第8話 温室は持参金ではない
審理官が最初に机へ置いたのは、温室の鍵ではなかった。
小さな鉛の封印だった。
母が作った、芽吹いた枝の印。右端にわずかな欠けがあるそれを、エレシアは審理室の入口からでも見分けられた。
「本日確認するのは、硝子建物の所有権ではない。白燈と称される品種、その母株、記録、献上許諾の権利がどこに属するかである」
審理官は中年の法務官で、乾いた声をしていた。左右には植物院の認証委員二名が座り、証拠卓には契約正本、寄託票、搬出記録、セドリックの保管記録、ミカエルの手控えが封を解かれず並ぶ。
品種権の申立ては、婚約付帯の育成契約の履行そのものに関わる。エレシアが提出した婚約解消の申立ても本日併合して審理することは、両家へ事前に通知されていた。
ラウルは向かいの席にいた。先日の公開審査での激情は消え、今日は弁務人を伴っている。マリエッタは少し離れた証人席で、祈りの珠を膝に置いていた。
エレシアは指先を膝の上で重ねた。
怖い。今も怖い。
だが、目の前に並ぶ紙のどれにも、自分がしていないことは書かれていない。
「申立人側より述べよ」
ラウルの弁務人が立った。
「アーデン侯爵家は、三年にわたり温室、燃料、人員を提供し、ノルト令嬢が行った育成活動を支援いたしました。婚約は両家の将来的な財産統合を前提としており、当該新品種は共同成果、少なくとも侯爵家の同意なく搬出できない財であると主張します」
ラウルが僅かに顎を上げる。
審理官は契約正本を開いた。
「育成契約第七条は読んだか」
「条文の存在は認めます。しかし婚約者間の信義に照らせば、設備提供者に無断での搬出は権利濫用に当たると」
「第九条は」
「献上許諾については、家庭内での了解が形成されるべきものであり」
「署名があるか、ないかを問うている」
弁務人は一拍置いた。
「ございません」
審理官は書記へ目を向けた。羽根ペンが動く。
「被申立人、述べよ」
エレシアは立ち上がった。足元の靴の中で、指が少し縮こまる。
「アーデン家に設備を提供いただいたことは、否定いたしません。温室を借りられなければ、白燈の選抜にはさらに年月が必要だったでしょう。ですので、販売した挿し木の収益を燃料費へ戻すことにも同意してまいりました」
ラウルが、ほら見ろというように身を乗り出した。
「しかし、設備への支払いと、育成者名の変更は別のことです。わたくしは婚約成立時に、亡母の母株を婚家の資産へ取り込まないため、条文を求めました。アーデン家は署名しております」
契約の末尾へ視線を向ける。そこには、三年前の若いラウルの名もある。
「育成中、わたくしが名を前面に掲げなかったことは事実です。将来の婚家への配慮でした。ですが、名を大きく書かなかったことは、名を捨てたという意味ではございません」
声が少し震えた。恥ずかしさが蘇ったからだ。自分で遠慮したせいで、相手に都合のよい余白を与えた。
「わたくしにも、誤りはございました。仕事が見えていれば分かってもらえると考え、言葉と署名を控えてしまった。ですが、だからこそ今、残した契約と記録に従って申し上げます。白燈の育成者は、わたくしです。母株を別人の奇跡として献上する許可は、与えておりません」
審理室は静かだった。
「証拠確認へ移る」
まず、契約正本が双方の前で開示された。封蝋の割れ方、紙の刻印、署名の筆致に疑いなしと確認される。
次に、母株の鉛封と、半年前に植物院が写し取った封印図が並べられた。右端の欠けは同じ位置にある。
セドリックが証人席へ呼ばれた。
「あなたは提出株の審査に関与したか」
「判定、採点、審理判断には関与しておりません。寄託株及び搬入株の保管環境、接触者、温度、水量を記録しました」
「母株は搬入時、いかなる状態だったか」
「封印の損傷はなく、過加温及び移送負荷と見られる葉先の萎れがありました。ノルト令嬢は回復を優先して蕾を除去し、その判断と結果を自筆で記録しています」
「提出された白燈の開花株は」
「半年前に寄託された四鉢のうち、当院で規定保管した一鉢です。アーデン家を離れた後に生成されたものではありません」
