第6話 白燈は誰の名で咲く
予備登録簿の白燈の欄へ、赤い線が引かれた。
取り消しの線ではない。異議申立てが提出された株を示す印だという。
それでも、エレシアには、自分の名前の上を刃物でなぞられたように見えた。
「申立人、アーデン侯爵家。請求内容は、品種育成者名をエレシア・ノルト単独から、アーデン侯爵家管理温室へ変更すること。併せて、母株搬出の適否について審理を求める」
事務官が読み上げた書類の最後には、ラウルの署名があった。
三年間、婚礼の招待客名簿には一向に興味を示さなかった手で、彼はこの申立書だけは随分きれいに書いたらしい。
「異議が出ても、予備審査は予定通り行われます」
セドリックが、登録簿を閉じて言った。
「ただし正式認証までに、権利審理を受ける必要があります。答弁書の提出期限は五日後です」
「五日」
息を飲んだのは不安からだけではない。期限がある方が、動ける。婚約生活では、いつまで我慢すればよいのか誰も教えてくれなかった。
「提出いたします。契約正本と、搬出記録、基準挿し木四鉢の預り証を添付します」
「温度記録も有効です。白燈が何を目的に育てられ、どの条件で性質を保持する株なのかを示せます」
「母の失敗日誌も」
「提出するかは、あなたが決めてください」
エレシアは頷いた。
「提出します。成功した一輪だけがわたくしの仕事ではございません」
セドリックは返事の代わりに、新しい書類挟みを一冊差し出した。厚紙の表紙には何も書かれていない。
「ご自分で、題を付けてください」
エレシアはペンを執り、表紙へ記した。
白燈 育成経過及び権利答弁資料。
育成者 エレシア・ノルト。
自分の名を書く回数が増えるほど、それは主張ではなく、ただの事実に戻っていく。
◇
資料を整える作業は、思った以上に静かな戦だった。
温室の古い売上控えには、挿し木の販売額がアーデン家の雑収入として記録されている。けれど端には毎回、受領した庭師ミカエルの字で「育成株、ノルト令嬢手入」と小さく書かれていた。誰かに見せるためではなく、彼が植物の出所を間違えないように付けていた印である。
「この控えをいただくことはできますか」
ミカエルは唇を結び、深々と礼をした。
「原本は侯爵家の帳面でございますので、持ち出せません。ですが、私の管理手控えなら提出いたします。あの温室で花が持ったのは、エレシア様が毎朝見ておられたからだと、私は知っております」
「あなたが職を失うことになってはいけません」
「花の名を違えるよう命じられて従うなら、どのみち庭師ではいられません」
土に焼けた手が、帽子を握り締める。エレシアはそれ以上止めなかった。人の覚悟まで、守るという名で取り上げてはいけない。
答弁書の束は、夕方には指一本ぶんの厚さになった。
契約正本の写し。
半年前の基準挿し木四鉢の寄託票。
母株搬出時の立会い記録。
初年度からの育成日誌。
過加温で枝が弱ることを示す二年目の試験記録。
ミカエルの管理手控えと証言書。
最後に、エレシアは短い陳述を書いた。
温室の設備を提供いただいたことに感謝はある。しかし、設備の所有は、そこで生まれた育成者の名を無断で変更する許可ではない。白燈は、寒さの中で人の手が時間を掛けて育てた花であり、存在しない祝福の証として扱われることを望まない。
書き終わったとき、ペンを持つ右手が震えていた。
「休みますか」
書類を受領するため来ていたセドリックが問う。
「提出してからにいたします。止まったら、怖くなってしまいそうですから」
「怖くても、ご自身で決めて署名された文書でしょう。でしたら、受付まで私がお預かりします」
職務上の感想に過ぎないのだろう。けれど、息をひとつ置いてからしか答えられなかった。
「……ありがとうございます」
砂を振り、束を閉じる。
