第10話 私の名で咲く冬薔薇
雪の献花式で、白い花の札にはエレシアの名があった。
育成者 エレシア・ノルト。
金泥でも銀飾りでもない、黒い文字の小さな札だ。それが白燈の三鉢の前で、どんな宝石よりも明るく見えた。
冬至の朝、王立植物院の大温室は外の雪を透かして乳白色に輝いていた。いつもは植物学者と庭師ばかりが歩く通路に、今日は王家の使者、救貧院の代表、記者、寄付を検討する貴族たちが並んでいる。
エレシアは式服の上から、薄い作業手袋をはめていた。父は最初、それを見て眉を上げたが、何も言わずに新しい革紐を結び直してくれた。
「花の前で手を隠す必要はないでしょう」
そう言うと、父は珍しく笑った。
「母さんなら、もっと泥の目立つ手袋を選んだだろうな」
その言葉で、エレシアの肩から余分な力が抜けた。
審査台の向こうには、オレリア夫人を含む三名の独立審査員が座る。セドリックは提出株を所定位置へ運び終えると、記録員席の後ろへ下がった。彼が最後に確認した札には、接触時刻と移送温度が過不足なく記されている。
視線が合った。
彼は何も言わず、わずかに頷いた。
咲かせるのは、あなたの仕事です。
最初に言われた言葉を思い出し、エレシアも頷き返した。
「正式審査を開始する」
オレリア夫人が宣言した。
三鉢は、半年前に同じ母株から分け、植物院へ同時に寄託していた四鉢のうち、正式審査まで残した基準挿し木である。回復中の母株は保護棚で新芽を伸ばし、春の繁殖を待っている。それぞれの鉢は小ぶりな白い花を一輪ずつ掲げていた。温度を六度まで下げられても花首は真っ直ぐで、縁は褐変しない。審査員が香りを確かめると、紙へ記入するペンの音が続いた。
「育成者、性質の目的を述べよ」
エレシアは一歩前へ出た。
「白燈は、豪奢な温室だけのための花ではございません。冬に燃料を多く用意できない場所でも、低い温度の中で花弁を保ち、挿し木によって増やせることを目標に育成いたしました。大輪ではありませんが、寒い場所で長く咲く花です」
救貧院代表の年配の女性が、手元の布袋をぎゅっと握った。
「提出された三株に、規定範囲内で性質の一致を認める。保管記録、育成記録及び権利審理の結果に瑕疵なし」
オレリア夫人は書類へ署名し、印を押した。
「新品種白燈を、エレシア・ノルト育成の耐寒薔薇として正式に認証する。また、本年度冬至献花式の認証花に選定する」
一拍遅れて、温室に拍手が広がった。
大きな音に驚いて、エレシアは一瞬だけ花へ手を伸ばしかけた。花弁が震えるのを守りたいと思ったのだ。けれど白燈は拍手の風に揺れるだけで、しっかり上を向いている。
守られていたのは、もしかすると自分の方だったのかもしれない。
王家の使者が進み出て、献花を受領する儀礼の言葉を述べた。
「認証花の育成者には、慣例により、王家への献上分とは別に、分株の配布先を一つ推薦する権利が与えられます。ノルト令嬢、希望を述べられよ」
エレシアは、客席の端に立つマリエッタを見た。
彼女は今日は聖女の純白ではなく、灰青の質素な衣を着ていた。視線が合うと、驚いたように目を伏せる。
「救貧院に新設される温室へ、白燈の分株を寄贈いたします」
ざわめきが起きた。
「ただし、育成者名と栽培条件を記した札を付け、植物院の管理指導を受けることを条件といたします。花が育つには、人の手と燃料と時間が要ります。奇跡として一度飾るのではなく、冬ごとに咲かせる仕事として続いてほしいのです」
救貧院代表の女性が口元を押さえた。マリエッタも、両手を胸へ重ねている。
王家の使者が頷いた。
「育成者の条件を付し、受領する」
拍手は先ほどより静かだったが、エレシアにはずっと温かく聞こえた。
◇
式の後半で、法務官から権利審理の処分が公示された。
「アーデン侯爵家は、認証前の新品種を権利者の許諾なく別名義で献花に供すると公表し、母株へ不適切な処置を行った。よって、本年度及び次年度の王家園芸御用候補資格を停止し、訂正公告費、母株養生費、審理費用を負担するものとする」
