昨日はごめんなさい」
「いや。あれは私も悪かった」
「でもね、わたくし一つだけ許せないことがあるの」
「というと?」
「貴方、フランスのお菓子を見たことがないでしょう? あれは芸術よ」
「生憎私にはモナ・リザを食べる趣味はなくてね」
「……貴方って本当に減らず口だわ」
「君ほどじゃないさ」
× × ×
「――あれェ……?」
と開口一番、俺は鏡の前で首を拈った。
ヒゲのないつるりとした顎を撫で、「おかしいな?」と考え込む。
俺はついにチョコレート好きが高じて、眠りながらにアレを食っちまったんだろうか? だとしたらまるで夢遊病者だ。
そんな自分を想像すると何だか無性に可笑しくて、俺はヒヒヒと笑いを零した。すると鏡の向こうの俺も笑い、それがまた可笑しくて思わず腹を抱えてしまう。
アー、いけねーいけねー。時刻はまだ夜明け前だ。あんまり騒ぐと面倒なことになる。
何だかよく分からねーがこれはチャンスだ。そう思った俺は鏡の前でニンマリして、髪をボサボサに整えた。
それから景気づけに冷たい水で顔を洗い、サッサと洗面所をあとにする。玄関にあったコートを掴んで適当に羽織り、俺はそのまま未明のロンドンに繰り出した。
ねぐらから一歩外に出れば、そこは完全なる静寂と霧の世界だ。遠くで灯るガス灯の明かりが薄ぼんやりと見えるくらいで、視界はほとんど利きやしない。
だがそれがどうした? 今の俺は最高にハイでフリーだ。
今更恐れるものなんざ何もねえ。たとえこの霧の向こうから本物の死神が現れようと構いやしない。
俺は特に行くあてもないくせに上機嫌で、ピューピュー口笛を吹きながら歩いた。
とりあえずソーホーにでも行こうかな? なんて思いながら近道を使い、人気のない裏路地から通りに出る。路地を抜けた先はすぐ橋だ。
俺はひとまずその橋を渡ろうと足を向け、しかしそこでようやく違和感を覚えた。
……? 何だろな?
なんか大事なモンを忘れてる気がする。
忘れてるっていうか、足りねえって言うか……何だっけな?
頭の片隅に引っかかってモヤモヤする〝ソレ〟を思い出そうと、俺は口笛を吹くのをやめて意識の海へ潜る。
けれどもそれがいけなかった――いや、むしろ幸いしたというべきか?
そのとき俺は〝忘れている何か〟を思い出す作業に夢中で、前方から近づいてくるその音に気づかなかった。
それは車輪と蹄の音――。
ふと我に返ったときには目の前に馬の顔があり、俺は思わず「うおっ」と仰け反って横へ跳ぶ。
だが馬の方はそうもいかなかった。憐れにも重い箱馬車につながれた二頭の馬は、突然霧の向こうから現れた〝死神〟に驚いて嘶きを上げた。
おかげで馬車は急停止。慌てた馭者の声がする。
「おい、どこ見て歩いてる!」
ほどなく馬を宥めた馭者が、馬車上から俺に向かって罵声を吐いた。
俺はそれにカチンときて、思わず「あァ?」と聞き返す。前方不注意はお互いサマだろ? なのにこのシャッポ野郎は俺にだけ責任をなすりつけるつもりか?
「てめえ、文句ならその馬かソイツを躾けた馬丁に言えよ。こちとら危うく轢かれるとこだぜ」
「何だと? 馬車の前に飛び出してきたのはそっちだろうが。そもそも貴様、この馬車を一体誰の馬車だと思ってる!」
「はァ? 知るかよ、んなモン」
――なんかコイツ、ムカつくなァ。殺しちゃおっかな?
居丈高な馭者の対応にイラッとした俺は、手を入れたポケットの中の銃に触れた。そこにある冷たい鉄の感触が指先から脳髄へと伝わり、途端に甘い興奮がビリビリと背筋を駆け上がる。
ああ、そうだ。殺しちまおう。俺様の気に食わねえヤツは全部全部全部!
今までだってそうしてきたんだ。俺がブッ壊してやるんだ。
まったく理不尽で不平等で、クソッタレなこの世の中すべて!
「――何事だ?」
ようし、そうと決まりゃあ血祭りだ――そう思い、すかさず銃を抜こうとした俺の昂揚はしかし、すんでのところで邪魔された。
急に霧の中から低い男の声が聞こえたと思ったら、お上品なシルクハットに毛皮つきのコートを着込んだ初老の男が現れる。
アララ、コイツはまたダンディでご立派なジェントルマンですこと。
どうやらその紳士こそが、たった今急停止した馬車の持ち主らしい。
「あっ、これは旦那様……お騒がせして申し訳ございません」
馬車を下りてやってきたソイツを見るや、馭者はシャッポを取ってヘコヘコと頭を垂れた。それからいかにも恨みがましい言葉つきで、「実はあのゴロツキが……」と俺の存在を主人に示す。
途端に男がジロリとこちらを睨んできたが、そんなモンは屁でもなかった。
何ならこの老いぼれごと神の御許とやらに送ってやろうか? そう思いながらニヤリと笑ったところで――俺は気づく。
「アレ……? アレ、アレ、アレェ?」
突然調子っぱずれな声を上げた俺を、二人が道端の汚物でも見るような目で眺めてきた。
だがそんなことはどうでもいい。俺は直前までの燃えるような殺意も忘れて目を剥くと、シルクハットの下にある男の顔をまじまじと覗き込む。
「こいつァ驚いた。まさかこんなところでアンタに会えるとはなァ」
「何?」
「アンタ、知ってるぜェ。ダンヴァーズ卿だろ、外交官の」
霧の向こうで、男の目が見開かれた。しかしその表情を驚きがよぎったのは一瞬で、男はすぐに平静を取り戻すと、厳めしい顔を作りながらこちらへと向き直る。
「これは失礼。いかにも私はジョン・ダンヴァーズだが、以前どこかでお会いしたかな? 君のような無作法者は、一度会ったら忘れないと思うのだが」
「ヒヒヒ、安心しろよ、アンタが耄碌したワケじゃねェからサ。ケド、アンタのウワサは色々と聞いてるぜェ。オンナと酒が大好きなカネの亡者、ジョン・ダンヴァーズ侯爵と言やァ、その道じゃあ有名だ。今日も乱交パーティーからのお帰りでェ?」
だってこの馬車、ソーホーの方角から来たもんなァ? 俺が言葉尻にそんな皮肉を込めてやれば、案の定外交官の顔色が変わった。
その頬は怒りと屈辱でみるみる赤黒く染まり、薄い唇が物言いたげに震えている。けれどもすぐに何も言い返してこないのは俺の言葉が図星だからだ。そうに違いない。
「ヒヒヒヒ、相変わらずイイ暮らししてますなァ。その歳でカネもあって性欲絶倫たァ羨ましい限りだぜ」
「おいっ、貴様――」
「ケド、問題はそのカネの出所だよ。アンタさァ、今もあんな詐欺続けてるワケ? 万一女王陛下に知られたら、そんときゃお尻ペンペンだけじゃ済まねェぜ」
「一体何の話だ? わけの分からない言いがかりで人を侮辱するのはやめたまえ!」
「侮辱? 事実を事実として口にすることが侮辱になるのか? アンタ、前にどこぞのビンボー子爵に嘘八百の儲け話を吹き込んで、架空の鉄道会社に全財産投資させただろ。そんでそのカネはぜェんぶアンタの懐に入った。まったくボロい商売だよなァ、大英帝国サマサマだ!」
夜明けを控えた霧の街。その街のド真ん中、テムズ川の真上で俺が絶笑した刹那、ダンヴァーズの右手が動いた。
――だが遅え。ヤツが懐から銃を抜く前に俺はウェブリーを抜き、三発連続で発射する。
そのうち一発はダンヴァーズの右腕を、もう一発は右足を、そしてもう一発は馭者台で銃を抜いたシャッポ野郎の頭を撃ち抜いた。
砲声に驚いた馬が嘶き、白目を剥いた馭者がひっくり返って馬車を落ちる。一方足を撃たれたダンヴァーズもまたその場に倒れ、濁った悲鳴を上げていた。
その手が取り落とした黒い拳銃を、俺はすかさず蹴飛ばして霧の魔物にくれてやる。
――ああ、ついにこのときが来た。
俺は神サマとかいうヤツが死ぬほどキライだが、今なら少しは感謝してやってもいい。
腹の底からドス黒い興奮がやってきて、俺は頬を裂くように口角を持ち上げた。
――そうだ、初めからこうすりゃ良かったんだ。
俺は石橋を這って逃げようとするダンヴァーズの背中を踏みつけ、痺れるような昂揚に天を仰いで哄笑する。
「ヒ、ヒヒ、ヒャハハハハッ! ああ、待ってた! 俺はこのときを待ってたんだよ! なァ、お偉い外交官サマ! アンタ乱交パーティーがお好きなんだろォ!?」
「ヒ、ヒィッ……!」
「だったら俺もアンタのシュミに付き合ってやんよ。キモチよすぎて昇天するぜェ? 今からその汚ェケツの穴に――俺のとっておきをブチ込んでやっからよォ!」
「や、やめ――!!」
もちろんみなまで言わせなかった。俺は霧の街に高笑いを響かせて、ウェブリーの残弾を全弾ダンヴァーズにくれてやった。
三度の閃光が霧を照らし、あたりに硝煙の匂いが漂う。それでもなお引き金を引き続けて、俺は初めて空転する弾倉を忌々しく思った。
――クソッ!