それは、ラウルの「良い株を奪われたから負けた」という言い分を静かに崩した。
ミカエルも呼ばれ、搬出が立会いの下で行われたこと、搬出前夜にラウルの命令で過剰な加温を行ったことを話した。声は震えたが、言葉は逸れない。
「私は、若様のご命令に従いました。けれど、本来の育て方でないことは存じておりました。止め切れなかった責任は、庭師として負います」
ラウルが唇を強く結んだ。
「聖女マリエッタ殿」
最後に、審理官が聖女を呼んだ。
マリエッタは珠を置き、立ち上がる。白い指がかすかに震えていた。
「あなたは聖恵の白薔薇の出品書へ、育成者として署名したか」
「……はい」
「その時、白燈がノルト令嬢により育成された株であると知っていたか」
彼女は一度目を閉じた。
「最初の発表をした時点では、契約のことまで存じませんでした。ですが、その後、エレシア様からご本人が育てた花であること、名を伏せた献上を許されないことを聞きました」
「その後に、署名したのだな」
「はい」
ラウルが立ち上がった。
「マリエッタ様、あなたは慈善のために」
「ラウル様」
マリエッタが遮った。初めて聞く、澄んで硬い声だった。
「慈善のためだと考えたのは、わたくしです。あなたのせいにして、自分の署名を軽くするつもりはありません」
彼女の瞳には涙が溜まっていたが、落ちなかった。
「エレシア様。あなたは最初から、育成者を記した上で寄贈する道を示してくださった。それを選ばなかったのは、早く喝采を得たいと思った、わたくしの過ちです」
エレシアは、すぐに赦しの言葉を返せなかった。
赦すかどうかを決めるには、まだ傷が生々しい。けれど、彼女が自分の署名を認めたことだけは、受け取れる。
「ご証言を、ありがとうございます」
それだけを言った。
審理官は書類を閉じ、委員二人と短く言葉を交わした。
「判断を告げる。育成契約第七条及び第九条は有効であり、白燈の品種、母株、育成記録、献上許諾は、婚礼が成立していない以上、エレシア・ノルトに属する。搬出は立会いの下で契約に則り行われ、不正は認められない」
エレシアは息を止めた。
「アーデン侯爵家による名義変更申立ては棄却する。また、無断で聖女名義の献花を告知したこと、搬出前の過加温により母株へ損耗を生じさせたことについて、訂正公告及び調査費・養生費の負担を命じる」
ラウルが、椅子の背に手をついた。
「婚約解消申立てについては、契約上の信義を損なう重大な行為が確認されたため、ノルト家側の解除を認める。以後、両家間に婚約上の拘束はない」
その言葉を聞いた瞬間、喜びより先に、静かな空白が来た。
三年が終わる音は、派手なものではなかった。机の上で、書記が紙を一枚めくっただけだった。
けれど、その紙の音のあとで、エレシアは初めて深く息を吸えた。
審理室を出ると、夕刊売りの声が通りへ響いていた。
「訂正版! 奇跡の冬薔薇、育成者名を訂正! 白燈を育てたのはノルト伯爵令嬢!」
父が一部を買い、エレシアへ無言で渡す。
紙面の中央に、黒い活字で名があった。
育成者 エレシア・ノルト。
「妙なものね」
彼女は紙を指先で撫でた。
「自分の名前なのに、ようやく家へ戻ってきたようです」
「なら、寒がらせないように持っていなさい」
父はそれだけ言い、少し離れた。
廊下の端では、セドリックが記録箱を抱えて立っていた。職務を終えるまで近づかなかったらしい。
エレシアは自分から歩み寄った。
「ヴァレル管理官。正式審査まで、白燈を一緒に育ててくださいませんか」
彼は一瞬、目を見開いた。
「管理官としては、すでにお預かりしています」
「それだけではなく。わたくしが判断に迷ったとき、決めていただくのではなく、聞いてくださる方として」
セドリックの手が、記録箱の端で少し動いた。
「それなら、喜んで」
外では雪が降り始めていた。
温室へ戻れば、回復中の母株と、正式審査まで蕾を保った三鉢の基準挿し木が待っている。正式審査には、予備審査の一輪だけでなく、同時に寄託した四鉢のうち残る三鉢で同じ性質の花を示さなければならない。
まだ終わりではない。
けれど今度は、名のある育成者として、誰かと同じ温室へ戻っていける。




