第3話 名札のある作業台
王立植物院の仮温室には、鉢より先に名前が待っていた。
エレシア・ノルト。
白木の札に黒い文字で書かれたそれを見つけたとたん、エレシアは手袋をした指をぎゅっと握った。自分の名なのに、他人の部屋へ入ってしまったように落ち着かない。
「表記に誤りはありませんか」
横から掛けられた声は、冬の午前のように低く澄んでいた。
振り向くと、濃灰色の作業着を着た青年が立っている。肩に雪が残っているのに、腕には袖覆いが付けられ、右手には何本もの鍵が下がっていた。貴族の仕立てではあるが、靴先には乾いた土の白い粉がある。
エレシアは預り証の署名と、青年の胸元の名札を見比べた。
「ヴァレル管理官でいらっしゃいますか」
「はい。セドリック・ヴァレルです。応募株の受入れと環境管理を担当します。審査の判定には加わりませんので、先にお伝えしておきます」
挨拶より先に役割の境を告げられ、エレシアは瞬きをした。
「……そのようにはっきり仰る方は、初めてです」
「後で誤解を解くより、最初に寒い空気を入れる方が、植物にも人にも傷が少ないので」
笑わせようとしたのかどうか判断しにくい口調だった。けれどエレシアの口元は、ほんの少し緩んだ。
「表記は、合っております」
「では、この札はここへ」
セドリックは母株の木箱へ勝手に触れなかった。札をエレシアへ渡し、差し込み口を指で示しただけである。
彼女は木箱の側面の票を確認してから、新しい札を作業台へ差し込んだ。土の匂いに混じって、新しい木材の香りがした。
「これほど早く受け入れていただけるとは思っておりませんでした」
「預り株がありましたから。半年前に寄託された四鉢について、芽の位置と封印を写し取ってあります。基準との照合が済めば、予備登録の申請は可能です」
「あの四鉢が、役に立つ日が来るとは」
エレシアは胸元から預り証を取り出した。折り目が増え、端は馬車の中で何度も触れたため柔らかくなっている。
「役に立つ予定がなかったからこそ、基準として信用できます」
その言葉に、エレシアは小さく息を吐いた。アーデン家を疑って預けたわけではない。初めて安定した蕾をつけた喜びに浮かれ、専門の人間にも見てもらいたかっただけだった。
無邪気だった自分を恥じる必要は、ないのかもしれない。
◇
仮温室は、王宮に近い本館の華やかな大温室とは別棟にあった。審査応募株や治療の必要な苗を預かる場所で、床の煉瓦は古いがよく洗われている。小さな暖炉が三つあり、壁際に並んだ水桶の表面には薄い湯気が揺れていた。
「温度は現在十二度。移送直後ですので、まずはこれ以上上げずに様子を見ます。ノルト令嬢の記録では、白燈は夜間八度前後まで下げた方が枝の張りを保つ、とありますね」
「お読みになったのですか」
「提出いただいた日誌は受入れ資料です。読むのが仕事です」
「ええ、そうでした」
つい嬉しそうに聞いてしまったことが気恥ずかしい。ラウルは日誌を「君の細かな覚書」と呼び、ページをめくったことさえなかったからだ。
セドリックは気づかなかったふりをしたのか、長卓の上へ二つの鉢を並べた。
一つは、今朝運んできた母株の枝から落ちそうになっている蕾。
その隣に四つ並ぶのは、半年前に植物院へ預けた挿し木だった。背丈はまだ低いが、どれも深い緑色の葉を広げ、小さな芽が枝の節に固く付いている。鉢には封蝋を写した番号札が一つずつ掛けられていた。
「こちらが寄託時から保管している基準挿し木四鉢です。入庫後に当院が行ったのは規定の潅水と温度保持のみで、剪定も施肥もしておりません。記録をご確認ください」
差し出された帳面には、日付と温度、水量、担当者名が並んでいた。簡潔で、余白のない記録だった。
エレシアは母株の鉛封を取り、基準株の写し印と向きを合わせる。芽吹いた枝の印の、右端に小さな欠けがある。母が封印を作ったとき、型の端が欠けてしまったから生じた癖だった。
「同じです」