たった六発程度じゃ足りねえ。どうして今日に限って予備の銃も弾薬も持ってこなかった?
これじゃ全然足りねえんだよ。
コイツだけは何度殺しても殺しても殺しても足りねえ!
俺は橋上で雄叫びを上げ、既に息のないダンヴァーズの頭を思い切り蹴り飛ばした。
本当はそのまま原形も分からねえくらい顔面を歪めてやりたかったが、途端に足元がふらついて、俺は二、三歩あとずさる。
そうして冷たい石の欄干に背中を預け、すさまじい頭痛を覚えてから、ようやく細く自嘲した。
ああ、思い出した。思い出したぜ。
今の俺には弾薬も足んねえが、それ以上に――
「チョコが足んねえ……」
× × ×
私がひどい悪夢に魘されて飛び起きたとき、日は既に昇っていた。
書斎のカーテンが開いている。窓の向こうに見えるロンドンの空は今日もどんよりしていたが、不思議なことにそれがいくらか私を冷静にさせた。
目が覚めればいつもと変わらない日常がそこにある。それが今の私にとって最も大切なことなのだ。
悪夢ごときに心の均衡を奪わせはしない――そう思いながら深く息をついたところで、私は全身を濡らす不快な汗に気がついた。
この季節、ロンドンの朝は寒い。だのに私は長時間蒸し風呂の中にいたかのように汗だくで、ひどく喉が渇いていた。
おまけに背中と腰が痛い。私は依頼人の少女――メアリーとの共同生活を送るようになってからというもの、ベッドは彼女に譲って書斎の揺り椅子で眠っているため、最近毎朝こうなのだ。
すっかり老い木のようになった体をバキバキと鳴らしながら、私は慎重に、かつゆっくりと揺り椅子から足を下ろす。そうして何とかその重労働を終えたところでもう一度息をつき、汗で濡れた顔を拭ってようよう重い腰を上げた。
とにかくまずは水が飲みたい。それからあわよくば顔を洗って汗を流し、そのまま目覚めのアッサムティーを――。
そんなことを考えながらぼんやりと階段を下りたところでふと気づく。
――何やら焦げ臭い。
何だ、この匂いは?
「まさか――」
次の瞬間、私の脳裏に芽生えたのは、恐怖とも絶望ともつかない焦りだった。
もしや私の命を狙った放火か――? とっさにそう思ったのだ。
殺し屋という職業は常に死と隣合わせ。それはこの六年間の経験でさすがの私も学んでいる。
とにかく私は階段を駆け下り、玄関の隅に置かれたサイドテーブルの引き出しから愛用の銃を取り出した。そうして警察犬のごとき鋭敏な嗅覚を発揮して、異臭の出所を嗅ぎ当てる。
この匂いは一階のキッチンからだ。さては窓から火のついた瓶でも投げ込まれたか――私は全身に緊張を漲らせて気配を消し、短く息を吐き出すと、直後に階段脇のドアを蹴り開ける。
が、そうして素早く構えた銃口の先にいたのは、
「…………メアリー?」
私は銃を下ろすのも忘れて唖然とした。そしてそれ以上に驚いた顔で、キッチンの前に立ったメアリーがこちらを見ていた。
そのメアリーの目の前にある作業台で、底の丸い鉄鍋が黒い煙を上げている。異臭の原因は言わずもがなそれだ。一拍遅れてその事実に気がついた私は、ようやく構えていた銃を下ろす。
それから互いにしばし立ち尽くして、いくらか冷静になってから私は言った。
「メアリー、そこで何をしている?」
「あ、あの、これは……」
私の問いに答えようとして、メアリーは口ごもる。目の前の鍋とこちらとを見比べ、何と答えたものか迷っているようだ。
それを見た私はひとまず銃をテーブルに置き、歩み寄って鍋の中身を覗き込んだ。
黒い鉄鍋の底には、その鍋よりも黒い何かがこびりついている。しかもひどい匂いだ。これは最高位の悪魔を召喚するための呪物です、と言って教会へ届ければ、あるいは裁かれるかもしれない。
私はあまりの悪臭とグロテスクな鍋の中身に眉を寄せて、思わずメアリーを顧みた。
「これは?」
「……朝食を作ろうと思ったの。食事はいつも貴方が用意してくれるから、たまにはわたくしがと思って。でも……」
言って、メアリーはばつが悪そうに闇の塊と化した鍋を見る。それからようやく自分の失敗を受け入れた、と言うように、彼女は憮然と息をついた。
「ごめんなさい。鍋を一つダメにしてしまったわ。わたくし、これまで食事は屋敷の料理人に任せきりだったから……」
「だろうな。だが、それを分かっていて何故こんな無茶を?」
「だって、たまには貴方にもおいしいものを食べていただきたいと思ったから……」
「ふむ。それは私の出す普段の食事がおいしくないと言っているように聞こえるが?」
「あっ」
しまった、というような顔をして、メアリーが口を押さえた。……なるほど、まったく彼女は正直者だ。私は口髭を揺らしながらため息をつき、壁にかけられていた木製の箆で悪魔の料理を叩いてみる。……硬い。とてつもなく。
ところがそのとき玄関から、ガコンと小さな物音がした。何のことはない、今日の朝刊がポストに投げ込まれた音だ。
私は毎朝売店に寄って新聞を買うのが手間なので、この街では珍しい新聞配達という手法を頼っている。メアリーも初めはそれを珍しがっていたのだが、この家での共同生活も十日を過ぎると、既に何の感慨もなくなったようだ。
「メアリー。まずい目玉焼きとベイクドビーンズで構わなければ、朝食は私が作る。代わりに君は新聞を取ってきてくれ」
「もう、意地悪!」
自分の失言をつつかれたことが気に食わなかったのだろう。メアリーは眉尻を上げてそう吐き捨てると、すぐさま玄関へ向かって駆け出した。
私はそんなメアリーの後ろ姿に思わず笑みを零しながら、主のもとへ召された鍋を流し台に放り込む。とにかくまずはこの悪臭を何とかしたくて、そこに水を流し込んだ。
次いで床下の貯蔵庫をあさり、今日の朝食に使えそうな食材を探す。
鶏卵と、インゲン豆と、それから分厚いベーコンと――。
「……メアリー?」
それらの食材を予備の鍋と共に並べ終え、いざ調理に取りかかろうと思ったところで、私は一つの異変に気づいた。
新聞を取りに行ったメアリーが戻ってこない。玄関はすぐそこだ。歩いて行って戻っても一分とかからない。
さては私の知らぬ間に二階へ上がったか、それとも先程の揶揄に拗ねているのか。どちらかと訊かれたら恐らく後者だろうと思いながらも、私は気になってキッチンを出た。
すると案の定、暗褐色のドアの前にメアリーはいる。こちらに小さな背を向けて、うつむきがちに佇んだまま。
だがその様子がどこかおかしい。私はふと不安に心が翳るのを感じながら、ルーベンスのヴィーナスにも似た後ろ姿へ歩み寄る。
「メアリー?」
うつむいたままのメアリーの手の中には新聞があった。それを持つ彼女の両手は震えている。
――やはり何かあったのだ。そう直感した私はすかさずメアリーから新聞を取り上げた。
その第一面に堂々と見出しが打たれている。
『外交官のジョン・ダンヴァーズ氏惨殺される
犯人は〝死神〟か?
