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「聖女様に温室をお譲りして」と婚約者に命じられましたので、冬薔薇の育成契約ごと王立植物院へ移ります  作者: むむさん


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第2話 署名のある母株

 翌朝、父の馬車へ最初に積み込まれたのは、花嫁衣装の箱ではなかった。


 角に土が擦り込まれた、青革の契約箱である。


「お嬢様、本当にこちらを先に?」


 ノルト家から駆けつけた老侍女ベアトリスが、腕に掛けていた毛布を落としそうな顔で尋ねた。馬車の奥には、彼女が当然のように持ってきた衣装包みが二つある。婚約先から娘を連れ戻す、と聞けば、まず身の回りのものを用意するのも無理はない。


「ええ。ドレスが凍えても泣きませんけれど、根は待ってくれませんもの」


 そう答えてから、エレシアは少しだけ唇を噛んだ。冗談の形にしなければ、自分が馬車の横で膝を折ってしまいそうだった。


 昨夜は一睡もできなかった。


 書庫で契約箱を見つけ、正本の封蝋が割られていないことを確かめたあと、温室へ戻って母株の根元を布で包んだ。ラウルは部屋へ呼びに来なかった。代わりに執事から、「若様は明日の案内状発送を進めるよう命じられました」と、やけに言いにくそうな伝言が来た。


 つまり彼は、署名が必要だという話を聞いた上で、エレシアが折れる方に賭けたのだ。


「エレシア」


 玄関階段から父が降りてきた。ノルト伯爵は夜通し馬車に揺られたらしく、白髪の混じる髪がいつもより乱れている。けれど、娘の顔を見る前に温室の煙突を見上げたところが父らしかった。


「契約は」


「こちらに。正本と、わたくしがつけた日誌です」


「株は」


「今から立会いの上で運びます」


 父はうなずいた。慰めの言葉も、婚約者への罵声もなかった。幼い頃、母の薔薇をうっかり折って泣いたエレシアへ、まず折れ口を清潔にしろと布を渡した人である。


「ならば先に手続きを済ませよう。怒るのは、やることをやった後でも間に合う」


 その声を聞いて、エレシアの肺へようやく息が入った。


 青革箱は、応接室の大きな卓上で開かれた。


 アーデン家からは執事長と、温室の庭師二名が立ち会う。ラウル本人は姿を見せず、「午前の来客に対応中」とだけ伝えられた。聖女の慈善計画について、すでに寄付を申し出る貴族が訪れているのだという。


 封蝋を切り、羊皮紙を広げる。


 エレシアは文章を読むたび、三年前の自分の顔を思い出した。婚約が決まり、温室を使わせてほしいと頼んだとき、ラウルは笑って「好きに花を咲かせればいい」と言った。その軽さが少し気になって、母の代から付き合いのある代書人に頼み、育成に関する条文を入れてもらったのだ。


 心配性だと、当時のラウルは笑った。


 心配性でよかった、と今は思う。


「第七条。婚礼の成立前に、ノルト伯爵令嬢の育成または交配によって成立した新品種、その母株及び試験株、観察記録、育成者封印の権利は同令嬢に帰属する」


 エレシアが読み上げると、執事長の顔が目に見えて青ざめた。


「第九条。前条に該当する株を、第三者への献上、譲渡、販売、または別名義による登録に供する場合、育成者本人の自筆署名及び封印を要する」


 父が静かに問うた。


「貴家は、この署名を受け取っているか」


「……私の把握する限り、ございません」


「では、聖女名義の案内状とやらは止められるな」


 執事長は額の汗を拭いた。暖炉は火を落としている。汗をかくほど暖かい部屋ではない。


「若様へ、急ぎ申し伝えます」


「申し伝えるだけでは足りないわ、グレゴリー」


 エレシアは自分の声に驚いた。執事長を名で呼んだのは、温室の燃料帳を相談して以来だ。以前なら、ラウルを通さず使用人へ強く命じるのをためらった。


「本日より、わたくしの許可なく白燈及び母株に触れない旨を、管理記録へ記してください。試験株を残すかどうかは、搬出状態を確認して決めます」


「承知、いたしました」


 返事は震えていたが、書記役が記録を始めた。羽根ペンが紙を擦る音が、思ったより乾いて心地よい。


 ◇


 温室へ入ると、空気が昨日より熱かった。


「加温口を開きすぎです」


 エレシアは外套を脱ぐ間もなく暖炉側へ向かった。炭が赤々と燃え、硝子に結露が流れている。花を早く開かせようとしたのだろう。冬薔薇は冷気に耐えるための根を持つ。急に温めれば、蕾は膨らんでも枝が水を支えられなくなる。


