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アラクネア

 白姫は、自分の胸がざわついている理由を知らなかった。


 目の前にいるのは妖怪だ。


 斬るべき存在。


 人を喰らい、恐れられ、討たれる側。


 なのに白姫は、刀を握りながら迷っていた。


 アラクネアはそんな白姫を見つめている。


 まるで白姫の内側を覗き込むような目だった。


「本当に不思議ね」


 黒い糸が静かに揺れる。


「なんだか苦しそう」


 白姫は反射的に刀を振った。


 白い刃が空気を裂く。


 アラクネアの首を狙った一閃。


 だが、その直前で黒い糸が幾重にも重なった。


 甲高い音。


 刀が止められる。


 白姫は目を見開いた。


 やはり硬い。


 今まで白姫の刀に斬れないものなどなかった。


 妖怪の骨。


 人間の鎧。


 妖力で作られた結界。


 どれも白姫の刀を止められなかった。


 なのに、この糸は違う。


 斬れる。


 けれど、一瞬止まる。


 そのわずかな抵抗が、白姫には奇妙に感じた。


「すごい刀」


 アラクネアは感心したように言う。


「私の糸をここまで切れる妖怪、あなたが初めてよ」


 白姫は刀を押し込む。


 糸が軋む。


 だがアラクネアは慌てない。


 むしろ穏やかだった。


「そんなに必死にならなくても、逃げないわ」


「……討伐対象ですから」


「そう」


 アラクネアが少し笑う。


「……“自分”が無いのね」


 その瞬間。


 白姫の刀がわずかにぶれた。


 自分。


 その言葉は、白姫には難しかった。


 役目はある。


 斬る理由もある。


 でも、“自分がどうしたいか”は分からない。


 今まで考えたことがなかった。


 アラクネアは白姫の反応を見て、目を細めた。


「やっぱり」


 その声には、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。


「昔の私みたい」


 白姫は初めて、アラクネアの顔をしっかり見た。


 綺麗な女性だと思った。


 冷たい夜のような美しさ。


 けれどその奥に、深い孤独がある。


 白姫はそれを感じ取っていた。


 理由は分からない。


 でも、自分と似ている気がした。


 その瞬間、無数の糸が動く。


 黒い線が夜を走った。


 白姫は咄嗟に跳ぶ。


 さっきまでいた場所を、糸が貫いた。


 木が音もなく切断される。


 倒れた木々の向こうで、アラクネアが静かに立っていた。


「ごめんなさい」


 彼女は小さく言った。


「でも、このまま帰したくないの」


 糸が増える。


 森全体がざわめく。


 まるで森そのものがアラクネアの身体みたいだった。


 白姫はその光景を見ながら思う。


 綺麗だ。


 恐ろしいのに、目を離せない。


 夜の闇が、そのまま形になったようだった。


 白姫は地を蹴る。


 今度は速かった。


 一瞬で距離を詰める。


 刀が肩へ振り下ろされる。


 アラクネアは避けない。


 代わりに、糸が白姫の腕へ絡みついた。


 その感触に、白姫は驚く。


 柔らかい。


 冷たいと思っていた。


 もっと硬く、鋭いものだと思っていた。


 けれどアラクネアの糸は、どこか布のように優しかった。


「……っ」


 次の瞬間、強い力で引かれる。


 白姫の身体が宙へ浮いた。


 そのまま木へ叩きつけられる。


 鈍い衝撃。


 白姫は息を詰まらせる。


 だが、糸は首を締めない。


 腕も折らない。


 拘束しているだけだった。


 アラクネアは、しばらく白姫を見つめていた。


 まるで壊れ物を扱うみたいに。


「戦うのは上手いのに、自分を守るのは下手なのね」


 白姫は言葉を失った。


 その意味が、すぐには分からなかった。


「傷つくことに慣れすぎてる」


 アラクネアは静かに言う。


「だから見ていて怖い」


 白姫は少し戸惑った。


 今まで誰かに、そんな風に言われたことが無かったから。


「斬った相手の顔、覚えてる?」


 白姫は少し黙った。


 思い出そうとする。