スコットランド・ヤードが懸賞額三倍に』
私は呼吸の仕方を忘れ、意識はしばし地上を離れた。
立ち尽くしたままの背中を、冷たい汗が流れていく。
× × ×
わたくしには、何が起きたのかよく分からなかった。
外交官にしてイングランド侯爵のジョン・ダンヴァーズ卿が殺されたと知った翌日、ヘンリーは荷物をまとめてわたくしの手を引き、アパートを捨てた。
どうして、と問うことができなかったのは、ロンドンの人混みを切り裂くように歩いていくヘンリーの横顔が別人のように恐ろしかったのと、わたくし自身冷静ではなかったためだ。
殺されたダンヴァーズ卿とは、わたくしも過去に交流があった。両親がまだ健在だった頃、侯爵にはよく夜会やディナーにお誘いいただき、何かと親身にしていただいたのだ。
けれどそのダンヴァーズ卿までもが殺された――わたくしからすべてを奪ったのと同じあの悪魔の手によって。
わたくしはあまりの理不尽に、暴れ回る激情を胸の内に留めおくことができなかった。体を燃え上がらせるような怒りと、ダモクレスの剣のようにわたくしを支配した恐怖は、大粒の涙となってとめどなく頬を滴り落ちた。
ヘンリーはそんなわたくしの手を引いて、何も言わず街を行く。小雨の降る中、大きな通りで辻馬車を拾い、そこから三十分ほどかけて知らない場所へ移動した。
この季節、ロンドンの街は概して薄暗い。けれどもヘンリーが私を連れて降り立ったその場所は、そんな晩秋のロンドンでも際立って仄暗い場所だった。
人気もなく、古色蒼然とした建物が並ぶ路地。
その道幅は狭く、聞こえるのは雨音ばかり。
ヘンリーはその路地の更に奥へと潜っていき、やがてわたくしにあるものを示した。
それは細い細い路地の先に聳え立つ、すっかり外壁の脆くなった建物だ。
「今日からはここに身を隠す」
と、その建物を見上げてヘンリーは言った。
無節操に石の箱を積み上げて築かれたような、何とも不格好な建物だ。一階がやけに引っ込んでいるかと思えば突き出した二階の壁はデコボコしていて、なんというか、見ているだけで不安になる外観をしている。
だってこれがもし積み木の塔だったなら、きっとほんの少しの風が吹いただけで崩れてしまうわ。
おまけに何故か一階に扉はなくて、建物の正面から伸びた階段がまっすぐに二階へと続いている。その階段の先に見えるのがこの家の玄関だろうか?
わたくしは何とも心許ないような気分になって、思わずヘンリーへ身を寄せた。
するとヘンリーは黒い傘をわたくしへ差し掛けながら、静かにその場へしゃがみ込む。
「メアリー、私は君に謝らなければならない。恐らくこれからしばらくの間、君には何かと不便をかけることになると思う。ここはあの川辺のアパートのように小綺麗ではないし、眺めも良いとは言い難い。だが一度契約を結んだからには、私は君の依頼を果たすために全力を尽くす」
「どうして」
と、そこでわたくしはようやく尋ねることができた。
「どうして突然こんなところへ? あのアパートに留まることはできなかったの?」
「……実は今朝、例のカフェへ行ったら情報屋からの手紙があった。これだ」
そう言って、彼は黒い外套のポケットから一枚のメモを取り出す。折りたたまれてくしゃくしゃになったそれを彼が開くと、中にはただ一言、
『隠れろ』
そう、書かれていた。
途端にわたくしは恐ろしくなって、冷や水を浴びたように震え上がる。
それを見たヘンリーは情報屋のメモを再びポケットへ捩込むと、わたくしの髪へ指を入れ、梳くようにゆっくりと撫でた。
「何がどうなっているのかは私にも分からない。だが恐らく、事態はあの事件によって動いたのだ」
「ダンヴァーズ侯爵の、死」
「そうだ。彼を殺したのもまた『死神』だろうと噂されている。……まったくあの殺人鬼は、こちらの気も知らないで……」
ときにそう呟いたヘンリーの顔が、微かな苦痛に歪んだ気がした。
わたくしは目聡くそれに気がついて、思わずヘンリーの顔を覗き込む。すると目の合ったヘンリーは、直前までの憂いの表情を掻き消して、わたくしを安心させるように優しく笑った。
「だが大丈夫だ、メアリー。依頼人である君のことは、責任を持って私が守る。たとえ『死神』が私たちの気配を嗅ぎつけ、追ってくるのだとしてもだ」
「そんな……だけど『死神』と正面から戦って、貴方は勝てるの?」
「そうしろと言ったのは君だろう?」
「ええ、そうよ。だけどわたくしは貴方に死んでほしくない」
気がついたときには、口がそう叫んでいた。なんて身勝手な言葉だろうと自分でも思う。けれどそれが紛れもない、今のわたくしの本心なのだ。
ヘンリーはその本心を聞いてどう思ったのだろうか?
彼のダークグリーンの瞳はほんの一瞬だけ見開かれ、けれどもすぐに金雀枝を愛でる春風のような微笑を帯びる。
「メアリー、君は将来良きレディになるだろう。だが私は少しだけ心配だよ、君がそのアフロディーテの魅力とニュクスの瞳でたくさんの男を誑かすのではないかとね」
「それなら貴方がエスコートして、わたくしがヘレネの再来にならないように」
「君のためにトロイアと戦争をしろと?」
「わたくしはたとえ誘惑されても、イーリオスの王子についていったりしないわ」
「分かった。そういうことなら善処しよう」
「本当に? 約束よ?」
「ああ、約束する」
瞬間、わたくしはこの不器用な紳士が愛しくて愛しくてたまらなくなった。自分でも理由はよく分からないけれど、その燃え上がるような情念は、彼を人殺しと詰った過去の自分を打ち据えたいと心から願うほどだった。
途端に抑えがたいまでの衝動に駆られ、わたくしはヘンリーの胸へと飛び込む。ヘンリーはそんなわたくしの大胆さに驚いたようだったけれど、ややあって――まるで成人した淑女を抱くようにぎこちなく――わたくしの背中に手を回してくれた。
冷たい雨が傘を叩く。どうやら雨脚は次第に強まっているようだ。
けれどこの雨が雪に変わる日ももう近い。わたくしは今年の初雪を彼と共に見ることができるだろうか?
そう考えると胸が切なくて、微かに甘い香りのする彼の胸に額を埋めた。
ああ、わたくしはこの匂いを知っている。
心地よく甘くて、それでいてほろ苦い――これは、チョコレートの匂い?
