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「聖女様に温室をお譲りして」と婚約者に命じられましたので、冬薔薇の育成契約ごと王立植物院へ移ります  作者: むむさん


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4/10

第4話 奇跡の発表会

 朝刊の一面で、エレシアの花はすでに聖女の奇跡になっていた。


 白燈という名前は、一文字もない。


「聖女マリエッタ様、真冬に咲く白薔薇を救貧院へ。冬至の献花式にて慈善温室計画を御披露目」


 仮温室の作業机に新聞を置いた事務員は、申し訳なさそうに目を泳がせた。


「昨日の夕刻に王都へ配られたものだそうです。植物院へも、献花候補の照会が次々と」


「見せてくださってありがとう。隠されて後で知る方が、手当てが遅れますから」


 エレシアは記事をたたんだ。紙の端が手袋越しの指に食い込む。


 記事の下には挿絵があった。暖かな温室で祈りを捧げる聖女、その膝元に咲き誇る白薔薇。描いた者は本物の白燈を見ていないのだろう。花弁は南方の大輪薔薇のように開き、雪の冷気へ耐えるための固い小輪とは似ても似つかなかった。


 偽物の絵でさえ、悔しい。


「新聞社へ訂正を求めますか」


 温度表を携えて入ってきたセドリックが言った。


「求めます。ただ、記事を書いた方へ怒りを向けるつもりはありません。花を見せた者も、育成者を告げなかった者も、別にいるのでしょうから」


「文案をお持ちなら、院の受付印を付して送ることはできます。予備登録申請を受け付けた事実の範囲に限りますが」


 言葉を足しすぎない人だ。それは冷たさではなく、越えてはならない線を毎回確かめる習慣なのだと、エレシアは理解し始めていた。


「お願いします。わたくしの名義で」


 ペンを取る。文頭に、王立植物院宛てに提出済みの品種名と育成者名を書く。以前なら、新聞へ名を載せるなど考えただけで頬が熱くなっただろう。


 今は、書かない方が恥ずかしかった。


 ◇


 昼過ぎ、仮温室の外に白い馬車が止まった。


 聖女の紋章を見ただけで、セドリックはエレシアを見た。


「面会を受けます。ただし、母株の区画ではなく談話室でお願いいたします」


「承りました。温室の鍵は私が持ったままにします」


 先回りして追い返すとも、同席するとも言わない。エレシアは礼をして、談話室へ向かった。


 マリエッタは一人で来ていた。昨日とは異なり、聖女の刺繍を控えた薄灰色の外套を着ている。暖炉のそばに立っても手袋を外さず、エレシアが入ると深く頭を下げた。


「急にお訪ねして、ごめんなさい」


「聖女様に頭を下げていただく必要はございません。どうぞ、お掛けください」


 二人の間の卓には湯気の立つ茶が用意されたが、どちらも手を伸ばさなかった。


「新聞を、ご覧になりましたよね」


「ええ」


「ラウル様は、あのように早く載るとは思っていなかったと……」


「案内状を止めなければ、早いか遅いかの違いだけです」


 マリエッタの指が、手袋の上から組み直された。


「わたくしは、寒い救貧院を見たのです。暖炉の薪を一部屋に集めるから、冬になると使えない部屋ばかり増える。子どもたちは外で働く大人が戻るまで、同じ毛布に四人でくるまっていました」


 その声音には作り物ではない痛みがあった。エレシアは答えず、続きを待った。


「神殿に願い出ても、必要な金額が大きすぎると言われました。でも、聖女の祝福で冬に花が咲くと言えば、王都の方々は温室へお金を出してくださる。そうラウル様が教えてくださったのです」


「聖女様が花を育てたことにすれば、と?」


「……はい。けれど、わたくしは、あなたがここまで拒まれるとは思っていませんでした。温室はアーデン家のものだと聞いていましたし、あなたは将来そちらの夫人となるのだから、共に喜ばれるのだと」


