第9話 伯爵家からの手紙
父からの手紙は、ローウェル家の手紙よりも丁寧だった。丁寧であるほど、かえって読むのに時間がかかった。
ヴェルネ伯爵家の封蝋を見た瞬間、ビアンカは表情を曇らせた。わたしが嫁ぐ前から仕えている彼女は、父がどんな言い方で娘を従わせるか知っている。手紙の内容は、予想通りだった。離縁騒動について、王都で噂が広がっている。
ローウェル家との関係を完全に壊すのは得策ではない。伯爵家としては、リリアナが一度帰宅し、今後について家族で話し合うのが望ましい。最後に、「お前の才能は理解しているが、女が一人で名を立てるには世間が厳しい」と書かれていた。
才能は理解している。便利な言葉だと思った。理解しているなら、なぜ結婚前に工房登録を隠す必要があったのか。なぜ、夫の名で成果が出るたび、家のためだと黙らせたのか。なぜ、わたしが疲れていると訴えた時、妻の務めだと言ったのか。
それでも、手紙を破ることはできなかった。父は悪人ではない。ただ、わたしの名を守るより、家の波風を避けることを選び続けただけだ。
「返事をなさいますか」
ビアンカが尋ねた。
「します。父には、感情ではなく状況を伝える必要があります」
「旦那様には返事をなさらなかったのに」
「父は、わたしの調合記録を請求していません」
「時間の問題では」
「その時は断ります」
ビアンカはまだ不満そうだったが、便箋を用意してくれた。返事には、事実だけを書いた。離縁状を提出したこと。錬金師組合に個人登録を確認したこと。アーヴェン辺境伯家と正式な雇用契約を結んだこと。
危険な薬の流通について、宮廷錬金局へ照会を準備していること。そして、伯爵家へ戻る予定はないこと。最後の一文を書く時、手が少し止まった。戻る予定はない。
実家は安全ではなかったが、完全な敵でもなかった。子どもの頃、母が病に伏した時、父はわたしの薬を認めてくれたことがある。家の書庫を使わせてくれた時もあった。けれど、認めることと、守ることは違う。
今のわたしに必要なのは、時々認めてくれる家ではなく、仕事の条件を守れる場所だった。返事を書き終えたころ、セドリック様が工房へ来た。いつものように入口で足を止め、入っていいかと目で尋ねる。わたしが頷くと、彼は雨避けの外套を脱いだ。
「伯爵家からか」
「はい。帰宅を求められました」
「帰るのか」
「帰りません」
答えはすぐに出た。自分でも驚くほどだった。セドリック様は、少しだけ頷いた。
「必要なら、アーヴェンから正式に雇用証明を送る」
「お願いします。父は、書類があれば納得しやすい人です」
「人より書類か」
「書類は、家の体面を守る道具でもありますから」
少し自嘲が混じった。セドリック様はそれを聞いて、作業台の上の便箋へ視線を落とした。
「君は、家を憎んでいるのか」
唐突な問いだった。けれど、乱暴ではなかった。わたしはしばらく考えた。
「憎んでいるだけなら、楽だったと思います」
「そうか」
「父にも母にも、感謝していることはあります。学ばせてもらいました。薬草を触ることを完全には止められませんでした。でも、守ってはもらえませんでした」
その言葉は、言ってみると静かだった。
「だから、これからは、自分で守ります」
「一人でか」
「いいえ」
わたしは工房を見回した。ビアンカが瓶を洗っている。ノラが札を乾かしている。マリウスさんの記録帳が棚にある。セドリック様の署名が契約書にある。
「一人で守ると、また無理をします。ですから、条件を作ります。頼れる人を見分けます。断るべき人には、断ります」
セドリック様の灰色の瞳が、ほんの少し柔らかくなった。
「良い答えだ」
「試験でしたか」
「いや。聞きたかっただけだ」
そう言われると、かえって頬が熱くなる。ビアンカが咳払いをした。
「奥様、伯爵様への返書に、雇用証明を同封するなら封筒を大きいものに替えます」
「お願いします」
「それと、奥様ではなくヴェルネ様と呼ぶ練習をした方がよろしいでしょうか」
彼女は真面目な顔をしているが、目は笑っていた。
「急がなくていいわ」
「では、少しずつ」
その少しずつが、ありがたかった。夜、父への返書を封じた。窓の外では雨が止み、城下の灯が水たまりに映っている。わたしは封蝋を押しながら、思った。家に戻らないことは、家を捨てることとは少し違う。
自分の足で立つ場所を、ようやく選ぶことなのだ。
◇
コレット・ダリアス様がアーヴェンへ来たのは、伯爵家へ返書を出した三日後だった。