「ああ、そうだ」
と、ときにヘンリーが声を上げ、何か思い出したようにわたくしから手を放した。
そうして彼は傍らに置いていたトランクを手に取ると、中から色彩豊かな包みを取り出す。
それはあの日、ヘンリーが雑貨屋でわたくしに買ってくれたのと同じチョコレート。
「これを君に」
「……わたくしに? どうして?」
「もしかしたら、しばらく外を出歩くことができなくなるかもしれないからな。その間はこれで我慢してほしい」
「だけどこれ、ミルクチョコレートじゃないわ」
「メアリー」
「ふふふ、冗談。ただのチョコレートだって安くはないのに、こんなにたくさん……ありがとう」
ヘンリーが差し出してくれたチョコの包みは、合わせて五つほどもある。きっと今朝あのカフェへ行った帰りに買ってきてくれたのだわ。いつ『死神』が姿を現すとも分からないこの状況で、わたくしのために――。
そう思うとますます愛しさが募って、わたくしは泣いてしまいそうだった。
ヘンリーはそんなわたくしの頭をひと撫ですると、笑ってゆっくりと立ち上がる。
「さて、それでは栄えある騎士として、女神をいつまでも寒空の下に置いておくわけにはいかないな。ここにいては風邪をひく。中へ入ろう」
「ええ」
わたくしは差し出されたヘンリーの手を取った。彼はまるで淑女をダンスに誘うようにその手をそっと握り返すと、わたくしを階段の前へと導いてくれる。
彼が新しい隠れ家だと言った建物はやはりとても不格好で、間近で見ると不安はいよいよ膨らんだ。
だけど、きっと大丈夫。
彼が――ヘンリーが一緒なら。
× × ×
妙な気配で目が覚めた。
こういうときの俺のカンはよく当たる。
その晩、俺は目覚めるや否や口元を拭って「おや?」と思ったが、この際そんなことはどうでも良かった。
すっかり伸びた髪を両手で掻き上げ、暗闇の中で俺は笑う。コイツはいよいよヤバいことになってきた。こうなったのは、アイツもどこかでそれを察知していたからかもしれない。
そもそも思い返してみれば、最初からおかしかったんだ。こんなことは今まで一度もなかった。とにかく暴れて壊してブッ殺すしか能のねえ俺でさえ「なんかおかしくね?」と感じたくらいだから、やっぱりこの件には初めからウラがあったんだろう。
だがソレについて考えるのはあとだ。俺は黒豹にでもなったつもりでするりと音もなく寝床を抜け、枕元に置いていた銃を取る。
更に暗闇の中で目をギラギラさせながら、手早く装備を整えた――壁にかけておいたショルダーホルスターを両肩にかけ、闇に溶け込む黒いコートをざっと羽織って。
そのまま足音を忍ばせて玄関まで行く。ところどころささくれだった木の床は油断すると軋みを上げるが、ここ数日間の潜伏でどこが脆い箇所かは把握済みだ。
俺はそのポイントを避けながらするすると細い廊下に出て、玄関の前で息を潜めた。すると途端に聞こえてくる――薄くてボロいドアの向こうで、カチャカチャと鳴る微かな金属音。
バカが、ご丁寧に鍵を開けて入ってくるつもりか。俺はヒヒヒと笑い出しそうになるのを堪えながら、そういうことならコッチも鄭重にお迎えしてやろうという気になった。
このままドア越しに相手を撃ち殺すってのもアリだケド、相手が単独犯とは限らねえ。いや、そもそもこの俺様を相手に一人で挑んでくる命知らずが今のブリテンにいるかどうか。
ちなみにこの家のドアは内開きだ。俺は音と気配を殺し、ドアが開くと死角になる位置へ潜り込んだ。
そうして息を詰めること数秒。ついに鍵の外れる音が聞こえ、ゆっくりとドアが開く。
狭い廊下に向かって開かれたドアは、静かに俺の目の前まで迫ってきた。ピッキングで鍵を開けた侵入者は慎重に中の様子を窺ったあと、忍び足で屋内へと侵入してくる。
――見えた。
入ってきたのは二人。他に仲間がいるかどうかは知らねえが、少なくともすぐ傍にはいねえ。
暗すぎて顔は見えない。だが体格からしてどちらも男だ。
でもって仲良く背中がお留守。まさか完璧に気配を殺してやってきた自分たちの背後に〝死神〟が隠れているとは夢にも思っていないのだろう。
だから俺は言ってやった、
「メリークリスマス」
二人の男が反射的にこちらを振り向く。瞬間、俺は隠れ蓑にしていたドアを蹴り閉め、二人の眉間に一発ずつ鉛玉をくれてやった。
クリスマスまでにはまだ日があるが、まあいいだろう。一足早いクリスマスプレゼントだ。俺は血を噴いてブッ倒れた良い子の二人に歩み寄り、何かコイツらの身元を改められるモンは――と懐をまさぐった。
が、そのときだ。
「――ヘンリー!? 今の音は!?」
突然家の奥から甲高いガキの声が聞こえ、俺は「あ?」と顔を上げる。
すると途端に、あたりに鋭い光が射した。俺はソイツが眩しくて、思わず「うおっ!?」と腕を翳す。
次いで聞こえた足音に目を細めて奥を見れば、そこには灯入りのランタンを持った寝間着姿のガキがいた。
勇敢にもその手には小振りのナイフを構えながら。
「え……?」
と、そのガキが俺の姿を見て立ち竦む。いや、あるいは今俺の足元に転がっている死体を見て唖然としたのかもしれないが、まあそんなモンはどっちでもいい。
俺はなおも左腕を額のあたりに翳したまま、ゆらりとその場に立ち上がった。それを見たガキがあとずさる。
「オイ、お前。今すぐそのランタンを消せ、眩しいんだよ」
「あ……あ、ぁ、貴方は……!」
「アー、〝初めまして〟? じゃねェよなァ、お嬢サン。一応〝お久しぶり〟って言った方がいいかァ?」
「あ、あぁ……貴方は――『死神』……!!」
こちらに向けられたナイフの切っ先が、ランタンの灯を照り返しながらグラグラ揺れた。どうやらガキは俺の姿を見てかなり動揺しているらしく、全身が瘧のように震えている。
だから俺もちょっとおどかしてやろうと、明かりの中でニィッと笑った。
この営業スマイルに、コイツは見覚えがあるはずだ。
「ったくよォ、てめえもとんだ恩知らずだなァ、メアリーちゃん。まさかあんとき見逃してやった恩も忘れて俺様を殺しに来るなんてよォ」
「……!!」
「本当はお前も殺したくて殺したくてしょーがなかったんだぜェ? だけどアイツがガキは殺すなってウルセーからよ、特別に見逃してやったワケ。なのになぁんでこんなトコ来ちゃうかなァ?」
笑いながら銃を折り、二つ空いた弾倉に弾を込めて歩き出す。それを見たガキがただでさえデカい目を見開き、更に二、三歩あとずさった。
けれどもそれ以上は動けないようで、こちらにナイフを向けたまま固まっている。そんなヘナチョコの構えで俺様を殺れると思ってんのか? そもそもそのナイフ、どっから持ってきた?
「ま、その話はあとでいっか。それよりお前、チョコ持ってねえ?」
「ど……どうして……」
「この状況じゃアレがねェとヤベェんだよ。持ってんだろ、一枚くれよ」
「違う! どうして貴方がここにいるの? ヘンリーをどうしたの!? まさか、まさか貴方は彼まで……!!」
「あァ? あんな腰抜けのことは今はどうだっていいだろ。それより――」
と、言いかけたところで俺は気づいた。
――背後。さっき俺が蹴り閉めたドアの向こうで声がする。
まだ遠い。階段の下か?
だがその声はどう考えても穏やかじゃねえ――野郎どもの怒鳴り合う声だ。
「チッ、新手か」
やっぱりお仲間がいやがった。俺は苦々しい思いで舌打ちすると、足元に転がる死体の胸ぐらを掴んで引き起こし、その無駄にデカい図体をドアの前へとブン投げた。更にもう一人の死体もその上に重ね、急拵えのバリケードを作る。
次いで俺は銃を構えた。
銀色に光る銃口が向いた先には――メアリー。
「――!!」
銃声が轟いた。ガキが目を閉じて肩を竦め、ガラスの砕け散る音があたりに響いた。
そのとき俺が撃ったのはランタンだ。火屋が割れて真っ二つになったランタンはそのまま床に落ち、衝撃で油壺から油がぶちまけられる。
その油に火が移った。この家は床が板張りだからよく燃える。炎は見る間に大きくなり、明々とあたりを照らし出した――これでいい。
「きゃあっ!?」
直後、走り出した俺は炎に怯んだガキの手から瞬時にナイフを奪い取った。かなり丁寧に研磨された折りたたみ式の小さなナイフだ。
俺はそれをすぐさまたたみ、コートの懐に突っ込むと、とっさに背を向けて逃げようとしたガキを抱えて駆け出した。どんどん燃え広がる炎から逃れるように奥へ行き、さっきまで俺が寝ていた寝室へと引き返す。
「い、いやっ! 放して、人殺し!」
「うるせェな、ピーピー騒ぐな。緊急事態だ」
「いや! 助けて、ヘンリー――むぐっ」
ガキがあんまり騒ぐので、呆れた俺は一旦床に下ろすと口を塞いだ。そのままガキを引きずるように部屋の奥へ行き、寝台の陰に隠れた床板を思いきり踏みつける。
途端にバンッ!と勢いよく床板が跳ね上がり、建物の一階へと続く入り口が開いた。逃げるために最低限必要なものはすべてコートのポケットに入っている――が、唯一足りねえのはチョコレートだ。
