第十二帖
葛城の本邸の奥深く、陽の光もろくに差さない薄暗い一室。
そこは、かつて私と香香丸が理不尽に追いやられたあの北外れの離れとよく似た、家督を譲り渡した隠居のための冷え切った部屋だった。
豪奢な調度品も、目を奪うような美しい絹織物も、そこには何一つない。
つい先日まで右近衛大将として権力の絶頂に立ち、天下を自らの手の中に収めたと狂喜していた葛城景冬は、たった数日で十年も老け込んだかのように憔悴しきっていた。
綺麗に整えられていた無精髭が伸び、高価な直衣は皺だらけで見る影もない。彼は虚ろな目で土壁を見つめ、何事かぶつぶつと意味不明なうわ言を呟き続けていた。
家の繁栄を至上命題とし、自らの欲望のままに生きてきた男が、一夜にしてすべての実権を自分が最も軽んじていた息子に奪われたのだ。その精神的苦痛と絶望は、彼の傲慢なプライドを根底から粉々に砕き割っていた。
明日は、私が入内を果たす日。
帝の妃となる私の晴れ姿を見届けることすら、隠居の身となった彼には許されていなかった。
静寂に包まれた部屋のふすまの前に立ち、私は振り返って傍らの香香丸を見上げた。
新たな葛城の当主として完全な権力を掌握した香香丸は、私を護る兄として凛々しく付き従っている。
「お兄様。お父様と少しだけ、二人きりでお話をさせてください。お兄様はここで待っていてくださいますか?」
「しかし、沙羅。あの男がお前に何をするか……」
「大丈夫です。今のあの哀れな方に、何ができるというの」
私が優しく微笑みかけると、香香丸は渋々といった様子で頷き、ふすまの外に控えた。
彼には、私が前世で彼の母親であったことなど一生知らせるつもりはない。妹として可愛い我が子を陰ながら守り抜く。それが、私がこの二度目の人生で選んだ、彼への一番の愛情なのだから。
私は一人でふすまを開け、灯台の微かな明かりに照らされた部屋へと足を踏み入れた。
明日纏う予定の豪奢な打掛を羽織り、この世の誰よりも美しく着飾った姿で、彼の前に進み出る。
「お父様。いかがなさいました? 明日は私の入内という、葛城の家にとって最高にめでたい日ですのに。そんな暗い顔をなさっていては、帝に顔向けできませんわよ」
私が七歳の頃から演じ続けてきた、ひどく無邪気で残酷な声で呼びかけると、景冬はびくりと肩を震わせ、のろのろとこちらを振り向いた。
「沙羅……」
焦点の合わない目で私を捉えた景冬の顔が、怒りと絶望で醜く歪む。
「なぜだ……なぜ、私がこんな目に遭わねばならない。私はお前たちに最高の環境を与え、この家を永遠の繁栄へと導くはずだったのだ。……それを、お前たちは私を裏切り、私からすべてを奪いおった! 恩知らずの、忌々しい化け物どもめ!」
床を掻きむしりながら呪詛を吐く彼を見下ろし、私は可笑しくてたまらないというように、くすくすと上品に笑い声をこぼした。
「恩知らず? 化け物? ふふっ、お父様は本当に滑稽な方ですね。あなたが私と兄様に与えてくれた環境というのは、隙間風の吹き込む粗末な離れと、泥の混じった水のことかしら?」
「な……何を、言っている……?」
景冬の目が、驚愕に大きく見開かれた。
私は持っていた扇をパチンと閉じ、無邪気な子供の仮面を完全に剥ぎ取った。
そこに現れたのは、九歳の少女には到底不可能な、果てしなく冷たく、そして雅な大人の女の微笑みだった。
私は一歩前へ進み、あの極寒の夜、命が消えゆく中で詠み上げた最後の歌を、静かに、そして残酷なほど美しい声で紡ぎ出した。
「忘れ草 生うる宿には 影も見ず 冬の夜風に 散る命かな」
その和歌を聞いた瞬間、景冬の顔からすべての血の気が完全に引いた。
呼吸が止まり、彼の美しい顔が恐怖と混乱で引き攣っていく。
無理もない。彼がその歌を知らないはずがないのだ。私が死んだ後、彼が私の遺品の中から密かに見つけ出し、誰にも言わずに大切に保管していたはずの絶筆なのだから。
「ば、馬鹿な……なぜ、お前がその歌を……! それは、死んだ沙羅が最後に残した……お前は、一体……」
「まだお分かりになりませんの? お父様、あなたはその歌の本当の意味すら理解していなかったのですね」
私は景冬の目の前まで歩み寄り、彼を見下ろしながら、外にいる香香丸には決して聞こえないように、ひどく冷え切った声で耳打ちをした。
「三句目の『影』と、四句目の『冬』。……あなたが私をすっかり忘れてしまったこの孤独な離れでは、もうあなたの姿を見ることもない。ただ冷たい冬の夜風に吹かれながら、私の命は静かに散っていく。……表向きはそう読める悲恋の歌ですが、裏に込められた真意は、景冬、あなたの身勝手で冷酷な振る舞いによって私の命は散っていくのだという、強烈な告発と呪いです」
「あ……ああ……っ」
景冬の喉から、ひゅっと空気が漏れるような情けない音が鳴った。
私はさらに声を潜め、彼の耳元で決定的な真実を囁いた。
「私は、あの冷たい離れで、愛する香香丸と引き離され、あなたとあの傲慢な女に殺された……あなたの前世の妻です」
その宣告に、景冬は這いつくばったまま、ただわなわなと震え続けた。
彼の無自覚な美への依存の正体は、とうの昔に彼自身の中で答えを出していたはずなのだ。
なぜ彼は、大した身分でもない前世の私を正妻に迎え、狂おしいほどに愛したのか。