そのとき、外の受付で声が上がった。
「ノルト令嬢への面会を求める! 私はラウル・アーデンだ!」
紙の端へ置いていたエレシアの指が止まった。
「お断りすることもできます」
セドリックの声に、彼女は首を振った。
「いいえ。答弁書を提出する前に、聞いておきたいのです。あの方が、まだ何を当然と思っているのか」
◇
面会室に入ったラウルは、以前よりやつれて見えた。けれど手に持っているのは謝罪の花束ではなく、差出人が自分である異議申立書の控えだった。
「エレシア。ようやく話ができるな」
「お話なら伺います、ラウル様」
その呼び名を口にするのも、あと何度だろうと思った。
「君は事を大きくしすぎた。温室の株を持ち出し、植物院へ異議のある申請をし、新聞社へまで文書を送った。聖女様は心を痛めておられる」
「わたくしも、名を外された日に痛みました」
「意地を張るな。私は君の働きを認めている。だからこそ、婚礼は予定通り進めよう。君が白燈の名義をアーデン家と聖女様へ譲るなら、侯爵夫人として慈善温室の運営を任せる。裏方としてでなく、責任ある地位だ」
ああ、とエレシアは思った。
彼は本当に分かっていない。
名を奪っておいて、代わりに高い椅子を与えれば喜ぶと思っている。わたくしが欲しかったのは役目の大きさではなく、最初からわたくしの手をわたくしのものとして見ることだった。
「名義を譲ることはありません」
「では婚約はどうする。両家の面目を潰すのか」
エレシアは膝の上に置いていた封筒を取り上げた。昨夜、父と確認して作成したものだ。蝋にはノルト家の印だけが押されている。
「先にお渡ししたのは履行保留の申し出でした。本日は、婚約解消の申立書をお渡しいたします」
ラウルの顔から血の気が失せた。
「エレシア」
「婚姻前のわたくしの仕事を、許可なく他人の名で献上しようとなさったこと。停止を求めた後も案内を撤回せず、さらにわたくしの育成者名を消す異議を申し立てられたこと。これらを理由として、婚約を続ける信頼は失われたと申し立てます」
「そんな書面一枚で、三年を捨てるのか」
声が揺れていた。怒りか、焦りか、それともようやく痛みを感じたのか。
「三年を捨てるのではございません。三年育てたものを、ここで失わないためです」
封筒を卓の中央へ置いた。
ラウルはすぐには受け取らなかった。彼の視線がエレシアの手へ落ちる。指先には、土が爪の際に薄く残っている。
「君は、こんなに頑なな女だったのか」
「花を育てる者は、折ってよい枝と、折られてはならない幹を知っております」
面会室が静かになった。
しばらくして、ラウルは封筒を掴んだ。乱暴に取ったわけではない。その弱い掴み方が、かえって二人の間のものがもう戻らないと教えてくれた。
「後悔するぞ」
「そうならないよう、自分で選んでおります」
ラウルが出ていくと、エレシアは椅子の背へ片手を置いた。立っていなければならない理由はないのに、膝が動かなかった。
扉の外で、セドリックが距離を置いて待っていた。
「答弁書を、提出なさいますか」
慰めではなく、次に進むかを問う声だった。
「はい」
エレシアは書類の束を持ち直した。
「審査場で、わたくしが説明いたします」
「お待ちしています」
受付へ答弁書を届け、受領印が押される。朱色の印が自筆の名前の脇へ重なったとき、震えはようやく止まった。
事務官が、もう一通の書類を差し出した。
「追加で提出された資料です。聖女マリエッタ様名義の予備審査出品書。出品品種は『聖恵の白薔薇』、育成者欄には聖女様ご本人の署名がございます」
エレシアはその署名を見た。
考える、と言った聖女は、答えを選んだのだ。
「承知いたしました。では、同じ審査台で確かめていただきましょう」
白燈が誰の名で咲くのか。
もう、それを曖昧にする者はいなかった。