俺はざっと部屋の中に視線を巡らすと、ちょうどベッドサイドに数枚のチョコレートが置かれているのを見つけた。こいつはラッキー、と思いながらその一枚を頂戴し、懐へと捩込んでおく。
それから間を置かず、俺はガキを抱えたまま足元の穴へと飛び込んだ。ダンッと勢いよく着地した先は塗り潰したような暗闇で、一インチ先も見えやしない。
だが上からは玄関を蹴破ろうとしている音が聞こえる。束の間その音を見上げた俺は手探りで闇の中を進み、やがて探り当てた木の感触に強烈な蹴りをお見舞いした。出口を塞いでいた板が吹っ飛び、更に奥の闇への入り口が開く。
その先は建物の裏手にある薪小屋だ。初めから逃走経路が頭に入っている俺は迷わずその小屋へ飛び込み、貧弱な扉を蹴り開けて外に出た。ようやく薄ぼんやりと視界が戻る。
――白い。
その景色を見た俺は少しだけ驚いた。
アー、どうりで冷えるわけだ。ロンドンに雪が降っている。
初雪だなァ、なんてのんきなことを考えながら、俺はうっすらと雪を被った石畳の上を駆け出した。ガキはもはや観念したのか、俺に抱えられたまま声も上げずにうなだれている。それでいい。
俺はそのまま細い路地をグネグネと蛇行し、このあたりで最も近い大通りに出た。こう雪が降ってちゃ、足跡ですぐに逃げた先がバレちまう。
だとしたらこのまま徒歩で逃げるのはマズい。そう考えた俺は、少し先のガス灯の麓で客待ちしている一台の辻馬車に目をつけた。
「オイ、乗せろ」
白い息を吐きながらその馬車の傍まで行き、馭者台にいた男に声をかける。男は雪を被った帽子の下から怪訝そうに俺を見た。
が、その目はすぐさま小脇に抱えられたガキへと移り、ちょっと驚いたように見開かれる。
「おい、あんた、その子は」
「いいから乗せろっつってんだよ! モタモタすんな!」
男が俺を人攫いかなんかだと勘違いしたのはすぐに分かった。それで余計な騒ぎを起こされるのは面倒だと思った俺は馬車を蹴りつけ、手にした銃を男に向ける。
ガス灯のぼんやりした明かりに照らされた男の顔は、みるみる驚愕と恐怖に染まった。それから「分かった、分かった」というように手を挙げると、男は一旦馭者台を下りて、黒い馬車の扉を開ける。
「いいか、ちょっとでも妙なマネをしてみろ。そんときゃこのガキを殺す」
馭者に行き先を告げた俺は、念のためガキに銃口を向けて脅しておいた。馬車の中ではあまり外が見えないのをいいことに、そのまま警察に駆け込まれでもしたら面倒だと思ったからだ。
そんな俺の迫真の演技に騙されて、馭者はコクコクと頷いた。それから大急ぎで馭者台へと引き返し、二頭の馬に鞭打ってすぐさま目的地へと走り出す。
「ハー、疲れた……なんかめんどくせェことになったなァ」
その馬車がしっかり自分の告げた行き先に向かっていることを確かめた俺は、ようやく息をついてグッタリと座席にもたれかかった。
俺、人を殺すのは好きなんだケド、大人数に追いかけられんのは好きじゃないんだよネ。ましてや今はこのガキがいて好き勝手暴れらんねえし。
そう思いながら俺がジロリと見やった先では、ガキ――メアリーが、座席の隅に縮こまって泣いていた。
どうやらスッカリ怯えきっているようだ。アー、もしかしてさっきの〝殺す〟って言葉、真に受けちゃった? 向かい合った座席の間に潜り込むようにして身を縮めたメアリーは、寒さと恐怖で震えながらジッと俺を見据えている。
「オイ、そんな目で人を見んなよ。今回も助けてやったろ」
「……〝助けた〟?」
「そーだよ。アイツら、俺たちを狙って押しかけてきた殺し屋だ。俺様がいなきゃ、危うく殺られるトコだったんだぜェ?」
「……ヘンリーはどこ?」
「あァ? またアイツの話ィ?」
「彼はどこなの? お願い、ヘンリーを返して……」
ウワー、めんどくせ。コイツ、完全に俺がアイツを殺したと思ってるよ。
ヘンリー、ヘンリーと譫言のようにヤツの名前を呼びながらメソメソ泣くガキに呆れて、俺は懐に手を入れた。もーいーや、コイツのことはとりあえずほっとこ。そう思いながらさっき頂戴してきたチョコを取り出そうとして――ふと気づく。
「……んあ?」
そのとき俺の右手がチョコの代わりに探り当てたのは、さっきメアリーから没収したあの折りたたみ式のナイフだった。俺がそれを取り出して試しにパチンと開いてみれば、座席の隅でメアリーが肩を震わせる。
その怯えようが面白かったので、俺はその場でブンブンと軽くナイフを振ってみた。暗い車内に刃が銀色の軌跡を描く。メアリーはそれを見て更にガタガタと震え上がった。
「いいナイフだネ。お前さァ、こんなモンどこで手に入れたの?」
「……」
「答えてくんないと刺しちゃうヨ」
「も、もらった」
「もらったァ?」
「わ、わたくしにヘンリーを紹介して下さった方から、い、いただいたの。も、もしも『死神』が、わたくしの前に、あ、現れるようなことがあったら、それを使って、身を守れと……」
恐怖でしゃくり上げながらメアリーは言う。だが俺はその話にわずかな違和感を覚えた。
「へェ……ソイツってさァ、例の〝情報屋〟?」
「い、いいえ……じ、自分は、情報屋からの使いだと、言っていたわ」
「フーン? 使いっぱしりねェ……」
――しかし、どうも腑に落ちねえ。そう思った俺はナイフで遊ぶのをやめて懐に収い、今度こそチョコレートを取り出した。
その包みを乱暴に開けて中身に囓りつきながら、思う。やっぱり今回の話はどうも妙だ。不自然なモノが多すぎる。
このガキの存在にしたってそうだし、今のナイフの件だってそう。それにそもそも、何故誰にも話していないあの隠れ家の存在がヤツらにバレた?
俺もアイツも、外から戻るとき誰かに尾けられるなんてヘマはしてねえはずだ。だとすれば――このガキが裏切った?
……いや、それはねえな。だってコイツがすべての真相を知った上で送り込まれてきた刺客なら、俺を見てあんなに驚くハズがない。
なら、他に考えられる可能性は――と、そこまで思考を巡らせたところで、さすがの俺もげんなりした。
何故なら座席の奥で膝を抱えたメアリーが、ついに震えながら嗚咽を零し始めたからだ。
「オイ~、いつまでもメソメソ泣いてんじゃねェよ。気が散るだろが」
「うっ……うぅっ……」
泣き止まなければ殺される、とでも思ったのだろうか。メアリーは俺の文句を聞くと、必死に涙を拭って泣き止もうとした。
けれども涙は次々溢れ、どうにも止まりそうにない。メアリーは恐怖で顔をくしゃくしゃにしながら、ついに声を放って泣き始めた。
アーアー、もうマジでめんどくせー。これだからガキはキライなんだよ。
こういうとき、どうすんのがオトナの対応なの? よく分かんねーけど頭でも撫でとけばオーケー?
俺はこれ以上大袈裟に泣かれるのが面倒だったので、とりあえずうつむいたメアリーの髪をワシャワシャと撫でてやった。ホーラ、お兄サンは怖くないですよー、という意味を込めて。
ところが目の前のガキは突然その手を撥ね除けて、
「触らないで、死神!」
と、いきなり強情な態度で叫んだ。
涙で濡れた夜空色の瞳がキッとこちらを睨んでくる。紛れもない憎悪の目だ。
コイツ、やっぱ俺があの腰抜けを殺したと思ってやがるな。呆れた俺は再び面倒になって、パキッとチョコレートの端を折りながら座席へと沈み込む。
「お前さァ、人が慰めてやってんのにその態度はナイんじゃない? あとその〝死神〟って呼び方やめろよ。名前ならこないだ親切な情報屋サンが教えてくれただろォ?」
「知らないわ、そんなの!」
「はァ? お前、字ィ読めねェの? 貴族のお嬢サマなのにィ?」
「一体何のこと?」
「コレだよ、コレ」
このガキとこれ以上会話を続けることにウンザリしながら、しかし俺は仕方なくポケットから一枚のメモを取り出した。
もうずっとそこに入れっぱなしで、くしゃくしゃになったソイツを開いて差し出す。その紙を突きつけられると、メアリーは怪訝な顔をした。
「読んでみろ。コイツにはなんて書いてある?」
「……『隠れろ』」
「ホラ、やっぱり読めんじゃねェか」
「〝やっぱり〟って……それじゃあ、まさか……!」
――ああ、やっぱこのガキはバカじゃねェな。
メアリーはそこでやっと俺の言葉の意味に気がついたらしく、両目を見張ってこちらを見た。
その反応に満足した俺は、ニィッと笑って言ってやる。
「ああ、そうだよ。俺様はハイド。――ハイド・ジェルキンスだ」
× × ×
車輪の音が止み、ハイドと名乗った死神の姿が外へ消えても、わたくしはまるで馬車の一部になってしまったようにその場から動けなかった。
あまりのことに体が凍って、震えさえ止んでしまっている。そのとき、一発の銃声が聞こえた。『死神』が馭者を殺した音だ、とわたくしは思った。
――嘘だ。
先程から繰り返しそう念じているのに、その事実はなおもわたくしを打ちのめす。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
ついにはその呪文を口に出し、頭を抱えて囁き続ける。
嘘だ。
だって、神様。
貴方はこの上、そんな残酷な真実をわたくしに突きつけようというのですか?
