第9話 あなたの温室には戻らない
アーデン家の温室で、最後の白い蕾が枯れたという。
知らせを持ってきたミカエルの帽子には、解けかけた雪が黒い染みを作っていた。
「若様は、もう加温を止められました。燃料商からも、献花候補を外され訂正公告を命じられた家へ、従来通りの信用払いはできないと言われたそうで」
エレシアは剪定の手を止めた。
喜びが込み上げるかと思った。けれど胸に来たのは、空っぽの温室を想像したときの、少し乾いた痛みだけだった。あの硝子壁の下で笑った日が皆無だったわけではない。初めて挿し木が売れたとき、ラウルは祝いの菓子を持ってきてくれた。
その菓子を、二人で作業台の端に座って食べたことを思い出す。
人は、一つの酷い選択をした瞬間に、過去まで真っ黒になるわけではない。だからこそ、戻らないと決めるには、嫌いになるより確かな理由が要る。
菓子を選んでくれた日の手も、自分の名札を外させた日の手も、同じラウルのものだ。優しかった記憶があったからといって、後の選択を無かったことにはできない。むしろ、その両方を知った上で、これ以上は自分を預けられないと判断するのが、別れなのだろう。
「ミカエル。あなたは今後、どうなさるの」
「この冬が終わるまでは、残った株の始末をいたします。その後は、もし許されるなら、植物院の募集に応募したいと」
彼は照れたように笑った。
「正しい札を付ける庭で働きとうございます」
「推薦状でしたら、わたくしが書きます。あなたは母株の搬出で、手を震わせずに支えてくださいましたもの」
ミカエルは目元を赤くし、深く礼をした。
彼が温室を出るのと入れ違いに、受付の若い職員が慌ただしく来た。
「ノルト令嬢。アーデン卿が面会を求めておられます。お断りであれば、そのように」
呼称が変わった。
ラウル様ではない。アーデン卿。
エレシアは指を止めたまま、母株を見た。二本の新しい枝はまだ柔らかく、春の繁殖を待つ緑のままだ。その隣では、半年前から植物院へ預けていた四鉢のうち、正式審査へ残した三鉢の基準挿し木が、明朝へ向けて小さな蕾を揃えている。
「お会いします。温室ではなく、面会室で」
セドリックが近くで温度計を読んでいた。口は挟まない。ただ、エレシアが前掛けを外す間に、三鉢の保管札へ時刻を書き加えた。
「戻るまで、お願いします」
「接触なしで保管します」
その答えに背を押され、エレシアは面会室へ向かった。
◇
ラウルは、以前のような華美な礼服を着ていなかった。深緑の上衣は仕立てこそ良いが、袖口に皺がある。卓上には小箱が一つ置かれていた。
「エレシア……ノルト令嬢」
言い直しに、僅かな間があった。
「お久しぶりです、アーデン卿」
自分の口から出た呼称は、驚くほど自然だった。
ラウルは苦く笑い、小箱を開いた。中には、婚約時に贈られた青い石の指輪がある。エレシアは搬出の朝、衣装箱の上へ置いてきたものだ。
「返されていた。だが、私はまだ納得していない」
「審理の判断には、異議の手続きがございます」
「そういう話ではない。私は……君が本当に去るとは考えていなかった」
エレシアは椅子に座ったまま、指輪を見なかった。
「わたくしが、最後には折れると思っておられたのですね」
「これまで君は、家のために譲ってくれた。温室の売上も、社交の席も、父の療養中の訪問客の対応も。私が聖女様の計画を進めたときも、花の名より救貧院を選んでくれると思った」
「わたくしが譲ってきたことを、覚えてはいたのですね」
ラウルは答えなかった。
覚えていた。見えなかったのではなく、受け取ることに慣れてしまったのだ。
「訂正公告は出す。養生費も支払う。白燈の名は君のものだと認める。だから、婚約を戻さないか」
「何のために」
「何のため……?」
「わたくしを妻に望まれる理由です。わたくしの花をもう一度侯爵家へ戻し、献花の名誉を共に受けるためでございますか。それとも、わたくし自身と暮らしたい何かがございますか」
ラウルの手が指輪箱の縁で止まった。
「君は、私に相応しい。誰よりも仕事ができ、家を支えられる」
その言葉を聞いて、エレシアはやっと理解した。
彼なりに褒めている。けれどその中に、冬の朝に冷えた指へ湯杯を置くことも、名前を書けずにいた人の沈黙を待つこともない。
支えとして優れていると言われるだけなら、これから先も自分は、名の付かない温室であり続ける。
「アーデン卿。名を返すことは、復縁の代金ではございません。最初からわたくしのものでした」
「では、私にどうしろと言うんだ」
「何も。ご自分が選ばれた結果を、引き受けてくださいませ」
彼の顔が歪んだ。
「君は、あの管理官を選ぶのか」
「今、お話ししているのはあなたとわたくしの婚約についてです。ほかの方を理由にしなければ終わりを受け入れられないのなら、最後までわたくしをご覧にならなかったということです」
ラウルは、二度と口を開かなかった。
エレシアは立ち上がり、礼をした。
「指輪は、アーデン家でお納めください。わたくしは明日の花を整えますので、これで失礼いたします」
扉を閉める直前、小箱の蓋が静かに下りる音がした。
それは悲しい音ではあったが、引き返したい音ではなかった。
廊下へ出ると、窓辺に積もった雪へ午後の光が差していた。エレシアはそこで一度だけ立ち止まり、手袋の上から薬指を押さえた。指輪があった頃の重みは、もうない。軽くなった指で、次は花の鉢を支えることができる。
◇
仮温室へ戻ると、三鉢の白燈は薄暮の中でまだ固く閉じていた。
「面会は終わりましたか」
セドリックが記録帳から顔を上げる。
「はい。終わりました」
何が、と彼は聞かなかった。
エレシアは三鉢の土を指で確かめ、根元の湿りを読む。半年前に同じ母株から分け、植物院へ寄託した四鉢のうち、正式審査へ残した基準挿し木。どの株も、無理に温めず、夜の冷たさに馴染ませてきた。
「今夜、六度まで下げます。明朝、審査場と同じ条件へ移しても、花首が保つか確認したいです」
「記録します。立会いは必要ですか」
「お願いいたします」
二人で通気窓を開けた。外から雪の匂いが入ってくる。白い息が一瞬、同じ場所で重なった。
「ノルト令嬢」
「はい」
「正式審査が終われば、私は保管担当ではなくなります」
セドリックは鍵束を掌で握り、少し視線を下げた。
「その後も、白燈の栽培試験を共に続けさせていただけませんか。植物院の研究契約として、もちろんあなたが育成責任者です」
エレシアは、思わず蕾を見た。
彼は、婚約の話を聞かなかった。弱ったところへ入り込む言葉も使わなかった。花を一緒に育てたい、とだけ言った。それがどういう願いかを、エレシアはもう理解できる。
「お返事を、明日まで待っていただけますか」
「審査があるからですか」
「いいえ」
エレシアは微笑んだ。
「花が咲いた日に、お返事したいのです。今度は、自分で嬉しい日を選びたいので」
セドリックの頬が、温室の火のせいではない色を帯びた。
「お待ちします」
夜が深くなり、温度計の針が六度へ落ちる。
翌朝、最初の光が硝子を透かす頃、三つの鉢で白い蕾が、僅かな間を置いて順にほどけ始めた。
白燈は、誰にも急かされず、同じ冬の空気の中で揃って花を開いた。