通路の後方に、ラウルが立っていた。
彼は今日はエレシアの方を見なかった。見ていたのは、誰の名前も付かないまま運び下げられた、自家の空の展示台である。
そこに同情を覚えないわけではない。
しかし、手を差し伸べる理由も、もうない。
マリエッタが法務官の前へ進み出た。
「わたくしは、虚偽の育成者名で署名した責を受け、今期の慈善広報の代表を退きます。集まった寄付は、植物院及び救貧院の監督の下で、白燈の温室整備と暖房費へ充ててください。今後、寄付を願う際には、育てる方の名を先に申し上げます」
声は震えていたが、逃げなかった。
エレシアは遠くから一度、礼を返した。
すべてを赦したわけではない。けれど、相手がようやく名の重さを持って歩き出すなら、それを踏みつける必要もなかった。
◇
午後、献花式に招かれていた救貧院の子どもたちが、小さな温室模型の前へ集められた。本物の分株は春先に移植するが、今日は白燈の絵札を一人ずつ受け取るのだという。
赤い帽子を被った男の子が、エレシアの裾をつんと引いた。
「お姉さん。この花、なんていうの?」
「白燈です。雪の日にも、小さく灯る花なの」
「誰が作ったの?」
その問いに、以前なら喉が詰まったかもしれない。
エレシアはしゃがみ、絵札の下に印刷された名を指で示した。
「わたくしです。エレシア・ノルトと申します」
男の子は一文字ずつ追い、たどたどしく読み上げた。
「えれしあ、のると。ぼく、覚える」
「ありがとう。あなたが花を育てるときは、あなたのお名前も札へ書いてね」
「うん!」
走って戻る背を見送り、エレシアは立ち上がった。
目の前が少し滲んでいたが、これは我慢する必要のない涙だった。
「ノルト令嬢」
背後にセドリックがいた。もう式服の上着を脱ぎ、いつもの作業着に戻っている。手には薄い書類綴りを持っていた。
「正式審査が終了しましたので、保管担当としての私の任はここまでです」
「長い間、お世話になりました」
「長い、と言えるほどの日数ではありません」
「冬の温室では、一日が長いのです」
彼は少し笑った。そして書類を差し出す。
「王立植物院の共同栽培試験契約案です。白燈の低燃料温室での増殖を三年計画で検証します。育成責任者はエレシア・ノルト。管理担当は、もしお認めいただけるなら、セドリック・ヴァレル」
並んだ二つの名を見て、エレシアの胸が静かに騒いだ。
「お仕事の契約、だけでしょうか」
尋ねると、セドリックは鍵束を握る癖を見せた。いつも落ち着いている人が、初めて目に見えて困っている。
「まず仕事の契約でなければ、あなたの花に近づく口実がありません。ですが、それだけでよいとは、思っておりません」
エレシアは思わず笑った。
「随分、慎重でいらっしゃる」
「あなたが名を取り戻した直後に、別の名で覆いたくはありませんので」
その言葉が、冬の陽よりも柔らかく胸へ落ちた。
「役目の名ではなく、私自身の名で申し上げます。あなたと花のない季節も共に歩きたい。婚姻を前提に、あなたの隣を望んでもよろしいでしょうか」
エレシアは契約書を作業台へ置き、育成責任者の欄へ自分の署名を入れた。次いで、管理担当の欄を指先で軽く叩く。
「こちらへ、セドリック様のお名前をお願いいたします」
彼の動きが止まった。
呼称を変えたことに気づいたのだ。
「よろしいのですか」
「花が咲いたらお返事すると、申し上げました。白燈は咲きましたし、わたくしは春の温室も、あなたと見たいと思っております」
「婚姻のお申し出も、お受けいたします。ただ、父へご挨拶くださる前に、春の苗床を一緒に整えてくださいませ」
セドリックの手が、ゆっくりとペンを取った。
「では、エレシア嬢とお呼びしても」
「はい」
二人の署名が、同じ紙に並んだ。
それは誰かに与えられた席でも、奪われる前に隠す名前でもなかった。二人で内容を読み、互いに選んで記した契約だった。
大温室の外では、まだ雪が降っている。
けれど硝子の内側で、白燈はその名の通り、冬の真ん中に小さな灯りをともしていた。