「――オイ、下りろ」
ああ、悪魔の声がする。けれどもわたくしはたった今自分の身に起きていることを信じたくなくて、泣きながらその場を動かなかった。
ただ少しだけ顔を上げて、ガス灯の明かりに照らされた悪魔の顔を凝視する。……まるで別人だわ。少し癖のある髪はボサボサで真っ黒だし、口髭だって生えていない。顔つきも彼よりずっと若くて、二十六、七歳くらいじゃないかしらと思う。
けれど唯一変わらないのは、わたくしを見つめるダークグリーンの瞳。
そしてこの死神は、わたくしを殺さなかった。
「オイ、何やってんだよ。さっさと下りろっつってんだろォ?」
「……」
「この先に次の隠れ家がある。モタモタしてっと置いてくぞ」
「……」
「あのさァ。お前、力づくで引きずり下ろされたいワケ?」
「――誰なの?」
「あァ?」
「貴方は、誰なの……?」
それでもやっぱり信じたくなくて、こんなものは嘘だと証明したくて。
わたくしは再び甦ってきた震えに体を包まれながら、勇気を振り絞ってそう尋ねた。
それを聞いたハイドがため息をつく。呆れたように横を向いた彼の吐息は、白く染まって夜に溶けた。
外では雪が降っている。今年最初の降雪だ。
けれどもその初雪を共に見たいとわたくしが願った人はここにはいない。
いないのだ。
そう、信じたかったのに、
「チッ、しょうがねェなァ……ちょっと待ってろ」
そう言うが早いか、ハイドは自らの額に手を当てて何事か呟いた。
その言葉はわたくしには聞き取れなかったけれど、途端に彼の様子が豹変する。
まるで突然呪いが降りかかったかのように、ハイドはその場で苦しみ出した。頭痛がするのかきつく額を押さえ込み、呻きを上げて屈み込む。
その体がぐらりと傾ぎ、ハイドが地面に膝をついた。
それを見たわたくしは思わず「あっ」と声を上げ、馬車の陰に消えた彼の様子を窺おうと走り出る。
そして、言葉を失った。
次にガス灯の明かりが照らし出したのは、薄く雪の積もった地面にうずくまる――金茶色の髪の紳士だったから。
「ヘンリー……?」
茫然とその名を呼んだわたくしの声に、彼は微かに反応した。
地面に額を擦りつけるようにしながら呻き、大儀そうに体を起こす。その表情は苦痛に歪み、呼吸もかなり乱れていた。
けれどもそれは紛れもなくヘンリーだ。
ところどころほつれた金茶色の髪。よく手入れされた口髭。ほどよく高い鼻。
そして、ダークグリーンの瞳――。
「……メアリー? ここは……」
ようやく自我を取り戻した最愛の人は、馬車の入り口で立ち竦んでいるわたくしを見やり、次いであたりを見渡した。
その瞳に驚きと困惑が揺れている。彼は黒い外套を羽織った自らの体をしげしげと見下ろし、それでも得心がいかない様子でわたくしを見上げた。
「メアリー、ここはどこだ? 私は何故こんなところにいる? 記憶が……記憶が曖昧なんだ。どうして、私は――」
すっかり狼狽した様子で立ち上がり、ヘンリーはもう一度あたりを見渡した。
けれどもわたくしは答えない。
答えられない。
ただ一人、未だ真実に気づかぬ紳士が、眉をひそめてこちらを見やる。
「メアリー?」
「ヘンリー……ああ、ヘンリー。貴方は――」
銃声が、轟いた。
わたくしの目の前で、ヘンリーの唇を鮮血が伝う。
わたくしは目を見開き、言葉を忘れた。
すべての時がゆっくりと流れ、音さえも消し飛んだ夜の世界で、ヘンリーがその場に膝を折る。
「――ヘンリー!!」
わたくしの叫びが鞭となり、打たれた時が再び動いた。
わたくしは直前までの動揺も忘れて馬車を飛び降り、倒れたヘンリーへと縋りつく。
ああ――ああ、なんてこと!
ヘンリーの腹部から流れ出した温かな血が、信じられない早さで地面の雪を溶かしていく。その赤い流れは石畳の間をゆるゆると進み、瞬く間に血の池を作った。
「ヘンリー、ヘンリー! しっかりして、お願い……!」
傷を押さえた彼の手が真っ赤に染まっている。いくら呼びかけても返事はなく、既に意識があるのかどうかさえ疑わしかった。
このままでは彼が死んでしまう。早く医者を呼ばなければ。そう思い、とっさに顔を上げたところで気づく。すぐそこにある路地から銃を構えて現れた――一人の男。
「へへへ……こいつぁすげぇもんを見た。話に聞いたとおりだぜ」
その男が口元に浮かべた、いかにも下卑た笑みを見て、わたくしはとっさにヘンリーへと覆い被さった。
この人はきっと、さっき彼が――ハイドが言っていた殺し屋の仲間だ。狙いは恐らく、ハイド。何故なら彼の首には高額の賞金がかかっているから。
そしてこの人もきっと、先程の人知を超えた出来事を見ていた。
だからその銃口は迷いなく、ヘンリーを庇うわたくしへと向いている。
「やあ、お嬢さん。アメリカ大陸が発見され、産業革命が起きた今も、この世にはまだまだ驚くべきことがあるようだ。おれは今少し、神様ってもんを信じてみる気になったよ」
「……っ!」
「できれば君のような可愛らしいお嬢さんを撃ちたくはないんだがね。おれたちのボスが言うには、どうやら君は――用済みだそうだ」
引き金にかかった殺し屋の指が動いた。撃鉄が下がり、筒状の弾倉がくるりとわずかに回転する。
――撃たれる。そう直感したわたくしは、ヘンリーの体を抱いたまま覚悟を決めて目を閉じた。
銃声。
わたくしは体を縮めたまま硬直する。
次いで聞こえたのは何か重いものが地面に落下するような音と――パキッと、気持ち良く何かが割れる音。
「アー、くそ……やっぱりか……」
聞こえた声は、ヘンリーのそれとはまったく別のもの。
けれどもわたくしははっとして、その声の主を顧みた。
そこにいたのは黒髪の死神。その口には割れたチョコレートが咥えられている。
右手には拳銃。硝煙立ち上るその銃の先には――胸を撃たれて倒れた殺し屋。
「あ、貴方、どうして……!」
「うるせェ。――持ってろ」
死神は投げやりにそう言うと、わたくしに何かを押しつけてきた。慌ててそれを受け取れば、渡されたのは見たこともないくらい小さな拳銃だ。
「こ、これは……」
「レミントン・デリンジャー。シングルアクション式だ。さっきの馭者が俺を撃とうとしたんで奪ってやった……念のために、持ってろ」
掠れた声で言いながら、彼は――ハイドは体を起こした。その腹部からはなおも血が流れ、額には大粒の汗が噴き出している。
呼吸をするのさえ苦しそうに見えた。わたくしは彼の正体も忘れてその体を支えようとした。
けれどもそのとき、どこからともなく慌ただしい足音が聞こえてくる。それも複数。足音に混じった下品な怒鳴り声からして――警察ではない。
「クソッ……そこでじっとしてろ!」
「きゃ……!?」
その足音を聞いたハイドがにわかにわたくしの襟首を掴み、力任せに引きずり起こした。瞬間、わたくしの体は宙に浮き、そのまま馬車へと放り込まれる。
したたかに体を打ちつけられ、わたくしは小さく呻きを上げた。その間にも扉は閉まり、怯えたような馬の嘶きがする。
直後、ガタンと馬車が揺れたかと思えば、二つの車輪が動き出した。
まるで狂ったような速さだ。きっとハイドがあの乱暴さでもって、二頭の馬を古代エジプトの奴隷のように打ち据えたに違いない。
「野郎、待ちやがれ!」
馬車の外で怒声が聞こえた。次いで数発の銃声が轟き、わたくしは思わず身を竦める。
けれども馬車は走り続けた。
殺し屋たちの怒声が、あっという間に引き離されて遠くなった。
× × ×
ああ、クソ、冗談じゃねえ。
一体なんでこうなった?
そう自問してから、自嘲する。
そういや前に腰抜けヘンリーが、日記にこんなことを書いていやがったっけ。
〝神の法には時効はない。記憶が過ちを忘れてしまい、自分を愛する心が罪を許してしまってから何年も経ってから、罰というものはびっこをひきながらやってくるものだ。〟
――つまり俺は追いつかれたのか。そう思うと笑い出したくもなる。
けれどもメアリーはそんな俺を見て、いよいよ気が狂れたと思ったようだ。
「ねえ、ヘンリー、しっかりして! 他に逃げるあてはないの?」
「だから俺はヘンリーじゃねェって……」
げんなりして答えた先から血が込み上げてくる。俺はその圧迫感にウエッと嘔吐き、遠慮なくその場に赤い塊を吐き出した。
隣ではそれを見たメアリーがあたふたしている――それにしてもあの腰抜けは、何だってこんなガキを守りてェなんてほざきやがるんだ?