王都からの貴族令嬢が、北境の城門前で馬車を降りる姿は目立つ。薔薇色の旅行服に、青いリボン。雨上がりの石畳には少し不似合いで、本人もそれを分かっているのか、裾を持つ手に力が入っていた。知らせを受けたわたしは、会議室で彼女を待った。
セドリック様は同席を申し出てくれたが、わたしは最初だけ二人で話したいと伝えた。彼女がエドガーの使者なら、あとで正式に場を整えればいい。そうでないなら、貴族たちの視線から少し離れた方が話しやすい。
コレット様は部屋に入ると、深く礼をした。
「リリアナ様。突然の訪問をお許しください」
「用件を伺います」
彼女は椅子に座らなかった。舞踏会で見た時より、顔色が悪い。頬の化粧は綺麗だが、目元に疲れがある。青いリボンも、どこか結び直した跡があった。
「まず、謝罪させてください。舞踏会で、奥様なら支えるべきだと申し上げたこと。私は、何も知りませんでした」
その言葉は、意外だった。謝罪を聞く準備をしていなかったわたしは、少しだけ返事が遅れた。
「何を知ったのですか」
「エドガー様の工房へ招かれました。新作の発表前に、見学させていただくという名目で。でも、工房の方々は皆、リリアナ様の記録を探していました。エドガー様は、瓶の色が違うと怒鳴って、使用人に試作品を飲ませようとして」
コレット様はそこで唇を噛んだ。
「止めました。止めたら、『君は僕の才能を信じないのか』と」
エドガーの声が、聞こえるようだった。信じないのか。その言葉で、何度も責任を押し返された。
「それで、こちらへ?」
「はい。青雫の霊薬を、彼は私の父の名で社交界へ広めようとしています。ダリアス家の商会を使えば、王都中に売れると。私は、もう関わりたくありません」
コレット様は鞄から小瓶を出した。淡い青の液体。底に、重い沈殿がある。
「これを、試供品として渡されました。肌にも効く、美容にも良いと」
「使いましたか」
「手の甲に少し。赤く腫れました」
彼女は手袋を外した。白い手の甲に、薄い赤みが残っている。大事には至っていないが、刺激が強い。美容薬として売れば、被害は広がる。
「診ます」
わたしが言うと、コレット様は驚いたように目を上げた。
「私を、ですか」
「薬で傷んだ皮膚を見ます。あなたを許すかどうかとは別です」
彼女は一瞬、泣きそうな顔をした。わたしは工房から低刺激の洗浄液と軟膏を取り寄せ、手の甲を拭いた。傷は浅い。けれど、もし顔に使っていたら、痕が残ったかもしれない。
「今夜は香油を使わないでください。赤みが引くまで、この軟膏を薄く」
「ありがとうございます」
「小瓶は預かります。証拠として扱うなら、あなたの証言が必要です」
「いたします」
返事は早かった。舞踏会の彼女なら、こんな場で証言するなど考えなかっただろう。けれど今の彼女は、青いリボンを握りしめ、震えながらも前を見ている。
「エドガー様のことを、愛していたのですか」
自分でも、なぜ聞いたのか分からなかった。コレット様は少し迷ってから、首を横に振った。
「愛というより、選ばれたかったのだと思います。宮廷で褒められる方に手を取られ、皆に羨ましがられて。私は、そういう場所に立ちたかった」
「分かります」
思わず言っていた。彼女は意外そうにわたしを見た。
「わたしも、認められたかったので」
夫に。家に。宮廷に。誰かの隣でよくできた妻として微笑めば、いつか名前を呼んでもらえると思っていた。その期待は、少しずつ人を削る。
「コレット様。あなたに薬は売れません。エドガー様へ渡る可能性があるからです」
「承知しています」
「ですが、証言者として保護を求めるなら、セドリック様へつなぎます。王都へ戻る前に、ダリアス家へも正式な通知を出した方がいい」
「父は怒るでしょう」
「怒らせることと、傷を広げることを止めることは、別です」
コレット様は、深く息を吸った。
「リリアナ様は、ずいぶん強くなられたのですね」
「強くなったというより、遅くなりました」
「遅く?」
「すぐ相手に合わせるのを、少し遅らせています」
彼女はその意味を考え、やがて小さく笑った。
「では、私も遅くします。エドガー様が喜ぶ返事を、すぐにはしません」
会議室の外で、ビアンカが控えている気配がした。おそらく、セドリック様にも知らせが行く。コレット様の青いリボンは、舞踏会ではわたしを傷つける色だった。今は、危険な瓶を止めるための証拠の色になる。
人も、物も、一つの意味だけで終わらない。だからこそ、記録が必要なのだと思った。