「昨夜、若様のご指示で」


 庭師のミカエルが帽子を握りしめた。隣の若い庭師も俯いている。


 怒鳴りたくなったのはラウルに対してだ。庭師を責めても、夜通し命令に従った手が傷むだけである。


「加温口を半分閉じてください。水やりは朝の分で止めます。ミカエル、母株の根鉢を持ち上げる際、あなたに立ち会っていただけますか」


「もちろんでございます。奥様……いえ、エレシア様」


 言い直した声が、不意に胸に触れた。


 彼は三年前から、エレシアが泥だらけになる姿を見てきた。嫁ぐ前の令嬢を奥様と呼ぶのは、期待と習慣からだろう。その呼び名を失うことが、少しも痛くないと言えば嘘になる。


「ありがとう。わたくしは、まだノルト家の娘です。それで十分よ」


 母株は大鉢のままでは運べない。枝を麻布でゆるく束ね、根鉢を崩さぬよう木箱へ移す。エレシアが膝をついて土を払う間、父は黙って鉢の反対側を支えた。


 幹の低い位置には、小さな鉛封が掛かっている。ノルト家の薔薇を示す、芽吹いた枝の印。母が残した封印を、エレシアは新品種を作るたび、株分けの基準となる枝に付けていた。


「封印、損傷なし」


 書記が読み上げる。


「母株、冬期蕾一、葉先に加温による軽い萎れあり。搬出時、立会人ミカエル・ハンス」


 記録に言葉が積まれるたび、母株は単なる鉢植えではなく、彼女の仕事として輪郭を取り戻していった。


 そこへ、温室の扉が乱暴に開いた。


「父上まで呼び寄せて、何のつもりだ」


 ラウルが立っていた。外套も着ずに来たのか、襟元の白いシャツだけが妙に明るい。後ろにマリエッタはいない。


 エレシアは立ち上がり、前掛けの土を払った。


「契約に基づき、母株と育成記録を搬出いたします。また、白燈の第三者使用許可を終了する通知を、先ほど執事長へ預けました」


「馬鹿な。温室を捨てて、どこで育てる。君の伯爵領にこれほどの硝子設備はないだろう」


「王立植物院へ、公開審査の応募をいたします」


「植物院?」


 ラウルの目が揺れた。王家の献花に使われる新品種は、植物院の認証を受ければ育成者の名と共に記録される。彼もそれくらいは知っている。


「君は、私を辱める気か」


「わたくしが署名を拒むことが、なぜラウル様の辱めになるのでしょう」


「聖女様の慈善を潰すのだぞ」


「聖女様が慈善をなさることは止めません。わたくしの名を消して、この株を使うことを許さないだけです」


 ラウルは父を見た。


「伯爵。娘を止めてください。婚姻を前に、このような感情的な振る舞いは両家のためにならない」


 父は土の付いた手袋を外し、ゆっくり畳んだ。


「娘は感情で動いているのではない。契約で認められた自分の財を、記録を残して移している。感情だけで他人の名を外したのは、そちらではないかね」


 ラウルの頬が赤くなった。


 エレシアは、その色を見ても以前のように慌てて宥める言葉を探さなかった。代わりに、用意していた書面を二通取り出した。


「こちらが育成物使用許可の終了通知。こちらが、婚約の履行を保留する申し出です。本日付でお受け取りください」


「保留、だと」


「わたくしの仕事と名前を、わたくしの同意なく手放せるものとお考えの方と、このまま婚礼の日取りを決めることはできません」


 受け取らないつもりか、ラウルの手は下りたままだった。そこでエレシアは執事長へ書面を渡す。受領の署名欄に、グレゴリーは震える手で名を書いた。


 最後に、木箱の側面へ新しい票を結ぶ。


 品種名 白燈・母株。

 育成者 エレシア・ノルト。

 搬出日、立会人二名。


 育成者欄へ名前を書くとき、胸の奥が一度だけ痛んだ。三年間、ここが将来の家だと思っていた。ラウルが温室へ足を運ばなくても、式が終われば二人で花を眺める日も来るのだろうと、勝手に待っていた。


 だが、待つことと、譲ることは同じではない。


 署名の最後の線を引く。インクが凍らないうちに砂を振り、票を木箱に結んだ。


「出してください」


 父の短い声で、使用人たちが母株を慎重に持ち上げる。


 ラウルはそれを止めなかった。止められなかった、と言う方が正しいかもしれない。


 馬車に木箱を収めると、エレシアは懐からもう一枚の紙を出した。半年前、同じ母株から育てた基準挿し木を四鉢預けた際に受け取った、王立植物院の預り証である。


 宛名の下に、担当者の整った署名があった。


 温室管理官 セドリック・ヴァレル。


「この方へ、お目にかかることになるのね」


 独り言は、白い息になって消えた。


 そのとき屋敷の正門から、伝令の馬が走り出ていった。鞍袋には聖女の紋章が押された封筒が束になっている。


 ラウルはまだ、案内状を止めていない。


 エレシアは預り証を折り直し、母株の木箱の上へ置いた。


「急ぎましょう、お父様。花より先に、嘘を王都へ着かせるわけにはまいりません」


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