俺は、今までの俺にはまるで無縁だった苛立ちと倦怠感に苛まれながら内心呆れた。けれどもアイツがそう願うならしょうがねえ。
何故ならあの腰抜けの望みを叶えることが俺の役目、俺の存在意義。
ソイツを否定しちまったら、俺はもうこの世にゃいられねえ。
「クソッタレが……とにかく、今はコイツに乗って逃げるしかねェ……」
「乗るって、でも、水夫もいないのに?」
そう言ってメアリーが俺と見比べたのは、テムズ川に突き出した船着き場――その先に係留された一隻の蒸気船だった。
全長六ヤードくらいのボロ船だ。ろくに手入れもされていない船体は見る影もなく煤まみれで、元はどんな色の船だったのかも分からねえ。
だが俺はこの船の持ち主と顔見知りだった。いざというときの逃走手段として、コイツの船主に昔貸しを作っておいたのだ。
船主は酒好きの宿なしで、毎日この船の上で寝泊まりしているという変わり者だったが、気はいいヤツでそこそこ信用できると思っていた。
だがその船主は今甲板の上に横たわり、胸から血を流して冷たくなっている。
まったく本当にクソッタレだ。野郎、俺がこの船を逃亡用にキープしていることまで調べ上げていやがった。
とは言えこれ以上あの馬車で市街地を逃げ回るのは無理がある。馬が潰れりゃあとは徒歩だ。かと言ってさすがの俺様も、腹に穴を開けたままロンドンを走り回る趣味はねえ。
「ハァ……こんなモンはなァ、コツさえ掴めば、ガキのオモチャと一緒なんだよ……お前、先に乗って火室に薪をくべろ。あそこの、薪箱に……火つけ用の薪と、油が入ってる」
「分かった、だけど貴方は?」
「舫を解く。時間がねェ……さっさとしろ」
俺は水面の揺れに合わせてグラグラ動く船にメアリーを押し込む。さっきまでの馬車の中での様子とは違って、ガキは俺に従順だった。
元はと言えばコイツは俺に復讐するためにやってきたハズなのに、妙な話だ。そこまでヘンリーが大事かよ? アイツより俺の方が数段イイ男だぜ?
まったくコイツらの行動原理は分からねえ。内心そう吐き捨てながら、俺は荒い息をついて懐からナイフを出す。
磨きすぎだろと言いたくなるほどよく磨かれたナイフの切れ味はバツグンだった。固く結ばれた舫をほどくのが面倒だった俺はそのナイフで綱を切り、船が岸を離れられる状態になったのを見計らって甲板へと転がり込む。
船の中央にそそり立った煙突の麓では、白い寝間着を早くも煤まみれにしたメアリーが火室で火を熾すことに成功していた。あとはその火の中に石炭をくべればいい。
俺は気を抜くとそのまま夜に溶けそうになる体を引きずって、何とか火室の前まで辿り着いた。
ああ、くそ、血が止まらねえ。頭もグラグラする。凍えそうだ。
指先はもう感覚がねェし、視界も霞む。
それでも俺は懐から取り出したソレを口元へ運び、パキッと折った。
――よし。これでまだ当分はイケる。
「石炭をくべろ」
俺の指示に頷いたメアリーが、火室の脇に落ちていたスコップを拾い、それを船尾に詰まれた石炭の山へと突っ込む。そうして掬い上げた重さに身動きが取れなくなっているところへ手を伸ばし、俺が支えて火室へと運ばせた。
そんなことを二往復ほど繰り返し、鞴で空気を送ってやると、煤まみれの煙突がボンッと景気良く吼声を上げる。
――よっしゃ、動くぞ。俺はニヤリとしながら火室の裏の操舵室へ回り込み、渾身の力でレバーを倒した。左右の外輪が勇ましく回り始める。
「動いた……! 動いたわ、ヘンリー!」
「だから、俺はヘンリーじゃ……アー、もうどっちでもいいや……それよりお前、コッチに来て――」
と、俺が言いかけたそのときだった。
突然の銃声と金属音。目の前で火花が弾け、軽く怯んだ俺の前髪を跳弾が掠める。
――ああ、クソ、追いついてきやがった。
まったくお早いお出ましだ。やっぱりこの場所は初めから割れていたらしく、ようやく船が離れ始めた岸の上から二、三人の殺し屋がバカスカ弾を撃ち込んでくる。嬉しいね、まるで進水式のお祝いだ。
「オイ、メアリー! 舵はお前が取れ、アイツらは俺が何とかする!」
連続する銃声と飛んでくる銃弾に身を屈めていたメアリーが、上手く物陰に隠れながら操舵室までやってくる。ガキの体格ならその両脇に伸びた鉄の風除けで何とか弾は防げるはずだ。俺は口の中に溜まった血をその場にペッと吐き捨てて、コートの下から取り出した二挺のウェブリーを左右に握った。
そのまま甲板の上を這い、横殴りに降る鉛の雨を避けながら舷牆の陰に隠れる。
そうしてほんの一瞬、飛来する銃弾が途切れたところを見計らい、顔を出して発砲した。岸にいたうちの一人が倒れ、一人はすんでのところで弾を躱す。
思わぬ反撃を受けた殺し屋どもは泡を食って、船着き場に並んだ樽や木箱の陰に身を隠した。その間に俺たちを乗せた船は向きを変え、広大なテムズ川の沖へ向かって走り出す。
舷牆に手をかけて何とか体を支えた俺は、それを確かめてヒヒヒと笑った。
ああ、イイ気味だ。既に弾が届かないことを知った殺し屋どもが岸辺で悪態を垂れている。
もうそれ以上は追ってくんなよ。こちとら弾を一発撃ち出すだけで一苦労だ。
照準は合わねえし、引き金はアホみてえに重いし、何より一発撃つ度に腹の穴に激痛が走る。俺ァ痛えのはキライなんだ――。
ロンドンの街を覆い始めた白い霧が頭の中に入り込んで、どんどん広がっていくみたいだった。
意識が霞み、体から力が抜ける。――もう十分だろう。そんな風に呟くもう一人の俺が頭の片隅にいて、俺は〝ヘンリーか?〟と思いながら仰向けに倒れ込む。
ふと気がつけば、いつの間にか雪は止んでいた。
切れ切れになった雲の間から、微かな月明かりが漏れている。
「ヘンリー!」
メアリーの呼ぶ声が聞こえた。だから俺はヘンリーじゃねえって――
――いや、違うな。
ヘンリーは俺で、俺はヘンリーだ。
今まで俺がそれを認めたくなかったのは、アイツがそれを認めたがらなかったから。
だけど、今は――
「――ボンッ!」
と、そのとき遠い吼声が聞こえた。その音で、一度は霧に呑まれかけた俺の意識が覚醒する。
それからよろよろと体を起こして、俺は笑った。
まったく諦めの悪ィクソ野郎どもだ。
舷牆から顔を出した俺の視線の先で、黒い煙を上げた小型の蒸気船がゆっくりと舳先をこちらへ向けている。
「ヘンリー、追ってくるわ!」
……そんなの見りゃ分かるって。俺はもうイチイチつっこむ気力もなく、ひとまず右手をヒラヒラさせた。
いいからお前は舵に集中してろ、の合図だ。会話に割く余力があるなら、俺はソイツを――この一発に込める。
「〝死神〟をナメんなよ」
強張る口角を無理矢理吊り上げ、俺はグングン近づいてくる小船に狙いを定めた。
向こうの船に乗っているのは三人か。一人は舳先に、一人は火室に、一人は舵輪の前に――。
そのうち舳先で銃を構えた男の一発が、チュンッと音を立てて頬を掠めた。ウィンチェスター・ライフルか。相手もなかなかイイ趣味してやがる。
けれども俺は怯むことなく、舷牆の縁に右手を乗せて銃を支え、そのまま――撃った。
ゲェッと俺が血を吐いたのと同時に、盛大な水飛沫が上がる。ライフル野郎がテムズ川にハグされた音だ。まったくお熱いこって。
「ヘンリー、大丈夫!?」
後ろでメアリーがなんか言ってる。だがそれに答えている余裕はなかった。
仲間が殺られたと知った賞金稼ぎは、よせばいいのにいきり立って銃を乱射してくる。下手な鉄砲なんとやら、もはやろくに照準もつけず、当たるを幸いに撃ちまくっているという感じだ。
その間にも敵の船はどんどんこちらへ近づいてくる。――このままじゃまずい。そう判じた俺は相手がリロードに回った刹那、その頭が物陰に引っ込む直前を狙って撃った。撃ちまくった。
乱射野郎の頭から血がしぶき、帽子が吹っ飛ぶ。同時にこっちも弾切れだ。一旦身を隠してリロードを、
「ヘンリー!!」
そのとき左肩に、鋭い衝撃が走った。
