第5話 冬の根は急がない
朝、母株の蕾が一つ落ちていた。
白い花弁を見せる前の、固く閉じた蕾だった。作業台の下の煉瓦に横たわり、萼の端だけが薄茶色に変わっている。
エレシアは外套も脱がずに膝をついた。
「ごめんなさい」
口からこぼれた言葉は、花に向けたものか、自分に向けたものか分からなかった。
あの朝、母株を運び出さなければ。馬車の揺れも、別の温室の空気も与えずに済んだかもしれない。アーデン家の温室で名を奪われても、株そのものは一輪咲けたのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、エレシアは両手を強く握った。
咲けばよいのではない。誰かの嘘の上で咲かせるために育てたのではない。
分かっている。それなのに、落ちた蕾は理屈より重い。
「触れてもよろしいですか」
背後からセドリックの声がした。
エレシアは頷き、少し退いた。彼は落ちた蕾を素手で拾わず、白い紙の上へ滑らせる。茎の切れ口を拡大鏡で見てから、母株の残る枝を確認した。
「移送後の負荷と、搬出前の過加温の両方でしょう。根元に腐れはありません。落ちたのは株が生き残るための選択です」
「株が選んだ、という言い方をなさるのですね」
「人が選んだことにすると、管理官が偉すぎますから」
セドリックは、ごく真面目な顔で言った。
エレシアは小さく笑い、すぐ鼻の奥が痛くなった。泣きそうなところで笑わせられると、余計に困る。
「残る蕾も、切るべきでしょうか」
「それは育成者の判断です。私から言えるのは、現在の葉の水分量なら、花を一つ保つ負荷より、新芽を二つ伸ばす方が回復には有利だということまでです」
判断を返される。ありがたいと分かっていても、今日はその重みが怖かった。
「少し、時間をください」
「朝の巡回が終わるまで、誰もこの台へ触れないようにします」
彼は落ちた蕾を記録用の小箱へ収め、時刻を書いた札を添えた。それから何も言わず、他の棚へ向かう。
一人にされて、エレシアは母株の前に腰を下ろした。
母は、花を人より大切にするような人ではなかった。父の髪に蕾が引っ掛かれば笑って切り、幼いエレシアが庭で転べば、踏まれた苗より先に膝の傷を洗った。
けれど、冬の剪定だけは厳しかった。
「かわいそうで切れない枝ほど、春に株を苦しめるのよ」
幼い自分は、その言葉を残酷だと思った。今なら分かる。残すことが優しさではないときがある。
エレシアは鋏を取り、残る大きな蕾の付け根を見た。下に新芽が二つある。まだ赤みを帯びた固い点だが、ここへ力を回せば、春には次の挿し木を取れる枝になるかもしれない。正式審査の再現性は、半年前に寄託した四鉢のうち、予備審査の後まで残す三鉢が担う。母株には、まず生き直してもらうのだ。
「咲いているところを、見たかったわ」
蕾へ言い、刃を閉じた。
乾いた小さな音がした。
切った蕾を最初のものの隣に置く。胸の中で何かが縮んだが、そのまま作業記録を開いた。
移送後二日目。母株、蕾二輪を除去。理由、過加温及び移送負荷からの回復を優先し、節下の新芽二点への養分集中を図る。
書き終えたところで、セドリックが戻ってきた。彼は記録を覗き込まず、切り口を確認してから新しい保温布を広げた。
「この布は、通気が少し良いものです。使用しますか」
「はい。夜間は根鉢だけを包み、枝は冷気に慣らしたいです。陽の角度が変わる午後は、南側の硝子から半歩下げてもよろしいでしょうか」
「台車を用意します。動かす時刻も記録しましょう」
二人で鉢を持ち上げる。セドリックは力の大半を受け持つこともできただろうが、エレシアの持つ側が軽くなりすぎないよう、均等に木枠を支えた。
そんなことに気づく自分を、少し可笑しいと思う。
◇
午後は、日誌を整理した。
提出用に清書するなら、成功した記録だけを選びたくなる。初年度に三株を凍らせた頁、二年目に香りを強くしようとして花弁を薄くしてしまった頁、肥料の配合を間違えて枝を徒長させた頁。
どれも、かつてラウルに見せたときには眉をひそめられた。
「失敗の頁まで残す必要があるのか。優れた花だと示したいなら、見栄えが悪いだろう」
あのときエレシアは、説明するのを諦めて日誌を閉じた。花は一度の成功で作れるものではない、と言っても、彼には退屈な話にしかならないと思ったのだ。
隣の卓で鉢札を削っていたセドリックが、紙をめくる音に顔を上げた。
「何か欠落がありましたか」
「いいえ。多すぎるのです。審査資料には、どこまで出すべきか迷っております」
彼は手元の小刀を布で拭いて置いた。
「審査員は、望ましい結果だけを求めているわけではありません。品種として再現できるか、違う環境でどう崩れるかを見る。過加温で首が弱くなる記録があるなら、提出する価値があります」
「良い花だと信じてもらえなくなりませんか」
「弱点を知らない花の方が、扱う側には危険です」
それは花の話なのに、エレシアの中で別の箇所にも届いた。
良い婚約者だと信じてほしくて、嫌だったことを黙った。自分が支えられる人だと思われたくて、ラウルが一度も日誌を読まないことを小さな不満にして片づけた。
弱点を語らない関係を、穏やかだと勘違いしていたのだ。
「では、すべて提出します。失敗した記録も、今回切った蕾も」
「受入れ用の控えを作ります。原本はノルト令嬢がお持ちください」
「ありがとうございます」
礼を言って、エレシアは首を傾げた。
「管理官は、お休みにならないのですか。昨日もわたくしが帰る頃まで温室にいらしたでしょう」
「勤務表上は休んでいます。温室の温度を見に来るだけで」
「それは、休んでいるとは申しません」
思ったより早く言葉が出た。セドリックが目を瞬く。
「管理官も、根を急がせてはいけないのではございませんか」
「……手厳しいですね」
「花のことになると細かすぎる、と言われております」
自分で言って、エレシアは笑った。ラウルに向けられた言葉を、もう傷だけとして抱えずに済んだことが嬉しい。
セドリックも、ごく小さく笑った。
「では今日は、夜番へ任せます。代わりに、ノルト令嬢も夕食前には手を止めてください」
「交換条件なのですね」
「共同管理です」
夕刻、作業台の端に湯気の立つ陶杯が置かれた。薬草を少し加えた湯で、土を洗い落とした指を包むと、ひびの奥まで温もりが沁みた。
「これは、管理規程にございますか」
「冬の作業者が指を動かせなくなると、株の記録が遅れるという判断です」
「ずいぶん親切な規程でいらっしゃる」
陶杯の向こうで、セドリックは答えず目を逸らした。
その夜、エレシアは初めて植物院の客室で深く眠った。
翌朝、母株の切り口の下から、二つの新芽がまっすぐ立っていた。
「ヴァレル管理官、見てください」
呼び声が思わず弾む。彼が駆け寄るより早く、入口で一人の男が帽子を脱いだ。
「エレシア様。アーデン家から、内密にお知らせしたいことが」
温室の庭師、ミカエルだった。頬は寒風で赤く、目の下には疲れが沈んでいる。
「若様は、残った試験株を夜通し加温なさっています。予備審査までに、何としても花を開かせると。私どもが止めても、お聞きにならず……」
エレシアは、新芽からゆっくり顔を上げた。
急がせた根は、いずれ花を支えられなくなる。
それを知っていたのは、もう彼女だけではなかった。




