白姫
白姫は、自分が笑えているのか分からなかった。
「ご苦労だった」
役人の男にそう言われ、白姫は小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
言ってから、少しだけ不安になる。
こういう時、人間は笑うべきなのだろうか。
以前、町娘が嬉しそうに笑っているのを見たことがある。
だから白姫も、少しだけ口元を動かしてみた。
けれど上手くできない。
ぎこちなく頬が引きつるだけだった。
男たちは気づかない。
もう妖怪の死体を見下ろして話し始めている。
白姫はそっと口元を戻した。
路地裏には、まだ血の匂いが残っていた。
足元には妖怪の死体が転がっている。
猪のような顔に、人間の腕が何本も生えた異形だった。
つい先ほどまで暴れていたが、今はもう動かない。
死んだからだ。
白姫は、死というものをよく知っていた。
妖怪を斬れば死ぬ。
人間も斬れば死ぬ。
死んだものは動かなくなる。
それだけだった。
「やはりお前は便利だな」
役人の男は当然のように言った。
褒めているつもりなのだろう。
白姫も、そう理解している。
だから小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
男は続ける。
「被害を出さずに妖怪を斬れるんだ。便利な存在だよ」
周囲の男たちが苦笑する。
白姫もまた、笑うべきなのかと思った。
けれど、どういう顔をすれば自然なのか分からない。
だから黙っていた。
「どうした?」
「あ……いえ」
「まあいい。次の任務だ」
白姫は小さくうなずく。
任務。
その言葉を聞くと安心した。
何をすればいいのか分かるから。
何も考えなくて済むから。
白姫は、自分の中に“役目”しかないことを、薄々知っていた。
「深川の外れで、西洋妖怪が目撃された」
「西洋妖怪……」
「黒い糸を張る蜘蛛の妖らしい。斥候が三人消えた」
白姫は静かに話を聞いていた。
西洋妖怪。
海の向こうから来た異国の妖。
日本の妖怪とも違う、人間とも違う存在。
白姫は実際に見たことがなかった。
だが、人間たちは彼らを恐れていた。
だから斬る。
恐れられるものを斬る。
それが白姫の役目だった。
「お前なら問題ないだろう」
男は当然のように言う。
「どんな妖怪だろうと、お前の刀なら斬れる」
白姫は答えた。
「……承知しました」
男たちはもう白姫を見ていなかった。
死体をどう処理するかを話している。
白姫はその場を離れた。
別に嫌だったわけではない。
慣れている。
人間はいつもそうだった。
必要な時だけ白姫を見る。
終われば、いなくなる。
白姫も、自分がそういうものだと思っていた。
夜風が吹く。
白姫は歩きながら、自分の腕を見た。
白い肌。
細い腕。
そこに、薄い桜色の亀裂が入っている。
妖力を使うたびに増える傷。
初めは小さかった。
今では手首から肩近くまで伸びている。
痛みは、もう慣れてしまった。
痛いことが普通になっている。
それが少し怖かった。
白姫は袖を戻す。
考えないようにした。
考えると、胸の奥が重くなる。
自分が何なのか、分からなくなる。
半妖。
人間でも妖怪でもない。
だから白姫は、“役目”に縋っていた。
役に立っている間だけは、ここにいていい気がした。
白姫は人気の無い道を歩く。
夜の町は静かだった。
遠くから聞こえる話し声も、白姫が近づくと少しだけ遠ざかる。
気づかないふりをして、白姫は歩き続けた。
やがて町並みが途切れ、深川の外れへ近づく頃には、空には雲が広がっていた。
月明かりも薄い。
森の中には、黒い糸が張り巡らされていた。
細く、美しく、闇に溶けるような糸。
白姫は小さな刃を腕から生み出す。
肉が裂け、白い刀身が現れる。
そのまま糸へ刃を当てた。
止まる。
「……え」
白姫は目を瞬かせた。
初めてだった。
刀が抵抗された。
不思議だった。
今まで、自分の刀で斬れないものなど無かった。
だから少しだけ思う。
この糸を作った妖怪は、どんな存在なのだろう。
そんな風に考えたのも、初めてだった。
やがて開けた場所へ出る。
そこで、白姫はその女を見た。
黒い女だった。
綺麗な黒髪。
白い肌。
紫の瞳。
背中から生えている虫のような巨大な足。
異国の黒衣をまとい、巨大な糸の上に腰掛けている。
まるで蜘蛛の巣の中央で獲物を待つ蜘蛛そのものだった。
だが白姫が最初に思ったのは、
綺麗。
妖怪を見て、そんなことを思ったのは初めてだった。
一方で。
黒い女は、白姫を見た瞬間に理解した。
この子は、もう半分壊れている。
人間のふりをしているだけだ。
痛みに慣れすぎている。
傷つくことを受け入れている。
まるで昔の自分を見ているみたいだった。
だから放っておけないと思ってしまった。
「あなたが、私を殺しに来たの?」
静かな声だった。
白姫は刀を構える。
「私は白姫。妖怪討伐の命を受けています」
「命令だから来たのね」
「……それが役目ですから」
黒い女は少し黙った。
それから、小さく笑った。
「かわいそう」
白姫の眉がわずかに動く。
その言葉を向けられたことがなかった。
人間たちは白姫を怖がった。
便利だと言った。
化け物だと言った。
でも。
そんな風に、悲しそうな目で見られたことは無かった。
「なぜ、そんなことを言うのですか」
「痛いことに慣れてる顔をしてる」
白姫は言葉を失う。
黒い女は立ち上がる。
黒い糸が静かに揺れた。
「私はアラクネア」
黒い女は名乗った。
「蜘蛛の怪物。あなたたちの言葉で言うなら、西洋妖怪よ」
白姫は刀を握る。
だが、不思議だった。
目の前にいるのは討伐対象のはずなのに、すぐには斬れなかった。
アラクネアが、自分を見る目が嫌ではなかったから。
恐怖でも嫌悪でもなく。
まるで“同じもの”を見るような目だったから。
「人間が好き?」
突然、アラクネアが聞いた。
白姫は困った。
考えたことがなかった。
好き。
嫌い。
そういう感情を、白姫はよく知らない。
「……分かりません」
正直に答える。
アラクネアは少し驚いたように目を細めた。
「分からないの」
「でも、人を守るのが役目です」
「役目がなかったら?」
白姫は答えられなかった。
役目がなければ。
妖怪を斬らなければ。
自分には何が残るのだろう。
考えた瞬間、息が少し苦しくなった。
アラクネアはその顔を見て、静かに目を伏せた。
「やっぱり、放っておけない」
その言葉は、なぜか胸に刺さった。
白姫は少し戸惑う。
怖がられることには慣れている。
気味悪がられることにも。
けれど。
そんな風に見られたことは無かった。
だから白姫は逃げるように刀を振るった。
白い刃が夜を裂く。
同時に、黒い糸が空を走った。
刃と糸がぶつかる。
火花が散る。
だが白姫は驚いていた。
アラクネアの糸は、ただ硬いだけではない。
優しかった。
まるで白姫を傷つけないように絡みつく。
拘束するように。
止めるように。
アラクネアは静かに言った。
「そんな顔で戦わないで」
「……え」
「壊れそうな顔してる」
白姫は自分の顔が分からない。
今、自分がどんな顔をしているのか知らない。
でもその瞬間。
白姫は初めて思った。
この妖怪は、自分を見ている。
“半妖”でも、“駒”でもなく。
白姫自身を。
胸の奥が、少しだけざわついた。
知らない感情だった。
怖いはずなのに。
白姫は、その感覚をすぐには嫌いになれなかった。