なぜ彼は、七歳になった私を見てあれほどまでに心を奪われ、打算を超えた過剰な特別扱いをしてしまったのか。
彼が本当に愛していたのは、権力でも名門の血筋でもなく、かつて自分の手で壊してしまった、ただの不器用で儚い一人の女だった。
「嘘だ……そんな、そんなはずはない。私が、私が沙羅を……私の、愛する……」
景冬の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
失って初めて、そしてすべてを奪われて初めて、彼は自分の本当の心に気づいたのだ。
後悔と未練が波のように押し寄せ、景冬は這いつくばるようにして私の足元へとすがりついてきた。
「すまなかった……! 私が、私が愚かだったのだ! 沙羅、ああ、私の愛しい沙羅! どうか許してくれ! もう一度、もう一度私を愛してくれ! お前たちのためなら、なんだってするから……!」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫び、愛と許しを乞う男。
しかし、私の心には一ミリの同情も湧かなかった。
ふすまの向こうで景冬のただならぬ泣き声を聞きつけた香香丸が、弾かれたように部屋に踏み込んできた。
香香丸は、景冬が不気味に泣き叫びながら私の足元にすがりつこうとしている異様な光景を見て、絶対零度の怒りを爆発させた。
「気安く、私の妹に触れるな」
香香丸は猛然と歩み寄り、すがりつこうとする景冬の汚れた手を容赦なく蹴り飛ばした。
そして私の前に立ち塞がり、かつての父親をゴミのような目で見下ろした。
「あなたが沙羅を身ごもった母上を離れに追いやり捨てたあの日、私がどれほど泣き叫んでも、あなたは振り返ることすらしなかった。……あなたのその薄汚い後悔など、沙羅にも私にも、何一つ響きはしない」
香香丸は、私が彼の母親の生まれ変わりであることなど知る由もない。ただひたすらに、世界で一番愛する妹を守るための、重く過保護な愛情と、実の父親への完全な絶縁宣言だった。
景冬は息を呑み、絶望のあまり声も出せずに口をぱくぱくと動かしていた。
私は香香丸の背中の後ろから、氷のように冷たく、すべての感情を切り捨てるように告げた。
「今更遅いです、お父様。あなたにはもう、飾っておく価値すらありませんのよ」
完璧な因果応報の処刑。
景冬は自らが過去に放った言葉で完全に息の根を止められ、床に突っ伏して獣のような嗚咽を漏らし始めた。
これ以上の復讐はない。私の心は、果てしない爽快感と達成感で満たされていた。
「本当に、退屈で反吐が出るほど滑稽な男だな」
不意に、部屋の入り口からひどく冷ややかで、同時に無邪気な少年の声が響いた。
私と香香丸が振り返ると、そこには護衛もつけず、夜の闇に紛れて忍んできた若き帝が立っていた。
最高級の薄絹を羽織っただけのラフな格好だが、その全身から放たれる絶対的な覇王の威圧感は、隠居部屋の空気を一瞬で支配した。
「み、帝……様……?」
景冬が涙声で掠れた声を上げる。
帝は気怠げな足取りで部屋の中へ入ってくると、私の背後からふわりと腕を回し、私の首筋に自分の顔をすり寄せてきた。
「ああ、沙羅。こんな薄汚い部屋で、私のお気に入り……いや、私の可愛いお嫁さんを待たせるなんて、本当に許しがたいことだ。早く私のところへ来いよ」
子供のように無邪気で我儘な口調で文句を言いながら、帝は私を後ろから強く抱きしめる。
その腕の力強さと、耳元に吐きかけられる熱い吐息には、十二歳の少年には到底不釣り合いな、ぞくりとするようなオスとしての色気が濃厚に混じっていた。
やっぱりこの子、生意気で可愛い推しだなんて侮れない。こんなの、心臓に悪すぎるじゃない。
私が内心で激しく動揺し、不意打ちのドキドキに顔を赤らめていると、香香丸がすかさず眉をひそめて帝から私を引き剥がそうとした。
「帝といえど、妹に気安く触れることは許しません」
「うるさいな、鬱陶しい番犬め。沙羅は私のものだ。……それに、そこの惨めな抜け殻には、まだ私からのご褒美を与えていなかったからね」
帝は香香丸の言葉を鼻で笑い飛ばし、床に這いつくばる景冬を見下ろした。
その虚無の瞳の奥に、将来誰も逆らえなくなるであろう底知れぬ狂気がぎらりと光る。
「おい、葛城の元当主。お前が欲しがっていた最高の権力は、すべて私の盤上の遊びでこの男にくれてやった。……そして、お前が執着しているこの最高の女は、私が一生、逃げ場のない場所で甘やかして、私だけのものにしてやる」
帝は私の顎を指先で持ち上げ、景冬に見せつけるように、艶然と微笑んだ。
「私のものに、二度とその薄汚い視線を向けるなよ。次に沙羅の名前を口にしたら、お前の存在ごと、この世から消し去ってやるからな」
圧倒的な権力者による、絶対的なトドメの宣告。
景冬は完全に心が折れる音を立て、白目を剥いてその場に気絶するように崩れ落ちた。
我が子を道具のように扱い、帝に取り入ろうと画策した男の、あまりにも惨めで滑稽な完全敗北だった。
私を抱きしめる若き覇王の狂気的な執着と、私を守ろうと睨みつける兄の過保護な愛情。
私は二つの重すぎる矢印に挟まれながら、復讐の終わったこの盤上で、新たな、そして甘く危険な恋の遊戯が始まる予感に、静かに微笑みを浮かべていた。