 エレシアはようやく茶碗を持った。冷えかけた香草茶は、飲み込むと少し苦かった。


「わたくしがラウル様の妻になるかどうかは、もう決まったことではございません」


「それほどの、ことなのですか」


 思わず、笑いそうになった。笑えばとても冷たい笑いになると思い、唇を閉じる。


「聖女様は、祈った言葉を別の方の祈りとして広められても、救われる方がいるなら構わないと仰れますか」


 マリエッタはすぐには答えなかった。暖炉で薪が弾け、火の粉が一つ網へ当たった。


「……悲しいと思います」


「わたくしも同じです。あの薔薇には、母が残した株と、わたくしの三年があります。慈善を支えたい気持ちはございます。でも、存在しない奇跡を語るために、育てた人間を消すことはできません」


「では、共同の名にすることは。聖女の祝福と、あなたの育成で咲いた花だと」


「祝福を受けておりません。昨日が初めての訪問であったと、聖女様ご自身が仰ったでしょう」


 マリエッタの顔が赤くなる。エレシアは追い詰めたいわけではなかった。ただ、ここで曖昧に頷けば、また誰かが「よいことのため」と言って人の手を消す。


「これから祈っていただくことを拒みません。認証を得た後、わたくしの名で、救貧院の温室へ分株を寄贈することも考えます。ですが、まだ咲いていない花を、すでに聖女様が咲かせたと発表することには署名いたしません」


「名前が必要なのです」


 マリエッタは初めて、祈るような柔らかさではない声を出した。


「わたくしの名がなければ、人は振り向いてくださいません。明日を越す薪がない子に、正しい名義が何をしてくれるのですか」


 エレシアの胸も痛んだ。すぐに答えられない。温かい温室の中で権利を語る自分が、わがままな令嬢に見える瞬間があることを否定できなかった。


 けれど、指先には昨朝の銀札の冷たさが残っている。


「正しい名義がなければ、次に花を増やす人がいなくなります。育てる者の名前を消しても許されるなら、救貧院へ渡す苗さえ、誰の都合で奪われるか分からない」


 マリエッタは俯いた。


「聖女様。慈善をなさるのでしたら、最初の一株から、誰も踏みつけない方法で始めてくださいませ」


 長い沈黙の後、彼女は立ち上がった。


「考えさせてください」


「お待ちいたします。ただし、無断献上を止める手続きは本日いたします」


 マリエッタは、その言葉にも反論せず去った。


 ◇


 談話室の扉を閉めると、エレシアはしばらく取っ手から手を離せなかった。


「わたくしは、間違っているでしょうか」


 独り言のつもりだった。だが廊下の端で、セドリックが鉢用の木枠を抱えて立ち止まっていた。


「……判断を求めておられますか。それとも、ただ聞く人間が要りますか」


 相変わらず、慰めとしては不器用な問いだった。


 エレシアは息を吐き、首を横に振った。


「いいえ。たぶん、決めてほしいのではありません。ただ、苦しいと口にしたかったのだと思います」


「でしたら、ここで聞いております。答えまで急がせません」


 セドリックは木枠を床へ下ろし、一枚の薄い規程集を差し出した。


「植物院の認証品種には、救貧院や学校温室への分株寄贈制度があります。育成者名を記したまま、寄贈先の維持費について王家の補助申請もできる。ご判断の材料として」


 エレシアは表紙へ指を置いた。


「そんな制度が」


「華やかな記事にはなりませんが、冬を越すには役に立ちます」


 それを聞いたとたん、胸に張り付いていたものが少し剥がれた。


「わたくしの名で、寄贈できますか」


「認証を得れば」


 エレシアは頷いた。


「では、そういたします。咲かせて、認めてもらい、わたくしの名で届けます」


 窓の外で、聖女の馬車が雪道を遠ざかっていく。


 その日の夕刻、エレシアは無断献上の差止め申請書へ署名した。


 同じ時刻、王都の広場では、ラウルが聖女の奇跡の冬薔薇を予備審査へ出品すると発表していた。


 紙の上の花は、どんどん大きく咲いていく。


 本物の白燈はまだ蕾のまま、静かに、持ち主の手を待っていた。


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