 けれど、ぼやけている。


 泣いていた顔。


 怒鳴っていた声。


 命乞い。


 全部、遠い。


 白姫は答えられなかった。


「そう」


 アラクネアは悲しそうに笑った。


「……本当に、空っぽなのね」


 その言葉に、白姫の胸が少し痛んだ。


 空っぽ。


 そうかもしれないと思った。


 役目が無ければ、自分には何も無い。


 何が好きかも。


 何が嫌いかも。


 何をしたいかも。


 分からない。


 白姫は、自分が何者なのか知らなかった。


「でも」


 アラクネアが白姫の頬に触れる。


 白姫の身体がわずかに震えた。


 こんな風に触れられたことが、ほとんど無かった。


「空っぽなのに、必死に人間でいようとしてる」


 紫の瞳が、白姫を真っ直ぐ見つめる。


「だから、放っておけない」


 白姫は息を呑む。


 その言葉を聞くたび、胸が苦しくなる。


 嫌ではない。


 でも痛い。


 見透かされている気がした。


 アラクネアは白姫の腕を見る。


 袖の下から覗く桜色の亀裂。


妖化(ようか)が進んでるのね」


 白姫は反射的に腕を隠した。


 見られたくなかった。


 その傷を見るたび、自分が人間ではないと思い知らされるから。


 アラクネアは、隠された腕を静かに見つめる。


「その亀裂……妖力(ようりょく)を使うたび増えるんでしょう」


 黒い糸が静かに揺れる。


「最初は小さな変化だけ。でも妖力を使い続けると、身体も心も破壊衝動へ引っ張られていく」


 白姫は自分の腕を見る。


 桜色の亀裂が、脈のように淡く光っていた。


「そして理性を失うわ」


 その声は優しかった。


「自分が誰だったのかも、分からなくなる」


 白姫の喉が小さく震える。


 元々自分が誰だったのか分からない。


 だからそれ自体は怖くない。


 けど、この傷は見られたくない。


「恥ずかしいの?」


 アラクネアが聞く。


 白姫は小さくうなずいた。


 アラクネアは少し驚いた顔をした。


「……ちゃんと、女の子なのね」


 白姫の心臓が跳ねる。


 女の子。


 そんな風に呼ばれたことがなかった。


 討伐役。


 駒。


 半妖。


 化け物。


 そういう呼ばれ方しか知らない。


 白姫は、自分が女として見られることを想像したことがなかった。


「……私は」


 言葉が詰まる。


 自分が何を言いたいのか分からない。


 でも、何かが溢れそうだった。


 その時。


 森の外から、人の声が聞こえた。


「白姫!」


「どこだ!」


 役人たちだった。


 白姫ははっと顔を上げる。


 アラクネアは静かにため息をついた。


「もう来たのね」


 糸がほどける。


 白姫の拘束が解かれる。


「どうして……」


「このままだと壊れるから」


 アラクネアは当然のように言った。


「人間にも、妖怪にも」


 白姫は立ち上がる。


 アラクネアはもう戦う気が無さそうだった。


「また会いに来て、白姫」


 黒い糸が夜風に溶けていく。


「次は、もっと話を聞かせて」


 白姫は言葉を返せなかった。


 人間たちは、白姫の話なんて聞かない。


 強いか、役に立つか、それだけだった。


 でもアラクネアは違う。


 白姫自身を知ろうとしていた。


 それが怖かった。


 でも、少しだけ嬉しかった。


 気づけばアラクネアの姿は消えていた。


 残された黒糸だけが、月明かりの下で静かに揺れている。


「白姫!」


 役人たちが駆け込んでくる。


「西洋妖怪はどうした!」


 白姫はしばらく黙っていた。


 それから、小さく答える。


「……逃げられました」


 男たちは舌打ちした。


 だが白姫は、もうその声をちゃんと聞いていなかった。


 胸の奥に残っている。


 アラクネアの言葉が。


『……ちゃんと、女の子なのね』


 白姫は、自分の胸にそっと触れた。


 そこが少しだけ、痛かった。


 傷ではない。


 妖化でもない。


 それなのに白姫は、そこから目を逸らせなかった。

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