「確認者として署名をお願いします。その上で、母株の現在状態を記録します」
羽根ペンを渡され、エレシアは自分の名前を書いた。昨日の通知書より、文字の線が滑らかだった。
母株の麻布をほどく。根鉢は崩れていないものの、葉の先がわずかに垂れ、一つの蕾は外側の萼が黄ばんでいる。
「昨晩、加温されたのですね」
セドリックは触れる前に尋ねた。
「ええ。献花式に間に合わせるつもりだったのでしょう。白燈はただ咲けばよい花ではないのです。冷たい空気で花弁がほどけても傷まない、その性質を残したくて選び続けたのに」
言いながら、悔しさがぶり返した。蕾は喋らない。無理に急がされたことを訴える代わりに、色を失って落ちるだけだ。
「切りますか」
セドリックが問うた。
答えを委ねてくれる声だった。エレシアは黄ばんだ蕾に鋏を当てかけ、止めた。
「まだ、半日だけ待ちます。移送の揺れが抜ける前に判断すると、わたくしが焦っているだけかもしれません」
「承知しました。待つ判断として記録します」
彼は帳面へ一行書いた。失敗を恐れて決められない、と見なされなかったことがありがたく、同時に少し痛かった。自分はこれまで、何度も必要な言葉を「もう少し待ってから」と飲み込んできたのだから。
「公開審査について、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「アーデン家は、温室を所有していることを理由に品種の権利を主張するはずです。わたくしの応募は、その争いが終わるまで止められますか」
セドリックは書類棚から薄い綴りを出した。
「応募の受付と、所有権争いの判断は別です。契約正本、基準株、封印の連続性が提出されれば、予備登録は育成者申告の名で行われます。異議が出た場合、正式認証の前に審理が入る」
「予備登録の間は、誰の名で公示されるのですか」
「申告した育成者の名で。ただし係争中の注記が付きます」
エレシアは作業台の札を見た。
エレシア・ノルト。
たったそれだけの文字が、呼吸を深くしてくれる。
「申請を、お願いいたします」
「私が代わりに申し込むことはできません。申請用紙を用意しますので、ノルト令嬢ご自身で、どの株をどの名で審査へ出すかお決めください」
思わず、エレシアは彼を見つめた。
「失礼いたしました。わたくし、ずいぶん人に決めてもらうことに慣れていたようです」
「慣れを責める必要はありません。手を戻す場所があるなら、戻せばよい」
セドリックは一枚の申請用紙と、乾いた砂壺を作業台へ置いた。
エレシアはペンを取り、品種名に白燈、育成者にエレシア・ノルトと書き込んだ。保全対象には母株を、審査提出株の欄には基準挿し木四鉢の番号を記す。
署名を終えたところで、仮温室の外から事務官が駆け込んできた。
「ヴァレル管理官。アーデン侯爵家から緊急の申立書です。新品種は同家の設備及び費用で生み出された財産につき、ノルト令嬢の単独申請を認めないように、と」
事務官の手には、赤い封蝋の書状がある。
エレシアの指先から、まだ乾いていないインクが少しだけ紙へにじんだ。
セドリックは書状を受け取る前に、申請用紙を砂で覆った。インクが乱れず乾くように、慣れた手つきで。
「先に、こちらを受付へ運んでください。到着順は記録されます」
「しかし異議が」
「異議があるから、記録が要るのです」
事務官は背筋を伸ばし、エレシアの申請用紙を受け取った。
赤い封蝋の申立書より先に、彼女の名が書かれた紙が温室を出ていく。
それを見送ったとき、母株の垂れていた葉の陰に、小さな緑の点があるのに気づいた。
「新芽……」
指を伸ばしかけ、触れずに止める。まだ柔らかすぎる芽だ。けれど確かに、生きている。
「ヴァレル管理官」
「はい」
「この株を、咲かせます。わたくしの名前で」
セドリックは、わずかに目を細めた。
「では、私は温室を整えます。咲かせるのは、あなたの仕事です」
その答えが、エレシアには何より嬉しかった。