身を隠す直前の一瞬の隙。俺もそこを狙われた。
特大の錐で貫かれたような激痛と衝撃。俺の体はそのまま吹っ飛び、甲板の上に倒れ込む。
ああ、何だコレ。
全身が氷漬けになったみたいに冷てえのに、穴の開いた腹と左肩だけが燃えるように熱い。
――このまま溶けてなくなっちまえりゃいいのにな。
薄ぼんやりと明るい空を見上げながら思ったところで、船体に強烈な衝撃が走った。やっこさんからの熱いキスだ。俺は敵がコッチに乗り込んでくる気配を感じながら、一度は手放した銃を取ろうと手を伸ばす。
けれどもその血まみれの手を、直前で掬い上げたヤツがいた。
メアリー。
「やあ、初めましてと言うべきかな、ミスター・ジェルキンス」
穴の開いた腹にずしりと響くような、低い男の声が聞こえた。
祈るように膝をつき、俺の手を握ったメアリーが、その声の主を見て驚愕している。
微かに頭をもたげて見やった先――そこに見えたのは、すっかり薄くなった灰色の髪を後ろへ撫でつけた男だった。
その顔に見覚えはない。声も初めて聞く声だ。
なのに相手は俺を知っている。
とすれば、こいつの正体として思い当たるのは一人だけだ。
「あ、貴方は……」
俺の手を握ったメアリーの両手に、微かな震えと力が宿った。
男はそんなメアリーを見下ろしてにこりと笑う。拍手を送りたいくらい胡散臭い笑顔だ。
「これはどうも、メアリー嬢。お会いするのは一月ぶりかな?」
「ど、どうして……どうして、貴方がここに……」
「何、簡単なことさ。あの痛ましい事件のあらましを聞いてから、私は君に心から同情していてね。それなら君の復讐の手伝いをしようと、こうして遥々駆けつけたのだよ。その男の正体を、君ももう分かっているだろう?」
「……そう言うてめえはいつから気づいてやがったんだ、タマなし野郎」
冷笑と共に俺がそう吐き捨てれば、男はすっと下手くそな愛想笑いを引っ込めた。
次の瞬間、銃声が轟き渡る。右足に激痛が走り、俺は叫んだ。メアリーの悲鳴が聞こえる。
「ああ、すまない。撃つつもりはなかったんだ。ただ君があんまり汚い言葉を吐くものだからね、ミスター・ジェルキンス。驚いて引き金を引いてしまった」
「はっ、はっ……ああ、くそ! やっぱてめえだけはいけ好かねえ、このダニ野郎が!」
「父親の借金を肩代わりしてくれた恩人に向かって、その口の利き方はないだろう? 君はもう少し賢い男だと思っていたんだがね、まさかその身の内に悪魔を飼っているとは思わなんだ」
男は再び微笑みながらそう言って、中折れ式のリボルバーに新たな弾を込め始めた。前々から分かっちゃいたが、こいつはとんでもねえろくでなしだ。金の亡者で、ペテン師で、人をいたぶるのが趣味のゲス野郎。
それでいて病的に慎重で用心深くて、今まで一度だって俺に尻尾を見せなかった。
相手がこんなよぼよぼのジジイだと分かっていれば、見つけ次第ぶっ殺しに行ってやったってのに!
「おまけにその執念深さも、驚嘆に値する。よもやあの数の殺し屋をたった一人で皆殺しにしてしまうとはな。おかげでわざわざ私が出向く羽目になってしまった。これはとんだ失態だよ、ミスター・ジェルキンス。私はこれまで片手で数えられる人数にしか自分の正体を明かしたことがなくてね。自らの正体を知る者の数がそれ以上増えてしまったときは、その都度減らすことにしているんだ」
そう言った男の目が、じろりと隣のメアリーへ向いた。男と目が合ったメアリーはびくりと小さな肩を竦め、怯えた顔で震え出す。
そんなメアリーの顔色が、男の嗜虐心をくすぐったのだろう。初老のエセ紳士は再びにっこりと口元だけで微笑むと、まったく笑っていない目でじっとメアリーを威圧する。
「だがこの責任は君にもあるのだよ、メアリー。初めから君が君の望みに忠実に、ご両親の仇であるその男を刺し殺していれば、私がわざわざ骨を折る必要もなかった。君も賢い子だ、この意味は分かるね?」
「……っ!」
「とは言え私も悪魔ではない。今ここでその過ちを償ってくれるなら、君の命は助けよう。――私が与えたナイフは持っているね?」
震えたメアリーの手が動いた。その指先はゆっくりと、白い寝間着の裾のあたりへ伸びていく。
そうしてメアリーが捲り上げた裾の内側に、白い腿に巻かれた革製の小さなポーチが見えた。
メアリーの手がそのポーチへと差し込まれる。男はそれを見て満足そうに微笑んだ。
夜空色の瞳と視線が合う。
やめろ、と俺は言った。
けれどメアリーは微笑んで、
「いいの」
銃声が鳴った。
悪魔の微笑みを浮かべた男の胸に、ぱっと赤い花が咲いた。
男はその花を見下ろす。それから信じられないというような顔で、目の前の少女が自分に向ける小さな拳銃の銃口を見つめた。
男の体はそのままよろよろと背後へ傾ぎ、舷牆にぶつかってバランスを崩す。
盛大な水柱が上がった。
船の上はそれきり静まり返って、ただただ煙突から噴き上げる煙のリズムだけが響いている。
「……殺さないのか?」
未だ拳銃を手にしたままのメアリーに、俺は尋ねた。
俺の視線がその銃に向いていることに気がついたのだろう。メアリーはそれを一瞥するとふふっと笑い、銃を船の外へと投げ捨てる。
「殺さないわ。だって貴方は、約束を守って下さったから」
ぽちゃんと小さな水音が鳴って、俺たちの秘密はテムズ川が呑み込んだ。
少女の頬で何かがきらきらと光っている。俺はそれを見つめながら、「そうか」とため息のように呟いた。
体の感覚はもうない。それでも俺は、まだ辛うじてくっついていると思われる右腕を何とか動かし、コートの懐に手を入れた。
そうしてそこから取り出した懐中時計をぱかりと開ける。銀製の蓋の裏側には、ここより遥か北の地のとある住所が刻まれていた。
「ここに行け」
そう言って俺は時計を差し出す。メアリーはそれを受け取ると、大きな目を何度か瞬かせた。「これは?」とその目が言っている。
「そこに、俺の――俺たちの母と妹がいる。ヘンリー・ジェルキンスの身内だと言ってその時計を見せれば、きっと手を差し伸べてくれるだろう。貧しいが、きっと不自由はしないはずだ」
メアリーの頬がまた光った。
必ず行くわ、と彼女は言った。
その声はもう聞こえない。ただ、可憐な唇の動きでそうと分かっただけだ。
涙で濡れた夜空が微笑んで、俺を見つめた。
その口が更に言葉を紡ぐ。
それを見つめて、俺も微笑った。
東の空から日が昇る。
× × ×
船底をくすぐる微かな水音が、途切れることなく聞こえていた。
ロンドンの朝は寒い。わたくしは彼から拝借したぼろぼろのコートをまといながら、祈りの歌を口ずさむ。
遠くで短い汽笛が聞こえた。朝日に照らされたテムズ川を、一隻の船が渡ってくる。
船上には黒いヘルメットとインバネスコートを被った警官の姿。
ああ、やっと迎えが来たわ。これでもう大丈夫。
わたくしはそう囁きながら、膝の上で眠る紳士の髪を優しく撫でた。
どこか高貴さを湛えた金茶色の髪。その間から覗いた彼の額に、わたくしはそっと口づける。
「おやすみなさい、ヘンリー。そして――〝彼〟にもよろしく」
そう言って微笑みながら、わたくしは彼の手にあるものを握らせた。
それは甘くてほろ苦い、食べかけのチョコレート。
BGM:『May It Be』(Celtic Woman)
※作中に登場した『神の法には時効はない。記憶が過ちを忘れてしまい、自分を愛する心が罪を許してしまってから何年も経ってから、罰というものはびっこをひきながらやってくるものだ。』という一節は、1950年11月25日発行の『ジーキル博士とハイド氏』(新潮文庫、佐々木直次郎訳)より引用しました。原作であるStevenson Robert Louis氏作の『The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde』に最大限の感謝と尊敬と愛を込めて。