空っぽの器
白姫は、その夜から眠れなくなった。
眠ろうと目を閉じるたび、紫の瞳が浮かぶ。
『……ちゃんと、女の子だったのね』
その言葉が、頭から離れなかった。
白姫は布団の中で、自分の胸元をそっと触る。
心臓が動いている。
熱もある。
でも、それが“女の子”であることとどう繋がるのか、白姫には分からなかった。
今まで、考えたことがなかったから。
白姫にとって自身の身体は、戦うためのもの。
刀を生み出すためのもの。
傷つくためのもの。
壊れていくもの。
それ以上ではなかった。
朝になる。
障子の向こうから光が差し込む。
白姫は静かに起き上がった。
部屋は狭い。
古びた長屋の一室。
最低限の寝具と、小さな棚しかない。
人間たちの屋敷からは離されている。
最初は理由が分からなかった。
でも今なら少し分かる。
半妖と一緒にいるのが、怖いのだ。
白姫は鏡を見る。
桜色の髪。
白い肌。
そして、首筋まで伸び始めた桜色の亀裂。
昨日より増えている。
白姫はそっと触れる。
少し熱い。
でも、それだけだった。
痛みはもう慣れてしまった。
そのことに、最近は恐怖を感じる。
人間なら、もっと怖がるはずだから。
白姫は棚の上の櫛を手に取る。
町娘たちが髪を整えているのを見たことがあった。
だから真似をしてみる。
桜色の髪へ、ゆっくり櫛を通す。
けれど、それで何かが変わるわけではなかった。
鏡の向こうにいるのは、町娘にも、妖怪にもなりきれない白い影だった。
白姫は静かに櫛を戻す。
「……私は」
言いかけて、やめる。
最近、自分のことを考える時間が増えた。
アラクネアと会ってからだ。
今まで白姫は、“考えない”ように生きてきた。
考えれば苦しくなるから。
自分が空っぽだと気づいてしまうから。
でも、アラクネアはそれを見抜いた。
『空っぽなのに、必死に人間でいようとしてる』
白姫は胸の奥が少し苦しくなる。
あの時、自分はどんな顔をしていたのだろう。
怖かったのか。
悲しかったのか。
それとも、嬉しかったのか。
分からない。
白姫は感情の名前を、あまり知らない。
外から声がした。
「白姫!」
役人の男だった。
白姫は急いで部屋を出る。
「例の西洋妖怪だが、また被害が出た」
男は歩きながら言った。
「今度は妖怪まで襲われているらしい」
白姫は顔を上げる。
「……妖怪を?」
「ああ。どうも日本側と西洋側とで揉めてるようだな」
男は舌打ちする。
「こっちに被害が出なければ、勝手に潰し合ってくれて構わんのだが」
白姫は小さく目を伏せた。
その言い方が、少し嫌だった。
なぜ嫌なのかは分からない。
でも胸の奥がざらつく。
男は続ける。
「今日も森へ向かえ。今度こそ仕留めろ」
「……はい」
「できるな?」
白姫はうなずく。
うなずきながら、心のどこかが重かった。
アラクネアを斬る。
その想像をすると、胸の奥が妙に静かになる。
斬りたいわけではない。
でも、斬りたくない理由も分からない。
白姫は、自分の感情が分からなかった。
森へ向かう途中、町の子供たちが遊んでいた。
鬼ごっこ。
笑い声。
転んだ子を、別の子が笑っている。
白姫は立ち止まる。
少しだけ、その光景を見ていた。
すると、一人の少女が白姫に気づいた。
少女は白姫の亀裂を見て、怯えた顔をする。
「あ……」
周囲の子供たちも白姫を見る。
笑い声が止まる。
「あれ、妖怪だ……」
誰かが小さく言った。
白姫は何も言わない。
子供たちは逃げていく。
白姫は、その背中をぼんやり見つめていた。
不思議だった。
昔は、こういう時もっと苦しかった気がする。
でも今は、違う。
その代わり、別のことを思っていた。
もしアラクネアなら、なんと言うだろう。
その時。
「また、そんな顔をしてる」
後ろから声がした。
白姫の心臓が跳ねる。
振り返る。
そこには黒い衣をまとった女が立っていた。
アラクネアだった。
特徴的な蜘蛛の足や複眼を器用に隠していた。
また、昼の町中にいるせいか、昨夜よりずっと人間に見える。
美しい女だった。
通りすがる男たちが、思わず視線を向けるくらいに。
でも、その瞳だけは夜みたいに暗かった。
「どうしてここに」
「放っておけなかったから」
当然のように言う。
白姫は困る。
どう返せばいいのか分からない。
アラクネアはそんな白姫を見て、小さく笑った。
「本当に、感情の出し方が下手ね」
「……すみません」
「謝らなくていいのに」
アラクネアは白姫の隣に並ぶ。
自然な動きだった。
白姫は少し緊張する。
人と並んで歩くことが、ほとんど無かったから。
「何か、好きなものはある?」
白姫は考える。
でも、答えが出ない。
「……分かりません」
「食べ物は?」
「……分かりません」
「楽しいことは?」
白姫は黙る。
分からなかった。
本当に、何も無かった。
アラクネアはしばらく白姫を見ていた。
それから、小さく呟く。
「生き残ることしか、知らなかったのね」
白姫は答えられなかった。
その通りだったからだ。
アラクネアはふと足を止めた。
近くの団子屋を見ている。
「食べる?」
白姫は目を瞬かせた。
「……え?」
「団子」
「でも、私は」
「食べたことない?」
白姫は小さくうなずく。
必要なかったから。
食事は最低限しか与えられない。
味を楽しむものだと思ったことがなかった。
アラクネアは少し笑った。
「じゃあ、今日は初めてね」
白姫は困惑した。
討伐対象の妖怪と、団子を食べる。
おかしい。
本来なら斬り合っているはずだ。
でもアラクネアは、ごく自然に白姫の手を引いた。
その手は少し冷たい。
でも嫌ではなかった。
白姫は、自分の呼吸が少しだけ浅くなるのを感じていた。




